第19話 再会

 春の気配に包まれた穏やかな昼下がり、ルチアたち一行はアルメリアに到着した。

「ここ…見覚えがある…」

 馬車が広場の中心で小さな虹をいくつも生み出している噴水の脇を通りかかり、ルチアが呟く。

 ルチアとアルベルトがここアルメリアを訪れたのは、五歳の頃のこと。

 およそ一月滞在し、その間二人は街中や海辺など、様々な場所を訪れた。

 十年以上の年月が流れても、街並みは其処彼処に懐かしい面影を残していた。


「ベニーニ侯爵には、昨夜のうちに梟を飛ばして連絡してある。別邸を管理している使用人の夫妻に話を通してくれているらしいから、そちらに滞在させてもらえるそうだ。ベニーニ侯爵夫妻も、明日にはこちらに向かうと言っていた」

 馬車の窓から感慨深そうに街並みを眺めていたルチアに、カルロが言った。今日はフリオが、ミナトやジュリアーノとともにもう一台の馬車に乗っている。


 馬車は市街地を抜け、海を臨む小高い丘を目指して坂道を上り始めた。

 海岸に近づくにつれ、微かだった波の音が大きくなっていく。その音が、記憶の奥に眠っていた幼い頃の思い出を呼び覚まし、段々と鮮明にしていった。


 五歳のアルベルトと一緒に、何度も馬車でこの坂を上った。たくさん話をしながら、笑い合いながら、時には遊び疲れてうたた寝をしながら。

 ルチアは窓の外に広がる思い出の景色から、隣で眠るアルベルトに視線を移す。

「アル、早く一緒にこの景色を見たいな…」

 瞼を閉じたままのアルベルトに、そっと語りかけた。


 丘の上に建つ、白い瀟洒な邸宅の前で、馬車は停まった。

 馬車を降りた途端、潮の香りが鼻をくすぐる。日差しは麗らかだが、海から吹き上げてくる風はまだ少し冷たい。ルチアは馬車の中で横たわるアルベルトを振り返り、毛布の上から自分が羽織っていたストールを掛けた。


「遠いところを、ようこそおいでくださいました」

 邸内からベニーニ侯爵家の使用人夫妻が出てきて、一行を出迎えた。

 初めてこの邸を訪れた際にもそうやって彼らに出迎えられたのを思い出し、懐かしさが込み上げる。

「ご無沙汰しています。ファール伯爵家のルチアです。この度はお世話になります」


 夫妻はルチアを見て感慨深そうに微笑んだ。

「ルチア様…あの頃も天使のようにお可愛らしくいらっしゃいましたが、大層お美しくなられて…。またお会いできて光栄です」

 邸や夫妻を目にして、記憶は益々呼び覚まされる。

『確か、邸の裏手にはよく手入れされた庭園があって、たくさんの花を咲かせていたはず…。毎日のようにアルとガゼボでお茶をいただいたっけ…』

 ちりばめられた記憶の欠片を拾い集めるように、ルチアは辺りを見回した。このきらきらと輝く思い出たちを、早くアルベルトと分かち合いたかった。


「こちらは兄のカルロと、魔法学研究所の研究員、ジュリアーノさんです。それと、アルの親友でアドルニ侯爵家のフリオ。到着して早々で申し訳ないのですが、ベニーニ侯爵から事情はお聞き及びですよね?ジュリアーノさんに、お邸をご案内いただきたいのですが、お願いできますか?」

 ルチアに紹介され、ジュリアーノが一歩前に進み出た。使用人夫妻は頭を下げて応じる。

「もちろんにございます。どうぞこちらへ」


 ジュリアーノとカルロ、フリオが夫妻について歩き出そうとして、馬車の脇に立ったままのルチアを振り返った。

「ルチアは行かないのか?」

 カルロの問いに、ルチアは頷く。

「私はアルと一緒に待ってる。もしもお邸にアルがいなかったら、確かめに行きたい場所があるの。だから、アルはまだ馬車に乗っていてもらった方がいいし、ここでアルの様子を見てる」

