第19話 波立つ水面

 彼女は森の中に足を踏み入れていく。そこは丁度ここのところクロードが行き来している川への道筋であったが、彼女は自分が乗って来た竜には乗らずに歩いていく。

「この先に川があるでしょ。せっかくなら涼しい場所が良いと思って。空を飛んでいるときはまだ風があるけど、地面に降りると途端に暑く感じるのよね。今日はもしかしたら今年一番の暑さじゃないのかしら」

「そうかもしれませんね」

 そういった世間話をするだけなら厩舎も十分な日陰であり、移動する必要性を感じない。

「そろそろ良いんじゃないですか。一応、僕の仕事はひと段落しているので時間は大丈夫ですが、オーヴィーからはもう十分離れましたし、そもそもこんな農村の畑で通りかかる人はいませんよ」

「そう? でももう向こうに見えているからそこまで行きましょう」

 結局、二人は川岸に出てきた。

「せっかくなら泳いじゃいたいぐらい」

「浅いですよ、その川」

「よく来ているみたいね。最近行き来した足跡がいくつもあったでしょ」

 どうやら彼女は知った上で、わざわざ来たようだ。

「ええ、まあ」

「良い場所よね、ここ。だからあなたも来ているんでしょ。でもそれならせっかく観光に来た私にも教えてくれても良いじゃない」

「中央からの仕事で派遣されてきたという話では?」

「ああ、そうだったわ。グレリン家は中央との繋がりがほとんど無いからね。でも、そのうちバレるでしょうね」

 彼女はあっさりと言ってのける。それが日常茶飯事のことであり、特に悪いことだとも思っていない様子だ。すでに勝負は始まっており、竜征杯当日までにはその大方の決着はついているものなのかもしれない。

「そういう世界なのよ、私たちが挑む場所は。今回、彼らが私たちに協力しないのであれば敵同士になる。正直なところ互いの戦力に差があるから、私たちが彼らを蹴落とす必要はほとんど無いのだけど、だからといって手の内を明かすわけにはいかない。わざわざ私たちがこういうところまで来て必死に野生の竜を探すのも、少しでも良い準備をしておくためよ。何故そこまでするのかといえば、もちろん単純に勝つためなんだけど、自分たちの家の旗を掲げたから。私たちも前回までは王家を守る盾として尽くしていた。だからこそ旧家といわれるような家でも、それなりの待遇を得られていた。でも今回、選挙と被る年にもかかわらず私たちはそこを抜けた。そうなればどうなるか、あなたにも想像がつくでしょ」

「はい。つまりグレリン家と同じ、いえ、それ以上なんですね」

「もちろん竜征杯だけで全てが決まるわけではないし、即座に村八分のような扱いを受けるわけではない。むしろここで良い成績を残せば、他の家からも一目置かれ、王家だって無下には出来なくなる。ただ、散々な結果になれば、立場は無くなり、おそらくは恥をしのんで王家に頭を下げなくてはならなくなる。そしてそうなれば、これまで積み上げてきたものは全部奪われて、代わりに彼らに忠義を尽くした者たちに分け与えられることになる」

 彼女たちの並々ならぬ覚悟は、クロードにも十分に伝わってきた。

「だからこそね、私としても全力を尽くしたいのよ。もし万が一、望まない結果に終わることになったとしても、やりきったと言えるようにはしたい。私のような裏方は竜征杯が始まるまでが勝負だからね。だから、あなたのおじいさんにも是非協力してもらいたい。とっくの昔に現役を退いたとはいっても、名家でも何でもない家の出身で、竜征杯で結果を残すなんて並外れたものがなくてはとても出来ない。事実、今に至るまで中央政府の相談役の方々と関係を築けているのは、それだけ認められている証拠よ。ここに来る前に、何人もの人にちゃんと聞いてきたの。本人が表に出たがらないからその意向を汲んで、あまり話してくれなかったけど、それでも一流の竜使いであることは確かで、実は竜征杯のときも最終日の一時は先頭に躍り出ていたそうね。おそらくは物量的な差でアッシュフォード家やアギルド家に遅れをとったのだろうけど、彼にサポート役がいれば優勝していたかもしれない。まあ、あなたの方がその辺のことは詳しく聞いているだろうから今さら話すことではないけど、まさに伝説的な人なのよ」

