北方擾乱編
北に向かう
王朝の衰微を決定づけた五紫の大乱以降、各地に賊徒の勢力の台頭を許すようになってしまった。王都の南方に位置するこの山に盤踞する
濾布山には山腹を「濾」と大書された白地の旗が取り囲む。かつて打ち捨てられた古城を再利用されたこの山は、その高さに似合わない威を周囲に放っていた。麓には山中の賊が所有する田畑がある。加えて十年ほど前からは賊徒らの住むために、商家をまねた軒の連なる町もどきさえ出来始めているのだ。
さて、その濾布山に設けられた曲輪の一つにこの賊徒の首魁が住む屋敷がある。屋敷は零細の領主にやや及ばないくらいの大きさだ。始まりは雨露をしのぐための稚拙な小屋が乱立したこの山も、徐々に改修が加えられて今の規模に至る。
「トウキ様。偵察に出していたもの達からの報告が上がってきました」
屋敷の一室に、障子を開けてその中にある主へ連絡に来るものがあった。トウキと呼ばれた室中の人は古びた青の衣服を着ており、額に彫られた「犬」の字の入れ墨が特徴的だ。この男が濾布党の頭領である。
それまで一人タンスの中を整理していたトウキは「そうか」と返事をして連絡に来た者の方へ向かう。閉じられたタンスの中には黄地の女物の服があった。
「これが報告書です」
トウキは額にある「犬」の入れ墨あたりを触りながら、渡された報告書を読む。しばし黙り込んだかと思うと連絡に来た男の方を見て指示を出す。
「精鋭を百人ほど選抜し、人数分、道中の糧食や資金の用意をしておけ」
「承知しました。では、やはり……」
「うむ、潰しに行かねばなるまい。遠く北方の敵だが、とても放置は出来ない」
一方、王都の八百官が集まる
「北方の不穏さはかねてより聞いていたが、まさかこれほどの事態になるとは」
「そんなに大事かね?既に現地の軍がある程度撃退したというではないか。任せきりでも問題ないのでは。私としては度々中央に背いている西方の諸領主への対策が先だと思うが」
「いえ、まだ官衙への攻撃を追い払っただけで賊の根拠地への反撃はできていません。徴兵を避けて官兵のみで問題を解決するならば援軍は必要です」
「そうだな、援軍は必要だ。とはいえ西方の不安が大きすぎるのも事実。たとえ数百人程度でも王軍を動かすには用心がいる」
「おや、大将軍殿は随分と他人事のようですな。ご自分の仕事内容がお分かりでないようで」
「大蔵大臣、口を慎みたまえ。さすがに無礼がすぎるぞ」
「……誰か良案がある人は?」
「諸侯のいずれかに代権を発布して援軍に向かわせるのはどうかしら」
「諸侯に軍事関係の代権だと?やめろやめろ。後々災禍をよぶことになるぞ。そもそも以前ナミルの検領で代権を発布したのも避けるべきだった。最近乱用がすぎるぞ」
「しかし、そうでもしなければ目の前の災禍さえ払えぬことも事実です」
緑冠の高官らの議論が熱を帯び始めたとき、それまであまり喋らずにいた紫冠の老翁が口を開いた。輪から外れた所に控えた青冠の男に問いを投げかけたのである。
「テンドッグよ、そもそも法的には軍事の代権というのは可能なのか?」
尋ねられた男、テンドッグが問いを投げた人に向き合い一礼してから答える。
「はい、宰相。代権法は朝廷の職務を正規の者以外に代わって任せる趣旨の法令であるため、建前上可能ではあります」
テンドッグは頭を下げたまま、さらに続けてこう言う。
「しかしそれ以前の法令では明らかに諸侯が単独で軍を動かすことを禁じております。代権法自体が五紫の大乱後の朝廷での人材不足を解消するために緊急で制定されたものであることはお忘れなきよう」
「うむ、分かった」
さて、宮城から歩いて数十分の所に、質素ながらも手入れの行き届いた大きな邸宅がある。都で名も高いタンの家であり、彼の開く私塾も兼ねている。シエンなど一部の塾生に住むための部屋を貸してもいる。
宮城で高官らが上奏に対する議論を始めてから幾日か経ったときのことである。
ナミルでの行動を問題視されてシエンは謹慎処分になっていた。この日それも解かれ、今はタンの家の庭を掃き掃除している。ちなみにアラタは贈賄をきつく咎められて島流しになった。
「シエン、そろそろ昼ご飯だぞ。キリの良い所で戻ってこい」
シエンの同期でこちらも住み込みのフンケという男がシエンを呼びに来る。それに対してシエンはほうきを掲げて喜んだ顔で返事をした。
「おお、もうすぐ終われるよ。先に行っていてくれ」
返事の後、さらに精を入れて切り上げにかかる。
さあ終われるぞと言う所まで来たとき、蕭蕭とした風が吹くとともに冬の寂寥をうたう歌が聞こえてきた。しばらくして歌がやむと、門を叩く音がする。門を開けて応対してみると、私服姿のテンドッグが立っていた。
「お久しぶりです、先輩」
「なんだシエン、謹慎明けなのに敷地内で作業してるのか」
