♯37 コンプライアンスと昔の話

「お疲れ様です」

「げっ」

「げってなんですかげって」

「男に追われても気持ち悪いだけなんだがなぁ」

「仕事で来ているだけです」


 近くの自動販売機で買ってきた缶コーヒーを大木おおきさんに渡した。


 素直に受け取ってくれたので、今日は話してくれないというわけではなさそうだ。


「この前、無視しましたよね」

「してない。みんなの手前があるから話さなかっただけ。しかも売り場だし」

「それはそうですが……」

「それによ、近隣で一番強力なライバル店のチーフと馴れ馴れしく話せるかよ」

「へ?」


 大木おおきさんが呆れた様子で俺のことを見ている。同時に缶コーヒーのプルタブに指をかけた。


「知ってたんですか?」

「そっちのオープンの日に視察に行ったからな。お前は売り場で誰かと話してたけど」

「……」


 全然気がつかなかった。


 オープンの日……多分、汐織しおりたちが来ていたときかな。


「良い売り場作るようになったな。おかげでこっちが忙しくなっちまったよ」

「そのまま同じ言葉を返したいですよ。今度はこっちが大変な目に合いそうです」


 大木おおきさんの目元は穏やかに笑っていた。


「みんな元気でやっているのか? 小西こにしは? 三郎さぶろうは?」

「みんな元気ですよ。小西こにしさんは相変わらずですし、三郎さぶろうさんは娘さんのために仕事を頑張ってるみたいです」

「そうか」


 大木おおきさんがゆっくりとタバコの煙を吐いた。


「今日は話してくれるんですね」

「タバコ休憩中だからな。タイムカード切ってるし。休憩時間中は仕事はしちゃいけないだろう」

「……」


 昔の大木おおきさんからは考えられないような言葉だ。

 仕事が間に合わなければ、休憩時間を削ってまでずっと仕事をしていたくせに。


大木おおきさんらしくないですね」

「今はコンプラとかうるさいだろうが。今と昔は全然違うんだよ」

「……」

「言いたいことがあるんだろう。今なら聞いてやるよ、休憩時間は10分だけだけど」


 正直、10分では足りないほど聞きたいことがある。


 今までどうしていたのかとか、どうして今の会社にいるのかとか。


 ……でも、俺はどうしてもあのことを聞いておきたかった。


「……どうしてうちの会社やめちゃったんですか? 大木おおきさんならすぐ上に上がれたんじゃないんですか。新人の値付けミスくらいでそんな降格ってあり得るんですか?」


 長年の疑問。


 失礼だとは分かっていたが、どうしても俺はそのことを大木おおきさんに聞きたかった。


「ふぅ~」

大木おおきさん……」

大和やまと、架空在庫って言葉知ってるか?」

「架空在庫? そりゃチーフやってますから。この前も、棚卸のコツをサブチーフに教えたところですし」

「それだよ」


 架空在庫、実際にないはずの在庫を計上すること。


 売上原価が下がるので、帳簿上の利益を増やすことができる行為。


 ……もちろん、そんなのは見かけ上の話だ。


 企業の粉飾決算とかに使われることもあるらしい。


 つまり絶対にやってはいけないやつだ。


「嘘つかないでください! 俺、大木おおきさんの下で働いているから分かってますよ! 大木おおきさんはそんなことしてなかったでしょう!」

「他の店がなぁ。小型店になると在庫の一万や二万で利益率が変わってくるから」

「えっ?」

「昔からのやり方だったんだよ。そもそも昔は今みたいにちゃんと棚卸しなんてしていなかった。仕入と売上を見れば大体の在庫金額が見えてくるっていうのは今のお前なら分かるだろう?」

「それは……」

「そう、ただの数字合わせ。ただの数字合わせをしていたら監査が入って引っかかっちまった」

「でも、それは大木おおきさんがやったわけではないでしょう!? 大木おおきさんの店は数字が抜群だったじゃないですか! むしろ売れない商品は数えなかったくらいで――」

「あのときは小西こにしとか三郎さぶろうの店がなぁ……」

「えっ?」

「本当に少額だったんだけどなぁ。だからエリアチーフの俺が全部補填してみせるって言ったんだよ。俺が全部、自分のエリアの利益率は確保してみせるって。やってはいけないことだったけど、悪気はなかったからあいつらのことは責めないでやってくれって」

「……」

「それがよくなかったんだな。社長に目をつけられるようになっちまった。まぁ、経営者からみれば当然の判断だな」

「それは……」

「俺、一緒に働く仲間はずっと家族だと思って仕事をしていた。だから身内には甘くなっちまった。そんな考え方はもう古いのかもな」

「……」


 ……大木おおきさんの口からようやく当時の話を聞くことができた。


 通りでずっとおかしいと思っていた。


 余程のことがなければ、誰かが退職するだなんてそんな大事おおごとになるはずがないとずっと思っていた……!