 もちろんクロードには全てが初耳であったが、競竜場で見た王家の飛びっぷりに対してたった一人で対抗することを考えれば、その凄まじさは理解できた。

「だからこそ、あなたにもどうにかおじいさんを説き伏せるのを手伝って欲しいの。ええ、それをお願いするためにあなたに会いに来たのよ」

「ここに来られたときから、そういったことを言われるとは思っていました」

 クロードは足元の小石を川の方に軽く蹴り飛ばす。

「そうね。でも、あなたにとっても悪い話ではないはずよ」

「何か見返りがあるということですか」

 クロードは足元から顔をあげて、彼女の方を見る。

「もし協力してくれるのなら、私たちの家の厩舎であなたを雇ってもいいわ。一応決められる権限は私が持っているからね、給料だってそれなりに出させてもらうわよ。配達の仕事をやめて、収入も減っているでしょ。あなたは竜使いでもあるし、竜についての知識だって十分あるだろうから、仕事は適宜覚えていけるでしょう。確かに、竜に関わる職業は竜使いの家の人間が独占していて、あまり前例のないことではあるけど、なんといってもあなたはおじいさんの孫なのだからちゃんとした竜使いの血筋でもある。血筋は大事よ。才覚と教育が高確率で保証されているわけで、むしろあなたの場合はその辺の竜使いなんかよりも受け継いでいるものが余程良い。私もこの目であなたの飛行を見ている。あなたが望んでいるように、今年はともかくその次やそのまた次の竜征杯なら、選手として出場することだって夢ではないわ」

「それは夢です」

 クロードは冷や水をかけるようにばっさりと言い捨てる。ハンナは驚いた様子で彼を見た。

「僕だって、さすがに分かりますよ。裏方と表の仕事が全然違うことぐらい。あなたのような方に言うまでもありませんが、竜使いの役割は竜の面倒を見ることではありません。竜に乗って、相手を打ち負かすことです。それがどういう意味か、僕にもその断片ぐらいは分かってきました。たぶん、僕の性分からして向いていないのでしょう。悪く言いたいわけではないことを分かって頂きたいのです

 が、あなた方のように勝つために手段を選ばず、敵を敵として扱うことは僕には出来ないと思います。相手の竜を怪我させ、場合によっては乗っている竜使いを叩き落とすようなことは出来る気がしません」

「そこまで酷いことをする必要はないのよ。あくまでもレース競技なわけであって、あなたが経験したようなものになるとは限らないわ」

「僕は田舎者ですが、さすがにそれをすんなり信じられるほど物を知らないわけではないです。いえ、もしかしたら少し前まではそうだったかもしれませんが」

 すると彼女は今までとはまた違った様子で、「ふうん」と冷めた声で言った。

「やっぱり変わったわね、あなた。ここに来るまでは、竜使いと言ってもまだ子どもだから、どうにか丸め込めるだろうと思っていたのだけど」

「そういうことは本人の前で言うべきではない気がしますが」

 クロードの言葉に、ハンナは「そうね」と苦笑いを浮かべると、川岸の砂利を踏みながら少しずつクロードの方に近づいてくる。

「あなたはいつもここに来ているの?」

 急に質問が変わるのと共に、彼女の醸す雰囲気がねっとりとした妖しいものに変わった。

「だとしたら何ですか」

「さっき私が川の方まで行くと言ったとき、あなたは止めたわよね」

「それは、森に入らずとも他人に聞かれることなく話が出来るからですよ」

 クロードは痛いところを突かれていた。

「暇そうに見えるかもしれないけど、私たちはこれでもかなり頑張って野生の竜とやら本当にいるかどうかも分からないものを探しているのよ。兄さんなんかは、初めから体よく追い払うための口実だと思っていて、今日にでも捜索を打ち切るつもりみたいだけどね。私たちの家で父さんの次に発言力がある兄さんの言うことだから従わないわけにはいかないのだけど、私は捜索するにつれて、もしかしたら本当に竜がいるのではないかと思うようになったわ。この森のところどころで木がなぎ倒されているでしょ。初めは熊か猪がぶつかったものだと考えたけど、それらの動物の足跡がその近くにない場合がほとんどだったし、それにしても折れている木の本数が多かった。むしろそれらは、まるで大きな道を切り拓くかのようにいくつも連なって倒されていたわ。そうなると自然とそこを無理やり通ろうとして木々を倒しながら突き進んでいった存在がいたと推理出来る。そして足跡が無いのは、それが飛んでいたから」

「そうかもしれませんね」

「あなた、野生の竜を見たことがあるんでしょ」

「何故、そう思うんですか?」

 クロードは返答に困ったが、とりあえずそう聞き返す。

「丁度、ここの対岸の木々も同じように折れているわ。しかも足元の茂みも蹴散らされた痕跡があった。つまりここまで竜が来ていたということに他ならないわ。川で水浴びでもしていたのかしら。本当に居るとしても、まさかこんな森の端にまで来ているとは思わなかったけど、そうなればあなたがここに何度も足を運ぶ理由としては十分でしょ」

