第18話・可能性

「くそっ!」


 以前、メイドの子に教えてもらった『秘密の小部屋』。そこに入るなり、ジュードは埃が被ったテーブルに拳を叩きつけた。火傷を負ったほうの手だった。


「ちょっと、そんな乱暴な……」

「……」


 ジュードは無言のまま、ぎり、と拳を震わせていた。


「……わりぃ」

「ううん。無理もないわ」


 ようやく、という感じに絞り出された声に胸が痛む。


「俺は間違いなく、アイツを刺した……。軽くじゃねえ、それなりに深く刺したぞ! なのに……」

「ジュード……」


 ギリギリとジュードが歯を食い締めているのが、傍目から見てもよくわかった。掠れた低い声は、まるで血が滲んでいるかのように聞こえる。


「くそっ……」


 机に両手を突っ伏しながら、ジュードは呻く。


 あのとき、間違いなく。

 ジュードはクラークスの頬をナイフで刺した。


 だけど、今日見たクラークスの頬にはそんな傷はどこにもなかった。


「……私の作った薬でも、使ったのかしら」

「……ちげーだろ。アンタの薬がいかにすごくても、あんなふうに、跡形もなく傷口がなくなるなんてありえねえ」


 ジュードが火傷の痕が残る自らの手を振って私に示す。

 そう。私の薬を使ったのだとしたら、傷口を塞ぐことはできたとしてもその痕は残る。通常の軟膏などを使ったときに比べればもっと早くその傷痕も消えてしまうけれど、こんな一夜で傷痕すら残らない、なんてことにはならない。


「まさか、昨日の人物は本当にクラークスではなかった?」

「それはありえねえ。俺がアイツの匂いを間違えるなんてことはありえねえ」


 ジュードは断言する。


「それに、アンタも見ただろ? アイツは婚約者のロザリーを侍らせていた。ロザリーもちゃんとロザリーの匂いがしていたぜ」

「そう……ね」


 匂いについてはジュードを信用するしかないけれど。

 あのとき、あの場にいたのはクラークスで間違いないと私も思う。


「……ロザリー様に証言をお願いするのは? 彼女はだいぶ薬物に浸っている様子だったけど……でも、それって要は彼女はクラークスの被害者ということでしょう? ああいう違法な薬物を常飲していたのなら、健康被害の症状も出てるはず。彼女を私たちの味方に引き込めたら……」

「ばか。ロザリーがアイツを売るような真似するわけねえだろ」

「……もう、薬物中毒になってしまっているから?」

「そうじゃねえ。アイツは、薬物なんてやらされる前からずっとクラークスのことが好きなんだよ。好きな男を売るわけねえだろ」

「ええ?」


 そうかなあ、と首を捻る。

 好きとか、惚れたとか、そういう話じゃないんじゃない? クラークスのしていることは犯罪だ、そして自分をも犯罪に加担させようとしていることがわかったのなら、早急に手を引くだろう――と、私なら、そう思うけれど。


「……アンタ、今まで恋とかしたことねえだろ」

「なっ、なんでそうなるのよ! そんな話してないでしょ」

「あのな、俺が言うのも変な話だけど、惚れた男への執着ってのは想像できねえくらいすげーもんなんだよ。アンタはまだわかんねーみたいだけど」

「な、なによ、それ」


 ふっ、とジュードが私を鼻で笑う。イラっとするけれど、でも、ちょっと表情が和らいだ気もして、それを見たら抗議する気が抜けてしまった。


「ともかく、俺たちは失敗した。アイツにまんまと逃げられた。しかも俺の印象だけ落ちた。大失敗だ、仕切り直しだ」

「……そうよね、あなた、大丈夫なの? 兄王子に因縁つけたことになるけど」

「まあ、今更っちゃ今更だ。元々俺は王位継承期待されてねえしな。実は俺よりリーンのが継承順位高いんだ」

「えっ!? あなたがお兄さんでしょ、どうして!?」

「うるせえ、色々あるんだよ」


 それってつまり、三兄弟で継承権最下位ってことじゃない。

 彼の弟、リーンは確かまだ三歳で……。三歳以下の、継承順位……。


「……。私と婚約したからちょっとよくなったんじゃないの」

「まあな。最近は全国各地の薬の手配管理とかにも手ぇ出して再評価されたりもしたけどな。まー、王位には遠いな」

「もう。頑張るしかないじゃない」


 腰に手を当てながら、彼を睨んで見せると、ジュードはため息のような、苦笑のような、曖昧な感じで口元を緩め、どこか遠くを見つめた。


「昨日あなたが刺したのも、今日あそこに現れたのも、同じクラークスだとしたら、本当にアイツはどうやって傷を治したのかしら」

「それこそ、聖女の奇跡でも使わなくちゃできねえだろ。まさか、アイツが二人いるわけねえし」


 クラークスが二人いる……それはさすがに、ありえないだろう。


「……まさかっていうなら、『聖女』がクラークスのそばにいるのかしら」

「ハッ。そんなの出来すぎだろ。先代の聖女が亡くなってからかれこれ二十年。アンタが偽の『聖女』だと名乗りを挙げてから十年。国の連中が死ぬほど探し求めても見つかってこなかったんだぞ。いくらアイツがこの国の王子だろうが、こっそり一人で聖女を見つけて、今の今まで隠し通すなんてできるわけがねえ」


 聖女はその時代に一人しか生まれない。その時代の聖女が死んだあとに、次代の聖女は生まれ落ちるとされる。ただ、いつどこで聖女の力を持った女児が生まれてくるかはわからない。

 聖女は生まれながらにしても、使命を自覚して生まれてくるらしい。


 もしも、先代聖女の没後、新しい聖女が生まれてきていたとするならば、その聖女はすぐにこの国の神殿を訪れるはずだった。

 私は偽者として神殿でお勤めをする間、ずっとずっと本物の聖女を待ち続けていた。本物の聖女が訪れるというのはすなわち、私が断罪をされるということだけど。

 それでも構わないから、早く本物の聖女が現れて、この国の人たちを本当の意味で救ってほしいと、毎日祈っていた。


「……そう、よね。そんな都合よく、国の巨悪である彼が、本物の『聖女』を囲っているだなんて、そんなわけないわよね」

「……ああ」


 ジュードは口元を覆いながら短く頷いた。


 でも。なんとなく、だけど。

 私とジュードは今同じことを考えている気がする。


(その都合の良すぎる『まさか』があるのなら――)


 一夜にして、クラークスの傷が跡形もなく治ってしまった。ありえないことが起きた。

 だからこそ、ありえないことを考えてしまう。


(本物の聖女が、もしも、クラークスのそばにいるのだとしたら――)


 不意に過った可能性に、背筋が冷えた気がした。

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