第5話 婚約者からのメッセージ
小鳥の囀る声に、ルチアは目を覚ました。
病院のベッドで眠るよりは、幾分か深く眠れた気がする。それでも、夜中に何度も目を覚ましては、その度に涙を流したせいで、瞼が重かった。
すべてが夢だったらどんなにいいだろう。
魔法事故も、アルベルトが別人になってしまったことも、全部全部、ただの悪い夢であってくれたら。
眠る前も同じことを考え、現実に打ちひしがれたというのに、懲りもせずまた考えてしまう。
重い身体を引きずるようにベッドから降りて、窓の外を眺めた。
朝焼けに染まる窓の外の街並みが、ここが王都のタウンハウスであり、起きた出来事はすべて現実だと突きつけてくる。ルチアは暗い気持ちで溜息をついた。
再び病院を訪れたルチアとカルロは、真っ直ぐアルベルトの病室に向かった。
目を覚ましたアルベルトが、もとのアルベルトに戻っていないだろうか。一縷の望みを胸に、病室のドアを開ける。だが、そんなルチアの僅かな期待は無残に打ち砕かれた。
「またお前らか。一体、お前らは何なんだ。鬱陶しい」
アルベルトの姿をしたミナトの口から放たれた冷たい言葉が、ぼろぼろのルチアの心をさらに切りつける。
『この人はアルじゃない。だから、これはアルの言葉じゃない』
何度自分に言い聞かせても、痛みが消えない。大好きなアルベルトの声で辛辣な言葉を浴びせられるのは、耐え難いことだった。
黙って俯き、歯を食いしばるルチアの隣で、カルロが声を荒げた。
「随分な挨拶だな。お前のいた世界では、そうやって平気で人を傷つけるような物言いをするのが普通なのか?」
カルロの言葉に、端整なアルベルトの顔が怒りに歪む。
「五月蠅い!俺は、勝手にこんな世界に呼び寄せられたんだぞ!」
そんな風に怒りを露わにしたアルベルトの顔など、これまでルチアは見たこともなかった。穏やかで、いつもルチアには笑顔を向けてくれていた。ルチア以外の人に対しても、怒りや不快感を露骨に表すことなどなく、何か問題が起きれば相手の話をよく聞き、思いを汲むように語りかけていたアルベルト。
目の前にいる人物は、見た目以外の何もかもがアルベルトとは違う。
『この人は本当に、アルじゃないんだな…』
また絶望する。わかっているのに、諦めきれずアルベルトの片鱗を探して、期待して。その度傷つく自分に嫌気がさす。
「突然見知らぬ世界に飛ばされるなんて、確かに大変なことだろう。実際お前がどんな気持ちなのか、俺には想像もつかないよ。だが、それと俺たちは何の関係もない。むしろ俺たちだって、同じ被害者だと言っても過言ではないんだぞ。その身体の持ち主の身内のようなものなんだから」
カルロの言葉に、ミナトが顔をしかめ舌打ちをする。
「身内?じゃあ、お前らはこいつの兄妹か何かか?」
「ここにいるルチアは、その身体の持ち主…アルベルトの婚約者だ。そして俺は、ルチアの兄。二人のことは、幼い頃からずっと見守ってきた。アルベルトのことは、本当の弟のように思っている」
「――へぇ、婚約者ねぇ」
婚約者と聞いて、ミナトが無遠慮な瞳でルチアを眺め回す。
その、吟味するように鋭く突き刺さる視線があまりにアルベルトのものとはかけ離れていて、ルチアは思わず後ずさった。カルロがミナトの視線を遮るようにルチアの前に出る。
「ふうん、悪くないな。まぁ、もうちょっと色っぽい方が俺の好みだが、お前もなかなか可愛い顔してるし。婚約者ってんなら、この身体とはよろしくやってたんだろ?寂しけりゃ、俺が相手してやってもいいぜ」
「お前!!ふざけるのもいい加減にしろ!」
「お兄様!」
ルチアはミナトに掴みかかりそうになるカルロにしがみつき、必死で抑える。中身がどんな人間だとしても、身体はアルベルトなのだ。傷つけたくない。
「へぇ、その反応を見るに、こいつは行儀よく、据え膳に手も出さずにいたのか?経験がないなら、尚更俺が相手の方が上手くいくんじゃないか?これでも女の扱いには慣れてるぜ」
必死で耐えていたのに、アルベルトの顔が下卑た笑いを湛えたのを目にして、気が遠くなった。
「やめて。お願いだからアルの顔でそんな風に笑わないで」
何度傷つけられたら、この悪夢が終わるのだろう。傷口を抉られ、塩を塗りつけられる。何度も何度も。眩暈で視界がぐにゃりと曲がった。
『気持ちが悪い…。吐きそう…』
青ざめて口元を押さえたルチアを見て、ミナトが冷たく言い放った。
「わかっただろう。俺はアルベルトじゃない。お前の婚約者がどうなったのかなんて知るわけがない。何が起きているのか、こっちが教えてもらいたいぐらいだ。――もう俺に関わるな。出て行け」
ふらつくルチアをカルロが支え、ドアに向かう。
部屋を出る手前でカルロは振り返り、ミナトを睨みつけて唸るように言った。
