♯9 大学生になる白河さん

 三月三十一日の夜八時。


 俺と汐織しおりはお互いに明日の最終点検をしているところだった。


「じゃあ、俺は夜の十二時には着くように家出るから」

「ほ、ほとんど寝る時間ないじゃないですか!」


 俺は明日から大忙しである。


 というのも開店時には、売り場を100%どころか120%に埋めないといけない。


 せっかくリニューアルしたのに、初日の売り場がスカスカの状態だったら目も当てられない。近隣の他の会社のスーパーの人たちも開店時には視察にくると思う。


 ……正直、かなりのプレッシャーを感じている。


 このお祭りを成功させるために、バイア―と俺を含めた社員連中は全員夜の12時に出社。他のパートさんたちももれなく早朝出社だ。


 売り場の商品が完全にゼロの状態から、リニューアルに相応しい売り場を作るとなると、それくらいの時間は余裕でかかってしまうのだ。


 ちなみに10時の開店前には、うちの社長がテープカットをしたりなどの簡単な催し物があるらしい。中にいる俺には関係のないことだが。


「無理だけはしないでくださいね……」

「大丈夫だよ、慣れているから」


 自分で言ってても悲しくなる!

 我々、スーパーで働くものにとって早朝に働くことなぞ普通のことなのだ。

 今回は早朝というか完全に深夜だけど……。


 ちなみにだが、店では鮮魚部門の出社時間が一番早いわけではない。

 惣菜部門に至っては、日付が回る前から仕事をしている。店舗で全商品を作るとなると全然時間が足りないのだろう。工場だって夜通しでお弁当作ったりしているわけだしね……。


汐織しおり、そんなことよりもさ」

「そんなことよりも?」

「大学入学おめでとう。明日からはいよいよ大学生だね」

「あははは……ついに女子高生ではなくなっちゃいました」

「いいじゃん、大人になったってわけでさ」


 本当は明日は汐織しおりのお祝いをしたかったんだけどな……。

 おそらく明日は忙しくて、日中は連絡も取れなくなるだろう。

 だから、いまのうちに汐織しおりにお祝いの言葉を言うことにした。


「本当はどこかにお祝いでも行けたらいいんだけどさ」

「私のことは気にしないでください! 大和やまとさんはお仕事頑張ってくださいね」

「うん、ありがとう」


 高校生卒業後の四月一日っていつもの四月一日とは全然違うと思う。本当の本当に特別な意味があると思う。自分を取り巻く環境も変わるし、自分自身も変わらないといけない。


 そんな特別な日に彼女と一緒にいられないのはとても残念だけど、今こうしてお互いのことを話せていることはとても嬉しいことだと思う。


「それに明日は朝からお父さんもお母さんも来ますから!」

汐織しおりの晴れ舞台だもんね」

「家にあがっても大丈夫ですよね?」

「全然、大丈夫! 俺に気を使わないでよ」


 汐織しおりは明日の入学式のためにお父さんにスーツを買ってもらっていた。


 高校の制服姿しか見たことないので、それを見ることができないのもちょっとばかり残念だ。


「あっ、言い忘れてましたが、入学式が終わったらお父さんたち一緒にお店にお買い物に行くかもです」

「マジ!?」

「マジです。お父さんがお祝いにお刺身でも買おうかなって言ってました」


 汐織しおりが悪戯っぽく笑っている。


 くぅ……直前で別のプレッシャーも生まれてしまった。


「それに大和やまとさんに私のスーツ姿見てもらいたいですしね!」

「うん、それも楽しみにしているよ」

「えっ」

「あっ」


 し、しまった。普通に答えてしまった。

 いつもは恥ずかしいからもうちょっと濁した言い方をしてたのに!


「見たいんですか?」

「今のなし」

「吐いた言葉は戻せませんよ」


 汐織しおりが心底楽しそうに笑っている。

 

「そりゃあ……」

「えへへ、じゃあ明日楽しみにしていてください」


 自分で言って照れくさくなってしまった。

 歯の浮いたような言葉って苦手なんだよなぁ……。というか、男で得意なやつっているのだろうか。


大和やまとさん、大和やまとさん」

「ん?」

「私、大学になったら可愛いって言ってもらえるように沢山おしゃれを頑張りたいなって思います。お化粧も覚えないと」

「そ、そっか」


 「汐織しおりはそのままでいいよ」と言いかけたが、なんとか踏みとどまった。本人がやる気になっているのに、やる気をそぐようなことは言わないほうがいい。


 ――それにしても、あの白河しらかわさんがもう大学生かぁ。今でも入社したばかりの初々しい彼女を思い出せる。


(し、白河しらかわ汐織しおりです! よ、よよよ宜しくお願いします!)

(そんなに緊張しなくて大丈夫だから!)

(で、でででもぉ)


「ぷっ……」


 あんなにカッチンコッチンだったくせに、今は俺のことからかってくるくらいだもんな。人生って本当に何が起きるか分からない。


大和やまとさん、今笑いました?」

「ちょっと昔のことを思い出してさ」

「昔のこと?」

「秘密」

「秘密はなしにしてくださいよー!」


 白河しらかわさんには明日から沢山の出会いが待っているのだろう。


 だから俺のワガママでおしゃれなんてして欲しくないって言っては駄目だ。

 お化粧なんて覚えなくてもいいって言っては駄目だ。


 俺のつまらない嫉妬心で彼女の可能性をつぶしたくはない。


大和やまとさん~~!」

「いや、あの白河しらかわさんがもう大学生になるんだなって思ってさ」

「どの白河しらかわさんですか!」


 汐織しおりが俺に負けじと言い返してきた。


「もうっ! じゃあその白河しらかわさんと約束してください!」

「そのってどれ?」

「目の前にいる白河しらかわさんです!」


 少しからかうと、汐織しおりがぐいっと俺の顔を覗き込んできた。


大和やまとさんのお仕事が落ち着いたらちゃんとしたデートに行きたいです。今度は高校生じゃないですからね」

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