渡らない橋

 摂領邸の使用人のうちの一人は、日記に次のように書き残した。


 『奇怪なことに邸内を衣服と髪とだけが飛び回っていた。それを十数の兵士が追いかける。服の主は体であり髪の主は頭である。その主なくしてその従が動く、そのいは何ぞや。』


 さて、もちろんその主はクジである。肉体の他に及ぼしていた魔術を破られて、直接の肉体以外の服などはその姿をあらわにしていた。

 

「戸や窓に近づけないように気をつけろ!」


「賊を逃がすな」


 追う兵士の後ろでアラタが指揮を執る。初めは余裕を見せた顔色も、次第に焦りを含むようになっていった。それは一向に捕まらず驚異の逃走力を見せるクジのせいか、はたまた同じころに夢の中で強いられる劣勢ゆえか。

 アラタの心情の変化は置いておいても、とにかくしばらくは追いかけっこが続いたのである。

しかし、そこはやはり閉鎖的な屋内での出来事である。兵を二手三手に分け、あちらからこちらからと追手をせまらせ、次第に追い詰めていく。

 追いかけて追いかけて、遂にクジを一部屋に追い込んだ。

 

「やあ、お客人。そこな賊徒を捕らえるのにご助力いただけないか?」


 部屋の中にはシエンがいた。彼は膳の前に座って少しぼうっとした様子で顔を触っていたが、飛衣が兵に追われて入ってくるのを見て咄嗟にこれをかばう素振りをみせる。

 追手のアラタはシエンが覚醒しているのを見て若干驚いたように下唇を噛んだが、頭を働かせて逆にシエンにクジを捕らえるのを手伝うように言った。拒む素振りを見せれば共犯としてまとめて捕らえられると踏んだからだ。

 案の定、というよりも仮に二人が無関係でも普通はあり得ない言い分なのでこうなっただろうが、シエンは眉をひそめて応じる風を見せなかった。

 

「おやおや、どうなされたのかな?困りますなあ。ひょっとして――」


 我が意を得たりとアラタは嬉々とするが、その言が最後まで紡がれることは無かった。

 にわかに騒擾の気が邸外から立ち込めてきたからだ。門兵の一人が急ぎ足でやってきて外の状況をアラタに報告する。

 摂領は苦渋と驚愕の色を満面に浮かべた。部屋の中の二人をしっかり監視しておくように言い残して側近の兵数人を連れて外へ出ようとする。

 しかし、もはやその必要はなかった。すぐに騒擾の原因が邸内に立ち入ってきた。領内の商人の私兵だった。その数は三百に及ぶかどうかという規模だった。

 当然、領兵の方が総数では勝るのだが、近年は北西方面の濾布党を中心とした賊への抑えとして詰め所に相当数を置いているために、要所中の要所にも関わらず摂領邸という局所において数的劣勢に陥った。

 ところが、反乱兵らは一向に戦闘の気配を見せなかった。アラタは更に自軍にもその意思がほとんど無かっただろうことを不思議に思った。如何に数的に不利であろうとも、普通に戦ったのならば考えられないほど早く邸内に立ち入られていた。

 時を置かずして、反乱兵の後ろからその理由が現れた。同時にアラタは悟った。寧ろ自分たちが賊兵の立場に立たされていることを!


 前に出てきたのは数十人だったが、そのほとんどはその中の特に二人を守る兵だった。商人の私兵らと異なり、私語はなく、統一された暗色の鎧は手入れが丁寧で優美さすら感じさせた。

 これらの兵に守られた二人のうち、一人はアラタの良く知る顔だった。車付きの椅子に乗り、近侍に押されながらいささか苦し気な様子で現れた。アラタの祖父であり、名ばかりとはいえ現領主である人物であった。


「おじいさま……」


 もう一方の女はアラタの知らない顔だった。顔立ちは端麗、長い黒髪はつややかで鮮やかにさえ思われる。振る舞いはおおらかで焦りなく、その人物の大きさを物語っていた。服装はタンの門下に共通の紺の塾服だったが、どこかせわしないシエンと違って落ち着いた風を感じさせる。

 しかしそんなことは全く肝心ではなく、アラタの目を引いたのはその女が腰に帯びた宝剣だった。間違いなく、王の代理の印である。

 

「陛下より検領の代権を賜って参った。ススミの領主グサケの臣、ナガサである。ナミルの摂領アラタには、領法審査会への贈賄とそれにより不正審査を要求した嫌疑がかけられている。既にそれを裏付けるいくつかの有力な証拠もである。この上は速やかに縄につき、全容解明のために尽くしたまえ」


 アラタは自分の中で闘志はポキリと折れてしまった。




 ナガサが連れてきた役人らが邸内を捜査する間、アラタは縄に縛られ、ナガサのもとに監視されていた。シエンも今日の騒動の当事者として席を同じくする。もう一人の当事者クジは、いつのまにか行方をくらませていた。

 このとき、ナガサとアラタの間で次のような会話があったと記録に残っている。


「ナガサ殿、私はあなたが公正明大であると聞き及んでいます。私は法を犯し、今その罰を受けるところとなったわけですが、さてこれは善悪の外にあるものでしょうか?内にあるものでしょうか?」


