十二、悔いる夜

 日が暮れ、暗くなった室内を進む。

 吸っては吐く息。風が吹き込む音。布が床に擦れる音と踏み出すたびに軋む板張。


 夜は寂しい。耳を澄ましても、これだけしか聞こえないのだから。

 生み出された静寂を壊す罪悪感に苛まれながらも、外の世界を目指した。


 日はすでに落ちた。普段なら夢の中にいる。

 主人様の治療も手伝った。訪いで体力を消耗した。精神的にも肉体的にも今日は頑張ったはず。

 それでも眠れないのは、あの少女のせいだ。


 腰をそっと下ろす。静かに動いたつもりでも、板張りの繊細さからは逃れられない。鋭い冷たさを感じつつも、軋む板に座った。


 白い息を吐き、障子に手をかける。悩んだ末に少しだけ障子を開けた。


 拳ほどの隙間から見える夜空。青黒い空には半分の月が浮かんでいた。

 照らすつもりがあるのか、ないのか。どっち付かずな姿が自身と重なる。


 中途半端な光に照らされた夜。彼女はどのような結末を選択したのだろうか。


 どこかに出かけると嘘をつき、去ったのか。日が暮れるのを待ってから、気付かれぬように家を出たのか。それとも決意が揺らぎ、今も父から離れられずにいるのか。

 いずれにせよ、加護の効果は長くは持たない。


 夕暮れには加護の代償は消えた。奪った苦痛もすぐに本人に戻るわけではないが、予測するには充分な要素だ。


 あるべき痛みを取り戻した少女。目は霞み、四肢は重く、地面が波を打つ。

 長年苦しんだ。やっとの思いで解放された。にも関わらず、執着心は消えない。


 父親に感謝を伝えたい。その一心で手に入れた健康を世界は否定する。


 彼女は恨んでくれるだろうか。この半分の月に照らされた世界で私を。私だけを。



 「あまり夜風に当たると冷えるよ」



 不意に声をかけられた。普段なら肩を跳ね上がらせ、鼓動が速くなった体で振り返る。

 いつだって真っ先に出てくる感情は警戒や緊張だ。しかし、今はそれらがない。

 麗らかな日を連想させる声に、夜の冷たさまでも否定される。


 すぐに振り返り、姿勢を正す。

 女性的な顔つき。初雪のように白い肌と細い体。黒い衣服が肌の白さが際立たせる。

 表情は暗くない。比較的症状は安定しているように思える。


 それでも、支えにした屏風の縁から手を離すことはなかった。


 手をつき深々と頭を下げる。

 手のひらから伝わる木の感触。背中を撫でる冷たい夜風。軋む木の音に、肩から滑り落ちた髪。

 目を閉じても、感覚機能は絶えず何かを伝えてくれる。だが目まぐるしく飛び交う思考はそれらを凌駕する。


 少女と同様に主人様にも加護を使った。梅の君の話によれば、あの時点で危機的な病の状況は免れたそうだ。

 しかし、加護の効果は一時的。奪った苦しみは確実に戻っている。


 あれから二人は加護を使ったのだろうか。主人様を屍呼ばわりしたのは冗談で、必死に治療してくれたのか。


 私に力があれば、可能性の低い事象に希望を抱くこともなかったのだろう。

 私の加護は奪うだけ。使えない力では誰かにすがるしかないのだ。


 たとえそれが私を危害を加える者でも。

 


 「かしこまらないで。私も困ってしまうだろ?」



 優しい声が降り注ぐ。ゆっくりと顔を上げると痩せた顔が微笑んでいた。

 全身の力が抜け、心が温かく感じる。それまで飛び回っていた暗い思考はもうない。



 「ありがとうございます……ところでいかがなさいましたか? こんな夜更けに――」



 そこまで言って慌てて口を噤む。

 男性が夜に女性の部屋に赴く。その理由など一つしかない。

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