第18話 繋がる希望

 東の空が白み始める頃、二台の馬車がファール領へと向かい走り出した。

 一台はアドルニ侯爵家の紋章を掲げた大型のコーチ、もう一台はファール伯爵家の紋章を掲げた四人乗りコーチだ。


 生まれたばかりの太陽が、新しい一日の始まりを告げるように馬車を照らす。

 刻々と移り変わる窓の外の景色から、自身の傍らに視線を落としたルチアは、視線の先に横たわる婚約者の顔をじっと見つめた。

 鳶色の天鵞絨が貼られた座席の間には、よくクッションの効いた板が渡され、簡易的なベッドが作られている。毛布も枕も運び込まれ、病院のベッドとさほど変わらない環境が創り出されていた。


 白いシーツに包まれて横たわるアルベルトの横顔は青白く、なめらかな肌も相まってより陶器のように冷たく映る。

 まるで作り物のように整った、完璧な美しさ。その隙がないほど玲瓏な様子に、呼吸をしているか心配になったルチアは、思わずその頬に手を伸ばした。指先に仄かな温かさを感じ取り、心の底からほっとする。


「早くアルベルトに会いたいね」

 向かいに座り、黙ってその様子を眺めていたフリオが、静かに言った。ルチアはアルベルトを見つめたまま頷く。

「うん。今度こそきっと、会えるよね」

「ああ、きっとルチアを待ってるよ」


 アドルニ侯爵家の大型のコーチには、アルベルトと医師のほか、ルチアとフリオが乗った。ファール伯爵家のコーチには、カルロとジュリアーノ、そしてミナトが乗っている。

「俺はアルベルトとは直接会ったことはないが、ずっと身体を借りていた手前、他人とは思えないんだ。俺が聞いた声が本当にアルベルトの声だったのかも確かめたいしな。――だから別に、礼を言われるようなことじゃない」

 同行を申し出たミナトにルチアが感謝を述べると、ミナトは顔を背けてそう言った。黒髪の間から覗く耳が、少しだけ赤かった。


 日の出を待たずに出発した馬車は、日が傾く前にはファール領に到着する予定だ。


「アルの容体は、変わりありませんか?」

 アルベルトの腕を取り、脈を診ていた医師にルチアが問いかける。

「そうですね、今のところ、移動による大きな変化はありません。ただやはり…穏やかではありますが、生体機能の低下はみられます」

 馬車の揺れを軽減する魔法をフリオが施しているため、移動中とはいえアルベルトの身体への揺れによる負担は少ないはずだ。

「そうですか…」

 ルチアは医師が脈を診ていた腕とは反対側のアルベルトの手を取り、そっとその甲を撫でた。

 何度となくルチアを慈しんでくれた大きな手。今はその手がルチアの手を握り返すことはなくても、必ずまた愛情深く自分の頬を撫でてくれると信じている。

「アル、今行くよ。待っててね」

 ルチアはアルベルトの手をぎゅっと握りしめた。



「ルチア、カルロ、よく戻った」

 ファール伯爵邸に着くなり、ファール伯爵夫妻が一行の到着を待ちわびたようにエントランスから出てきて出迎えた。

「お父様、お母様、ただいま戻りました」

「ルチア…随分痩せてしまって…」

 伯爵夫人が目を潤ませ、娘に駆け寄り抱きしめた。久しぶりの母の温もりに、ルチアはじっと涙を堪えるようにして唇を噛み、ぎゅっと母の背に手を回した。


「アルベルトの容体は?問題ないか?」

 フリオたちからの挨拶が終わるなり、ファール伯爵はまだ馬車の中に横たわったままのアルベルトを心配気に覗き込む。

「はい。問題ございません」

 アルベルトの身体を確認していた医師の答えを聞くと、自身の後ろに控えていた従者たちに目配せをして、慎重にアルベルトを運び出させた。


 数人でアルベルトを客間のベッドに移動させると、再び医師が容体を確認する。異常なしとの診断を受け、一同はほっと胸を撫で下ろした。

「ルチア、アルベルトから目を離すのは不安だろうから、この部屋にお茶を入れさせよう。みなさんもどうぞ、こちらに掛けてください。長旅でお疲れでしょう」


 ソファを勧められ、銘銘腰を下ろす。

「ありがとう、お父様。お母様も」

 両親の気遣いに、少し申し訳なさそうに感謝を述べたルチアに、ファール伯爵夫妻は首を振る。

「何を気にすることがある。最愛の娘が大切に思う相手に手を尽くすのは当然だろう。ルチアの望みは、私たちの望みだ。それにアルベルトは私たちにとっても、息子のようなものなんだから」

