十三、半分の月


 夜更けに男性が赴く。その目的など言うまでもない。

 無意識だった。頭に浮かんだ疑問を口に出し、その途中で自力で答えに辿り着く。


 いくら反省しても、放ってしまった言葉は消えることはない。薄暗さをいいことに、顔を真っ赤に染める。



 「すみません。すぐに準備をしますね」



 「大丈夫。それより、そっちに行っていいかい? 私も夜空が見たい」



 「……はい」



 静かに答える。気付けば視界は木目で埋まっていた。

 布が擦れる音が次第に大きくなる。それに負けじと鼓動が張り合り始めた。

 もう失敗は許されない。せめて夜の相手として役に立たなければ。そう思い働かす思考が、脈拍に妨害される。


 いや、妨害されて正解だったかもしれない。


 布が擦れる音が私の前を横切る。後から感じる病の匂い。目を凝らすと、灰色の板張りに主人様の影が映し出されているのが見えた。

 目も耳も鼻も情報を伝えてくれる。それらに間違いはないはずだ。


 それなのに側にいる主人様からは、一切と言っていいほど生気を感じられない。 



 「綺麗だね」



 落ち着いた声だった。静かで優しく、深い、しかし、どこか悲しげな。


 胸騒ぎがした。すぐさま振り返り、膝立ちになる。加護を発動しようと差し伸ばした手。だが、その手が切なげな背中に届くことはなかった。


 私に何が出来るのか。結局その場しのぎではないのか。

 否定的な言葉が纏わり付いた腕は、もう伸すことは出来ない。諦めて自分の胸元に戻した手を、左手で強く握る。再び木目を写す視界が、自身の喪失を表していた。



 「己が憎いかい?」



 その言葉に勢いよく顔を上げる。主人様は変わらず月を見上げていた。

 背中越しでは私の動きどころか表情すらも見えてはいない。しかし、この状況でなおピタリと心のうちを言い当てられる。それほどまでにわたしの悪評は知れ渡っているのだろうか。


 柔らかく声色と鋭い言葉。核心を突かれて固まった体は、徐々に力が抜ける。座り込んだ体とは裏腹に自然と口角が上がった。

 これは嬉しさではない。どうしようもない私に対する虚しさだ。



 「……あの二人から何か聞きましたか?」



 「いや。何も聞いていない。ただ少し心配になってね」



 「……ありがとうございます。ですが、私は大丈夫ですから」



 「……そうか」



 そう呟いた主人様が振り返り、こちらに向かって歩き出した。

 反射的に俯き、目を固く閉じる私。顔を隠したとしても、無意味かもしれない。

 分かっていても隠したかった。


 主人様は日々病と闘っている。そんな主人様に心配されるほど私に価値はない。


 どうか、このまま去ってください。



 失礼極まりない願いを胸に抱き、作り出した暗闇に閉じこもる。主人様を心配させないためなら、いつまでも暗闇を耐え抜くつもりだった。

 しかし、願いは叶わない。



 布の擦れる音が止まり、代わりに重い音がした。それも私のすぐ側から。目を開けずとも、状況は察していた。それでも、違っていて欲しかった。


 静かに開けた視界の端であぐらをかく主人様。すぐ側にいるのに触れるわけでも、見つめるわけでもない。

 ただ月を見上げるだけ。


 初雪のように白い肌は月の光を浴びて輝き、大きな瞳には月が映されていた。浮かべる表情は曖昧で微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。


 許されるなら、いつまでも見つめていたい。だが主人様にそれは失礼だろう。


 目の前の景色を惜しみつつも、半月へと視線を移す。夜空に浮かぶ半月が先ほどとは違って見えた。

 並んで月を見上げる。あの二人が知れば、辛辣な言葉を叩きつけられるだろう。それでも構わない。

 

 次第に瞼が重くなってきた。この眠気は安心感からだ。

 耳を澄ませば息遣いが聞こえる。触れることはなくても体温を感じる。

 ただ側にいてくれる。それだけの事実が今の私には心地よかった。

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