♯34 水野チーフと江尻風香

「なーーんで結局来てるんですか!」


 鮮魚の作業場の後ろにあるパソコンで仕事をしようとしていると、すぐに江尻えじりさんが俺に声をかけてきた。


「なんで怒っているのさ」

「来ないって話を聞いたときは安心したのに! 今日は大切な用事があったんじゃないですか!?」

「大切な用事だったけど、店長に呼ばれたら来るしかないじゃん。俺も売り場計画の修正をしたかったし」

「そ、それはそうかもですが!」


 江尻えじりさんが全然納得していない顔をしている。


 俺だってとても複雑だ。


 仕事に集中したい自分と、汐織しおりを優先させたい自分とでせめぎ合っている。


白河しらかわさん、今日のこと本当に楽しみにしてましたよ。大和やまとさんの両親に失礼がないようにって服まで私に相談してきて」

「……分かってるよ」

「分かってるならなんで!」

「俺、チーフだからさ。チーフとしてみんなの仕事を守らないといけない。数字が落ちたら人員の削減にもなる。賞与だって減らされちゃう。そのための対策会議でしょう」

「それは分かりますが、それって自分のプライベートなことよりも優先するべきことなんですか!? チーフがそこまで犠牲になることなんですか! 二人はまだ正式に付き合って一ヶ月程度ですよね! 本当にそれでいいんですか!?」


 江尻えじりさんが見たこともないくらい声を荒げている。


 だから分かってるって。


 江尻えじりさんの言っていることは全部分かっている。


 ……それに、江尻えじりさんだって本当はこんなこと俺に言いたくないってことだっても分かってる。


 本当に優しいんだから。


 江尻えじりさんは今、汐織しおりに俺のことを怒ってくれているのだ。


「それは分からないけど……。けど、俺も仕事をやりたい気持ちもあったから」

「どういうことですか?」

「今の自分のルーツになった人がライバル店にいるんだ。みんなが慕ってくれている今の俺はあの人のおかげかもしれないから。その人を越えられる最後のチャンスかもしれないから」

「うぅー!」


 江尻えじりさんの目には、ほんのり涙が浮かんでいた。

 それくらい俺たちのことを思って怒ってくれている。

 

「ふんっだ。よく分かりませんけど、私はそんなの関係なしに水野みずの大和やまとを尊敬してますけどねっ!」


 俺があの人に言いたかった台詞を江尻えじりさんに言われてしまった。


「私、決めましたから! 最速でサブチーフになってチーフのことをちゃんと休ませるって! 誰よりも優秀なサブチーフになってみせますから!」


 江尻えじりさんがそう俺に宣言して作業場に戻っていった。


「ぷっ……」


 笑いが漏れてしまった。


 良い奴すぎるよ江尻えじりさん。


 俺って本当に周りに恵まれている。


 ずっと上司には恵まれているとは思っていたけど、まさか部下にも恵まれることになるとは。


 ……いや、この場合は友達かな。


 汐織しおりには江尻えじりさんがいるからきっと大丈夫。


 俺も江尻えじりさんになら安心して汐織しおりのフォローを任せられる。


水野みずの君! 会議始まるよ! 休憩室集合で!」

「はい!」


 佐竹さたけ店長の声が聞こえてきた。

 

(ごめん今だけ……。今だけだから)


 ライバル店のリニューアルオープンまでおよそ一ヶ月弱。


 色んな意味での俺の戦いが始まった。




※※※




「今日は本当にすみませんでした! うちの両親に失礼はなかったでしょうか?」


『全然! とても楽しいご両親でしたよ! 一緒に焼肉を食べにいっちゃったんだから』


 会議の休憩時間。


 汐織しおりに電話をして、汐織しおりのお母さんに代わってもらうことにした。


「すみません、今日はまだ帰れそうになくて……」


『気にしないで、汐織しおりは落ち込んでいるけどこっちでなんとかするから』


「本当にすみません」


『お仕事頑張っているほうが家庭は円満に行くよ。私は応援しているからね』


「ありがとうございます……」


 汐織しおりのお母さんにそう言われてほんの少し気持ちが軽くなった。


 思えば、この人はずっと俺たちのこと応援してくれているような気がする。


汐織しおりはまだ子供だからね。お仕事が家族にとってどんなに大切かは――』


「そんなことないです。汐織しおりさんにはいつも助けてもらってます」


 汐織しおりが、俺の仕事の邪魔にならないようにしてくれているのは痛いほど分かっている。


 それがありがたくもあるし、申し訳なくなるときもある。


「あの……! 仕事が落ち着いたら、遊びに行ってもいいでしょうか!」


『歓迎! 歓迎! いつでも来てよ!』


「ありがとうございます! 汐織しおりさんと必ず行きますので!」


『うふふふ、実は今日、大和やまと君のご両親のとこにも遊びに行く約束をしたのよ』


「はい!?」


 その展開は予想していない。うちの親には後で詳細を聞いておかないと。


『それでね、大和やまと君』


 急にお母さんの声色が真剣なものに変わった。


汐織しおりにはいつでもうちに帰ってきていいって言ってあるからね……。もし、大和やまと君の負担になるようなことがあったらいつでも相談して』


「……」


汐織しおりがね、絶対に大和やまと君の負担になりたくないなんて言っているの。どうしてもやり遂げたい仕事があるんでしょう?』


「はい……」


 少し涙が出そうになってしまった。


 お母さんや江尻えじりさんをはじめ、みんなが俺たちのことを応援してくれている。心配してくれている。


 汐織しおりは、自分の気持ちを押し殺してまで俺の支えになってくれようとしてくれている。


(言おう……!)


 突発的な衝動だったがどうしてもその言葉を汐織しおりに言いたくなった。


 今度は値下げされる前にちゃんと俺から言おう。


 俺がもし大木おおきさんに勝てたら、汐織しおりに伝えたいことができた。

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