第2話 絶望のはじまり
ルチアを乗せた馬車がファール伯爵邸に着いた頃には、日が傾きかけていた。
学園を出発する際、王都は雷雨だったが、ファール領が近づくにつれ天気は回復していき、ファール領に入る手前では、雨雲の気配などすっかりなくなっていた。
青く塗ったスケッチブックにぽとりとオレンジ色を落としたかのように、空が美しいグラデーションを描いている。市街地にはぽつりぽつりと家々の明かりが灯りはじめ、そのひとつひとつに領民たちの暮らしがあることが感じられる。
幼い頃、毎日目にしていたこの景色を見る度に、故郷に帰ってきたのだな、とルチアは実感するのだ。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
玄関ホールでは、使用人たちが一斉にルチアを出迎えた。
「皆、ただいま。元気だった?」
ふわりと可憐な微笑みを見せたルチアに、使用人たちの表情も綻ぶ。
「お嬢様がお帰りになると、お屋敷が一段と明るくなりますな」
家令がルチアの帽子を受け取り、にっこりと微笑んだ。
久しぶりに家族が揃った晩餐。
「学園はどうだ?」
「アルベルトとは変わりない?」
「勉強でわからないところはないのか?」
ルチアの父と母、兄はルチアの学園生活について次々と問いかけては、ルチアの話に興味深く聞き入った。
前回の冬期休暇以来の帰省。約半年分の話題が積もっている。
「へぇ、アルベルトは相変わらず優秀なんだな」
2年前にルチアたちと同じバーベイン魔法学園を卒業し、今は父の補佐として領地と王都を行ったり来たりしている兄カルロが、ワインを飲み下して感嘆の声を漏らす。
最近ワインを嗜みはじめたばかりのカルロは、まだ1杯しか飲んでいないというのに頬が上気し、すでにほろ酔いのようだ。
代々ファール家の男性はそれほどお酒が強くない。どうやらカルロも例外ではなさそうだ。
「アルベルトの入学当時から、お前の義理の弟になる奴はすごいらしいなって周りから言われてきたが、入学してから一度も首席の座を譲らないうえに、王立魔法学研究所に研究室まで持って、益々優秀になってるじゃないか。ルチアもしっかり頑張れよ。アルベルトは優秀なのに、婚約者はちょっと残念だなあって言われないように」
もともと無口な方ではないが、ほろ酔いでさらに饒舌になっているカルロが、機嫌よさげにルチアをからかう。
「私だって頑張ってるよー。ちゃんと6年も特Aクラスだし。でも、アルは本当にすごいの。いつだって一生懸命で、何事にも手を抜かなくて。私本当に尊敬してるんだ」
ルチアは唇を尖らせて応戦しながらも、アルベルトの名前を口にすると幸せそうに頬を緩めた。
きらきらと瞳を輝かせてアルベルトのことを語るルチアの様子を見つめながら、父と母も満足気に頷く。
「アルベルトは優秀なうえに、ルチアを本当に大切に思ってくれているからな。先日も、夏期休暇の間にルチアをアルメリアの別邸に招待したいと丁寧な手紙を貰ったよ。学園での近況報告なんかも添えてくれてね。もちろん、アルメリア行きは承諾しておいた。ルチアは本当にいい相手に恵まれたな。あとはカルロだが…」
「俺の話はいいんだよ…」
話の矛先がまずい方向に向いた、と言わんばかりに、カルロが父から目を逸らして頭を掻く。
「えー?私はお兄様のお話が聞きたいなあ。お兄様こそ、いいお相手はいないの?」
今度はルチアがにやりとしながら、からかうようにカルロの顔を覗き込んだ。
カルロは身近に年齢や条件が適した令嬢がいなかったこともあり、その歳の貴族としては珍しく、まだ婚約者がいない。
しかしというべきか、だからというべきか、お金目当ての令嬢に群がられたり、仲のよかったご令嬢同士がカルロを巡って夜会で争い騒動になったり、やっと好きになった相手には婚約者がいたりと、異性にまつわる話題には事欠かない。
ルチアの兄だけあって容姿もかなり整っており、領地運営、商会経営の才覚もあるというのに、どうにも良縁に恵まれず、不憫なのだった。
だが、朗らかで明るいファール家では、それすらも話の種のひとつとして笑いに昇華されている。
久々に帰省したルチアを囲んでの歓談は、夜遅くまで続いた。
ルチアのそんな穏やかな日々に終止符が打たれたのは、翌日のことだった。