「さあ、そういうことは私の知るところではないわ。言えるのは、世間の人はあなたの横暴さを嫌っているし、私としても特別あなたをかばいだてるような気持ちは湧かないということだけよ」


 ナガサの返答を聞いてアラタはがっくりとうなだれた。あるいは最後に自身の正統性を示そうと論戦を仕掛けたものの、取りつく島もなかったことに失望したのかもしれない。

 この様を哀れに思ったか、ナガサは次のように付け加えた。


「同じように君の善悪もまた私の知るところではないよ。」


 この後座を同じくしている間、三人は誰も口を開かなかったという。



 三日後、シエンは他数人の役人と共にナガサの後をついてナミルの町中を歩いていた。シエンがまとめていた奇病の患者らの家を手始めに、摂領の汚職によって不入の権を一部凍結されたナミルの統治事情に関して公的な調査をするためだ。これ自体は恙なく進行した。

 その日の調査が終わった後、ナガサは町に架かる大橋にたたずんで夕焼けを眺めていた。その場の流れでシエンも後ろに控えることになっていた。ナガサが黙してじいっと日の沈んでいくのを見つめる中、シエンは離れすぎない範囲でグルグルと歩き回る。


「きれいだね」


「え?ええ……」


 急に話しかけてきたナガサに、シエンは不意を突かれたように冴えない返答をする。その会話はそれで終わりだった。

 ずっと会話がなかったならまだしも、変にやり取りが挟まると却って気まずく感じるものだ。数秒もしない内に今度はシエンが話しかける。


「先日の……アラタとのやり取りについて伺ってもいいですか?」


 ナガサはたたずまいを正して、シエンの方へ振り返る。


「なんだい?」


「その……なんですか?あの……善悪の知るところ云々の話なんですが……先輩は実際どういう考えなんですか?」


 涼風が服をたなびかせバタバタという音を響かせる。黒髪を服と同じく風に揺らしながらナガサははにかんだ。


「いったい君は随分と恥ずかしいことを言わせようとするね」


 言いながらナガサは頬を掻き、少し乱れた服を整える。そして手でついてくるように身振りして歩き始める。しばらくは黙っていたが、橋を出た辺りで話し始めた。


「……あの後もアラタから話を聞くことがあったんだけど……彼が言うには、世の中の悪人のそしりは岸にいる人が淵で溺れる人を笑うようなものだと。要は実際その危難にあってない人が自分の本性を棚に上げて非難しているだけだと」


「確かに、あいつ似たようなこと言ってました。だから魔法で見せてた夢の中身が寒さだの飢えだの渇きだの悪趣味な内容だったわけですよね?その人を追い詰めるために。とんでもないやつです」


「うん、私もひどいやつだと思った」


「では、なぜ彼の善悪を知るところではないと?」


 ナガサが返答するまでやや時間があった。ためらった様に首を回す。またその間も歩き先ほどとは別の橋に差し掛かった。


「……善はという意味だ。悪はという意味だ。道徳は善悪の評価軸だ。どちらにせよ人に冠する以上一切の過失は許されないと信じたい。いや人のみでもない。鳥獣や木石、風雨にいたるまで原理的に平等に扱わねばならないはずだ」


「たしかに理想的にはそれが好ましいでしょうね」


「だがが思いつかない。私はそんなもの存在しないんじゃないかと思う。有っても不可知だ」


「……飛躍があるように思いますが」


「短くするために省いたからね。要は……少なくとも自分が彼の善悪を評価する軸を持ってないと思ってるってことよ。それができるようになる時は、森羅万象について同様に測れるようになったときだ」


 自分から聞いておいてなんだと本人も思ったが、シエンはナガサの論にそれなりの不満を抱いた。何か反論しようと黙考しているシエンを尻目に見ていたナガサが更に口を開く。


「ところで、このナミルには橋が七つある。今日何回橋を渡ったか覚えているかい?」


「え?あ、はい。えーと……十三回です。」


 突然の無関係な質問に虚を突かれる。日は更に水平線に沈んでもう下半は見えなくなり、いっそう暗がりが増していた。


「どうすれば七つ全ての橋を平等に一回ずつわたれると思うかい?」


「何ですか?急に……えー」


 ナガサの意図を図りかねつつも、シエンは腕組して考える。頭に町中の地図を描き、思い浮かんだ方法を一つずつためしていく。なかなか思いつかない。


「……そもそも出来るんですか?」


「さあ?知らないわよ」


「ええ……」


 シエンは困惑の表情を浮かべる。それを見てナガサが失敗を誤魔化すように微笑む。


「困らせちゃった?ごめんね。自分でも変な話題だったと思うわ」


「……」


 シエンは答えなかった。彼女が何を言いたかったのかを黙って考える。さほど時間をかけずにピンと来るところがあった。


「ああ」


 手をポンと打つ。


「先輩も困ってるわけですね」


 道徳という価値基準を全てを平等に扱うものだとしたときに、果たしてそれがそもそも存在するのかどうか、それが分からないから困っているのだ。そういうことが言いたかったのではないかと思った。そしてナガサの顔がパッと明るくなったのを見てそれが合っていたのだと悟る。

 なるほど、確かにシエンにもこれが一代の困りごとに思えた。

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