エピローグ前編 その後の鮮魚部門

エピローグ



 それから少し時が過ぎて一月下旬――。


 休憩室のホワイトボードに人事異動の紙が貼りだされた。



江尻えじり風香ふうか サブチーフ 昇進”



 江尻えじりさんの昇進が決まった!


 お店自体は今と一緒なので、しばらく江尻えじりさんと仕事をするのは続きそうだ。


水野みずのさん! やりました! やりましたって!」

「おめでとう。多分、最速じゃない?」


 有言実行の女、江尻えじり風香ふうか


 仕事の飲み込みも素晴らしかったが、やはり評価されたのはその性格だと思う。


 気が利いて、明るくて、とても前向き。


 そして助けてあげたくなるようなキャラクター。


 それが江尻えじりさんだからね。


「あれれー? チーフ、涙ぐんでますか?」

「うるさいなぁ」

「でも、そうですよね。私も寂しいけど嬉しいです」


 そしてもう一人、昇進が決まった人がいた。



綾瀬あやせしずく チーフ 昇進”



 綾瀬あやせさんの昇進が見事決まった。


 女性では珍しい鮮魚チーフの誕生だ!


綾瀬あやせさん、本当におめでとうございます!」


 その綾瀬あやせさんは口を手で押さえて、目をまん丸にして驚いている。


「あ、あははは~、江尻えじりさんと違って何年かかってるんだって話ですが」

「年数は関係ないです! 本当に頑張ってくれたと思います!」


 二人が評価された最大の理由。


 それは間違いなくリニューアル店舗を軌道にのせたことだろう。


 大木おおきさんがいるリニューアル店舗対策は数か月に渡って行われた


 当初の一・二ヶ月は厳しい状態が続いていたが、近くに住むお客さんたちはうちに戻ってきてくれた。


 リニューアル前よりも客単価は高くなり前よりも良い数字を残すことができている。


 きっと継続して良い売り場を作っていたのが分かってくれたのだと思う。


 そしてその良い売り場を作れたのは間違いなく部門のみんなのおかげだ。


「本当に綾瀬あやせさんがいなかったらどうなっていたことか……」

「そんなことないですよ! チーフのおかげで私も頑張れました!」

「いやいや! 頑張ったのは綾瀬あやせさんですよ!」


 自分の昇進よりもはるかに嬉しい。


 誰かの昇進でこんなに晴れやかな気持ちになるのは初めてだ。


「しかし綾瀬あやせさんが抜けちゃうのかぁ。既に気が重い」

「こらこらー! 優秀なサブチーフがここにいるじゃないですか!」

「優秀……?」


 江尻えじりさんが笑いながらそう言ってきた。


 ほんのり目には涙が浮かんでいた。


 これから綾瀬あやせさんは自分の店を持つことになる。


 チーフに昇進……これはつまりお別れをしないといけないという意味でもあった。


「ここから近くのお店ですね。困ったことがあったら何でも相談してください」

「はい! そのときは頼りにさせてもらいます」


 綾瀬あやせさんの目にも涙が浮かんでいる。


 人事異動の紙を見てこんなになってるっての俺たちだけじゃないかなぁ。


綾瀬あやせさん、最初は好きな売り場作るのが良いと思いますよ! フォローはしますので!」

「あ、ありがとうございます!」

「発注ミスったらこっちに相談してください。余ったやつは全部江尻えじりさんに切らせますので!」


 伝票移動の話は……今どきじゃないもんな。


 そもそも真面目な綾瀬あやせさんのやり方とは絶対に合わない。


「これからもチーム水野みずのとして頑張りたいと思います」

「なんですかそれ?」

水野みずのさんには本当に色々教えてもらいました。水野みずのさんは年下ですが尊敬しています。これからもずっと師匠だと思っていいですか?」

「うっ」


 その聞き方はズルい。


 そんな風に言われたらダメだって言えないじゃん。


「ま、まぁ……」

「あっ、照れてる」