遅めの朝食を終え、自室で飼い犬と戯れていたルチアのもとに、父が血相を変えて飛び込んできたのだ。
「ルチア…落ち着いて聞きなさい」
その手に握られているのは、ベニーニ家の紋章が入った書状。
尋常ではない父の様子に、ルチアは何かとてつもなく恐ろしいことが起きているのを察知する。
父は自らのことも落ち着かせるように深く呼吸をすると、ルチアに告げた。
「昨日、王立魔法学研究所で、大規模な事故が起こったらしい。そこに…アルベルトが巻き込まれたそうだ」
「――え?」
一瞬、よく意味が理解できなかった。
『どういうこと?事故?アルが…?』
続く父の言葉に、さあっと目の前が暗くなる。
「アルベルトは、意識不明で危険な状態だそうだ。すぐに馬車を出すから、急いで王立病院に向かいなさい」
――意識不明で危険な状態。倒れているアルベルトの姿を想像し、恐ろしさに身がすくむ。
ひどい耳鳴りに襲われ、脂汗が流れて視界がどんどん狭窄してきた。
「ルチア!しっかりするんだ!」
見る間に青ざめていくルチアを、父が慌てて支える。
ルチアは父に支えられながら、へなへなとその場に座り込んだ。
「どうして?アルが事故になんて…」
まるで海の底に沈んでいくようだ。息を吸っても吸っても、胸が苦しい。うまく呼吸ができなくて、眩暈がする。
「ルチア、ゆっくり呼吸を」
父がルチアの口にハンカチを当て、背中をさすってくれた。
「馬車の用意ができたぞ!――おい、ルチア、大丈夫か!?」
馬車の用意を整えルチアを呼びに来たカルロが、座り込んでいるルチアを見て駆け寄る。
「しっかりしろ、ルチア!俺が一緒に行ってやる!今行かなかったら、一生後悔するかもしれないぞ!もうアルベルトに会えなくなってもいいのか!?」
『もう会えない?アルに?…そんなの絶対に嫌』
ルチアはカルロを見上げ、ふるふると首を振った。途端に涙が流れ落ちる。カルロがルチアの腕を掴み、妹を奮い立たせるべく言った。
「きっと、アルベルトはお前を待ってる!行くぞ!」
『アルが私を待ってる…。アルに会いにいかなくちゃ…』
ルチアはカルロと父に支えられてふらふらと立ち上がる。後から後から溢れる涙を拭いながら、何とか馬車に乗り込んだ。
ルチアの後を追うように、メイドたちが急ぎまとめた最低限の荷物を持って駆け寄り、従者がそれを馬車に積み込む。
「カルロ、ルチアを頼んだぞ。状況がわかったら、すぐに知らせるように」
カルロは心配そうに見送る両親に力強く頷いて、馬車を出すよう命じた。
王立病院は、魔法学研究所をはじめ図書館や博物館など、多くの王立機関が集まる一角にあり、同じく王立のバーベイン魔法学園からもさほど遠くない。
病院に向かう馬車の窓の外に学園の時計台が見え、ルチアの胸が締めつけられる。
一昨日まで、毎日何気なくアルベルトと見上げていた時計台。幸せな学園生活の象徴。
昨日帰省したばかりだというのに、もう学園の近くに、しかもこんな気持ちで戻ってくることになろうとは、夢にも思っていなかった。
ルチアとカルロがアルベルトの病室に駆けつけると、アルベルトの両親ベニーニ侯爵夫妻が悲痛な面持ちでアルベルトに寄り添っていた。
「ルチア…来てくれたのか」
アルベルトの両親にとっても、幼い頃からよく顔を合わせ、息子が深い愛情を注ぐ婚約者のルチアは、もう家族のようなものだ。
「ベニーニ侯爵、侯爵夫人…アルは…アルの容体はどうなんですか?」
震える声で問いかけたルチアを、侯爵夫人が泣きながら抱きしめた。
「まだ…まだ目を覚まさないの…。事故の爆風に巻き込まれて、全身を強く打ったみたいで…」
ベッドに横たわるアルベルトの体には、ところどころに痛々しく包帯が巻かれ、陶器のように白く美しかった顔には、無数の擦り傷や打撲痕が見えた。
ルチアは、震える手でアルベルトの手を握る。いつもルチアを慈しんでくれるその手は、ぴくりとも動かなかった。一昨日までは、あんなに優しく温かく包み込んでくれたのに。
「――アル。ねぇ、アル。起きてよ。私だよ、ルチアだよ。ねぇ、お願い、目を開けてよ。名前を呼んでよ。アル…アル…」
アルベルトの手を握ったまま、崩れ落ちそうになるルチアの肩を、カルロが慌てて支える。
「ああ、神様…」
泣き崩れた侯爵夫人を、侯爵が抱きとめた。
「一体、何があったんですか?研究所で事故なんて…」
