♯3 スーパーの暗黙のルール

「あっ、江尻えじりさんおはようございます」

白河しらかわさん、おっはよー! あっ、もう水野みずのさんか」

「ま、まだ名前は変わってないです……」

「まだですってー! もー、白河しらかわさんは可愛いなぁ」


 早速、汐織しおり江尻えじりさんにからかわれている。


 他の会社はよく分からないが、俺のいるスーパーはその日初めて会った人には必ず「おはようございます」と挨拶をする。


 昼だろうが、夜だろうが関係なしにだ。


 なので、時間帯関係なしに「おはよう」は実に会社の人たちのやり取りって感じがする。


「なんでここにいるの?」

「買い物です」

「引っ越しは終わったの?」

「はい、バッチリです!」

「まさかこんなところで会うなんて」

「あっ、嫌そうな顔してる」

「してない」


 江尻えじりさんも、俺と同じように引っ越しをともなう転勤だしな。

 当然、新しい店舗の近くに住むことになるわけだから生活圏は一緒なわけだ。


大和やまとさん、本当にオフって感じがしますね。店のシュバッ! とした感じとは全然違います」

「シュバッってなにさ」


 そういう江尻えじりさんは店と態度が全然変わらない。

 ただ、誰にも会わないと思って油断したいのかジャージにパーカーのラフな姿だ。


「ぐっ、私の服を見ましたね……!」

「うん」

「しかもすっぴんを見られた」

「そこまでは見てない」

「ふーんだ。どうせ私は白河しらかわさんみたいにナチュラル美人ではないですよーだ」


 江尻えじりさんがいじけてしまった。

 確かに汐織しおりは全然化粧っ気はないけどさ。


江尻えじりさん! 良かったらこれからお茶にでも行きませんか?」

「行く行くー! 白河しらかわさんから誘ってくれるなんて嬉しー!」


 色々あったが、汐織しおりは大分江尻えじりさんに懐いているようだ。

 汐織しおりが、俺以外の人を気軽に誘うところを初めて見た。


「じゃあ後は若いお二人で――」


「「大和やまとさんも来るんですよ!」」


 汐織しおり江尻えじりさんの声が見事に重なった。




※※※




白河しらかわさんしぶーい! コーヒーなんて頼むの!」

「はい! 私、コーヒー好きなんで! さっきもコーヒーメーカーを探してたんですよ」


 ホームセンター近くにある、チェーンの喫茶店に三人で入った。

 二人のテンションが異様に高い。


白河しらかわさん、本当に明るくなったよね~。誰かさんのおかげかなぁ」

江尻えじりさんが私と友達になってくれたおかげです!」


 パートのおばちゃんみたいなことを言ってくる江尻えじりさんに対して、汐織しおりがやや天然な回答をする。


 多分、江尻えじりさんは俺たちのことをからかおうとしたんだと思う……。


 しかし、この機会は丁度良かったかもしれない。

 仕事のことで江尻えじりさんとは話をしたいと思っていたところだ。


「ところで江尻えじりさん、新店舗の話は聞いている?」

「あっ、はい。新しい店長から連絡がありました」


 仕事の話をすると、江尻えじりさんの顔つきが変わった。

 さすがこういうところはちゃんと社会人だと思う。


「29日はお昼に出社してミーティング。30日から売り場の準備だからね」

「はい、頑張ります!」

「俺、江尻えじりさんにちょっと言っておきたいことがあったんだ」

「はい? なんでしょうか?」

「最初はあまり落ち込まないようにね。できなくて当たり前だからね」

「ど、どどどういうことですか!?」


 新店の準備はかなりの激務だ。

 年末商戦がパワーアップしてやってくるくらいの心構えじゃないと、絶対にメンタルが持たない。


 部門新人の江尻えじりさんが、初めて経験する現場としてはあまりにもこく過ぎると思う。


 加えて、リニューアルオープン時には会社のお偉いさんが沢山くる。

 特に部門の統括やバイヤ―は、俺たちと一緒に作業場に入ることになる。

 おそらくずっと緊張続きの環境になってしまうと思う。


江尻えじりさんにはパックのシール貼りとかをお願いしようと思ってるんだ」

「シール貼り?」

「右下に値付けシールが貼ってあるなら、左上にはお買い得とか商品の飾りシールがあるでしょう? それの貼り方をお願いしようかなって」

「そ、そんな簡単な作業でいいんですか!?」

「物量やばいからね。頑張ってね」


 江尻えじりさんの鮮魚部門での仕事ぶりは未知数だが、これだけは断言できる。


 ……最初からまな板に入るのは絶対に無理だ。


 だから、最初は簡単な作業で少しずつ鮮魚の仕事に慣れていくしかないのだ。


 本当はリニューアル店舗って新人さんが来るような現場ではないんだけどな……。

 それだけ会社は、江尻えじりさんの成長に期待しているということなのかもしれない。


「後は値下げかな? 青果で値下げはやってたでしょう?」

「そ、それくらいならできると思いますが……」

「後の詳しい作業段取りは、バイヤーと打ち合わせしながらミーティングでやるからね」


 新しい鮮魚メンバーとの顔合わせもある。


 正直、リニューアルが始まったら、俺も精神的に余裕があるかは分からない。


 だから今のうちに少しでも江尻えじりさんのフォローをしておかないと。


江尻えじりさんが値下げをやるんですか?」


 ……そんな気持ちでの会話だったのだが、汐織しおりが俺たちの会話に混ざってきた。


「その予定」

「わ、私もアルバイトしたいって言ってたのに!」

汐織しおりは大学生活優先でしょう。バイトはもっと落ち着いてからだよ」

「うぅ……」


 そ、そう言えば汐織しおりはまた値下げのバイトをやりたいって言ってたな……。


 この様子だと、本当に俺たちの店舗に応募するつもりでいたらしい!


「ちなみに言っておくけど、鮮魚部門のアルバイトは多分無理だよ……」

「な、なんでですか!?」

「いや、知ってる人は知っているからさ」


 俺と白河しらかわ汐織しおりの関係はまだ大きく広まってはいない。


 でも知っている人は知っている。


 というのも会社で家賃補助があるから、新しいアパートを借りるときに誰と住むかくらいの聞き取りはあるのだ。


 汐織しおりとの関係を隠しているわけではないので、俺は人事部に同棲する人がいるのを正直に話した。


 夫婦や恋人関係にある人たちを同じ部門に置かないのは、スーパーの暗黙のルールとなっている。


「じゃあ、私が白河しらかわさんの代わりに値下げを頑張ります!」


 江尻えじりさんがいきなり張り切り始めた!


「頑張らなくていいですから!」

「いやいや! そこは頑張ってもらわないと困る!」


 俺がそう言うと、汐織しおりはしょんぼりと落ち込んでしまった。

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