♯32 コンプライアンスと名前 後編

「私、チーフが思っているような良い子ではないですよ?」


 その後、いつも通り仕事をしていると、白河しらかわさんがそんなことを言ってきた。


「どういうこと?」

「私がアルバイトを始めた動機は不純ですから」

「不純?」

「はい、なので良い子ではないです」

「それは聞いていいやつ?」

「チーフが私を値下げしてくれたら教えてあげます」

「めちゃくちゃズルい」

「はい、私はズルいんです」


 白河しらかわさんがほんの少し悪戯っぽく舌を出した。


「ところで、リニューアル店舗に呼ばれるということは昇進になるんですか?」

「そうなるのかな?」

「凄いです! 先にそっちのお祝いの言葉を言わなきゃでした」

「そんなに嬉しいものではないんだけどね」

「けど、凄いことなんですよね! 尊敬しちゃいます!」

「あははは……、白河しらかわさんみたいに純粋に喜べれば良かったんだけど」


 俺としてはただ忙しい店舗に行くだけって感じなんだけどな。

 もちろんプレッシャーもある。本部から数字の動向はかなり注目されることになるだろうし。


 給料は上がるのかな……? そうじゃないと割に合わないよな?


「……チーフ」

「どうしたの?」

「チーフは、二人きりのときは名前で呼びたいと言いました」

「今、職場だし」

「チーフは職場で言いました」

「……」


 慣れもあって、彼女のことを名字で呼んでしまっていた。


 やっぱり意外に頑固だ……!

 奢るって言ったのに、頑なに自分でお金を支払おうとしていたこともあったし。


「はいはい、汐織しおりさん汐織しおりさん」


 観念して名前で呼んでみるも、非情に照れくさい。

 職場の人を名前で呼ぶことなんて今までなかったのにさ。


「そういう投げやりな呼び方は良くないと思います」

「注文が多いなぁ……」

「だ、だって、やややや大和やまとさんは」

「こっちが恥ずかしくなるからそこで言い淀まないで!」


 俺の名前を無理矢理呼ぼうとして失敗している。

 壊れたロボットみたいになっている。


「いいよ、無理しないで」

「でも私も名前で呼びたいです!」

「え?」

「私も名前で呼びたいです。チーフにそう言われてキュンときちゃいました」

「きゅ、キュンって……」


 白河しらかわさんが俺に目線をあわせることなく、作業場の片付けをしている。


 あっ、これは多分照れ隠しで、作業に集中しているにしている。


「思ったよりも振り回されそうだなぁ」

「どうしました?」


 つい思ったことが口に出てしまった。

 だが、どうやら白河しらかわさんには聞こえていなかったみたいだ。


「何でもない」

「何でもないはなしです」

「何でもないったら何でもない」


 も、もしかしたら俺、年下の子に尻に敷かれるのかなぁ。

 なんとなくそんな予感がしてきてしまった……。


白河しらかわさん、でも俺ちゃんとしたいから」

「はい、分かってます。卒業するまでですよね」

「本当にいいの?」

「いいんです。先日は私が無理を言ってしまったので」

「……これって白河しらかわさんのためだけに言ってるわけじゃないんだよ?」

「分かってます。最初にお食事に行かせていただいたときも、私もそこは気にしてました。チーフのご迷惑にならないかなって」


 ……確かに最初に食事に行ったときも、白河しらかわさんからその話はしてくれていた。


 俺が思っているよりもずっとずっと優しい子なのかもしれない。


白河しらかわさんが、そこまで俺のことを思ってくれる理由が分からないなぁ……」


 自分で言っておいて情けないが、本当にそんなことを思ってしまった。


 どうして、そこまで俺のことを気にかけてくれるんだろう。

 どうして、そこまで俺のことを信頼してくれているのだろう。


 白河しらかわさんから見れば、俺も小西こにしさんたちと変わらないただの仕事にくたびれた大人だと思うのに。


「チーフはご自分で思っているよりも、ずっと優しくて純粋な人ですよ」

「え?」

「あんまり自分のことを卑下しないでください。私はちゃんとチーフのことを見てますので」


 不覚にも、その一言に心が暖かくなってしまった。


「参ったな。そんな風を言われちゃうと何も言い返せないじゃん」

「ふふっ、初めてチーフに勝ちました」

「いつも俺が負けているような気がするけどな」

「そんなことないですよ! 私は値下げが待ちきれなくなってますので!」

「……あっ、白河しらかわさん」

「はい?」

「そろそろ本当の値下げの時間だ」

「す、すみません!」


 白河しらかわさんが肩を落として、売り場に向かった。

 のんびり話していたら、いつの間にか値下げの時間になってしまった。


「コンプラかー」


 白河しらかわさんがいなくなった作業場で一人考えこむ。

 

 一人で難しく考えすぎていたかな。

 もうちょっと柔軟に考えてみてもいいのかも……。


 作業台の上に置かれた飲みかけの缶コーヒーを見ながら、ふとそんなことを思った。



ピンポンパンポーン



『鮮魚部門の水野みずのチーフ、外線一番にお電話です』



 そうこうしていたら店内アナウンスで呼び出されてしまった。




※※※




「なんでよりによって、こういう日にクレームが!」

「あははは……大変でしたね」


 店内アナウンスは、チェッカーさんからクレーム対応のお願いの電話だった。


 今日は店長は休み。副店長は別のクレーム対応中。

 他の部門のチーフは休み。


 繰り上がり当選で俺が対応することになってしまった。


「豆腐の味の違いなんて分からないって!」

「うちの部門と、全然関係ありませんもんね」


 クレーム内容は、いつもの豆腐と味が違うという内容のもの。


 近所なのですぐにお詫びの品を持って、お客様の家に向かったが、正直俺にはちんぷんかんぷんだ。


「そういうクレームのときってどうするんですか?」

「メーカーさんに調査お願いするんじゃないかな。俺も詳しく分からないから、明日、店長と日配のチーフに報告して後はお任せだね」


 ……どたばたしていたら、夜の九時前になってしまった。


 急なクレーム対応に追われていたので、ちゃんとした指示出しをすることができず、白河しらかわさんの帰りまで遅くなってしまった。


「よし、もう着替えて帰ろうか。遅くなっちゃってごめんね」

「いえ、私は全然問題ないですが……。チーフもお疲れさまでした」

「送ってくよ」

「へ?」

「遅くなっちゃったでしょう? 家まで送ってくよ」

「い、いいんですか?」

「心配だから」

「心配してくれるんですか!」


 エプロンを脱ぎながら白河しらかわさんのほうを見ると、何故かさっきの缶コーヒーの空き缶を大切そうに持っている。


「捨てたら?」

「え?」

「ゴミ箱はそこにあるよ」

「い、いえ……せっかくなので持って帰ろうかなぁと……」


 白河しらかわさんがじとっとした目で俺のことを見つめてきた。

 ……あまりこれ以上は言わないほうがよさそうだ。


「あっ、私、ちょっと親に送ってもらうって電話してきますね。ついでに着替えてきちゃいます」

「うん」


 はぁ、今日は疲れた……。

 クレーム対応って根こそぎ体力と精神力を持ってかれるよなぁ。

 今日は早く風呂に入って、早めに寝よう。


「ち、チーフ……」


 五分ほど待っていると、着替えを終えた白河しらかわさんが作業場まで戻ってきた。


「よし、じゃあ帰ろうか」

「あ、あの……」

「どうしたの?」

「う、うちの親がチーフと少し会いたいって……」

「はい?」


 白河しらかわさんの顔がこわばっていた。

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