第14話 大きな黒い影

 家に帰りたくはなかった。母親もヘラも、おそらくは自分のことも心配をしてくれているのだろうが、優しい言葉の一つさえかけてほしくなかった。これはあくまでも自分が選んだことの結果であり、たとえグレッグが卑怯だったとしても、全ては自分が甘く考えていたせいだ。竜征杯に出れば、あそこまで露骨ではないかもしれないが、もっと容赦のない圧倒的な力でねじ伏せてくるだろう。それに対してオーヴィーと自分だけで立ち向かえるとは、今のクロードにはさすがに思えなかった。自分やオーヴィーが死ぬ可能性だって十分にあったわけで、今回は本当に運が良かっただけなのだ。ましてオーヴィーは自分を守るために身を挺したからこそ、ああなってしまった。クロードにとって、自分が傷つくよりもよほど堪えるものだった。

 今、オーヴィーは町の医務所に預けてあり、家の厩舎にはいない。それでも竜征杯の開催までまだ半年ほどあるので、レースに間に合わないことはないし、完治してからでも練習はまだまだ積める。しかしクロードは気付いていた。競竜場に行ったとき、オーヴィーは王子たちによる迫力ある飛行よりも綺麗な歌声を持つ美しい合唱隊の方に遥かに目を惹かれており、帰り道もずっとそれを思い出していたからこそ、珍しく気の抜けた様子だったのだろう。グレッグとの競竜も裏山での特訓も良くやってくれていたが、それがオーヴィーの本当に望んでいるものなのかと訊かれたら、クロードは頷けなかった。

 そうでなくても、グレッグとの賭けに負けたときの取り決めとして、クロードは竜征杯に出られず、さらにはオーヴィーに乗ることすら許されない。結局のところ口約束であり、グレッグがいくら言いふらしたところで、それを守るかどうかはクロード次第ではあるが、かといって反故にすれば、自分が約束も守れないような男であることを示すことになる。誰に対して示すことになるのかといえば、他ならぬ自分に対してであろう。このまま竜征杯での優勝を目指すことに意味があるのだろうか。無知で、無謀で、金もかかればオーヴィーを危険に晒し、ヘラたちを心配させ、周りを不幸にするだけではないか。そんな考えがクロードに重くのしかかり、帰路の歩みを遅くしていた。

 クロードの代わりにオーヴィーの様子を見に行ってくれるヘラにも礼を言うべきだったが、どうにも彼女の家には足が進まず、かといって自宅に戻る気にもなれなかったので、近所をふらふらと歩いていた。それなりに酒が入っていたので、酔いを覚ましたくもあった。

 そんな状態だったからか、初めはただの風の騒めきだと思った。しかしそれにしては特に風が吹いている様子もなく、不定期に茂みの方から葉がこすれる音がしていたので、クロードは不思議に思った。丁度そちらは詰所で無理やり飲まされたせいで吐いた場所の先でもあり、既視感を覚える。

 時々聞こえてくる葉のこすれる音は、よく聞き慣れたものに感じ、それをどういったときに聞いたかと言えば、オーヴィーと木々の隙間を縫って飛んでいるときであった。つまり翼が葉っぱにこすれているときのものだ。それが段々とこちらに近づいてきていた。

 当然のことながら、そこにオーヴィーがいるはずはない。クロードが真っ先に考えたのは、グレッグが待ち伏せしていることだ。賭けの内容をクロードに遂行させるために念入りに言い聞かせに来たのだと思った。

 しかし途中でその音が止んだ。クロードを見つけたのであれば、さっさと出てきて傷に塩を塗るように嫌味や皮肉を言えば良いだけに疑問であった。クロードは酔っていたせいもあってあまり深く考えず、待たされるのも嫌だったので、自ら茂みの中に入っていく。

「なあ、アンタじゃないのか」

 クロードが呼びかけるが、返事はない。しかしその代わりに、また林の奥の方で明らかに何かが羽ばたくような音がした。グレッグがそんな悪戯じみたことをするとは思えず、さらに言えば、それは大きな動物のものに思えた。本来であれば、こんな夜中に森の中へ入っていくべきではないのだが、勝手は知っているので迷うことはないだろうと考え、それを追いかけた。

 しばらくその音のした方向に進んでいくと、やがて川のせせらぎが聞こえてくるようになっていた。その川はいつもオーヴィーが身体を洗っている小川にも続いており、かなりその経路は入り組んでいるが、山の上の源泉から流れてきているものだ。

 そして今、クロードにはそこに居る者の気配をひしひしと感じていた。水浴びでもしているのだろうかと考えながら、木の陰から覗く。すると、そこには腰近くまで川に入ったふさふさの毛をした熊がいた。

 聞こえていた音が羽音だと思っていただけに、予想外の遭遇であった。冬眠から目覚める季節ではあるが、人里近くまで降りてくることはほとんど無い。わざわざ来なくても暮らしていけるからだ。もしかしたら魚でも獲ろうとしているのだろうかなどと考えつつも、内心ではかなり焦っていた。

 熊が川の水面に向かってその腕を振り下ろすと、水しぶきと共に爪に魚を突き刺してそのまますくいあげる。優れた狩猟能力から野生味を感じさせられる。案外、クロードたちの生活でそのような光景を間近で見ることは少ない。牛や馬、竜などの生き物は家畜として人間が餌を与えるし、森や山の中には野生の猪や鹿などといった動物たちがいるが、それらが人前に現れることはさほど多くない。