 そう言ってファール伯爵が微笑むと、ルチアの瞳がみるみるうちに潤んでいった。生家の温かさに、張り詰めていたものがふっと途切れてしまったようだ。

 声を殺して涙を流す娘の手を、ファール伯爵が何も言わずに両手で包み込んだ。


「早速だが、どうだ、ジュリアーノ。アルベルトの気配はあるか?」

 お茶を飲んで一息吐くと、意を決したようにカルロがジュリアーノに問いかけた。

 ジュリアーノは立ち上がって部屋を一周すると、言いにくそうに切り出す。

「うん…。ここに着いてからずっと気配を探ってたんだけど、ここにはいない…と思う。あ、でもまだ邸内を全部見せてもらったわけじゃないから、絶対いないとは言い切れないけどね」


 沈黙が部屋に立ちこめる。その場にいた誰もが、本当は薄々気づいていた。もしもこの邸にアルベルトの魂がいたのなら、着いてすぐにジュリアーノがそう言ったはずだからだ。

 誰もが気づきながら、怖くて確かめられなかった。アルベルトの魂が見えないことを悟っていたジュリアーノですら、自分から切り出すことができなかったのだ。


 ミナトが聞いた”ルチアを迎えに行かなきゃ”という言葉に期待していただけに、皆の落胆は大きかった。アルベルトらしき者の声を聞いたミナトも、申し訳なさそうに俯いている。

 重苦しい空気の中、ルチアが席を立ち、ベッドに横たわっているアルベルトの横にしゃがみ込んだ。そのまま黙ってアルベルトの手を取る。

『アル…どこにいるの?私を迎えに来ようとしてくれてたんだよね?』

 心の中で問いかけるが、アルベルトは動かない。


「まだファール領にアルベルトの魂がいる可能性は消えてないよ。明日は、ルチアが教えてくれたアルベルトとの思い出の場所を巡ろう」

 フリオがルチアの隣にやってくると、労るように肩に手を置いた。

「アルベルトは、絶対にルチアとの約束を破ったことはなかったよね?大丈夫、アルベルトがルチアを置いていくはずがないよ」

 フリオの言葉に、ルチアはぐっと涙を堪えながら何度も頷く。

『可能性があるうちは、泣いちゃ駄目だ』

 自分に言い聞かせて顔を上げる。

「フリオ、ありがとう。そうだね、私もアルを信じてる。アルとの思い出の場所を探さないと」

 ルチアの言葉に、その場の皆が頷いた。


 就寝前、ルチアは再びアルベルトが眠る客間を訪れた。

 ベッドの横の椅子に腰掛け、さらさらのブロンドに手を伸ばす。

『前髪、少し伸びたな…』

 ミナトがアルベルトの身体にいた頃は、面倒がるミナトを定期的に散髪に連れ出していたが、ミナトが自身の身体に帰ってからは、髪が伸びたままになっていた。

『これ以上伸びる前に、アルを見つけたいな』

 瞼にかかっている前髪をそっと整えると、髪と同じブロンドの長い睫毛がのぞいた。

『こうして見ると、アルって本当に綺麗な顔だなぁ』

 ベッド脇に両肘を乗せて腕を組み、アルベルトの顔を見つめる。


「ねぇ、アル。アルがくれた薔薇、まだ綺麗に咲いてるよ。あの薔薇には、私の独り言たくさん聞いてもらったよ。だけどそろそろ…独り言じゃなくて、ちゃんと会話がしたいな。アルに話したいこと、本当にたくさんたくさんあるよ。とても一日や二日じゃ、話し足りないくらい」

 瞼を閉じたままのアルベルトに向かって語りかける。

 17歳の誕生日にアルベルトから贈られた薔薇は、きっと今のルチアの気持ちを、抱えている思いを、誰よりも知っているだろう。

「早く帰ってきてくれないと、アルよりも薔薇の方が私に詳しくなっちゃうよ」

 つん、とアルベルトの頬をつつく。

『こら、いたずらするな、って目を開けたらいいのに』

 段々とアルベルトの顔が滲んできて、ルチアはベッドに顔を伏せた。


 夜の間は、医師が隣の客間に待機し、何度か様子を見に来てくれることになっている。明日も領内の様々な場所にアルベルトを連れて行かなければならないが、弱ってきているアルベルトの身体は耐えられるだろうか。