「――お前、その身体で勝手な振る舞いをしたら許さないぞ。アルベルトはすべてに秀でた侯爵家の跡取りだ。アルベルトの尊厳を貶めるような行為は、絶対に許さない。あいつがどれほどの努力を重ねてきたのか、俺は知ってる」
ミナトはカルロの言葉を無視するように顔を背けると、ふん、と鼻を鳴らした。
病室を出たルチアは、談話室の椅子に倒れ込んだ。
ミナトと会話をしていたのはほんの数分だというのに、まるで何時間も拷問を受けていたかのような気分だ。精神的な疲労が重くのしかかり、言葉が出なかった。
隣に座ったカルロも、大きな溜息をつく。
「まさか、アルベルトの身体に入ってしまった魂が、あんな奴だなんてな…。ああ、胸糞悪い!」
悔しげに顔を歪め、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「一刻も早くアルベルトの魂を見つけて戻してやらないと、とんでもないことになりそうだ」
ルチアも力なく頷く。
『アル…今頃どこにいるんだろう。何を思っているんだろう』
目を閉じると、愛おしげにルチアを見つめ、微笑んでくれたいつものアルベルトの顔が浮かぶ。
『会いたいよ…アル…』
ここのところ、涙腺が壊れてしまったかのように、気を抜くとすぐに涙が零れてしまう。自分のなかの水分が枯れ果ててしまうのではないかと思うほどに。
『もうすぐジュリアーノさんも来るはず。泣いてる場合じゃない。早くアルの魂を見つけなきゃ』
ルチアはぐいっと涙を拭うと、天井を睨みつけて涙を堪え、自分を奮い立たせた。
やってきたジュリアーノに案内された病室では、痩せた男性がベッドに身を起こしてルチアたちを待っていた。何かを恐れるように、俯いて細い身体をさらに縮ませている。
「こ、この度は…本当に申し訳ございませんでした…。ベニーニ侯爵のご子息までをも巻き込む事故を起こしてしまい、なんとお詫びしたらよいか…」
消え入りそうな声で詫びる彼に、ジュリアーノが厳しい声で語りかける。
「自分たちがどれだけのことをしてしまったのかは、十分理解しているだろうから、僕からは何も言わない。とにかく今は、アルベルトを取り戻すことが最優先だ。君たちが行った召喚術について、すべて話してもらうよ」
研究員はジュリアーノの言葉に何度も頷くと、ちらりとルチアとカルロを見上げてから、また目を逸らすように俯いて話し始めた。
「私たちは、古の召喚術について研究をしていました…。異世界から召喚された聖人が、国を救ったという、あの伝説についてです…」
彼らは何年もかけて数多くの古文書をあたり、ようやく召喚の儀についての記述を見つけ出した。それを立証するため実験を行いたいと上長に申請したが、どんな人物が異世界から召喚されるかもわからず、どの程度の危険性が伴うものなのかも未知数だったため、すぐには許可が下りなかったそうだ。
「私たちのチームは、これまで何の成果も出せず、今期末までに研究結果を形にして発表しなければ、研究所を去らねばなりませんでした。だから、つい、無許可で実験を…。文献からはどうしても儀式が行われた場所が特定できなかったので、自分たちで計算して研究所の地下の座標軸を割り出し、そこに異世界から聖人を招こうとしたんです。でも、座標がずれていたようで、ベニーニ侯爵のご子息の研究室の上空で魔法が展開されてしまい…。研究室の天井は魔法の威力に耐えられず、あのような事故になってしまったと考えられます…」
ルチアは傷だらけだったアルベルトを思い出し、拳を握りしめた。
召喚魔法の衝撃で、砕け散った天井とともに弾き飛ばされたのだから、生きていただけでも奇跡のようなものなのだろう。もしかしたら、瞬時に自分を守るための魔法を展開したのかもしれない。
ジュリアーノが厳しい声で研究員に問いかけた。
「ミナトが召喚された理由は?何故彼が選ばれた?」
「召喚される聖人は、あちらの世界と繋がった瞬間に、その場にいた者だと古文書には記されていました。門が開きし時、縁ある者聖人と成る…と…。ですので、こちらからはどんな人物がやってくるのか、召喚してみるまでわからなかったのです」
言いにくそうに研究員が答える。それを聞いたカルロが、呆れたように呟いた。
「それじゃ、ミナトは偶然、その場にいたから召喚されただけだというのか?現在この世界は聖人など必要としていないのに、ただ実験で呼び寄せられてしまったことが縁だと?――そんな理由でいきなり知らない世界に呼び寄せられたら、あんな態度になってもおかしくないのかもしれないな。だからといって、あの態度は許せるわけじゃないが…」
ジュリアーノもカルロの言葉に頷くと、小さくなって震えている研究員をじろりと一瞥して、溜息をつく。
