第15話 香りが呼び覚ました記憶
「ミナトが魂と身体の分離を感じているのは、アルの身体に作用していた薬の効き目が切れてきたからだと思うの」
入れ直したお茶を配り終え、テーブルに着いたルチアが言った。
「そうだね。僕もそう思う」
ルチアの意見にジュリアーノも同意すると、アルベルトの身体の中を見透かすように、じっと目を凝らす。
「さっきからミナトを見ていたけど、以前のように魂がアルベルトの身体と強く結びついているような感じがしないんだ。糸が切れた風船みたいに、身体の中をふわふわしているように見える」
ジュリアーノの同意を受けて、ルチアは続ける。
「アルの身体とミナトの魂の結びつきが弱まっているなら、今度はミナトの身体に薬を使えば、ミナトの魂は身体に帰れるんじゃないかな」
「やってみる価値はあるな」
「うん。できるだけ早く、試してみるべきだと思う」
ルチアの提案に、カルロとフリオが頷いた。
「今、いくつかアルが作っていた薬に近いと考えられる薬を調合しているの。成分分析の結果から、あの時残されていた薬草の成分もわかったし、お兄様が薬草問屋さんに聞いてきてくれたおかげで、アルが実験前に購入していた薬草がわかったから。そこからそれぞれの薬草の効能を考慮して、アルが使った薬草にあたりはついたんだけど、何をどのくらいずつ使ったかまではわからなくて。調合の時に注ぐ魔力も私とアルとでは違うから、そこは実験しながら調整するしかないと思ってる。問題は、どうやって実験をするかなんだけど…」
「それなら、俺の身体で実験してくれないか?」
ルチアたちの話を聞いていたミナトが言った。先程の涙のせいか、アルベルトの陶器のように白い肌の目元が仄かに赤い。
「使ってるのは薬草だし、身体に有害なものは含まれてないんだろ?それなら、俺の身体を使って実験しながら、薬を完成させればいい。うまくいけば、そのまま俺は身体に戻れるし」
「それは…。確かに、全部薬として使われているものばかりだから、それぞれの成分に害はないけど、合わせてひとつの薬にした時に、どうなるかはわからない。ミナトの身体は魔力もなくて私たちとは少し違うし、摂取量や摂取頻度によっては、何か副作用が起こらないとは言い切れない…」
考え込むルチアに、ジュリアーノが提案する。
「最初は考え得る最小限の量からはじめて、投与は一日一回。投与時には必ず病院の医師にも立ち会ってもらうならどう?ミナトの容体を考えると、ゆっくりはしていられないし、他の被検体を見つける手間と時間を考えたら、ミナトの身体で調整させてもらうのが一番手っ取り早いと思う」
『確かに、これから動物実験をして、その後、植物状態にある患者さんの家族に治験の依頼をして、承諾をもらって…なんて手順を踏んでいたら、きっとミナトの身体はもたない…。でも、だからといって、もしも薬がミナトの身体に合わなくて、拒絶反応を起こしてしまったら?命の危険に晒してしまう可能性も…』
決断しかねているルチアに、ミナトがきっぱりと言い切った。
「頼む、ルチア。俺は少しでも助かる可能性が高い方に賭けたい」
ミナトの決意が揺るがないのを悟り、ルチアもきゅっと唇を引き結ぶ。覚悟を決めなければ。
「わかった。それじゃあ、ミナトの身体で薬を試させてもらうね。事前に薬草の成分を皮膚に少量つけてみて、拒絶反応が出ないか試してから実験に入ろう。それから、容体の変化に対応できるように、いろんな事態を想定して準備する。そのうえで、できる限り早い段階で効果が得られるように、最善を尽くすよ」
ルチアの言葉に、ミナトがほっとしたように表情を緩めた。それは、まるでアルベルトのような柔らかな表情だった。ルチアはどきりとして思わず見蕩れ、それからはっとして、慌てて目を逸らした。
『何を動揺してるの…。これはミナトなのに』
心を落ち着かせるように深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。
『――ミナトは今、すごく不安で怖いはずなのに、私を信じてくれてるんだ。今はアルの面影を追いかけてる場合じゃない。しっかりしなくちゃ』
呼吸を整え、もう一度ミナトとしっかり目を合わせた。
ミナトは、ルチアが目を合わせるのを待っていたかのように見つめ返すと、言った。
「ありがとうルチア。よろしく頼む」
その表情はもう、ミナトのそれだった。アルベルトとは違う、少し無骨な表情。
ミナトであることが確認できて安堵する思いと、アルベルトに会いたいと強く願う思いが交錯して、ルチアの心が痛みを伴いながら揺れる。
