第16話 「はじめまして」
「あの!この花って!」
逸る気持ちのままに奥で作業をしていた花屋の店主に声を掛けると、年老いた男性店主はルチアの勢いに少し気圧されたような顔をしながら、店先に出てきた。ルチアの指さす花を見て、ああ、とにっこり笑う。白い花弁が幾重にも重なったその美しい花は、そよぐ風にその可憐な身を揺らしている。
「ああ、これ、綺麗でしょう。アルメリアという海辺の街にしか咲かない珍しい花なんです。ここにあるだけで、花もすぐに終わってしまうんですがね。どうしても皆さんに見ていただきたくて、今朝店に出したんですよ」
「これ…月待ち草ですよね?」
「そうです。よくご存じで。アルメリアに行ったことがおありですか?」
「ええ、昔…。でも、私がこの花を見たのは夏です。この季節に、しかも王都では初めて見たのですが」
「そうでしょうねぇ。王都で月待ち草を仕入れることができるのは、うちくらいなものだと思いますよ。うちはアルメリアに娘が嫁いでおりまして、月待ち草が咲く庭を持っているものだから、ごく少量ですが、手に入るんです。月待ち草はもともと夏に僅かな間しか咲かない希少な花ですが、これは夏の間に咲いた花を、特殊な方法で保存してあったんです。私の魔力は、花をもたせる力に特化した珍しいものでして、それで花屋を始めたようなものなんですよ。時期ではない花が手に入ると、喜んでくださるお客様も多いので」
「そんな珍しい魔力をお持ちなのですね。それで、季節外れに王都で…。――あの、もしかして、昨年の夏にもこちらで月待ち草を販売してらしたんですか?」
「ええ。毎年夏の始めには、ロイヤルブルームーンの夜に咲いたものを販売していますよ。季節のものは、ちゃんとその季節にもお楽しみいただきたいですから。ちょうど、今ここにある分と同じくらいを販売したと思います」
昨年の夏の始め。アルベルトがまだ、ルチアの隣にいた頃だ。
ルチアの胸が高鳴る。興奮のあまり震える手をぎゅっと握りしめた。
「それ、どんな方が購入されたか、覚えていらっしゃいませんか?」
「どんな方…?ええと…どうだったかなぁ」
店主は顎に手を当てて、何かを思い出そうとするように目を細めた。
「購入したのは、私と同じ歳くらいの男性ではなかったですか?」
ルチアの言葉に、店主ははっとしたように大きく頷く。
「そうでしたそうでした!おそらくどこかのご貴族のご令息かと思いますが、大変立派で美しい方でした」
――アルベルトだ。間違いない。
ルチアは泣き出しそうになるのを必死で堪えながら、何とか言葉にした。
「…ありがとうございます。この花、いただけますか?ここにあるだけ、全部」
「承知しました。ご用意しますね」
ルチアと花屋のやり取りを聞いていたカルロが、不思議そうにルチアに問いかける。
「あの花、何か特別な花なのか?」
ルチアは花から目を逸らせないままに、こくこくと頷いた。
「お兄様。薬、できるかもしれない。――今日、街に出てきてよかった。アルの痕跡を見つけられたよ。アルがどこかから導いてくれたのかな」
「え?」
カルロは目を大きく見開いてルチアを見つめた。
しかし、目に涙をいっぱいに浮かべたルチアの顔を見て、発しようとした言葉を飲み込むようにそっと口を閉じ、黙ってその頭を優しく撫でた。
「月待ち草はね、アルメリアにしか生息していない希少な植物なの。夏のロイヤルブルームーンの夜に花を咲かせて、通常は三日ほどで枯れてしまう。なのに、あの花屋さんはすごいわ。専用の箱に魔力を満たして、花を保存しているんですって。ちょうど今日思い立って、その箱からこの花を出したって言ってた」
ルチアは月待ち草の花束を抱え、先程花屋から聞いたことを説明する。