江尻えじりさんうるさい」


 江尻えじりさんに茶化された。


「でも、綾瀬あやせ師匠ー、私がチーフになったらチーム水野みずのはまた広がっていくわけですよね?」

風香ふうかがチーフになったら? うーん、それはそうかもだね」

「えへへへ、私たちでチーム水野みずのを一大派閥にしちゃいましょうか」


「恥ずかしいからやめて!」


 二人につい大きな声をだしてしまった。


「よしっ! じゃあ江尻えじり宴会部長、二人の昇進のお祝いにみんなで飲み会でもやりましょう!」

「その宴会部長もお祝いされる側にいるのですが」


 江尻えじりさんが笑いながら了承をしてくれた。


 お祝いって他に何ができるかなぁ。


 何か個人的な贈り物でもしてあげたいな。


「あの……水野みずのさん?」

「どうしました?」

「個人的に言っておきたいことがありまして……」


 なんだろう?


 綾瀬あやせさんが何故か緊張した様子になっていた。


「私、水野みずのさんのこといいなぁって思ってました」

「いいなぁ?」

「そ、それだけです!」


 そう言って、綾瀬あやせさんは休憩室から出ていってしまった。


「……」

「……江尻えじりさん、いいなぁって何?」

「知りません」

「気になるなぁ。江尻えじりさんは綾瀬あやせさんの弟子でもあるでしょう」

「気にしちゃダメでしょう! 水野みずのさんは婚約者がいるんですから!」


 ……あえて知らないフリをした。


 実は結構前から、綾瀬あやせさんのほんのりとした気持ちは分かっていた。


 でも知らないフリをした。


 綾瀬あやせさんが“いいなぁ”と言う言葉で濁してくれたように、俺もそうすることが彼女への精一杯の誠意かなぁと思った。


水野みずのくーん! ちょっとこっちに来れる!?」

「あれ? 青沼あおぬまバイヤー?」


 ふと青沼あおぬまバイヤーがうちの店に現れた。




※※※




 青沼あおぬまバイヤーに事務所まで連れて来られた。


「とりあえずお店から二人の昇進おめでとうかな?」

「あははは、それは俺ではなく二人に言ってあげてください」


 つい嬉しさで笑みがこぼれてしまう。


 バイヤーに改めて言われるととても嬉しいな。


「今日はどうしたんですか?」

「うん、綾瀬あやせさんと今後の打ち合わせもしたいなぁと思ったんだけど水野みずの君ともお話しておかないといけないと思って」

「俺? 何かありました?」


 なんだろ? バイヤーと話さないといけないことなんてなかったはずだけどなぁ。


 しかもかなり形式ばった言い方をしている。


「本部はね、今回のリニューアルのこととても評価しているよ」

「ありがとうございます」

「つらい状況の中、よく数字を持ち直してくれたって。だからね、水野みずの君にはエリアチーフをやってもらいたいって話が出ている」

「……はい?」


 びっくりしすぎて変な声が出た。


 エリアチーフ……店のみならず地域全体の鮮魚部門の数字を見ないといけない役職。


 大木おおきさんがまだうちの会社にいたときの役職だ。


 もっと熟練の人がやっているイメージがあった。少なくても二十代でその役職についた人を俺は知らない。


「それでね、水野みずの君の意向を確認しておこうと思って」

「意向?」

「チーフの上となるとね、店長・副店長か俺みたいなバイヤー、そして現場に残るエリアチーフって選択肢があるんだけど水野みずの君はどっちに進みたい? 素直な気持ちを聞かせてほしいな」

「えっ……?」

「あっ! もちろん、ゆっくり考えていいよ! すぐにはの話ではないから! 多分、次の人事異動かな? それくらい本部は水野みずの君のことを評価しているってことだから」

「あ、ありがとうございます」


 俺にも新しい選択肢がやってきた。

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