♯24 師匠と弟子!

大和やまとさん、大和やまとさん、そろそろ起きないと遅刻しますよ」

「ん……?」


 汐織しおりの声が聞こえる。


 随分、昔の夢を見てしまった。


 昨日、江尻えじりさんに師匠と弟子の話をしたからだろうか。


 ……今頃、あの人はどこで何をしているのかなぁ。


 その後、ずっとやさぐれた心のまま仕事をしていたのだがと出会ってそれが変わった。


 仕事をしている自分のことを好きになってくれる人が現れた。


 そうすると、少しだけいつもの仕事の風景が変わって見えた。


 好きな人ができるってそういうことなのかな……。


 昔、山上やまがみさんに「恋人ができると仕事にハリがでる」とかなんとかって言われたっけ。


 今ならその意味がちょっとだけ分かったりもする。


 もしかしたら、汐織しおりはそんな俺の心が軽くなるように値下げシールを貼ってくれたのかも。


 ……って、それはわけ分からないか。ちょっと寝ぼけてるかも。


「起きる……」

「珍しいですね。大和やまとさんがお寝坊さんなのは」

「うーん、なんか夢を見てて……」


 とりあえず、俺にできるのはあの人に教わったことを忘れないことだ。


 じゃないとあの人がどこか浮かばれないような気がする。


「大丈夫ですか? 少し寂しそうな顔されてますが……」

「ううん、汐織しおりと付き合えて本当に良かったなって思って。好きだよ」

「ふぇ!?」


 あっ、久しぶりに汐織しおりの顔がアメリカ産の赤魚あかうおみたいに赤くなった。




※※※




綾瀬あやせしっしょー! 次は何をすればいいですか!?」


 朝の十時頃、江尻えじりさんの元気な声が鮮魚作業場に響き渡る。


 朝、夢を見てからか少しセンチな気持ちになっていたのだが、そんなの吹き飛ばすような明るい声だった。


「じゃあ次はイカの皮むきやってみようか」

「はい!」


 俺が懸念していたことなんて一切なく、綾瀬あやせさんと江尻えじりさんの関係はかなり良好みたいだ。


「師匠~、これができたらご褒美ください」

「えー、じゃあどこかに食事に行く?」

「行きます行きます!」


 い、いや、むしろいつの間にそんなに仲良くなったんだ……?


 この前、江尻えじりさんが綾瀬あやせさんに容赦なかったのはこの関係性があったからか!


 甘え上手な江尻えじりさんに、実はお姉ちゃん気質? の綾瀬あやせさん。それが今はがっつりハマっている気がする。


「鮮魚がすごい華やかになった」


 三郎さぶろうさんの野太い声が、鮮魚の黄色い花園を切り裂いた。


「本当ですね、女性の力ってすごいですね」


 こういう言い方は誰かに怒られちゃうかもしれないが、俺と三郎さぶろうさんじゃ絶対にこの空気は作り出せない。


 素直に二人のことをすごいなぁと思っている。


 ……師匠と弟子の関係とはちょっとばかり違う気がするけど。


「イカを開いたら、アニサキスに注意してね」

「アニサキス? どこかで聞いたことがあるような?」

「寄生虫だよ。細くて白くてにょろっとした気持ち悪いやつ。食べるとお腹が痛くなるんだから」

「んー?」


 江尻えじりさんの首がぎぎぎと音を立てて俺の方を振り向いた。


水野みずのチーフ、前に私にアニサキス食べさせるぞみたいなこと言ってませんでしたっけ?」

「言ってない」

「いや絶対に言った! ぜーーったいに言った!」

「覚えてるなら聞かないで」

「あのときはからかってたんですね!? ひどいひどい! 純粋な私のことをもてあそんでたんですね!」

「本当に純粋な人はそんなこと言わない」


 江尻えじりさんがかなりの時間差でダメージを受けていた。


 良かったね、一つ賢くなって。




※※※




綾瀬あやせさん、そろそろ棚卸しやっちゃいましょうか」

「分かりました」


 夕方になったので、綾瀬あやせさんにそう声をかけた。


 今日は一週間に一度の棚卸しの日だ。


 棚卸し……在庫の金額を確定させる仕事。


 うちの会社の生鮮部門は、週に一度の棚卸しを義務付けられている。


 棚卸しはスーパーの仕事を行う上で重要な仕事の一つだ。


 売上金額と仕入金額、そして在庫の金額を確定させることで最終的な利益を算出することになる。


「綾瀬さん、ジャンパー着てもいいですよ」

「えっ? でもチーフは?」

「備え付けものは一着しかないので大丈夫です。寒いのですぐに終わらせちゃいましょう」


 鮮魚部門の商品在庫は大きい冷蔵庫と冷凍庫の中にある。


 これが非常に寒い!


