第3話 目覚め
事故から一週間が経っても、アルベルトの瞼は閉じられたままだった。
最新の魔法や魔法薬を用いた治療のおかげで、外傷は目に見えて回復してきていたが、依然意識は戻らない。頭をかなり強く打ったことが原因では、と医師は話していた。
今日はルチアとアルベルトがアルメリアへと出掛ける約束をしていた日。ルチアの17歳の誕生日は翌日に迫っていた。
『本当なら、今日は笑顔でアルに会えていたはずなのに』
どうやってルチアの誕生日を祝おうか考えてくれていたアルベルトの優しい眼差しが思い出され、胸が痛い。目の前に最愛の婚約者が横たわっているというのに、何もできない自分が不甲斐なくて悔しくて、涙が止まらなかった。
一方で、一週間のうちに事故の調査は少しずつだが進展をみせ、あの日何の実験が行われていたのかが、だんだんとわかってきていた。
この魔法事故の件は政治的な理由から箝口令が敷かれ、研究所の一部の人間にしか事実が知らされていないため、調査が遅れているらしい。
「古の…聖人召喚の儀?」
ルチアとともに事故の状況の説明に来た魔法学研究所の所員から話を聞いていたカルロが、眉を顰めた。
「数百年前に行われたという、あれですか?」
このカルミア王国には、古の時代、多くの国民が謎の病気に冒され、国の存続が危ぶまれるほどの事態に陥った際に、異世界より召喚された聖人が国を救ったという伝説がある。
聖人は異世界の知識と技術をもって国民たちを治療し、難局を逃れた後も国の発展に貢献したとされる伝説だ。だが、その後の歴史のなかでは、伝説の時代以降、異世界人が召喚されたという話もなければ、そのような召喚術があるとも、異世界が存在するとも立証されたことはない。
「あれは史実ではなく、ただの伝承ですよね?」
カルロの疑問に、所員は声を潜めた。
「それが通説ではありましたが…どうやら史実だったようなのです。何故なら、今回の事故で怪我を負って搬送された者のなかに、異世界人とみられる人物がおりました」
「異世界人?」
「ええ。明らかに我々とは違う、夜の闇のような漆黒の髪の男性です。彼は、見たこともない服や装飾品を身につけておりまして。さらに、所持品のなかには、おそらく金属の一種とみられますが、この世界のどの物質とも異なる成分で作られた板状のものなどが見つかり…。彼の存在はあまりに異質で、異世界から来たとしか考えられないのです」
ルチアとカルロは顔を見合わせた。俄には信じがたい話だ。
「その人は今、どうなっているんですか?」
「彼もまだ、意識が戻っていません。事故の際、ベニーニ侯爵のご子息の、一番近くに倒れていたのが彼です。怪我の程度はベニーニ侯爵のご子息よりもかなり軽かったですし、もう目を覚ましてもおかしくはないと思うのですが」
所員は、ちらりと横たわるアルベルトに視線を送った。
「あくまでも憶測ですが、その召喚が、もしかしたらベニーニ侯爵のご子息の容体にも影響を及ぼしているのかもしれません」
「異世界人が召喚されたことと、今回の事故に箝口令が敷かれていることには、何か関わりがあるんでしょうか?僕たち関係者も、病院の他の階との関わりは断たれていますし、タウンハウスに戻る以外は外出禁止とされていますよね?それすら監視の目があるようですし」
カルロの鋭い質問に、所員が押し黙る。聞かれたくないことだったようだ。
「それに関しては…私の方からは何も申し上げられません。いずれ、別の者から説明があるかと…」
「そうですか…わかりました」
これ以上は聞くべきでないと悟ったカルロは、すぐにその質問に幕を引いた。
貴族として社交界にもデビューしているカルロは、貴族間の問題や王室の問題にも敏感だ。今回の事故が露呈することで、不利益を被る人物がいることに気づいたのだろう。
所員が帰った後も、ルチアはアルベルトに寄り添い、手を握っていた。
