十六、小さな背中

 もう冬は過ぎた。これからは徐々に蒸し暑くなっていくはず。

 それなのに床にうずくまる藤君の震えはまだ止まらない。


 麦色の頭を板張りに押し付け、背中を丸くする。腹を庇うように抱えた手は落ち着くことはなく、纏った着物を何度も持ち替えては握りしめる。

 三つ年下の彼女。当然ながら成人したばかりの彼女の背中は小さい。しかし『姉』の存在が彼女の態度を助長した。そんな当たり前のことに気付かず、今まで私は怯えていたのだ。



 もともとは平民だったから。礼儀作法とは無縁だったから。梅君うめのきみに気に入られているから。


 様々な理由を言い聞かせ、耐えるしかなかった今まで。しかし、今は違う。姉のように慕っていた梅君うめのきみから見放され、暴力に震える。

 まるで立場が逆転したみたいだ。


 『これも一種の教育ですから』


 いつか頭を叩かれた藤君ふじのきみ言葉が頭をよぎった。



 全身の毛がぞくりと逆立つ。口角が上がっていくのを感じた。


 彼女に近づき、そっと膝をつく。静かに歩いたはずの板張りが軋んだ。しかし、怯える藤君ふじのきみは私に気付くことはない。


 いつの間にか半開きになった口。繰り返す呼吸は口の中の水分を奪い、生唾を飲み込ませた。鼓動は速く、強くなる。もう指先だけでも脈がとれそうだ。


 床に擦り付けた麦色の頭はまだ上がらない。そんな無防備な彼女に、私は静かに手を伸ばす。



 『奪え』



 翳した手から黒い霧が滲み出る。それはあっという間に彼女を覆った。


 私の加護は奪うだけ。

 彼女が何に怯えているか分からないが、原因はあの男の暴力だ。ならば、蹴られた事実を奪い取ってしまえばいい。

 恐らく無意識下でそんなことを考えたのだろう。仕返しのために伸ばした手は、気付けば彼女を救おうとしていた。


 しかし、それは彼女の逆鱗に触れる。


 部屋に響く乾いた音。遅れて伝わるじわじわとした痛み。頭に翳していたはずの手は、誰もいない空を翳すだけだった。



 「……藤君ふじのきみ?」



 覆われる黒い霧に反応したのだろうか。咄嗟に体を起こした彼女は勢いよく手を払いのける。その瞬間、溶けるように消える霧。

 無意識とはいえ、純粋な気遣いだったはず。その手を払いのけた彼女は、私を睨みつける。


 攻撃的な目。苛立った顔。いつもと変わらない彼女の姿だ。

 ただ一つ、震える手を除いては。



 「……とした?」



 「え?」



 「何しようとしたかって聞いてんの!」



 動揺のあまり、うまく聞き取れなかった。つい聞き返したその言葉に、藤君ふじのきみは声を荒げる。

 いつもなら高圧的としか思えないその態度も、今日は虚勢を張っているように見えた。



 「……か、加護を使おうと……辛そうだったからつい」



 「私にその加護を使うな! あんたなんかに哀れに思われるほど落ちぶれてない!」



 「そんなつもりでは――」



 「うるさい!」



 宥めようとした言葉を叫ぶように遮る。そして立ち上がり、部屋を出ていってしまった。

 次第に足音が遠くなっていく。少し前までなら、解放された途端に肩の荷が降りるのを感じていた。

 だが、今回ばかりは疑問が勝つ。


 下級貴族である私の前で情けなく怯える。自尊心の高い彼女が、醜態を晒すはずがない。それに私の加護を拒んだことも気になる。哀れに思われるのが嫌というのも分かるが、それだけではない気がする。他にも――



 「し、失礼致します」



 一人残された部屋で頭を働かせる私に声がかかる。声の方向を見ると、入り口に青あざのある女性がいた。

 声がしたから見ただけなのに、落ち着きなく目線を動かす女性。数回しか会ったことがないが、彼女を知っている。



 「藤君ふじのきみの付人の方ですよね。彼女は先ほど出て行かれましたよ」



 「あ、そ、そうなんですね……と、いの依頼を伝えに来たのですが」



 分かりやすく困惑する彼女。しかし、それよりも彼女の発言に耳を疑った。

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