第3章

01 彼だけのものではない

 ぴくりとも動かなかった彼の身体が、鈍いしびれを伴いつつゆっくりと自由を取り戻しはじめたのは、それからおよそ五ティム後というところだった。

 人気ひとけのない道を選んでいたことが裏目に出たと言うところか、その間、見事なまでに誰も通らず、タイオスはひとり必死で金縛りクルランと戦っていたことになる。

 全身を襲うしびれは、まるで身体全体が膨れ上がったかのような奇態な感覚を呼び起こした。彼はただ立つだけのことにも、瀕死の重病人のように苦労した。

 エククシアは戻ってこなかった。

 殺されたとは、考えなかった。リダールをさらった男が戦い慣れていないことは明らかであったし、魔術はタイオスを殺さなかったのだ。エククシアが死ぬ状況に陥ることは考えづらかった。

 魔術師の件があれば、追いかけたところで無駄だったのかもしれない。タイオスの様子を見に戻るのも馬鹿らしいとばかりに、ロスムのもとへ報告に帰った可能性もある。

 すぐさま難なくリダール奪還を果たした、という可能性も皆無ではない。やはりタイオスのことなど放っておいて、少年を送ったであるとか。

 だが自分自身の状態を考えれば、エククシアも同様に術に遭い、リダールはさらわれたという可能性が最も高い。

 タイオスは酔っ払いのようにふらつきながら辺りを捜索した。だが、リダールも痩せた男もエククシアもいない。しびれが消え去ってもしばらく、タイオスはその付近を無益に徘徊した。

 そう、無益だった。

 〈白鷲〉と呼ばれる男は、守ると約束した少年をみすみすさらわれてしまった。

 エククシアにばかり気を取られて、肝心の誘拐魔の情報をないがしろにした。

 魔術師が関わっているかもしれないと伯爵から聞いていたのに、対策ひとつ取らなかった。魔除けでも持っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

 悔やんでも仕方のないことだった。そのことはよく判っていた。

 だが、悔やむことを完全にやめるなど、まず不可能だ。

 それでもタイオスは、歯がみする心を抑えて、次の行動を決断しなくてはならなかった。

 即ち、痩せ男とリダールを探すか、或いはエククシアを追うか、または町憲兵隊の出動を要請するか、はたまた依頼主にして少年の父に報告をするか、残るは、何もなかったことにしてカル・ディアを離れるか。

 最後の選択肢も、正直、少し魅力的だった。依頼自体を忘れることにして、さっさとこの場を去るのだ。

 否、本当には忘れない方がいい。カル・ディアル王に仕える伯爵の不興を買うことになるからだ。当分、ほとぼりが冷めるまで、首都とキルヴンの町には近寄らないことにすれば。

 そうしたことも考えた。だが、考えただけだ。選択肢に入れても、選択することはない。

(闇雲に走っていても仕方ない)

 タイオスは心を決めた。

(報告だな)

 気は重いものの、黙っていることは不可能だ。

「俺の失態だ。言い訳はしない」

 キルヴン邸に戻ったタイオスは、わずかな期待――少年が無事に戻っているのでは――が案の定無意味であったことを知り、全てを正直に話した。伯爵は顔を青くして、戦士が運んできたのが息子の訃報であると思うかのようだった。

 彼にとっては、そうであったのかもしれない。エククシアがリダールを殺すものと考えているのだから。

「閣下。俺の首を切ると言うんでなければ、引き続き調べさせてくれ。男の顔は見た。次に見かければ、確実に判る。所定の場所に金を運ぶ役割を任せてもらえるのなら、どうにか」

「その段階まで、行くものかどうか」

 タイオスに視線を合わせないままで、キルヴンは呟いた。

「〈青竜の騎士〉が、知らせを運んでくるのではないか」

 彼の息子の、死の知らせを。キルヴンがそう言っていることはタイオスにも判った。

「だが……」

 戦士は慎重に反駁を行った。

「エククシアは、怪しい男がいると俺を呼び寄せた。正直、思っていなかったことだった。閣下とロスムがどういう関係であるにせよ、あの騎士は護衛という任務を果たそうとしていたように見えた」

 ひざをついたタイオスを叱責し、リダールを拐かした男を追った。戦士は公正に、その話をした。

「信頼できる、とでも言いたいのか」

「そこまで言えるものかは、判らない」

 彼は首を振った。

「だが少なくとも、そのままさらわせてしまえとは考えなかった」

 その説明に伯爵は黙った。

「……ロスムには、どうせ知れることだな。よし」

 ロスム邸に使いを送る、とキルヴンは言った。

「騎士が戻っていれば、話を聞いてこさせよう」

「俺が行く」

 タイオスはすぐさま言ったが、伯爵は首を振った。

「いや、〈白鷲〉殿に行かれては困る」

 聞きたくなかった称号に、タイオスはうなった。

 彼は〈白鷲〉の名誉を貶めたことになる。〈白鷲〉を信じたキルヴンの名誉もまた。

 ヴォース・タイオス自身の名誉などはどうでもいい。しかし〈白鷲〉という名は彼のものでありながら、彼だけのものではないのだ。

「貴殿は協会ディルに行ってくれ」

「協会? 魔術師協会リート・ディルか」

そうだアレイス。胡乱な組織ではあるが、専門家であることは間違いない」

 魔術師。それは一般的に、不吉で忌まわしい者たちと考えられている。

 黒いローブを身にまとい、陰鬱な顔つきで街を闊歩し、人に怖ろしい呪いをかけるというそれらの評価の内、正しいのは最初の「黒ローブ」だけだ。

 彼らは誰にでも呪いをかけて回ったりしないし、人当たりのいい陽気な魔術師だって――少数派ではあるが――存在する。

 もっとも、黒いローブの件も絶対ではない。黒いローブを着ているのはほぼ間違いなく魔術師だが、魔術師だからと言って必ずそれを着ているとは限らないからだ。

 つまり、多くの人々が魔術師に対して抱く印象は偏見以外の何ものでもない。彼らは、魔力と呼ばれる特殊な力を持つだけで、悩みもすれば怒りも泣きもする、ごく普通の人間だ。訓練によって感情を抑えることが巧くなっているためか、確かに陰気に見られることは多いが、感情がない訳ではない。

 タイオスには魔術師の知人もいるから、彼はあまり酷い偏見を持ってはいなかった。不吉だとは思わない。ただ、気難しくて扱いにくいとは思っている。

「俺が魔術をかけられたのかどうか、つまり、敵側に魔術師がいるのかどうかを確認してこいってことか」

 戦士は確認した。

「それもある。それから」

 キルヴンはじっとタイオスを見た。

「対策も」

「もちろんだ」

 タイオスは力強くうなずいた。

 対策を。

 キルヴンには、タイオスを解雇する気はない。

「信じてくれたんだな」

「何?」

「突然動けなくなったなんて……子供みたいな出鱈目の言い訳だとは取られても仕方ないと思っていた」

「〈白鷲〉が子供のような出鱈目の言い訳を?」

 伯爵は片眉を上げ、そんなことをするはずがない、と言った。タイオスは降参するように両手を上げた。

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