ベニーニ侯爵夫妻は、心労により夫人が体調を崩してしまったために、今日はタウンハウスに戻って静養をしている。カルロは病室内のソファに横になって身体を休めていた。
ルチアもほとんど眠れない日々が続いていたが、アルベルトのそばを離れる不安の方が大きく、タウンハウスに戻って眠った夜はまだ一度もなかった。
病室内に用意された付添人用のベッドで細切れに眠っては、気持ち程度に身体を休める日々。ルチアの体力も精神も、ぎりぎりのところで何とか持ちこたえているような状況だった。
「アル。話を聞いたよ。大変だったね。崩れてきた瓦礫に挟まれて、痛かったよね。それでも生きていてくれて、ありがとう。やっぱりアルはすごいね」
事故直後はあんなに傷だらけだったアルベルトの顔も、魔法薬がよく効いて、だいぶ傷が目立たなくなってきていた。ルチアはその白く美しい頬に手を伸ばす。
頬は仄かに温かく、アルベルトの命がそこにあることを感じさせてくれる。そのことに深く安堵する。
『大丈夫。きっとアルは戻ってくる。だって、アルはいつだって、私のそばにいてくれたもの…』
そっと額に唇を寄せた。いつもアルベルトがしてくれていたように。
ぴくり、とアルベルトの瞼が動いたのを見たのは、唇を離して再びじっと顔を覗き込んでいた時だった。
「――アル?」
僅かに瞼が上がり、長い金色の睫毛の間から、翡翠色の瞳がうっすらと覗く。
「アル!アル!!」
その手を握りしめ、何度も呼びかける。
ルチアの声を聞きつけ、ソファに横たわっていたいたカルロが飛び起きて、隣に駆け寄ってきた。
「おい、アルベルト!わかるか?」
ゆっくりと開かれた瞼の奥で、瞳がルチアとカルロの姿を捉えた。唇が微かに動く。
「…こ…こは…?」
掠れた声が紡ぎ出した言葉に、カルロが答える。
「アルベルト、ここは病院だ。ルチアもいるぞ」
「アル…ベル…ト…?ル…チア…?」
困惑したように、瞳が揺れる。
「事故の影響で記憶が混濁しているのかもしれない。医師を呼んでくる」
カルロが素早く病室を飛び出して行った。
ルチアは握りしめたアルベルトの手を自分の頬に当て、安堵の涙を流す。アルベルトの翡翠色の瞳に自分の姿が映っていることが、堪らなく嬉しかった。
「アル…よかった、意識が戻って。本当によかった」
アルベルトはまだぼんやりした様子で、涙を流すルチアの顔をじっと眺めていた。
その瞳を見つめ返していたルチアは、不意に得体の知れない不安に駆られた。やっと意識が戻った最愛の婚約者。――しかし、目の前にいるのは、本当にアルベルトなのだろうか?あまりに無機質なその瞳に、言いようのない不吉な予感が鎌首をもたげ、じわじわとルチアの心を暗く覆っていく。
そして、再びアルベルトが発した言葉に、ルチアは凍りついた。
「誰だ…あんた。アルって…アルベルトって…俺のことか?ここ…
予感が確信に変わる。
話し方も、表情も、ルチアが知るアルベルトのものではなかった。背中を冷たいものが流れ落ちる。
「――あなた…誰?」
どくどくと心臓が早鐘を打っていた。ここにいる、アルベルトの姿をした人物は一体誰なのか。記憶の混濁などでは到底説明のつかない、不可解なことが起こっているのだけはわかる。
これは、アルベルトではない。まったくの別人だ。
「意識が戻られたのですね!」
病室のドアが開き、数人の医師たちが足早に入ってきた。
医師に続き部屋に戻ってきたカルロに、ルチアはふらふらと駆け寄る。
「お兄様…アルが、アルがおかしいの。あれはアルじゃない。アルじゃないよ…」
倒れかかるように縋りついてきた妹を支えながら、カルロが眉間に皺を寄せる。
「何を言っているんだ、ルチア。アルベルトは一週間ぶりに目を覚ましたんだぞ。今は記憶が混濁しているだけだろう」
ルチアは半狂乱になり激しく首を振る。