昨年の夏は数百年に一度という珍しい年で、通常夏には一回しかないロイヤルブルームーンが二回あった。そのうちの一回、夏の始めのロイヤルブルームーンの時に咲いた月待ち草を保存していたのだと花屋が教えてくれた。
「でも、箱から出したら長くはもたないから、明日には花は枯れてしまうみたい。帰ったらすぐに作業しなくちゃ」
カルロはあの後、薬草問屋で仕入れた薬草類を抱え直しながら、ルチアの抱える月待ち草の匂いを嗅いだ。
「いい香りだな。初めて嗅ぐ香りだが、清廉なイメージの香りというか…」
「そうなの。この香りのおかげで、気づくことができた。小さい頃、アルと一緒に行ったアルメリアで、月待ち草を見たの。海が見える丘に月待ち草がたくさん咲いていて…辺り一帯がこの清廉な香りに包まれて、とっても素敵だった」
ルチアは幸せな記憶に浸るように、目を細めた。
「月待ち草には、花弁の部分に薬の効果を高めて持続させる働きがあるの。花が咲いている期間が短くて、とっても希少だから、ほとんど知られていないんだけど。きっとアルは、夏にあのお店で月待ち草を見つけて、薬に使ったんだと思う」
ルチアとアルメリアで月待ち草の花を見たことがあったアルベルトは、店先の月待ち草に気づいたのだろう。そしてその効果を知っていたから、薬に使うため購入した。
アルベルトが利用していた薬草問屋の数件隣にあった花屋。王都ではそこでしか手に入らない月待ち草。
久しぶりに街に出たルチアが月待ち草に出会えたのは、ただの偶然だろうか。
アルベルトの思念か、運命の女神の導きか。まるで見えない何かに引き寄せられているようだ。
ルチアが学園の勉強と並行して、アルベルトが集めた膨大な量の文献に苦労しながら目を通したのは、無駄ではなかった。
月待ち草の効果は一般的に知られているものではない。魔法薬に関するどんなことも見逃さないようにと、広く文献を集め、読み込んでいたアルベルトだからこそ、その知識を知り得たのだ。ルチアもアルベルトの蔵書のすべてに目を通していなければ、月待ち草を見ても懐かしいという感慨だけで終わってしまったことだろう。
「最初の調合に、月待ち草を加えてみる。明日は、その薬を試すわ」
ルチアは月待ち草を大切に抱え直し、もう一度その懐かしい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
翌日、ルチアは月待ち草を加え調合した薬を用意して、カルロ、ミナト、ジュリアーノらとともに病院のミナトの身体のもとへ向かった。
毎日ミナトの身体と対面しているが、ここのところ日一日と顔色が悪くなっていっている。残された猶予はおそらくごく僅かだ。
いつも通りの医師たちの診察が済むと、早速実験を開始した。
同じ実験を毎日繰り返しているおかげで、カルロもルチアも動きに迷いがない。正確にミナトの身体に薬の成分を送り込んだ。
一同は、じっとミナトの身体とアルベルトの身体を見比べる。不意に、これまでまったく動くことのなかったミナトの指先がぴくり、と動き、ルチアとカルロは、はっとして顔を見合わせた。部屋に緊張が走る。
アルベルトの身体から魂の動きを追うように目を動かし、魂が帰っていったであろうミナトの胸元を注意深く見つめていたジュリアーノが、声を震わせながら呟いた。
「魂が…身体と結びついた。今度こそ、身体の中にしっかりと収まったはずだ。きっとじきに目を覚ます」
「本当に…?」
ルチアはじわじわと浮かんでくる涙に視界を遮られないように、何度も目元を拭いながら固唾を呑んでミナトを見守る。
その横でカルロが、ルチアの肩に置いた手にぎゅっと力を込めた。
どのくらいの時間が経過しただろうか。実際にはほんの数分のはずなのに、永遠のように長く感じられた時間が、不意に終わりを告げる。ミナトの頬に赤みが差し、瞼が動いたのだ。