「うん。こちらこそ、よろしくね」
ルチアは複雑な心境に無理矢理蓋をするようにして微笑んだ。
冬の寒さが幾分か和らぎ、時折春の息吹を感じるようになってきた頃、ついに一回目の魔法薬の実験が行われた。
考え得るなかで、最もアルベルトの処方に近いだろうと思われる薬を用意したルチアは、ベッドに横たわったミナトに声を掛ける。
「ミナト、昨日はちゃんと眠れた?」
アルベルトの身体のミナトの横には、昏睡状態にあるミナトの身体。二台のベッドが並ぶ横で、ルチアは薬包紙を広げた。
ミナトは作業をするルチアの手元を、やや緊張した面持ちで見つめている。
「夜中に、何度か目を覚ました。最近は頻繁に、身体と魂がバラバラになるような感覚があって」
少し眠そうにぱちぱちと瞬きするミナトに、ルチアは微笑んだ。
「眠っていた方が、無意識下で魂も移動しやすくなる可能性が高いってジュリアーノさんが言ってたから、準備の間眠かったら気にせず寝ちゃっていいからね。どちらにしても、実験の前には睡眠魔法をかけることになると思うから」
「わかった」
ミナトは頷き、そのままぼんやりと準備を進めるルチアの手元を眺めていた。
実験は、粉末状の薬を火魔法で炙り、気体となった有効成分を風魔法にのせて、昏睡状態にあるミナトの身体に送り込んで行う。ここカルミア王国で意識のない人に対して薬を使う際、よく取られている手法だった。
ミナトの身体を薬で魂が定着しやすい状態にし、そこにアルベルトの身体との結び付きが弱くなっているミナトの魂を呼び込もうという計画だ。
ルチアが準備を進めていると、ドアがノックされ、カルロに続いてジュリアーノと数人の医師が入ってきた。平日で学園があるため、放課後と休日のみ研究所に通って手伝いをしてくれているフリオの姿はない。
ジュリアーノには、魂の移動がなされたかを確認してもらい、医師たちにはミナトの身体とアルベルトの身体の急変に備えて待機してもらうことになっている。
「うん、いい感じに魂が不安定になってるね」
ルチアたちに挨拶を終えたジュリアーノが、アルベルトの身体の横に立って言った。
「これなら、ミナトの身体に薬が効けば、魂が引っ張られて移動するかもしれない。医師たちにミナトの身体の状態をチェックしてもらって、異常がなければ睡眠魔法をかけるからね」
「ああ。覚悟はできてる。よろしく頼む」
医師たちによるミナトの身体の診察が終わり、昨日までと大きな変化はないと診断された。いよいよ実験開始だ。
ジュリアーノが睡眠魔法をかけると、ミナトがすぅっと眠りに落ちた。
ルチアたちは頷き合い、カルロが火魔法で薬を炙り始める。
カルロは火魔法を得意としており、微妙な火力の調整も容易い。この役目は自分が適任だと、自ら志願した。
気体が立ち上り始めた頃合いを見計らって、ルチアが風魔法でミナトの身体の方へと気体を送り、鼻先に滞留させる。
数分後には、薬の有効成分はすべて気体と化し、ミナトの身体に吸収された。
全員が息を飲み、じっとミナトの様子を見守る。
「魂が移動を始めた!」
注意深くアルベルトの身体を見つめていたジュリアーノが、小声で鋭く言った。
ルチアは緊張に震える指先をぐっと握りしめ、アルベルトの顔とミナトの顔を交互に見比べる。
ほんの僅か、ミナトの頬に赤みがさしたような気がしたが、すぐに元に戻ってしまったように見えた。その直後、ジュリアーノが小さな溜息とともに首を振った。
アルベルトの瞼がぴくりと動き、ゆっくり目が開かれる。一同の目が注がれるなか、アルベルトの顔はそのまま横を向き、隣のベッドに横たわるミナトの顔を見て、落胆したように溜息をついた。
「戻れなかったんだな」
その一言で、ジュリアーノ以外の皆も、実験の失敗を悟る。一瞬にして空気が重くなった。
「ミナト…。ごめんね」
唇を噛みしめて頭を下げたルチアに、ミナトがゆっくり首を振った。
「――違うんだ。責める気はない。ただ感想を言っただけだ。まだ一回目だろ。最初から成功するなんて、はなから思ってないから謝るな」
カルロも、励ますようにルチアの肩に手を乗せた。
「そうだよ。まだこれからだ。研究所に戻って、実験を振り返ろう。魂の動きがどうだったか、教えてくれ、ジュリアーノ。それを参考に、また薬を調整すればいい」
「そうだね…。実験は始まったばかりなんだから、落ち込んでる場合じゃないね」
ルチアは弱気になってしまった自分を恥じるように、少しだけ笑みを浮かべた。
