第51話 白い世界の入り口で

 進んでいくにつれて高度がひたすらに上がっていったところで、渓谷もいよいよ終わりが見えてきていた。辺りからは緑が消えて、岩と雲だけの殺風景な景色になっていく。風が砂塵を巻き起こす音と指示を出す人間の声、そして竜の鳴き声だけが聞こえる。それは敵を威嚇するものや自らを鼓舞するものであることが大半だが、ときに限界を訴える悲鳴にも似たものもあった。竜使いの反応は大概同じだ。初めは竜を蹴るようにして鼓舞し、おまえはまだ止まらないのだと暗示をかけるように言う。そこで拒絶を含めた強い反応を示すならばまだ良い。当分は飛んでいられる。しかし問題は反応が明らかに鈍くなる、または弱々しいものであったときだ。それでも乗っている竜使いは手綱を鞭のようにしならせて叩いたりもするし、少しだけ速度を緩めて水や食べ物を与えようとすることもある。しかしほとんどの場合は力を取り戻すことはない。竜がいよいよその腕を泳ぐときのように空気をかきはじめ、翼をがむしゃらに羽ばたかせ始めたら、すでに限界に達していることを意味しており、それは最後の舞いとも呼ばれる。そうなると、必死になっていた竜使いも息を吐いて落ち着きを取り戻し、周りの者に一言二言をかけると、ゆっくりと速度を落としながら降下していき、やがては地面に、もしくは川へ倒れ込むように降りていくのであった。

 竜征杯は大事なレースではあるが、彼らや竜たちにとってはその全てではない。疲労はともかく、長引くような怪我や後遺症を残すことは最も避けるべきことであり、その線引きをすることも竜使いとして求められるものであった。

 一人ずつ、一体ずつ、静かに落ちていく。たとえそれが味方であっても、誰もいちいち声を上げたりはしない。それは誇り高き竜使いとしての振舞いでもあったが、少しでも気を緩めて何かにぶつかりでもしたら、もう二度と戻ってこられないことが分かっているからだ。

 徐々にその力の差が表れてくる。抜けて先頭を飛ぶのは王家であり、その後ろについていくのはアギルド家、そしてそこから少し離れたところにベース家、他の家の竜使いたちは前方から後方までまばらに散在しており、クロードは変わらず最後尾にいた。

 体力はあるようだが、やはり速度は上がらない。レース前半から積極的に前に出て、少しでも距離を稼いでおくべきだったかもしれないとクロードは反省もしていたが、これまでの道中を振り返ってもそれが極めて難しかったのもまた事実であった。

「私が前を飛びます」

 それまでロリアンの横にずっといた竜使いが言った。

「これ以上、離されることがあってはいけません」

「二番手のおまえが尽きれば、いよいよロリアン様だけになるぞ」

 一列前を飛んでいた竜使いが言う。

「全員が追いつけずに終わるよりは遥かにマシです。それにどうも私の竜はあまり体調がよろしくないようです。おそらくゴールまでは持ちません。ならば、ここで力を使い果たすまで」

「俺も前で引っ張ります」

 そこでヒートも進言する。ベース家の竜使いたちはロリアンを見た。

「頼んだぞ、おまえたち」

 三家の中では最も数が少ない上に、こうして追いかけるさなかにすでに何人か脱落しており、出来ることなら戦力をこれ以上減らしたくはなかったはずだ。しかしロリアンは、次期当主としての風格をもってそう言った。

 そしてベース家の隊列の二番手の竜使いが前に出ると、一段とまた速くなり、それにはアルコルもついていけず、クロードはまもなく完全に置いて行かれてしまった。

 しばらく経つと、クロードの周りには竜使いが一人もいなくなっていた。他の竜使いたちは、ベース家についていくか、諦めて潔く離脱した。

 アルコルにもっと速度を上げるように命令しても無駄だと分かっていた。それはアルコルの身体能力のことだけではなく、これ以上飛ばせば体力を急激に消耗して限界が早まるからだ。焦りはあるが、それでも冷静でなくてはならない。諦めないのであれば、たとえその背中が見えなくなってもペースを保って飛び続けるしかない。ここからはクロードの忍耐力が試される。

 クロードはアルコルの方を見る。アルコルは変わらない様子で鼻息を荒くしながらも、前を向いている。

「そうだ、まだ大丈夫だ。追いかけ続けていれば、いつかきっとチャンスは訪れる。これまでだってそうだったじゃないか。アルコルも気持ちを切らせてない。ここは耐えるときだ」