「ミナト?ミナト、そこにいるの?」
ルチアの問いかけに、ゆっくりと瞼が開かれる。
やや鋭い印象を与える切れ長の目元から、黒曜石のような瞳が覗いた。いつも自分の身体が横たわっていた右側に顔を向け、ルチアやカルロの姿がそこにあるのを見て、その瞳が大きく見開かれる。
信じられないような面持ちで反対側に顔を向け、そこに横たわるアルベルトの顔を目にした瞬間、ミナトの目尻から涙が零れ落ちた。
「俺…帰ってきたんだな。俺の身体に」
アルベルトよりも少し低い、ハスキーな声。ルチアたちが初めて耳にするミナトの声だ。
ミナトは、自身の身体の感覚を確認するようにゆっくりと拳を握りしめる。
「その身体のミナトとは、はじめましてだね」
ルチアはぽろぽろと零れる涙をそのままに、ミナトに微笑んだ。
カルロもぐいっと目元を拭いながら、ミナトの手を取る。
「ミナト、やったな」
「ルチア、カルロ。ジュリアーノや先生たちも…ありがとう。週末にフリオが来たら、フリオにもちゃんと礼を言わないとな」
少し無骨な、感情を表すのが苦手そうな顔に照れたような笑みを浮かべ、ミナトが言った。
「すぐに梟を飛ばすわ。フリオ、ミナトが戻ったって知ったら、きっと今日学園が終わってすぐに飛んでくるよ」
その場にいた全員が、涙を流して喜びを分かち合った。
「ミナトさんは、もう大丈夫でしょう。弱っていた機能もすべて回復してきています。半年以上眠っていたため、筋力は衰えているでしょうが、回復魔法を使いながらリハビリすれば、すぐに歩けるようになるはずです」
医師からのお墨付きもあり、ミナトは身体に戻った翌日から歩行訓練を開始した。
幼い頃から身体だけは丈夫だったと本人が言う通り、数日後には生活にまったく問題がないほどに体力が回復し、退院して魔法学研究所の研究員寮に戻れるまでになった。
「ルチア、薬を作ってくれて、本当にありがとう。またこうして自分の身体で生活できるようになるなんて、何だか夢みたいだ。カルロも、たくさん世話になった」
退院してすぐ、ミナトはルチアたちの研究室にやってきた。
「ミナトが無事に身体に戻れて、本当によかったよ。これからもよろしくね」
「お前が無事で本当によかった。そうやって見ると、ちゃんと年上に見えるな。まあ、中身は俺の方が大人だと思うけど」
カルロにからかわれ、ミナトが苦笑いをする。
「これまで、俺は大分大人気なかったからな。不安だらけで不安定で、お前たちを困らせた。でも、これからは違うつもりだ。ちゃんと自分の身体に戻れたんだ。この世界で認めてもらって、この世界の住人として生きていくために、俺にできることからひとつひとつやっていくさ」
「言ったな?期待してるぞ」
男同士が拳をこつんと合わせて笑うのを見て、ルチアも嬉しそうに微笑んだ。
ミナトが自身の身体に戻り、数日が経過した昼下がり。
研究室の大テーブルで異世界の道具を図解していたミナトに、ルチアが薬が入ったカップを差し出した。
ミナトは研究所にも復帰し、以前に増して精力的に新技術の開発に関わっている。
「魔力がない身体での生活はどう?困っていることはない?」
ルチアに差し出された薬を、ミナトが一瞬躊躇った後に、盛大に顔をしかめながら飲み干す。その表情を見て、ルチアが苦笑いした。
ミナトは魂の状態がまだ不安定である可能性を考慮し、実験に成功した時の薬の成分より少し弱いものを、薬湯にして毎日服用している。ジュリアーノと相談しつつではあるが、あと一月は服用を続ける予定だ。
ただこの薬が、経口摂取となるとどうやらかなり苦いらしい。
「ああ、薬がくそ不味いこと以外は特に問題ない。研究所で作ってくれたこのバングルのおかげで、魔力が必要な道具も問題なく使えてる」
