どうかあの時の君のままで

教室のわずかに空いた窓から風が吹く。僕の斜め前に座る彼女は前に流れた髪を耳に掛け直した。美しい黒い髪に陽の光があたり天使の輪が映し出されている。斜め後ろの僕からはよく顔は見えないが、僕は知っている。彼女は本物の天使のようであることを。



ピピッ、ピピッ———

 規則的に鳴る耳障りな音で目を覚ます。ぼやけた視界でデジタル時計を見ると、無機質なデジタル文字でAM6:30と記されていた。朝の時間の流れのはやさに軽い憂鬱を感じながら重たい上半身に鞭を打った。閉めたカーテンから漏れ出す日光がひどく不快で仕方なかった。

 寝ぼけながら溺れるように顔に水を荒々しく打ち付けると、少しは頭が冴えてくる。顔を上げると目の前にはひどく死んだ顔をしている男がいた。くしゃくしゃになったワイシャツ、くたびれたスーツに腕を通す。ほぼ毎日繰り返される機械的な動作。朝食は食べる時間がない。空腹を感じるが、水を一気飲みしそれを誤魔化した。そして全てがいつもと同じ、重たい体を引き摺り玄関を開ける。目が眩む日差しと騒々しい蝉の声に頭がおかしくなりそうになりながら、今日もつまらない社会へ繰り出した。



『—くん』

ふと誰かが僕の名前を呼んだ気がした。そんなはずないか。高校3年にあがったこの頃まで、授業の時以外同級生と話す機会などほぼ無かった。いつも俯いていて休み時間には机に突っ伏して誰とも話さない。根暗なやつ。僕はそんなやつだ。友達なんて1人たりともいなかった。

『おーい!—くん!』

僕の名前を呼んでいるその声に驚き顔をあげた。

『起こしちゃた?ごめんごめん』

驚いたまま無言の僕に彼女はお構いなしに続けた。

『クラスのグループトーク、入ってないよね?大事な連絡とかももしかしたらあるかもだから、招待してもいい?』

しばらく誰とも話していない僕は、緊張して小さく頷くことしかできなかった。

『よかった!じゃあ友達登録しよ!QRだして—』


ガタンッと大きく身体が揺れて目が覚めた。どうやら電車で眠ってしまっていたみたいだ。夢というか、高校の頃の記憶が蘇った。根暗な僕に唯一自分から話しかけてくれたのが彼女だった。彼女は明るくて、男子からも女子からも好かれる存在だった。所謂一軍女子ってやつ。それでいて性格の悪さなんか一切感じない。誰にでも優しく接して、非の打ち所がない、という言葉は彼女にぴったりだった。自分でも気持ち悪いと思うが、僕は彼女との会話を全て覚えている。彼女からしたら僕の存在なんかなんてことない、薄い人間だったのだろうけれど。僕は高校生活の中で、君だけがすべてだと思うくらいに彼女に惹かれていた。


ふとスマホを見ると、先ほどの夢?が偶然か必然か、高校のグループトークに通知が入っていた。珍しい。卒業して6年経った今では、年末の同窓会の呼びかけくらいしか動いていなかったのに。特に発言するわけでもないが、トーク画面を開いた。


『ねえみた?朝のニュース』

『え、みたみた。やばくない?』

『久しぶりー、なんかあったの?』

『里穂、殺されたって』


時が止まったような気がした。


『里穂って、佐野さん?』

『うそなんで』

『56歳のおっさんにラブホで殺されたって』

『そーゆー仕事してたってこと?』

『えまじ?こわすぎ』

『同姓同名だと思ったんだけど写真出てたよ』


テレビのニュースの画面を直撮りした写真には、高校の卒業アルバムと同じ、微笑む彼女が映し出されていた。

固まる僕をよそに、トーク画面のテンポは上がっていく。


『えーでもさ、高校の時から里穂って噂あったよね』

『援助交際?パパ活的な?』

『噂だったじゃん。やめなって』

『やっぱり!俺言ってたじゃん!誰も信じてくれなかったけど』

『お前なんか言ってたっけ』

『高校の時に夜佐野さんがおっさんと腕組んでるとこ見たって!俺言ったじゃん!』

『ほんとかよ笑』

『まじでやめなって』



佐野里穂。僕の、好きだった人だ。

僕にも笑顔で話しかけてくれた、優しい彼女。

心拍数が上がり、手汗でスマホを落としそうになった。

「次は、⚪︎⚪︎、⚪︎⚪︎—」

その音声にはっと我に帰ると会社の最寄駅を一つ過ぎた駅だった。急いで電車を降り反対のホームに走った。そのあとは少し遅刻したがなんとか会社に着いたんだと思う。上司に遅刻について小言を言われたような気もするし、言われてないような気もする。気がついたら夜で、ベッドの上で寝ていた。今日自分はしっかり仕事をしていたのだろうか。あのトーク画面を見てからの記憶がほとんど無い。まだ頭がぼーっとする。何も考えられない。