 彼女の言う通りであった。しかしクロードは、「散歩をするのに理由なんていりますか」とその追及を免れようとする。

「あなたも言うようになったわね」

 それは心なしか嬉しそうでもあったが、何故嬉しそうなのか、クロードには分からなかった。

「そうね。あなたが野生の竜を見た証拠にはなっていないわ。でも、私だって諦めるつもりはない。出来ることは何でもするつもりだって言ったでしょ。あなたが望むことを叶えてあげるわ」

「そうは言っても、何でも出来るわけではないでしょう」

「例えば、空から叩き落された可哀そうな竜を私たちの贔屓にしている竜医に診てもらう、なんてどうかしら」

 クロードは胸を突かれる思いだった。それは間違いなく彼女のとっておきであった。

「町医者よりもずっと腕は良いと思うわよ。まだ左の翼の付け根が完治していないから、あの竜に乗れないのよね。生まれたときからずっと一緒で、毎日空を飛びまわっていたというのだから、さぞ寂しいでしょう。そして、あなたは他の竜に乗るつもりがなかったからこそ配達員をやめたのよね。でも治れば、また仕事だって出来るし、何よりあの子とまた大空を自由に飛べるのよ。そう、どこまでだってね。それがあなたの一番の望みのはずよ」

 彼女の言う通り、クロードとしてはこれ以上にない望みであった。むしろクロードは野生の竜の居場所を知っているわけでもないので、彼女を失望させてしまうのではないかという懸念さえした。ただ首を縦に振って、野生の竜を見たことを話せば良いだけであり、それをしない理由はなかった。確かにそうしたくない気持ちが、彼女たちがやってきてから、もしくはその前からずっとあった。しかし、オーヴィーが良くなると言うのであれば、そんな自分でも良く分からない感情などあっさりと押し込められる。だからこそ、クロードは口を開こうとした。

 ところがそこで来た道の方から、翼を羽ばたかせる音が聞こえてきたかと思うと、狭い木々の間をすり抜けてくる者があった。以前ほどの滑らかさはなかったが、それでもクルクルとその身体を回転させる様は、美しい踊りのようだった。そうしてクロードのすぐそばまでやってくると、ゆっくりと舞い降りる。厩舎で休んでいるように言ったはずであり、基本的に言うことを聞いてくれるだけに、クロードも驚いていた。しかも以前のようにその背中をクロードに向けて腰を下ろす。

「いや、そういうわけにはいかないだろ」

 身体中にあった傷はおおよそ癒えており、少し白くなって跡が残っている程度であったが、やはり左の翼の付け根だけはまだ紫色のままだ。しかしクロードが乗るまで頑に居座る気であることがその背中から伝わってくる。その様子を目の前で見せられたハンナはため息をついた。

「そんな姿を見せられたら、私はどうすればいいのよ」

 ハンナはオーヴィーに近づいていく。オーヴィーは強い意思と警戒心を顕わにしていたが、それでもハンナは「ごめんね、あなたのことを脅迫の材料にするような真似をして」と言った。

「いえ、そういうことではないみたいですよ」

「えっ?」

 彼女はオーヴィーが自分に問い詰められているクロードのことを助けにやってきたと思ったのだろう。クロードも初めはそのように考えたが、思えば厩舎にいたときから違和感があった。確かにハンナはクロードを説き伏せるためにやってきており、その気概は相当なものであったが、一度会っていて彼女の人となりがある程度は分かっているはずで、そういった相手に強い警戒心を抱くのはやや不自然なことであった。しかしそれを不自然に感じたのは、言ってみればクロードの考えに基づくものであり、逆に言えばクロードの考えさえ変われば、それが自然であると感じられるようになる。クロードはそうやってオーヴィーの考えを汲み取ることが今までも幾度となくあった。

「川から遠ざかった方が良いですよ、ハンナさん」

「えっ、どういうこと」

 彼女はそこまで言ってもまだ分からない様子であったので、クロードはハンナの腕を取ると、川岸を離れようとした。しかしその時、大風が吹き荒れ、対岸の木々が揺れて枝葉が騒々しく鳴り、川の水面までも波立つ。

「まさか」

 ハンナもそこでようやくまだ見ぬ存在が近づいてきていることを察する。オーヴィーはこの場から離れさせるために背中に乗せようとしていたのだ。しかしクロードはそこで立ち止まって、再びこの目で見たいという気持ちもあった。彼女も自分の身の危険よりも好奇心の方がまさったようで、唾を飲み込み、その場で立ち止まって対岸を凝視する。彼女が立ち止まったことで、腕を掴んでいたクロードもそこで止まり、向こう岸を見た。

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