かごめ姫
栗尾りお
序幕
勢いよく体を起こす。
荒い呼吸。騒がしい心臓。上下する肩。季節は梅から桜に変わり始めたばかりのはず。にも関わらず、ハラリと垂れた長い髪が額に張り付いた。
寝汗を吸った小袖は凍える体をさらに冷やす。
すぐさま体にかけられていた着物を羽織り、襟元を手で押さえた。
今は美しさなんていらない。視線を落とし、無駄に鮮やかな着物の端をしっかりと握る。その震える唇からは白い息が溢れるだけだった。
室内に流れ込む冷気が彩度を奪う。華やかな生活。幼少期に見ていた世界はこの場にない。
足を折りたたみ、膝に顔を埋める。
密着した胴と太ももの間で生まれた温もり。埋めた白い息を吹きかけ、
凍てつく体は次第に和らぎ、全身に込めた力が弱まるのを感じた。
しかし、それが次なる苦しみを呼び込む。
限りなく現実を再現した悪夢。異常なまでの寝汗をかかせた夢から逃れたとしても、思い出したくもない過去が瞼の裏に映し出される。
軽蔑、嘲笑、嫌悪、侮蔑、苛立ち。視線や声に織り込まれた醜い感情が、孤独な私に
足掻いても変わらず、むしろ苦しくなる状況は、夢も現実も変わらない。
際限のない苦しみに汗が滲み出した。
膝に額を擦り付け、外的刺激で今を上書きする。何度も何度も。
足を抱える手が冷たい。これは吹き抜ける隙間風のせいではないのだろう。
一人寂しく震える明け方。こんな時、母ならそっと抱きしめてくれた。
暗く静かな部屋で不意に遠い昔の思い出が蘇る。
容姿や才能に恵まれてなお、分け隔てなく接する。そんな母はもういない。
なぜ私も連れて行ってくれなかったのか。
なぜ一人にしたのか。
亡き人に怒りをぶつけるたところで無駄だとは知っている。だがそれしか出来ない。そんな自分が情けなかった。
震える左手を這わせ、後頭部に触れる。
力任せに抑え込む頭。固い膝は額を圧迫し、狭まった気管は次第に息苦しくさせる。
記憶を誤魔化すための八つ当たり。しかし、この程度で足りるはずがない。
『……奪え』
頭の中で言葉を唱える。
次の瞬間、黒く大きい手が脳を鷲掴みした気がした。後悔は一瞬だけ。たとえ一瞬でも身が焦がれるような気持ちは変わらない。
「……あれ?」
ゆっくりと顔をあげる。
荒いままの呼吸。騒がしいままの心臓。季節は梅から桜に変わり始めたばかりだ。にも関わらず、髪が額に張り付く。
その理由を私は知らない。
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