深夜、少しずつ意識が戻ってきた。朝から電源を切りっぱなしだったスマホを手に取った。電源をつけると、朝ほど勢いはないものの、グループトークはいまだに新しい通知が更新されている。どうやら今日一日中この話題で持ちきりみたいだ。鳴り続ける通知を無視し、検索エンジンを開き、佐野里穂、と打ち込んだ。すると今日のニュース記事がいくつかでてきた。


《××市のラブホテルで女性刺殺》


見出しをタップすると、事件の詳細が簡潔にまとめられていた。


「事件は8月⚪︎日未明、××県××市内のラブホテルにて首や胸が数箇所刺された女性の遺体が発見された。———逮捕されたのは職業、住所ともに不詳の山本誠司容疑者(56)。逮捕容疑は————。遺体発見の翌日、両親からの届け出により、被害者女性の身元が判明。女性は××市に住む無職の佐野里穂さん(24)であり——」


文章の下には彼女の写真が貼られており、朝送られてきていたニュースのものと同じ、高校の卒業アルバムの写真と、もう一枚。もう一枚の彼女は大学の頃か最近のものなのかはわからないが、美しい黒髪だった髪が茶髪に、優しそうな垂れた目尻にはきつくアイラインが引かれ、真っ赤なリップと以前の彼女とはかけ離れた印象になっていた。しかし、元の顔つきの幼さが、彼女の面影としてしっかり残っていて、この茶髪の女性があの彼女であることを理解させられる。


一通り見終えたあと、目を閉じた。人気者で、あんなに優しい彼女が、何故。卒業してから、彼女は何をしていたのか、何があったのか。頭がくらくらする。僕は、彼女のことを何も知らなかった。

ふと今朝みたトークが頭をよぎる。


『えーでもさ、高校の時から里穂って噂あったよね』

知らない。


『援助交際?パパ活的な?』

知らない。


『高校の時に夜佐野さんがおっさんと腕組んでるとこ見たって!俺言ったじゃん!』

知らない。


思い返せば、今の彼女どころか、高校の頃の彼女のことすら何も知らなかったんだ。違う。知っていた。彼女は、清楚で、いつも笑顔で、みんなに優しくて、こんな僕にも話しかけてくれて、天使みたいだった。それで、それで、なのにどうして、どうしてそんな噂がたっていたのか。おっさんと腕組んで歩いてたって、身内の可能性だってあるじゃないか。みんな適当なことばかり言ってる。でも、じゃあ、なんで彼女は殺されたのだろうか。彼女は何故そんな場所にいたのか。何故、そんなやつと一緒にいるんだ。彼女は何をしていたんだ。考えたくない。こんなの、僕の知ってる彼女じゃない。君は、僕の知っている君はこんなのじゃないんだ。こんな君は知りたくない。知りたくないはずなのに知ろうとしてしまう自分がいる。あの時の君に縋っていたいのに、今の君を知りたいと思う自分に心底嫌気がさした。


吐き気が止まらずトイレに駆け込んだ。今日一日中何も食べていないせいで出るのは嗚咽とむせ返るような苦味の液体。ひとしきりの嗚咽の後、何も吐瀉物は出ていないにもかかわらず頭がすっきりしたような感覚になった。吐瀉物の代わりに、僕の脳内は一つの答えを出した。



そのあとは眠ったような気もするけど眠りが浅く眠った心地がしなかった。デジタル時計を見ると、無機質なデジタル文字でAM6:30と記されていた。朝の時間の流れのはやさは今日は感じなかった。閉めたカーテンから漏れ出す日光が心地よい気がする。

 顔を洗い、顔を上げると目の前に無表情だがどことなく吹っ切れたような顔をした男がいた。くしゃくしゃになったワイシャツ、くたびれたスーツに腕を通すことはなく、部屋着のまま。いつもとは少し違う。朝食をとったが味はそれほどしなかった。そして、少し軽い気持ちで玄関を開ける。目が眩む日差しと騒々しい蝉の声に頭が8月を感じさせた。


駅のホームはスーツを着た人たちで賑わっている。昨日の僕もこの風景の一部であった。

電車の待ち列の1番前に立つ。上を見上げると、眩しい太陽。太陽の周りに白い光が円を描いている。まるで、いつかみた君の黒髪の天使の輪みたいだった。

大きな音、軽快な音楽がホームに響きわたる。電車が来る合図だ。電車が近づいてくる音がする。この電車はこの駅では止まらない。速度は落ちない。僕は大きな一歩を踏み出した。身体が浮く感覚。電車がだんだん大きく見える。全ての時間がゆっくりに感じた。


『—くん』


君の声が聞こえる。目を閉じると。瞼の裏に君が笑っている姿が映った。

これが、僕の知っている君だ。



どうか、あの時の君のままで。



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