 不安な気持ちに支配されないように、ぐっと顔を上げて目尻を拭うと、もう一度アルベルトの顔を眺める。

「アル、必ず見つけるから、もう少しだけ頑張ってね。――おやすみ」

 そっと額にキスを落として、ルチアは静かに部屋を出た。



 翌日は朝から、アルベルトと訪れたことがある場所を巡っていった。

 邸内を再度確認するところから始まり、敷地内の庭園、何度も一緒に行った丘、そして小川…。

 確認すべき場所が少なくなっていくにつれ、一行の口数が減っていく。思い当たる最後の場所、ファール商会の確認が終わる頃には、誰も口を開く者はいなくなっていた。


 馬車の中で眠るアルベルトを見つめながら、途方に暮れたように立ち尽くすルチアの肩に、カルロがそっと手を置いた。

「ルチア、今日はもう日が暮れる。邸に帰って、これからのことを話し合おう。アルベルトも、早くベッドで寝かせてやった方がいいだろう」

 カルロの言葉に、ルチアは力なく頷いた。


 自室に戻ったルチアは、倒れ込むようにベッドに横になる。

 先程まで客間でアルベルトを囲み今後のことを話し合っていたが、ファール領内で思い当たる場所は他にないことから、話し合いは行き詰まってしまった。

『ファール領にいないなら、アルは一体どこにいるんだろう…』

 希望が打ち砕かれ、疲弊した心に身体の疲労が重くのしかかる。

 ルチアは横たわったまま、重い身体を本棚の方に向けた。ぼんやりと並んだ背表紙を見つめていると、不意に空色の背表紙に目が留まる。

 それは、ルチアが幼い頃につけていた日記帳だった。


『もしかして、忘れていたアルとの思い出が綴られていないかな』

 藁にもすがるような気持ちで、重りを下げられたかのような身体を引きずるようにして身を起こし、本棚から日記帳を引き抜く。

 ページを開いた瞬間、ひらりと何かが舞い落ちた。

 拾おうとして屈んだルチアの目に飛び込んできたのは、白い可憐な花を押し花にしたブックマーク。

『あ…月待ち草。――アルメリア…!』


 それは、幼少の頃アルベルトと初めて会った地で摘んだ月待ち草を、アルベルトと一緒に押し花にしたものだった。

 ルチアはブックマークを手に立ち上がり、急ぎ階下に向かう。

「アルメリア!アルはアルメリアにいるかもしれない!」

 リビングルームに駆け込むと、お茶を飲んでいたカルロとフリオが驚いたように振り向いた。

「アルメリア?」

 交代でアルベルトに付き添っていたジュリアーノと医師も、ルチアの声を聞いて客間から顔を出す。


「アルが事故に遭う前に、私と約束してたでしょ?夏期休暇は一緒にアルメリアに行くって。アルが私を迎えに行かなきゃって言ってたのは、私をアルメリアに連れて行くためだったと思うの。だから、アルはアルメリアにいるかもしれない」

 ルチアは月待ち草のブックマークをきゅっと握りしめ、必死に訴えた。


 リビングルームの入り口までやってきてルチアの話を聞いていたジュリアーノが、そうだね、と頷く。

「事故の瞬間、アルベルトがルチアとの約束を強く思い描いたとすれば、アルメリアにいる可能性も大いに考えられる」

「学期末のあの日、休暇には一緒にアルメリアに行くって笑ってた幸せそうな二人の様子、忘れられないよ」

 フリオもその光景を思い返すように目を細めた。

「行こう、アルメリアに。ルチアがそう思うなら、きっとアルベルトはそこにいる。どのみち、ここにはもう、アルベルトがいそうな場所はないんだ。アルベルトに残された時間を考えたら、すぐにでも探しに行くべきだ」

 皆の意見を代弁するかのような力強いカルロの言葉に、ルチアが瞳を潤ませる。

「みんな…ありがとう」


「お礼はアルベルトが見つかってからだよ。明日早速、アルメリアに向かおう」

 フリオが優しく微笑む。

「そうですね、少しでも早いほうがよろしいと思います。移動による影響はあまりみられませんが、身体機能の衰えが気になります」

 先程までアルベルトを診察していた医師も同意した。


「そうと決まれば、父上たちに話をしてくる。ここからアルメリアまでは、約半日といったところだろう。皆今日は早く休んで、明日に備えよう」

 カルロがそう言って、部屋を出て行った。

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