「違う!違うの!あれはアルじゃない!絶対に違う!誰か…誰か別の人が、アルの中にいる!」
ルチアの後ろで、医師がアルベルトに向かって問いかけた。
「自分の名前が言えますか?」
はっとして振り返ったルチアとカルロが聞いたのは、この世界では聞いたことのない類いの名前だった。
「俺の名前は…
恐怖で身体が震える。ルチアはその場にへたり込んだ。カルロも信じられないといった表情でアルベルトを凝視している。
「ミナト…?あなたはミナトというのですか?年齢は?」
医師は一瞬、明らかに動揺した表情を見せたが、すぐに表情を戻すと、またゆっくりと問いかけた。
「にじゅう…25歳…」
「住んでいたところはわかりますか?」
「暁国…
「アカツキコク、ユウツヅ?アカツキとは国の名前ですか?」
「…そうだ。夕星は…その国の首都で…」
予想外の返答に困惑している医師に、別の医師が耳打ちした。異世界人、という単語が漏れ聞こえ、耳打ちをした医師が、焦って病室を出て行く。
「ルチア、ちょっと待っていてくれ」
医師の向かう先に何かがあると察知したカルロが、その姿を追って部屋を出て行った。
ルチアは呆然としたまま、ミナトと名乗ったアルベルトの容体を医師たちが確認しているのを眺めていた。心拍数、血圧、脳波、魔力値…次々に異常なしと確認されていく。
身体に異常がないというなら、アルベルトに一体何が起こっているというのだろうか。混乱しすぎて眩暈がする。
そうしているうちに、カルロが戻ってきた。
「奥の病室に、例の召喚されたらしい異世界人がいるようだ。だが、そっちはまだ意識が戻っていないらしい」
カルロは先程の医師が入っていった病室の外で聞き耳を立ててきたのだろう。小声でルチアに聞いてきた内容を報告する。
「異世界人?もしかして…今アルの中にいるのは、その人なの?」
ルチアはベッドに横たわるアルベルトを信じられないような表情で見つめ、カルロに問いかける。
「わからない。だが、確かにアルベルトの様子はおかしい。ミナトという名前も聞いたことがないし、この世界のどこにも、アカツキなんて国は存在しない。言葉遣いも口調もまったくアルベルトとは違っていた。お前が言うとおり、別人としか思えない」
「もしも、アルの中に異世界人がいるというなら…。じゃあ、アルは?アルはどこにいるの?――もしかして…その人の中?」
言葉にするなり、弾かれたようにルチアは立ち上がり、部屋を飛び出す。
「ルチア!」
慌ててカルロがルチアを追った。
奥の病室のドアを開けると、ベッドの周りに数人の医師と、魔法学研究所のローブを着た若い男性が立っていた。事故の調査報告に来てくれた所員とはまた違う、長く伸びた赤髪と、髪色と同じような緋色の瞳が目を惹く青年だ。
「すみません、ここは関係者以外入室禁止です!」
制止の声も聞かず、ルチアはベッドに駆け寄る。
そこに横たわっていたのは、研究所の所員が話していた通りの、漆黒の髪の男性。目を閉じているのでわかりづらいが、顔立ちがこの世界の人々とは少し違うように見える。
「アル!ねぇ、アル、そこにいるの?その人に中にいるなら、お願い、目を覚まして返事をしてよ!ねぇ、アル!」
医師たちに阻まれながらも必死に呼びかけるルチアの肩に、研究所の所員らしき赤髪の人物がそっと手を置いた。振り返ったルチアに、彼が沈痛な面持ちで首を振る。
「今さっき、アルベルトの中で異世界人らしき人物が目を覚ましたと聞いて、僕も君と同じことを考えた。だからすぐにこの彼の中にアルベルトがいないか探ったんだけど、彼の中にアルベルトの魂の気配は見つけられない」
「そんな…じゃあ、アルは一体どこに行ってしまったの…?」
ぽろり、と涙が頬を伝う。ルチアは再び、力なくその場にへたり込んでしまった。
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