♯8 ごめんよりありがとう

「ただいま」


 顔合わせが終わり家に帰ってきた。


 疲れた。新しい環境というのは、どうも精神的にも疲れる。


 初日からサブチーフの綾瀬あやせさんに質問攻めにされたのも、まぁまぁ応えた。


 売り上げの作り方、利益の取り方、効率的な棚卸の方法は、POPの配置はどうするかなどなど。


 リニューアル時の売り場計画は、ほぼほぼ本部が主動で行うため一介の部門責任者である俺に口を挟めることはない。


 それでも綾瀬あやせさんは俺に沢山の質問をしてきた。


 多分、チーフとしての腕前を綾瀬あやせさんに試されているのだろう。


 出会ってからたった一日しか経っていないが、今日の彼女とバイヤーとのやり取りを見て、なんとなく綾瀬さんがチーフになれない理由が分かってしまった。


「おかえりなさーい!」


 玄関を開けると、汐織しおりがすぐに俺のところにやってきた。


「ご飯できてますよ! それともお風呂にしますか?」

「ご飯食べようかな。汐織しおりはまだ食べてないの?」

「はい! 待ってました!」


 なるべく顔に出さないようにしたが、あの定番の台詞を言われると思ってちょっとドキッとしてしまった。


 それにしても夜の八時近くになっているのに、汐織はご飯を食べずに待っていたのか……。


「待ってなくていいって言ったのに」

「私は待つって言いました」

「ごめん」


 ちょっとだけ唇を尖らせて、汐織しおりがキッチンの前に向かった。


「もう! これからはごめん禁止にしましょう! 私、ありがとうのほうが好きです!」

「……」

「な、なんですか? 急に黙っちゃって!?」

「いや、普通に良い言葉だなと思って。汐織しおりはさすがだなぁと思って」

「ありがとうございます?」


 汐織しおりが首をかしげながら俺にお礼を言った。

 自分ではあまり気にしてなかったが、確かにちょっとだけ謝り癖があったかも?


「お仕事はどうでしたか?」

「うーん……ちょっと大変そうな予感。というかめんどくさいことになりそうな予感」

「ありゃ」


 汐織しおりが同じ職場なら少しは言葉を選んでいたのだろうが、 思ったことをそのまま口に出した。今は恋人同士だからそれくらいはいいよな。


「お仕事がですか? それとも今日会った人たちが?」

「どっちもかなぁ」

「ありゃ~」


 汐織しおりがご飯をよそいながら、少し困った顔を浮かべている。


「前ならお仕事のお手伝いできたんですが、今はなにもできなくてすみません」

「ううん、そんなことない」

「愚痴ならいつでも聞きますからね」


 彼女なりの気遣いをひしひしと感じる。


 同棲してからまだ日が浅いが、こういうのって悪くないもんだなぁ。

 今までは全部一人で抱え込んでいたからさ。


「ところで……」

「ん?」


 ご飯をよそい終わった汐織しおりが笑いながら俺の近くにやってきた。表情自体は笑ってはいるのだが、何故かが笑っていない。


「可愛い子いましたか?」

「はい?」


 なんだか異様な圧を感じる!

 初めて汐織しおりのことを怖いと思った。

 

「いないって! いないいない! そもそも仕事だからそういうのに興味ないって」

「私たちの出会いは職場なのに……」

「うぐっ」


 それを言われたら何も言えなくなるだろうが!

 まったく、どこを心配しているんだか……。


「女の人はいるんですか?」

「サブチーフは女性だったけど……」

「ほらー! チーフとサブチーフといったら相棒みたいなもんじゃないですか!」


 あながち汐織しおりの言うことは嘘ではない……。


 チーフとサブチーフは仕事を回すため二人三脚で、業務を行うことになる。


 俺が休みの日は綾瀬さんに仕事を任せることになるだろうし、日々の発注はお互いに相談しながら行うことになる。


 必ずコミュニケーションは取らないといけないのだ。


 前の店で言うなら、俺と小西こにしさんとの関係だ。


 ……。


 ……。


 いや、あの親父は親父で特殊だったけどさ!


大和やまとさんのお仕事の相棒は私だったのにー!」

「いや、前の店だと小西こにしさんだし」


 唇を尖らせたまま、汐織しおりが話を続ける。


「じゃあ新しい値下げは誰がやるんですか!?」

「当面は仕事を覚えてもらうのも含めて、やっぱり江尻えじりさんに頼む予定」

「えぇええええ!」

「あっ、けどアルバイトも募集しているって店長が言ってから、そのうちアルバイトの子がやるようになるかも」

「新しい女の子がくるんですか!?」

「いや、鮮魚部門には基本女の子は来ないから」


 ことアルバイトに関しては、非常に嫌われ者の鮮魚部門……。生臭いってだけで大体は敬遠される。


 前にも言ったかもしれないが、汐織しおりみたいな子が鮮魚部門に来るのはレア中のレアケースなのだ。


「なんですか! 私が変わり者みたいに!」

「な、なんか汐織しおりのテンション、ちょっと高くない?」

「うっ」


 俺がそう言うと、机に料理の配膳が終わった汐織しおりが少し恥ずかしそうな顔をした。


 普段は俺も汐織しおりも口数が多いほうではないのに、今日はちょっとおかしいような気がする。


「……だって寂しかったんですもん」

「ん?」

「首をながーくして、大和やまとさんの帰りを待ってました。長くしすぎてキリンさんになるところでした」


 汐織しおりが顔を赤くして、俺から目線を逸らした。


「このお部屋は一人では少し広すぎます」

「そっか」


 ぼそっと汐織しおりがそんなことを呟いた。


「俺のプライベートの相棒は汐織しおりでしょ? いらぬ心配をしないように」

「うまいこと言われた気がします……」

「ほら、早くご飯食べよう。作ってくれてありがとうね」


 寂しいか……。


 新しい環境が始まるのは俺だけはない。


 もしかしたら汐織しおりの大学が始まったら俺もそう思うときがくるのかもしれない。


「……大和さん。ご飯を食べる前にひとつだけワガママ言ってもいいですか?」

「どうしたの?」

「まだ今日はぎゅーしてないです」

「ワガママってそんなこと!?」

「そ、そんなことって! お仕事でお疲れだと思ったので我慢してたのに!」


 汐織しおりの頬が膨らんでたのを俺は見逃さなかった。

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