♯29 白河さんは値下げされたい

「俺、異動するかもしれないから。まだ内示だけだから誰にも言っちゃダメだからね」

「え?」


 作業場の片づけをしていた白河しらかわさんの体が固まってしまった。


「い、いつですか!?」

「来年の四月に異動になるかもって店長に言われた」

「ど、どこにですか?」

「インター店って知ってる? ここからちょっと遠いから引っ越すことになるかも」

「えぇえ!?」


 俺がそう言うと、白河しらかわさんの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちてしまっていた。


「あ、あれ?」

「し、白河しらかわさん!?」


 今まで彼女の、笑った顔、怒った顔を見てきたが、初めて本当に悲しそうな顔を見てしまった。


「きゅ、急にどうしたのさ?」

「い、いえ、チーフとお別れかなぁと思ったら急に悲しくなってしまいまして……」

「大げさだって!」

「で、でも……」


 白河しらかわさんが、手で涙をぬぐっている。


「別に異動になっても会えるでしょう!」

「約束してくれますか?」

「えっ?」

「四月以降も会ってくれるって約束してくれますか?」


 白河しらかわさんが、俺の目の前まで近寄ってきた。

 上目遣いで、少し拗ねるような言い方をしている。


「私も一緒に行きたいって言ったら困っちゃいますよね……?」


 困った……。


 俺たちの今の関係は、ただのチーフとアルバイト。


 まだ特別な関係ではない……。

 彼女の将来について、簡単に約束をできる立場ではまだないのだ。


 スーパーの異動という事案に慣れてしまって、彼女の気持ちのことをあまり考えていなかった。


「ほ、ほら、インター店って私の大学からは近くなりますので!」

「……」

「あははは、もしかしたら同棲なんてことも――」


 声は笑っているが、白河しらかわさんの顔がどんどん曇っていく。


「私、もっとお料理できるように頑張りますから……。この前のお弁当みたいなことはしませんから……」


 ついには、白河しらかわさんは自分の顔を両手で覆ってしまった。


「私、チーフと離れたくないです……」


 白河しらかわさんが静かに泣いてしまった……。


「すみません、チーフ。私、やっぱりチーフが値下げシールを貼ってくれるのを待てそうにないです……」

「え……?」

「今すぐ値下げしてほしいです」


 白河しらかわさんの声は消え入りそうなくらい小さかったが、確かにそう聞こえた。


「すみません、チーフにとって重い女にはなりたくなかったのですが……」

白河しらかわさん……」


 この日、初めて白河しらかわさんと少しだけ心の距離が離れてしまった気がした。


 今までは順調に距離が縮まっているような気がしていたのに……。




※※※




 家に帰って、ベッドに横になっても、ずっと白河しらかわさんとの今後のことを考えていた。


 スーパーという閉じた環境に慣れていた。


 引っ越しや異動というのが、他の人にとってどれだけ大きいものかを見誤っていた。


 十八の頃にアルバイトでこのスーパーに入社して、そのままなし崩し的にこのスーパーに入社をした。


 今まで色んな人に出会ってきた。


 何も知らない頃は、年上の女性に食事に誘われて浮足立ってしまうことがあった。

 その人が、既婚だと知らずに一緒に食事に行ってしまうことがあった。


 仲良くさせてもらっていた兄貴分の先輩は、レジの高校生の女の子に手を出してやめさせてしまうことがあった。


 若い女の子は、この前江尻えじりさんが言っていたようなことが普通に起きてしまう。


 俺は、ある日レンタルビデオ店で借りた映画を見て、こう思ってしまったことがある。


 ……大袈裟かもしれないが“スーパー”と“デスゲーム”は似ているなと。


 閉じた空間に、世代の違う男女が放り込まれて、同じ作業を強制される。


 そこには愛憎うごめく色々なことが起きる。


 そういう、ドロドロしたやり取りに疲れたから――。


「ずっと仕事をやめたいと思っていたのに……」


 白河しらかわさんに告白されてからそれが少し変わってしまった。


 “値下げ”に携わる仕事をもう少し頑張ってみようと思ってしまった。


「あーあー、口では何とでも言えるんだけどなぁ」


 枕元に置いた携帯の画面を覗き見る。

 白河しらかわさんからメッセージは届いていなかった。


「ちゃんとしたい……、ちゃんとしたいけど……!」


 疲れているはずなのに、今日は寝ることができなかった。

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