 クロードはそう言い聞かせて、アルコルと同じように前だけを見る。



 渓谷も終わり、本格的な高地に突入していく。白っぽい岩盤地帯ではもはや過ぎゆく景色に差が無くなってきており、雲が近づいてくるにつれて霧も立ち込めてきているので、先に行った竜使いたちの姿は見えず、この道で合っているのか心配になるほどであった。

 しかしまもなく、通過地点である掘っ立て小屋の建つ、祠に続く道の入り口と呼ばれるところにやってきた。そこにはこれまでの審判員とは異なり、衛兵の着るような正装用のローブではなく、ほつれが目立ち裾の破れたボロきれを羽織った白髪の老人が待っていた。

「アルコル、少しの間だけ止まってくれ」

「おお」

 老人はクロードたちの姿を見ると、驚いた様子であった。

「まだおったのか。お主が最後かな」

「おそらくは」

 クロードは通行証を見せながらも、すぐにでも先を急ぎたかったので短く答える。

「それは結構。しかも見たところ随分若そうだ。わしは数十年と竜征杯の出場者たちを見てきたが、その中でも一番若いかもしれない。まだ成人もしておらんのだろう」

「ええ。そうですね」

 クロードは口にこそ出さなかったが、もうこれ以上話しかけないでほしいという思いを全身から発していた。

「少し距離はついているが、まだ諦めないわけか。立派なことだ。その不屈の精神がお主をここまで残らせたのかな。それともその竜の加護によるものなのか。さっきは死兆星の名で呼びかけておったな」

「あの」

「焦る気持ちは分かる。お主のゆく道を邪魔するつもりはない。わしはあくまでも審判員であり、公平な立場を求められておる。しかし迷惑を承知で少しだけ話させてもらうと、お主はかなりツイているかもしれないな。いや、ただツイているというよりもお主が運を味方につけていると言った方が適切かもしれない」

「どういうことですか」

 さすがにそんなことを言われたら、焦っていたクロードとて気になる。

「お主はどこに住んでおるんじゃ? ああ、通行証に記載されておるな。なるほど、やはりここからそう遠くないな」

 老人の言っていることは間違っていない。最深部と呼ばれる祠のある山岳地帯は国の南部に位置し、そこを越えていくと樹海が広がり、さらに行くとクロードの家もある田園地帯に入り、その先に王都がある。ついでにいえば、この辺りをずっと北に行くと、岩盤の広がっていたシーシアがあるが、あの辺りの地形はこの近くの現在は活動していない火山の灰が降り注いで出来たものであるとヒートから教わっていた。

 そこで突然、クロードの握っていた手綱が強く引っ張られるのを感じると、アルコルが興奮した様子で何度も吼える。先ほどから一段と落ち着かない様子を見せていた。

「その竜の故郷なのよ、ここは。だから騒いでおるのだろう」

「あれ。こいつが野生の竜であること、言っていませんでしたよね」

「そんなことは見れば分かる。何せ、そっくりなのよ。何度かその影を見たが、その身体の形といい、翼や尻尾が異様に大きいこともあわせてな」

「そっくりって、もしかして」

 そこでクロードは王子が話していたことを思い出す。

「視察団は突然の遭遇ということもあって返り討ちにあった。だが竜征杯を中止にはしなかった。何故なら竜征杯の本来の目的は国を見て廻りながらその治安を守ることであり、それはかの有名な伝説の竜使い様が他の竜使いたちに授けた唯一の命令だから」

「伝説はやはり本当だったんですね」

「そうだ。お主は頭が柔らかいようだな。この竜を手懐けたことといい、他の者とは違う雰囲気を持っておる。一つ、聞こう。何故お主は竜に乗る?」

 クロードは興奮して暴れそうなアルコルを全力で抑えつけてなだめながらも、じっと自分の顔を窺っている老人の質問の答えを考える。ほんの数秒だが、アルコルの唸り声だけが響いていた。しかしやがてクロードは口を開く。

「それはやっぱり、竜と一緒に空を飛ぶのが好きだから、ですかね」

 クロードは自分でも無意識のうちに笑みを浮かべていた。

「だから、アルコルがここまで自分を乗せて飛んでくれたのが、たとえ帰巣本能のようなものであったとしても、本当に感謝していますし、ここに帰りたいというのであれば、喜んで受け入れようと思います。では、僕はもう行かせてもらいます。こいつが早くしろと急かすので」

 クロードは「よし、行くぞ」とアルコルに声をかけてから飛び乗ると、アルコルはまた一段と大きく吼えて猛然と飛び出す。その後ろ姿に対して、老人は胸に手を当てると目を伏せてそのこうべを垂らすのだった。

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