「ああ。研究所に帰ってちゃんと説明するよ。――ミナト、起き上がれるか?身体に変調はない?」
ジュリアーノがミナトに手を差し伸べる。ミナトはその手を取ると、ゆっくりと身体を起こした。
ぼうっとした様子で瞬きを繰り返した後、額に手をやりながら、ぐるりと首を回す。
「少し頭がぼんやりするけど、問題ない。俺の身体の方も、大丈夫そうだな」
ミナトが自身の身体を診察している医師たちの方に目をやると、医師たちが頷き返す。
「よし、じゃあ、ゆっくり立ち上がれ。身体の方は医師たちに任せて、研究所に戻ろう」
カルロがミナトを支え、一同は研究所へと戻った。
「ミナトの魂、一度はミナトの身体に戻ったんだ。でも、収まりのいい場所を探しているみたいに少し身体の中を動き回った後、再び引き寄せられるようにアルベルトの身体に戻ってしまった。アルベルトの作った薬の効力が切れかけているとはいえ、ルチアが作った薬よりもまだ強く作用しているということだろうな」
ジュリアーノの話を聞きながら、ルチアが熱心にメモを取る。
「引き寄せられたけど、定着しなかった…。つまり、身体に定着させるための成分が足りてない可能性が高いね…」
「うん、そう考えられると思う。どう?これから調合して、明日の実験に間に合いそう?」
ルチアの手元を見つめながら、ジュリアーノが尋ねた。
「魂の定着に効果を示すと考えられる成分は絞れてるから、その辺りを多めにして調合してみる。明日までにはできるから、実験も予定通りで問題ないよ」
ルチアはノートを閉じて、すぐに立ち上がった。
――しかし、最初の実験から一週間以上が経過しても、未だミナトは自分の身体に帰れずにいた。
毎日実験を行い、薬草の量や種類などを変えて試行錯誤してはいるが、どれもうまくいかず、一回目同様、ミナトの魂は自身の身体に帰ってもすぐにアルベルトの身体に戻ってしまう。
ミナトの身体の機能は目に見えて低下してきており、ルチアたちは焦りを感じていた。
実験に使用していた薬草も残り少なくなってきたので、ルチアは自ら薬草問屋に買い付けに行くことにした。正直なところ、煮詰まった脳に刺激を与えるためにも、外の空気が吸いたくなったのだ。
店よりも少し手前で馬車を降り、カルロと連れだって久しぶりに街中を歩いた。
空気の冷たさはいつの間にか随分と和らぎ、枝に蕾をつけている街路樹もちらほら見受けられる。
「研究所や病院にばかりいたから、何だかもう何年も街に来ていなかったような感覚だよ。たまにはこうやって、気分転換しなきゃいけなかったのかもしれないな」
きょろきょろと街の様子を眺めるルチアの頭をカルロがぽん、と叩く。
「そうだぞ。お前は根を詰めすぎだ。少しは自分を労れ」
「うん。ありがとう、お兄様」
焼きたてのパンの香りや、どこかの食堂から漂う香辛料を纏った肉の焼ける香り。売り子の呼び込みの声に、子どもたちの笑い声…。
街には生命力が溢れていた。
ルチアは自分が知らず知らずのうちにいろいろな感情から目を逸らして、五感を閉じていたことを思い知る。
無意識に恐れていたのだ。アルベルトに会えない悲しみを抱き続けて、心が疲弊していく自分を。アルベルトを失ってしまうかもしれないという恐怖に支配されて、身動きが取れなくなってしまうくらいなら、感情を閉じ込めてしまおうとしていたのかもしれない。
そういえば、最後に泣いたのはいつだろう。以前は毎晩のように涙を流していたのに、朝から晩まで研究所で過ごすようになった頃からは、一日の終わりに泣くことがなくなっていた。
痛みから目を逸らし、心を凍らせ、偽物の笑顔を貼り付けて。そうやって偽っているうちに、いろいろな感情が麻痺して、あたかも自分が強くなったかのように錯覚していた。
『このまま逃げ続けていたら、人の痛みもわからない人間になってしまっていたかもしれない…』
今感じている痛みも苦しみも、何もかもがアルベルトを愛するが故の大切な感情だ。
ルチアは目を逸らしていた感情をもう一度胸の奥深くから手繰り寄せるように、深く息を吸い込んだ。
「――!」
ふと、鼻先を懐かしい香りが掠めた。心の奥底に眠っていた記憶が呼び覚まされる。
慌てて周囲を見回したルチアの目に飛び込んできたのは、数軒先の花屋の店先で咲く、見覚えのある白い花。
懐かしい記憶と新しい記憶が合致したと同時に、足は花屋に向かって駆け出していた。
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