「コンプライアンスって会社はもちろんだけど働いている人を守るための言葉でもあるからさ。だから今の俺はそれを大切にしているよ。棚卸しも変に抜いたりしないでちゃんとそのまま計上している」

「そう……ですか……」


 全てに合点がいった。


 この前の売り場での対応はそういうことか。


「……」


 俺は、大木おおきさんになんて声をかけたらいいのか分からなくなってしまった。


「あいつらは今でも責任を感じて仕事を続けてるんだな。気にするなとは言ったんだけどな」

「……」


 小西こにしさんと三郎さぶろうさんがチーフに上がれない理由ってもしかして……。


 それでもこの会社にいるのは大木おおきへの償いのために……?


「まぁ、そんなところだ。ここ数年でがらっとスーパーの働き方も変わったよ。うちなんてかなりしっかりしているしな」

「……」

「何、しけた顔してんだよ。彼女が心配そうな顔で見てるぞ」

「彼女……?」


 大木おおきさんが、俺のことを待っている綾瀬あやせさんのほうに視線を向けた。


「あれは違うの?」

「あれはうちのサブチーフですが」

「はぁ!? 普通に可愛くないか!? こっちはジジイとババアしかいないのによ!」

「言い方……」


 この前もどこかで似たような台詞を聞いたな。


 俺の様子を見て、わざと大木おおきさんがおどけている。


 そういう気遣いをするところは昔と全然変わっていない。


「お前は真面目だからコンプラがどうのこうとは無縁だと思うけどな」

「そんなことないですよ……。俺、大木おおきさんの弟子だからちゃんとコンプラ破ってます」

「くくっ、ちゃんとコンプラ破るってどういう意味だよ」


 灰皿でタバコを潰しながら、大木おおきさんが笑みを浮かべた。


「俺、彼女できましたから。アルバイトの子に手を出しました」

「えぇえ!? お前が!?」

「しかも自部門のバイトの子に手を出しましたから!」


 ……多分、この人とこの話をするのはこれで最後だろう。


 だから、言いたいことは全部言ってやろうと思う。


 たった一つのことは除いて。


「師匠がちゃんとしてないから弟子がこうなるんです」

「俺のせいにするな。このスケベ」

大木おおきさんにだけは言われたくないです」

「はぁ、お前と話していたら休憩時間終わっちまったよ。そろそろ戻らないと」

「俺もそろそろ店に戻ります」


 缶コーヒーをぐいっと飲み干して、大木おおきさんは俺に背を向けた。


「負けませんからね」

「おう、やれるものならやってみろ」

「それに俺、大木おおきさんに負けてないものを見つけました」

「なんだよそれ」

「俺の彼女の方が大木おおきさんの嫁より可愛いですから!」

「やかましいッ!」


 大木おおきさんは大きな声を出しながらバックヤードに戻っていった。


 今、どんな表情をしているのか分からない。


 大木おおきさんはコンプラを守って正しいことをしている。


 それはよく分かる。


 けどなんかムカつく。


 自分でも理由はよく分からないけどなんかムカムカする。


 ムカつくから絶対にあの言葉は言わないでやる。


「もういいんですか?」

「あっ、綾瀬あやせさん」


 昔の綾瀬あやせさんだったら、こんな風に他の会社の人と話しているのを見たら怒っていたかもな。


 今のやり方、昔のやり方って、正直俺はよく分からない。


 けど、それってどっちか選ばないといけないことなのだろうか。


 師匠と弟子の関係みたいに上手いことはできないのだろうか。


綾瀬あやせさん、俺たちは良いとこ取りでいきましょう」

「はい?」


 俺は綾瀬あやせさんにそう声をかけてしまった。

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