テンドッグがシエンの持つ箒を見て少し驚いた顔で尋ねる。そして口をもご付かせながら頭に手をやり、申し訳なさげに顔を下に向ける。
「ああ、その、なんだ。ナミルの一件は悪かったな。もっと考えてから仕事を頼むべきだった。経歴に傷をつけさせてしまったな」
「いえ、こちらこそ力不足で不必要にことを大きくしてしまい申し訳ありませんでした。……ところで今日はどういった御用で?」
「ああ、いや。しばらくぶりに暇ができたのでちょっとタン先生へ挨拶に……」
「先生ならたぶん食卓のある部屋にいます」
シエンはテンドッグと共にタンの元へ向かう。目的の部屋の戸を開けると、やはり白髪銀髭の老翁が一人ゆっくり食事をしていた。同室には本を読む子や、友達と遊び戯れる子らもいる。
「先生、ご無沙汰しております」
テンドッグが老翁に挨拶する。声をかけられて初めてその存在に気付いたのだろう。タンはテンドッグらの方を向いて驚いたように眉を上げたが、やがて顔をほころばして近くへ寄るように促す。
「久しいな、テンドッグ。会えて嬉しいぞ。シエンもお疲れ様、冷めきらないうちにご飯をよそって食べなさい」
シエンが台所に昼食をよそいに行く一方、テンドッグはタンの向かいに腰掛ける。
「お元気そうで何よりです」
「いやあ、最近はご飯を食べるのにも時間がかかる。体にガタが来ているのを感じるよ」
久方ぶりの師弟の会話は数刻に及んだ。食事後は席を立ったので、一体何を話したのかはシエンは知らない。ただテンドッグの帰り際、見送るタンの面に愁眉が浮かんでいたのを見ただけである。
翌々日、タンの家にまた別の訪問者があった。もはや珍しいことでもなくなったのだが、それでも並みの訪問者ではなかった。朝廷の官吏である。
「タン殿。急な頼みになって申し訳ないのだが、門人から幾らか良い人物を紹介してもらえないか?」
屋内に通された青冠の官吏はそうタンに頼む。五紫の大乱以降、特に都内の私塾は朝廷や諸侯、領主の人材確保源としての機能を帯びるようになった。タンの塾はその最大級の所である。国法院の副長官テンドッグや副将軍バクジン、ススミ侯の寵臣ナガサをはじめとして、主だった勢力において重臣級の地位に就いた出身者も多い。
「ご存じの通り、私も年には勝てず塾の規模を大分縮小してしまいました。以前の推薦以降はまだ官吏として恥ずかしくない者は育っておりません」
「いえ、特に実務能力は必要ないのです。……というのも、ススミ侯へ代権が渡され、侯軍がヨモガカザへ北伐に赴くのですが、そこへ朝廷が人を派遣したという体裁をとりたいだけですから。ここの出身のナガサが大将になりましたので、同門の者ならば問題も少なかろうという話になりまして」
「どうしても私の弟子が必要ですか?」
「是非。朝廷ののっぴきならない人材不足はご存じの通りですので。また下手な人物を選んでは関係悪化の原因にもなりえます」
老師が瞑目する。官吏もそれを黙って見つめる。当然だが無理を言っている自覚はあるからだ。やがてタンが静かに口を開いた。
「分かりました。ナガサと交流があった者を中心に声をかけてみましょう。……あまり期待せずにお待ちください」
さらに数日がたった。ススミ侯のいる殿舎で侯グサケにタンの門人二人が謁見していた。シエンとフンケである。どちらも王朝の下級官吏の衣装として、長剣を佩き青冠をかむっている。
応対するススミ侯グサケは見るからに頑強な壮年の男だった。頭に戴く緑冠は領主格ながら朝廷の高官に比肩する侯の地位の証であり、絢爛な衣帯は副都とさえ称される大都会ススミの主の威をそのまま表している。
「よく参られました。この国難にあって朝廷のお力になれることをありがたく思います。ナガサのこと、よくお支え下さい」
位冠だけをみれば緑冠は青冠に勝るが、立場としては朝廷の使者とそれを受ける領主層という微妙な関係である。雑務的やり取りならばともかく、かかる大事ともなれば、普通朝廷からも緑冠の役人が派遣されるものであるが、代権法制定以降はこういった格下を派遣する例も増えた。
こうした格下への対応は領主によってまちまちであるが、ススミ侯のように一定以上面目をたてるような謙虚さのある者は朝廷側にも重宝されている。
「さっそく明日が出陣です。諸将への挨拶がお済みになられたら宿舎でお休みください。そこの者が案内をします」
そういってススミ侯がシエンら二人の後ろに控えた黒冠の小役人を指す。
謁見を終え、案内人に従って大将のナガサを含めた諸将への挨拶を終える。
日が暮れて後、二人が泊まった宿舎の寝床は、今まで使ったことのないほど柔らかで上品質なものだった。
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