 どうやら魚たちが集まっていたようで、その熊はまたさらに獲ろうと腕を川に突っ込んだ。クロードは水しぶきの音に紛れて、その場を離れようとする。

 しかし突然川にいた熊が身体を起こす。クロードは音を立てたつもりはなかったが、気配を察知されたのだろうかと思い、恐る恐る後ずさりする。そこで熊が腕をあげて吼えた。それは間違いなく威嚇であった。しかしそれはクロードのいる方とは真逆の方角へ、川の対岸に向かってのものだった。

 クロードも同様に対岸を向くと、木々が揺らされ、そのうちのいくつかがなぎ倒されるのが見えた。そうしてのっそりと現れた黒い影は、紛れもなく竜であった。

 しかもその竜は、これまでクロードが見てきた竜たちとは明らかに異なった特徴がいくつもあった。翼は不格好なほど横に出っ張っており、木々にぶつかっていた。また胴体も全体的にずんぐりしていてお腹も大きく、背中はごつごつした岩のようで人が乗るのには適さない。そして足は異様なほどに太くも短く、ほんの少し曲げるだけで膝が地面についてしまいそうだった。しかしその中でも何よりも目をひいたのは、その身体の至るところにある無数の傷跡であった。腹の右側部から翼にかけては黒ずんですすけたような跡も見られた。

 その竜と川にいた熊が真っ向から対峙する。熊は両腕をあげて自分の身体を最大限に大きく見せて威嚇している。竜の方は熊と違って明確な敵意を見せておらず、どちらかといえば居合わせてしまっただけのようにも見えた。

 しかし次の瞬間、その翼を横に広げた。それまでそれほど大きく見えなかった翼は、そのずんぐりした胴体の十倍近くはあろうと思われ、まるで巨大な闇が広がったようであった。クロードはその異様な姿に圧倒され、身震いする。それまで威嚇していた熊もその身体をびくりと震わせたが、その竜はさらに太い足で地面を踏みしめるとそのまま飛びかかり、その翼で熊を真横になぎ倒す。クロードの倍ほどの背丈はある熊はまるで大砲の玉のように勢いよく吹っ飛んで川に突っ込み、巨大な水しぶきをあげる。熊は怯えながら起き上がると森の中に逃げ込んでいった。残ったその竜は翼を折りたたむと、川岸でぴちぴちと跳ねていた数匹の魚をまとめて握りつぶすように掴み取り、口の中に乱雑に放り込んだ。

 クロードはその様子を、恐れと好奇心が入り混じった目で見ていた。野生の竜を見たのは、初めてだった。もっと深い渓谷や山の中での目撃情報は昔聞いたことがあったが、こんな人里近くに現れたことは今までなかったはずだ。先ほどの熊も元々の狩猟場からあの竜に追いやられてここまで来ていたのかもしれない。

 そこで以前、林の中で翼を羽ばたかせる音が聞こえた際に、オーヴィーがひどく警戒していたことを思い出す。その異様な姿もそうだが、何より野性的な雰囲気が、クロードに危険を訴えている。さらにそこで見ているうちに気が付いたのは、その竜の左足に白い布切れが巻かれていることであった。汚れているのは地面を歩いていたりしていたからであろうが、それは人間が看護した痕跡に他ならない。そうなると誰かが飼っていて、そこから逃げ出しでもしたのだろうか。しかしそれにしては、まるで人間に飼われている姿を想像出来ず、そもそも飼い慣らせる人がいるのかも疑問だ。人間が竜を飼える理由として、昔から人懐っこい種類のものから選りすぐりのものを交配させてきたこともあるが、何より生まれたばかりの子竜の頃から人間に慣れさせ、しつけ、言うことを聞かせるように調教しているからこそ可能なのだ。今でも気性の荒い竜は、人間に懐かず危害を加えるようであれば、処分されてしまうことだってある。ともかく、その竜が熊から奪い取った魚を食べている間に逃げるべきであり、実際そうしようとクロードはさらに後ずさりする。

 しかしそこでその竜はギロリとその赤い目をまっすぐにクロードに向けた。クロードは驚きと共に、おそらく初めからそこにクロードがいることに気付いていたのだと理解した。手に持っていた最後の魚を骨ごとかみ砕いて飲み込むと、バシャバシャと音を立てながらクロードのいる方に近づいていく。先ほどの熊を張り倒す力とその気性を目の当たりにしており、すぐにでも後ろを向いて逃げ出すべきであったことは分かっていたが、クロードは駆け出すこともなく、その竜を見つめ返していた。竜は川を渡り切って川岸に上がると、水の滴るその身体に存分に月明りが照らされる。クロードは自身の心音が聞こえるほどだったが、それでも真正面から竜のことを捉えていた。しばらく睨みあうようにしていたが、やがてその竜は砂利を足で蹴飛ばしたかと思うと、翼を再び広げてまるで暴風のような風を巻き起こしながら、空に飛び立った。クロードは飛んでくる小石が目に入らないように手をかざしながらも、その竜が飛び去っていくのを黙って見送っていた。

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