ミナトは口直しに飲んだ紅茶のカップをテーブルに置くと、左腕に巻かれたバングルに触れてみせた。
バングルには、魔力を貯めておける小型の装置が組み込まれている。この装置のおかげで、魔力がないミナトでも、自身の身体で不自由なく暮らせているようだ。
「それ、すごいね。今度、病気やお歳で魔力が弱った人たち向けに実用化するために、実験することになったんでしょ?」
「らしいな。最初に試作されたものからかなり軽量化されたし、筋力が弱い人でも使えると思う。装置に貯める魔力も、ストレスやら何やらで魔力過多になって困ってる人から採取するから、そっちの治療にもなって一石二鳥だとかって、開発チームが自慢してた」
「へぇ、そんな効果もあるんだ。その魔道具が生まれたのは、ミナトが来てくれたおかげだね」
「俺は何もしてないけどな」
「でも、ミナトが来なければ、そういう道具を作ろうとは誰も思わなかったよ。それに、ミナトが異世界の道具や文化を紹介してくれてるおかげで、たくさん新しいものが生まれそうだって聞いた。今描いてたのも、異世界の道具なんでしょ?もう立派な研究所の一員だね。それってすごいことだよ」
ルチアに曇りのない瞳で褒められて、ミナトは居心地が悪そうな顔をした。照れているのだ。
整った顔立ちながら、きつめな印象を与える切れ長の目元と、ほとんど動かない表情筋のせいで伝わりにくいが、ミナトがルチアたちに対して心を開いていることを、皆もうわかっている。
一緒に魂を身体に戻すため尽力したことで、ミナトとの間にはこれまでよりも強い絆のようなものが生まれていた。
王家の継承者争いの最中、大規模な魔法事故を起こしながら召喚され、しかもアルベルトの身体に魂が入ってしまったがために、その存在を隠されてきたミナト。
だが、第一王子が正式に王太子の座に就き、政局は安定した。ミナトも自身の身体に戻れた今、もはや存在を隠す必要はない。
アルベルトの事故の真相は伏せられたままになるが、ミナトは第一王子の立太子後に召喚の儀が成功し、異世界より招かれた者として、近日中にその存在が公にされることが決まった。
異世界からの召喚者と大々的に発表されれば、今より自由に外を歩けるようになるだろう。さらに、新しい技術がミナトの名の下に公開されれば、この世界でも歓迎されるはずだ。
『よかったね、ミナト。この世界に馴染んでくれて嬉しいよ』
会ったばかりの頃の刺々しいミナトを思い出して、ルチアの頬が緩む。
「何笑ってるんだよ」
「ふふ、別に」
ミナトが怪訝な顔でルチアの様子をうかがっていると、カルロが図書室から大量の本を抱えて帰ってきた。
「あ、ミナト、ここにいたのか。新技術開発部門の連中が探してたぞ」
カルロはどうやら、図書室から戻る途中でミナトを探す開発チームの面々に会ったらしい。
「そうだ、今日はこの後、新しい道具の開発会議だった。行かないと」
ミナトは描いていた図を手に立ち上がる。慌てて部屋を出て行こうとして、何かを思い出したようにドアの手前で振り返った。
「そうだ、ルチアに伝えなきゃいけないと思ってたことがあったんだ。アルベルトの身体から出る瞬間のことで、思い出したことがあって。戻ってきたら話すから、待っててくれないか」
アルベルトの名前を聞いた途端、ルチアの表情がきゅっと引き締まる。
「わかった、待ってる」
「役に立つかはわからないけど、どんな情報でもあった方がいいだろ。早く伝えなきゃと思ってたのに、図を描き始めたら集中し過ぎて忘れてた。悪い」
「思い出してくれたんだから構わないよ。どんな話でも聞きたい」
「じゃあ、後で。行ってくる」
ミナトはルチアの顔をじっと見つめて頷くと、急ぎ足で部屋を出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます