三、もう一人の妃

 

 藤君ふじのきみの背中を追い、主人様が過ごす屋敷の中に入る。

 厚く塗られた塗籠ぬりごめの中に点々と置かれた調度品。その全てが光沢のある漆で彩られていた。

 所々に松の木が描かれた高価な品々は、触れることすら烏滸おこがましい。


 貴族の力を存分に表した部屋の中。病の匂いはその奥から感じた。


 

 踏み出すたびに板張りが軋む。きっと奥で青白い肌の主人様が横たわっているのだろう。

 静かな部屋に響くその音は、まるで遅れた私を責めるようだ。


 『よく生きてますね』『本当恥ずかしい』『哀れな人』


 頭の片隅に追いやった藤君ふじのきみの言葉が蘇った。

 攻撃するためだけに並べられた言葉。どれも酷いが、彼女の言葉は正しい。


 長年、主人様が病に苦しんでいるのは知っていた。なら侍女の伝言から推測することも可能だったはず。

 いずれにせよ悪いのは私だ。


 罪悪感が焦る心に突き刺さる。何をしてももう遅い。それを知りながらもなお、重い体を精一杯引きずった。



 屏風の隣を通り抜け奥へと進む。病の臭いが一番強い空間。帳台で眠る主人様の枕元に一人の女性がいた。


 薄暗い室内でも艶を感じる黒く長い髪。背筋を伸ばし座る姿は、只々美しい。袴に単衣を羽織った姿でさえ、着飾った私よりも遥かに華やかだった。


 容姿に優れ、力に優れ、階級に優れ。梅の花の名に恥じぬ女性だ。



 「う、梅君うめのきみっ! 主人様の容体は――」



 「静かに」



 焦る私を一蹴する。開かれた切れ長の目はひどく冷たかった。

 当然だ。皆の目には、主人様より着飾ることを優先した女にしか見えないのだから。



 「申し訳ございません……その……侍女からの言伝を理解出来ず……」



 「桐君きりのきみ。言い訳は不要です。とにかく今は早くしてください」



 「は、はい!」



 軽くお辞儀をして帳台ちょうだいへと上がる。布越しに伝わる井草の感触が、梅君うめのきみと同じ高さにいることを教えてくれた。


 顔を上げなくても感じる冷たい視線。助けを求めるように主人様へと視線を向ける。

 しかし病に苦しむ彼に私を助ける余裕はない。脂汗を滲ませる寝顔は荒い呼吸を繰り返すだけだった。



 「桐君きりのきみ。早くしてください。場所は胸の辺りですよ」



 「す、すみません」



 「謝罪はいいです。早くしなければ未来が変わります」



 「も、申し訳ございません……」



 謝罪はいいと言われつつも、反射的に謝ってしまう。その失態に再び申し訳なくなる。


 もはや口癖となってしまった謝罪の言葉。周囲の人たちはどう思っているのだろう。


 「謝ってばかりで惨め」「いやらしい加護女」「謝るしか能がない没落貴族」


 いつか聞いた罵詈雑言が頭の中を駆け巡る。嘲笑う声。貶む視線。月日が流れても、あの感覚だけは今でも鮮明だ。


 目を閉じ、手のひらに爪を食い込ませる。駆け巡る雑音は痛みでしか紛らわすことが出来ない。


 自身を痛めつけてでも主人様を救う。特別な力を授かったとしての役割なのだから。


 目を開き、主人様の胸へと手を伸ばした。



 『奪え』



 言葉と共に手から黒色の霧が滲み出る。それはあっという間に主人様を覆いつくした

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