カルロがルチアを支えたまま、侯爵に問いかけた。侯爵は強張った顔で首を振る。
「私もまだ詳しくは聞けていないが…どうやら研究所で何らかの魔法実験が行われていたようなんだ。アルベルトは自分の研究室にいたようなのだが、その実験が行われていたのが、アルベルトの研究室がある棟の地下だったようで…。どのような状況だったのかはわからないが、実験の失敗から爆発が起こり、同じ棟にいたアルベルトが巻き込まれたらしい」
「そんな…。それじゃ、事故というのは魔法実験によるものだったんですか?何故そんな危険な実験を行うのに、同じ棟にいる者を待避させなかったんだ…」
アルベルトは研究所に研究室を持っているが、まだ学生であり、正式な研究員ではない。そのためアルベルトの研究室は、ほとんどの研究室が集まる新棟ではなく、旧棟に用意されていた。
普段旧棟を使っている研究員はごく僅か。実験を行った研究員たちも、大きな影響が出るとは思わなかったのかもしれない。
「実験を行った者たちも当然、事故に遭っているから、詳しい話はまだ聞けていないようだが…。どうも実験は無許可で行われていたようだ。それと…この事故については、関係者以外には漏らさないでほしいと要請されている」
二人が話す声が、くぐもって遠くに聞こえる。ルチアはただただ呆然と、アルベルトを見つめていた。
『アル…アル…どうしてこんなことになっちゃったの?』
傷だらけのアルベルトの顔が、涙で滲んでいく。
「私たちは交代でアルベルトに付き添うが、ルチア、君はどうする?一度伯爵家のタウンハウスに戻るか?今夜目覚める可能性は低いそうだ。――最悪の場合、このまま目を覚まさない可能性もあるらしい…」
侯爵の問いかけに、ルチアは首を振った。
「ここに…アルのそばにいさせてください。お願いします」
ずっとアルベルトの手を離さないルチアを悲しげに見つめ、侯爵は頷いた。
「わかった。この部屋に泊まれるように手配しよう」
貴族用の最上個室は、さながら高級ホテルの一室のように広く、付添人が数人泊まれるだけのベッドも入れられる。すでに一台、付添人用のベッドが運び込まれているが、アルベルトが横たわるベッドを挟んでもう一台ベッドが置けるスペースがあった。ルチアのために、そこにベッドを運んでもらうよう、侯爵が従者に告げる。
「侯爵、大変な時にルチアのことまでお気遣いいただき、ありがとうございます」
憔悴しきったルチアに代わりカルロが礼を言い、妹を気遣うように肩を支える腕に力を込めた。
「いや、こちらこそ礼を言うよ。アルベルトにとっても、ルチアがそばにいてくれる方が心強いだろうから」
侯爵は沈痛な面持ちのまま、アルベルトの横で手を握り涙を流すルチアを見つめた。
その夜は、ルチアとベニーニ侯爵夫人がアルベルトに付き添うことになり、侯爵とカルロは各々のタウンハウスに戻ることになった。
どちらのタウンハウスも病院からそれほど遠くない貴族街にあるため、比較的行き来はしやすい。
「廊下に従者が控えているから、何かあったらすぐに知らせるんだぞ。俺はいつルチアがタウンハウスに戻っても大丈夫なように指示を出してくるから。くれぐれも無理はするな。明日また朝一番に来る」
カルロはルチアの様子を何度も心配しながら、タウンハウスに向かった。
ベッドに横たわったままのアルベルトの手を握って寄り添いながら、ルチアとベニーニ侯爵夫人はぽつりぽつりと言葉を交わした。
「ルチアとアルベルトが結婚したら、しばらくは王都で暮らすことになるわね。アルベルトは研究員になるから、家を継ぐのはもっと先になるでしょうし」
「そうですね。私もアルを支えられるように、魔法薬についてもっと勉強したいと思っています」
「そう言ってくれて嬉しいわ。うちのタウンハウスには、もうルチアの部屋が用意されているのよ。気が早いかしら」
「嬉しいです。今度見せていただきたいです」
「もちろんよ。いつでも遊びに来てね」
そんな未来がきっとあるはず。アルベルトがいない未来など、絶対にあってはならない。
お互いの気持ちが痛いほどわかる。二人は何度も涙を拭いながら、とりとめのない未来の話を朝まで続けた。
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