 冷凍庫の温度はなんとマイナス15度以下にもなるのだ。


「ボイル帆立が2。冷凍銀たらが3。冷凍ブラックタイガー12尾が1ケースです」

「はい」


 その極寒の中で、棚卸しをするのは結構きつい作業なのだがうちには優秀なサブチーフがいる!

 

 俺が数えて、綾瀬あやせさんが紙に記入していくという分担方式で作業のスピードアップができていた。


「塩マスの特売残りが2ケース……は数えなくていいや」

「えっ? いいんですか?」

「うん、どうせ売れないから。身が小さかったし」


 棚卸しの基本は正確に在庫の金額を数えること。


 でも、俺はそれだけではダメだと思っている。


 俺は、売れない商品はなるべく安めに計上するようにしていた。


「今週の利益が下がっちゃいますけどいいんでしょうか?」

「大丈夫です。どうせ数えても、後でしわ寄せがくるだけですので」


 綾瀬あやせさんが、俺の話をメモを取り始めた。


 売れない商品を棚卸しに安く計上するのには理由がある。


 売れない商品は在庫としての価値がないからだ。


 仮にその商品の仕入れ金額が1000円だとしても、1000円で売れるとは限らない。値下げされて500円や300円になってしまうかもしれない。


 これは完全にチーフとしての経験則。


 原価そのままではなく、実際に売れる金額で計上することがチーフの腕前の一つかなと思っている。


「――ってなわけで、売れない商品はあまり数えないほうがいいと思います」

「なるほど……」

「利益的に厳しかったらそんなことは言ってられないんですけどね。けど、今はリニューアルオープン後でまだ目はつむってもらえるので」


 チーフの中にはそこの調整が非常にずる賢い人もいる。


 売れない商品をゼロ計上にして、売上が足りないときに思いっきり店舗企画で安売りをして売り上げを稼ぐ。


 在庫0円で計上すれば、何円で売れても問題ないからだ。


 さすがに1000円の仕入れ値の商品は100円で売れば売れるだろうしね。


 チーフ間ではこういった在庫を“貯金”と呼んだりしている。


 もちろんこのやり方は、普段の利益が取れていることが大前提。


 利益が出ていないのに在庫を数えないのでは本末転倒だ。


 ……まぁ、こんな小細工はルール第一の綾瀬あやせさんには向かない話かもしれないけど。


 かなりグレー寄りのやり方だし。


 普通に数字が取れればそれが一番良いわけだしね。


「――と、まぁこういうやり方もあるってくらいで参考になれば。決して褒められたやり方ではないので」

「ふむふむ」


 真面目だなぁ。綾瀬あやせさんのメモを取る手が高速で動いている。


「あくまで参考程度ですからね? 綾瀬あやせさんがチーフになったときは、通常の棚卸しで全然問題ないと思います」

「み、水野みずのさんは本当に私がチーフになれると思ってるんですか……?」

「思ってますよ。このまま俺の下にいるのはもったいないですって」

「……」

「まぁ、俺は綾瀬あやせさんにラクさせてもらっているのでずっとこのままでもいいんですが」


 笑い混じりにそう答えた。


 前の店ではこの仕事を全部一人でやっていた。


 小西こにしの親父はすぐに帰っちゃうし、山上やまがみさんはそもそも棚卸しできないし。


「わ、私もこのまま――」

「え?」

「い、いえ! 私も水野みずのさんのことを師匠と呼んでいいでしょうか!?」

「いきなり!?」


 た、確かに常盤ときわさんには綾瀬あやせさんの師匠になってほしいと言われたけどさ!


 江尻えじりさんの師匠の師匠になってしまった。

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