「わかった。じゃあ、邸内を確認させてもらってくる」

 ジュリアーノが何も言わないということは、玄関付近にはアルベルトの気配がないということだ。カルロはルチアの意を汲み、ジュリアーノ、フリオとともに邸内に向かった。


 アルベルトの容体を確認した医師も、今夜アルベルトが使う予定の部屋を確認するため、使用人に案内され邸内へと消えた。

 玄関口にはアルベルトとルチア、そしてミナトが残される。

 ミナトは物珍しそうに辺りを見回していたが、馬車で眠るアルベルトを慈しむように見つめるルチアにふと視線を留めた。

 その美しい横顔に吸い込まれるかのようにルチアを見つめていたミナトだったが、やがて意を決したように口を開いた。

「――俺、お前に謝らないといけないって思ってたんだ」


 ミナトの急な申し出に、ルチアはきょとんと目を丸くした。先程までの慈愛に溢れた女神のような美しさが、途端に年相応の可憐さに変わる。

 ミナトはそんなルチアと目が合うなり、思わず、といったように目を逸らした。耳が仄かに赤い。何かを誤魔化すように、早口で話し出した。


「これまで、俺はお前にたくさん酷いことを言った。突然知らない世界で生きなきゃいけなくなった苛立ちとか、女への不信感とか、とにかくいろんな行き場のない気持ちをお前にぶつけて、本当に悪かったと思ってる。お前のアルベルトに対する気持ちも疑ってかかって、わざと傷つけるようなことも言った。婚約者だなんていったって、どうせそばにいられなくなれば、簡単に気持ちなんて変わるんだろうと思ってたんだ。まして、こんな風に魂が行方不明になってるような相手、すぐ見捨てるんだろうなって」


 驚いた様子で話を聞いているルチアをちらりと見つめ、ミナトはまた気まずそうに視線を逸らした。

「でも、お前は違った。ずっと一生懸命で、常にアルベルトのことを考えて前を向いてた。辛かっただろうし、寂しかっただろうに、逃げずにさ。それなのに、俺の命が危なくなった時には、真っ先に俺を助けようとしてくれたことも、本当に感謝してる」

「ミナト…」

「お前を見てて、もう一度人を信じてみたいと思えるようになった。アルベルトは幸せだな。お前みたいな奴に愛されてて。だからきっと、アルベルトは帰ってくるよ。お前を絶対に一人にはしないはずだ」

 ミナトはルチアを見つめてそっと微笑んだ。普段は仏頂面ばかりで笑った顔などほとんど見せないミナトが見せた笑顔に、ルチアは驚きながらもつられて微笑む。


「ありがと、ミナト。私も、アルは絶対に帰ってくるって信じてる。アルが起きたら、きっとミナトともいい友達になれると思うよ」

「どうだかな。俺のルチアを傷つけやがってって、怒られんじゃないか?」

「ふふ、じゃあ、ミナトの私への暴言の数々は内緒にしとかないとね」

「ああ、是非そうしてもらいたいね。魔法で報復されたら太刀打ちできなそうだ」

 わだかまっていた気持ちを吐き出せたことで心が軽くなったのか、ミナトがすっきりとした顔で笑った。


 ひとしきり一緒に笑い合うと、ミナトがふと真顔になった。じっとルチアの瞳を見つめて、ぽつりと零す。

「俺も、もっと早くお前に会えたらよかった」

 言葉の真意を測りかね、ルチアは首を傾げた。その顔を見て、ミナトが目を細める。

「いい女だよ、お前」

 訳がわからないという表情のままのルチアの頭を、ミナトの大きな手が撫でた。最初は優しく、段々と溢れる気持ちを誤魔化すかのように、くしゃくしゃと。

「ちょっとミナト…」

 ルチアが膨れっ面で乱れた髪を直していると、邸からカルロとジュリアーノ、フリオが出てくるのが見えて、ミナトがぱっとルチアの頭から手を離した。


 戻ってきたジュリアーノたちの表情で、ルチアもミナトも結果を悟る。

「アル、ここにはいなかったんだね。――大丈夫だよ。何となく、ここじゃないかもしれないって思ってたから。あのね、このまま、さっき言ってた場所に行きたいんだけど、いいかな?」

 どう伝えようか考えあぐねていたのだろう。眉間に皺を寄せて深刻な表情をしていたジュリアーノが、拍子抜けしたような顔でルチアを見た。カルロも強張っていた表情を和らげる。

「もちろんだ。すぐに向かおう」


 先程のミナトとの様子が見えていたのか、カルロはルチアの乱れた髪を直すように頭を撫でると、ちらりとミナトに視線を送る。

 ミナトは悪い、とでも言いたげな表情で片手を挙げ、小さく溜息をつくと、ルチアに背を向けて四人乗りの馬車に乗り込んだ。それを見ていたフリオが、僕が行くよ、とカルロに頷き、ミナトの後を追った。


 使用人夫妻の息子に案内され、ルチアたちの馬車は目的地に向かった。

 ルチアが目指すのは、以前アルベルトとともに月待ち草を見た海岸近くの丘。

 ロイヤルブルームーンの夜、月待ち草が次々と蕾を綻ばせ、清廉な香りを振り撒きながら花を咲かせる様子に目を奪われた場所だった。二人手を繋ぎ、時間も忘れてその光景に見入っていたのを覚えている。