「実験の許可が下りなかったわけだよ。そんな状態で実験を強行するなんて、いくらなんでも倫理に反する。ミナトを彼がいた世界に送り返すことはできるのか?」
研究員が、さらに肩を丸めて項垂れた。
「…いえ…。送り返す方法はわかりません…。古の聖人も、この世界で生涯を終えたようです…」
ジュリアーノはもう一度大きな溜息をついた。病室に重い空気が立ち込める。
「それでは、異世界人であるミナトの魂が、アルベルトの身体に入ってしまったことは、どう考える?」
仕切り直すように深呼吸をして、ジュリアーノが核心に触れた。ルチアとカルロも、息を飲んで研究員の言葉を待つ。皆に視線を注がれた研究員は、今にも消えてしまいそうな様子で言った。
「――それが…魂がどうこうなどという記述は、古文書には一切なく…。召喚術とは別の、何かの力が働いたとしか考えられません…」
召喚術の解明は、前代未聞の状況に置かれたアルベルトを救う、数少ない糸口のひとつだった。その糸口が断たれ、一同は暗い表情で押し黙る。また一歩、アルベルトの背中が遠ざかってしまうような恐怖を感じた。
アルベルトを失う恐怖に押しつぶされそうになりながらも、ルチアは自らを鼓舞するように言った。
「それじゃ、アルの魂が抜け出てしまったのは、召喚以外の何かの要因があると考えるべきってこと、ですよね。こうやってひとつひとつ検証していけば、今の状況を作り出してしまった原因に辿り着けるはず。他の要因を探しましょう」
ジュリアーノが同意する。
「そうだね。事故の衝撃でアルベルトとミナトの魂が一時的に身体を離れたと仮定して、その後魂が身体に戻る際に、何らかの要因によりミナトの魂がアルベルトの身体に入ってしまった。そして、通常なら別人の魂が入ればすぐに離れるはずが、何故か定着していると考えられる」
「アルベルト以外にも事故に巻き込まれた人間はいたのに、何故アルベルトだったんだ?」
カルロも腕組みをして考え込んだ。
暫しの沈黙。次に口を開いたのは、ジュリアーノだった。
「もしかしたら、アルベルトの研究に原因があるんじゃないか?事故に巻き込まれた人間のなかで、アルベルトだけが別の研究を行っている最中だった。他と違う要素は、そこにあるんじゃ…」
「アルは、何の研究をしていたんですか?」
ルチアが即座に反応する。
「さぁ、僕もそこまで詳しくは…。僕が知っているのは、魔法薬の研究ということくらいだ。でも、アルベルトの所属する薬学部門の長なら、何か知っているかもしれない。話を聞けるように掛け合ってみよう」
研究所に戻るジュリアーノと病院の玄関で別れ、ルチアとカルロもタウンハウスに戻った。
疲れ果てたルチアが自室のベッドで横になっていると、ドアがノックされ、メイドの声がした。
「お嬢様、ベニーニ侯爵家の従者の方がお見えです」
ベニーニ侯爵という言葉に跳ね起きる。アルベルトに何かあったのかもしれないと、急ぎ階下に降りた。
玄関ホールでは、ルチアも幼い頃から見知ったアルベルト付きの老年従者が、大きな薔薇の花束を抱えて待っていた。
「ルチア様、お誕生日おめでとうございます。こちらは、アルベルト様からの贈り物です。事故に遭われる前に手配させていただいておりました。本来でしたら、アルメリアにお連れする際、ルチア様をファール伯爵邸までお迎えに上がった時に、お渡しする予定だったのですが…」
「――誕生日…」
朝からそれどころではなくて、自分の誕生日のことなど忘れていた。
「ルチア、誕生日おめでとう」
アルベルトの低くて落ち着いた、ルチアに向けられる時だけは甘く響く声が聞こえてくるようだ。
「アル…」
花束を受け取ったルチアの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「薔薇の数は99本。”永遠の愛”でございます。アルベルト様のお心は、いつでもルチア様に寄り添っていらっしゃいます。必ずルチア様のもとに、お戻りになりますよ」
長らく二人を見守ってきた従者の言葉に、ルチアは涙を零しながら何度も頷いて、花束をぎゅっと抱きしめた。
アルベルトの存在を強く感じる。たくさん切りつけられて傷だらけになってしまった心に、アルベルトがそっと手を当てて癒やしてくれているような感覚を覚えた。
これまでの辛さも、この先の困難も、アルベルトを思えば乗り越えられる。改めてそう思えたことに感謝する。
「ありがとう。私、絶対にアルを見つけ出すから。待っててね、アル」
老年の従者の目には、肩を震わせるルチアをアルベルトが後ろから抱きしめている姿が、ありありと浮かんで見えた。
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