第一章

一、孤独な妃



 「桐君きりのきみ梅君うめのきみがお呼びです」



 几帳きちょうの前で止まった女性が淡々と告げる。間仕切り用の薄い布の先に見える景色はどんな時も曖昧だ。

 しかし鮮明に聞こえる声色は、感情を容易に読み取らせてくれる。


 床に置いた手を拳に変えた。

 私はこの女性を知っている。母の付人としていつも近くにいた侍女。中流階級でありながら才女と呼ばれていた彼女は母の付人だけではなく、私に読み書きを教えてくれた。

 

 本来、階級が上の人の所に参るには正装に着替えなければならない。そして侍女はそれを手伝う必要がある。

 梅君うめのきみから事付けを預かって来たのなら、その次に必要なことも分かっているはず。母の代から使えてきた才女なら尚更だ。



 しかし、彼女はこちらには来ない。

 すぐにきびすを返し目の前から去って行く。待ったところで足音は帰ってこない。枯れ木の隣を通り抜けた冷たい風が、吹き込むだけだった。



 「……すぐに参ります」



 誰もいない空間に言葉を返す。


 誰もいないなら返事をする必要はない。落ちぶれた私を誰も相手にするはずがない。


 それを知りながら返事をするのは元上流階級の誇りか、精一杯の足掻きか。


 軽いため息をつきつつ、部屋の隅に向かう。


 風の通りやすいよう横一列に吊られた着物。顔を近付けずとも香の匂いが鼻腔をくすぐる。


 夕焼けに染められたような鮮やかな赤。隣には新緑を思わせる初々しい緑。そのまた隣には初雪の如く繊細な白。

 それぞれの世界に鶴や花の模様を編み込む。その一つ一つが丁寧で、前に立つだけで時間を忘れてしまう。


 鮮やかな色彩に加え、目からでも容易に伝わる滑らかな生地。これらは全て母から譲り受けた物だ。


 皆から尊敬された母の私物を、娘である私が受け継ぐ。定期的に視界に入るそれらが生み出すのは、優しい思い出や安心感だけではない。


 『母親は優秀だったのに』


 この着物で屋敷を歩くたびに聞こえる。優れた力で最良の運命を導いてきた女性。この服と同様に才能も譲り受けられたのなら、どれほど良かったのだろう。

 もう純粋に思い出に浸ることはない。

 込み上げる劣等感を押し殺し、身がすくむような高い生地に袖を通した。

 

 幼い私が覗き見たのは二人がかりで着付けを行う光景。直立する母に付き人が静かに着せていく。そこに言葉はない。

 緊張しながらも着付けを手伝う二人に対して母は毎度感謝の言葉を伝えていた。

 本来なら付き人に対して丁寧な態度を取る必要はない。階級が全てこの社会では下の者はぞんざいに扱われるのが普通だ。


 それでも、階級など気にせず周りと接する母が好きだった。


 だが今は母も付き人もいない。冷たい風が吹き抜ける部屋で一人、着付けを行っていく。

 一枚、また一枚と羽織るたびに感じる重圧。今の私には温もりより重さが突き刺さる。



 少し我慢するだけだから。



 幾度も言い聞かせた言葉。目を閉じ、冷えた手を胸の前で握りしめた。

 食い込んだ爪が鋭い痛みを生み出す。先ほどよりも強く。しかし醜い血で服を汚さないように。


 今ある苦しみに、調節された痛みを追加する。あとどれくらい苦しめば幸せになれるのだろう。

 いつかは報われる。そんな根拠のない理想にすがるため、今日も私は私を傷つけた。

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