 馬車がその場所に近づくにつれ、鼓動が高まっていく。

『もしもあの場所にアルがいなかったら…。ううん、きっといる。きっとあそこで、私を待ってる』

 期待と恐怖が代わる代わるやってきては心を揺らす。いつしかルチアは、ぎゅっと目を閉じて、祈るように両手を組み、額に当てていた。


「到着いたしましたよ。どうぞ」

 馬車の扉が開けられ、明るい光とともに波音が広がる。ルチアは恐る恐る、馬車を降りた。

 先行していた馬車から降り立ったジュリアーノが、ルチアを振り返る。

「ルチア、早く!あそこに!」

 ジュリアーノの指が示す先、青々とした月待ち草の群れの中に、小さな光が見えた気がした。


「――アル?」

 ルチアはその輝きに向かい、引き寄せられるように足を踏み出す。

「ルチア、何か見えているのか?」

 カルロの驚いたような声が追いかけてきたが、ルチアは振り返ることなく光を目指して一心に走り出した。


「アルだよね?そうでしょ?」

 光に駆け寄り、両手で包み込むように、繊細なカットを施された宝石のような形の光に触れる。焦がれ続けたアルベルトの温かさがじんわりと伝わってきて、ルチアの目から涙が溢れ出した。

 壊れやすいガラス細工を扱うようにそっと光を抱くと、ふわりとあの、大好きだったアルベルトの清涼な薬草の香りが漂った。

『ああ、アルだ。やっと…やっと会えた…』

 胸がいっぱいで、言葉にならない。光を胸に抱き、涙で濡れた頬をそっと寄せた。


 どれだけそうしていただろうか。

 波音と風が月待ち草を撫でていく音だけが二人を包み込んでいたが、不意にルチアの背後で馬がわなないた。

 ルチアは、はっとして顔を上げる。


「帰ろう。一緒に」

 ルチアの言葉に呼応するように、光がまたたいた。光を抱えてゆっくり振り返り、馬車で眠るアルベルトの身体を目指す。

「魂に…触れてる…。信じられない。こんな光景、初めて見た…」

 ジュリアーノが呆気にとられたように、ルチアとその腕に抱かれた光を見つめている。

「そこにアルベルトがいるのか?」

 カルロとフリオ、そしてミナトも、ルチアの腕の中に目を凝らしていた。どうやら、光が見えているのはルチアとジュリアーノだけのようだ。


 ルチアが開け放たれたままの馬車の扉の前に立った瞬間、光はすうっと吸い込まれるように中に横たわるアルベルトの身体へと消えた。

「ルチア、薬を!このまま戻った魂が定着するように!」

 我に返ったジュリアーノが後ろから叫び、カルロがすかさず荷物の中から薬を取り出して、馬車に乗り込み魔法で炙り始める。

「アル、戻ってきて!」

 ルチアも夢中で風魔法を操った。


 魔法薬がすべてアルベルトの身体に吸収された。

 全員が固唾をのんでアルベルトの様子を見守っていると、ジュリアーノが興奮を抑えきれないような声で呟いた。

「――アルベルトが、戻ってくるよ」

 その言葉を証明するように、アルベルトの指先がぴくり、と動く。ルチアはすかさずその手を取り、アルベルトに呼びかけた。

「アル、目を開けて。みんな待ってるよ」

 ルチアが握りしめていたアルベルトの手が、ぎゅっとルチアの手を握り返した。ルチアははっとしてアルベルトの顔を覗き込む。


 僅かに瞼が震え、ゆっくりとアルベルトの目が開かれた。翡翠色の瞳が辺りを見回すように動き、泣きながら自分の顔を覗き込んでいるルチアの顔を捉えると、様々な感情が綯い交ぜになった、泣きそうな笑みを浮かべる。

「ルチア…ただいま。たくさん待たせて、ごめん」

 ルチアは涙を流しながら、何度も何度も頷いた。



 この瞬間をどれだけ待ち望んだことだろう。会いたくて会いたくて、でも会えなくて、息ができなくなるほど苦しかった日々。どんなに焦がれても夢の中でしか会えなかったアルベルトが、帰ってきた。

 思いが溢れすぎて、何から伝えたらいいのかわからない。


 ルチアが強く握りしめていたアルベルトの手にぐっと力が込められ、俯いてただただ涙を流しているルチアを引き寄せた。ルチアは引き寄せられるままに、アルベルトの胸に顔を埋める。

「…ふっ…うぅ…」

 ぎゅっと縋りつき、堪えきれず嗚咽を漏らすルチアの手を握りしめたまま、アルベルトはもう一方の手でルチアの身体を強く抱きしめた。

 ルチアの柔らかな髪に顔を埋めたアルベルトの目尻から、温かい涙が流れ落ちる。

 深い安堵と喜び、そして抱えきれないほどの愛しさが満ちていた。


 二人が再会を噛みしめる姿を見つめていたカルロが、鼻をすすりぐいっと目元を拭う。フリオにジュリアーノ、ミナトも、瞳を細めてその光景を見守っていた。

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