五里夢中

 クジの邸内探索は数時間で終わった。その間の出来事である。

 廊下を通る役人や使用人を避けつつ邸内を探索してしばらく、幾つか部屋を覗きまわった後のことだった。邸の中でも人の少ない端の方を探していた時のことである。他と違って魔法で侵入を拒む戸があった。


 時間をかけ、持ちうる技術の粋を集めてようやくその防御を破った。再度周囲を確認して開く。部屋は埃もなく清潔だったが、薄暗かった。擦りガラスの窓からの僅かな採光だけが光源なのだ。まず目に入ったのは物置のような薄暗さの中にずらりと並べられた薄茶の薬瓶だった。更によく目を凝らすと、部屋の奥側の棚の影に分かりにくいが小さい扉があることが分かる。薬瓶を一つくすねてその扉に向かう。


 きいっ、と戸の軋む音を立てながら中を覗き見る。今の部屋も暗かったが、この部屋の暗さはその比ではなかった。真っ暗闇である。クジは魔法を解いて自身の服だけ普通に見えるようにしたが、この部屋の中では透明なままと見た目が変わらなかった。入り口を開け放しにして少なくとも光を確保しつつ、暗闇に慣れるまでじっと目を凝らす。少しすると、目が慣れて部屋の状況を理解できた。


 六畳半ほどの小さめの部屋だった。

 中央には腰ほどの高さの角状の机があり、その上には人の頭よりやや大きいくらいの半透明の白玉が鎮座している。何より目を引いたのは、手を伸ばせば届くような低い天井と部屋の四方の壁に整然と並ぶ紙製の呪札であった。赤欄赤字の札の模様はどれも違って、よく見ると崩し字で人名が書かれてあることが分かる。


 子供のころに聞かされた伽の話に出てくる、魔法使いの部屋の心をクジはふと思い出した。



 一方そのころ、シエンとアラタはともに食膳を前にしていた。アラタがシエンを客人として饗応したのである。

 ところがこの客人、主人を前にして失礼なことに、眠そうに薄目になってゆりかごを揺らしている。しかし主人の方もそれを咎める風でもない。寧ろほくそ笑んでそれを見守っている。

 シエンも眠気にあらがったが、遂に屈して食膳に顔を突っ込んだ。

 

 全く、仰天したという以外にどう表現したらよいだろうかと思った。

 次にシエンの意識が知覚したのは肉を裂くような寒さだった。風が雪あられを叩きつけ、積もり積もったそれらが体の下部から熱を吸い取る。

 ふと腰に妙な重さを感じたので見やると、いつの間にやら長刀一振りを佩刀していた。

 初めに寒さを知覚してからこの間は三秒にも満たなかったが、シエンは耳や指といった五体中の突起から急速に触覚が失われていくのを感じた。

 体をうずめ、露出部を腕などで 慰み程度に覆うくらいしかできることはない。

 全く行き詰って先の予測が立たないとき特有の胸を締め付け、眼球を揺らすような感覚が湧き上がってくる。


 風がやんだ。

 一瞬だが視界がふわりと開ける。

 目下一面にわたる白の中、燦然として目を引くものがあった。

 痛む四肢を動かしてそちらへ向かう。

 それは紅の細長い布だった。凍えるような寒さが却って良かったのか、手に取ると雪がさーっとこぼれて乾いたそれが露わになる。長さは両腕を広げた倍くらいある。

 再び吹雪き始めて視界の悪い中、かじかむ手でそれを首から耳にかけてを覆うように巻き付ける。しかし気休め程度であって依然寒さは和らがない。


 また風がやむ。

 次に目に入ったのは紺色の盛り上がりだった。

 雪に埋もれる足を抜き出しつつ、息を切らして近づく。微細を認識してギョッとする。それは厚着に身を包みうずくまったまま息絶えたと思われる老翁の死体だった。

 手を合わせて黙祷もくとうし、罪悪感を押し殺してその服をはぎ取って身に着ける。下着までは剥がなかったのが最後の良心である。

 幾分和らいだとはいえ未だ寒さは脅威であり、疲れも着実に溜まって気力をそぎつつあった。


 行く当てもなく歩いた。二度はやんだ吹雪も勢いを取り戻し、寧ろ激しさを増しシエンを襲う。

 しばらく歩いて一層体力を消耗したときである。何かに蹴躓いた。それが何か気づいたとき、シエンはじーんと腹のあたりから不安と焦りが入り混じったような感覚が体をのぼっていくのを感じ取った。

 初めは大きな塊としか認識しなかった。一瞬時間をかけて、視界に映っているのが衣服なのだと気づく。顔まで覆っていたのですぐに気づけなかったが、躓いたのは人であった。よく見ると中年の男のようだ。

 今度は生きている。生きているには生きていたが、呼吸浅く死にかけているのが明白であった。


「も、もしもし。大丈夫ですか?」


 震える手でゆすりながら語り掛ける。呻き声さえ返ってこない。

 シエンは雪にあまり馴染みがなかった。生まれ育った故郷では雪が五ミリもつもることがあれば大雪という扱いだった。このような雪原での人命救助のセオリーなど分かるはずもない。

 とりあえず吹雪があたらないように自身を風よけにしようと覆いかぶさってみる。

 そんな感じで二、三分の間、途方に暮れていた。


 突如、不穏な音が耳に入ってきた。

 グルルという唸るような声が背後から近寄ってくる。

 慌てて振り返る。雪景色に似合わず、赫灼として火を想起させる赤い口。爛爛とした眼光。一頭の猛虎がそこにいた。

 思わず飛びのいて距離をとる。飛びのいた後に男を置いてけぼりにしてしまったことに気づく。

 しかし元より遅きに逸したのだ。既にシエンと男の距離より虎と男の距離の方が近かった。

 虎に襲われる覚悟で男を回収しに踏み込むか、虎が男を無視するように祈るか、いずれにしても虎の気分次第である。

 今、シエンと虎、そして男は直線状に並んでいた。シエンは男を直線から外そうと、虎に向き合ったまま斜め後ろに動く。

 虎はシエンの方を目で追いつつも、倒れこんでいる男の方へ体を向けたままだった。そのままゆらりと男に近づいていき、前足をかけようとした時である。


「実際に目にすると字面以上に悪趣味な設定ね」


「え」


 背後からの聞き知った声に驚き、声を上げて振り返る。

 黄色の地に梅がかかれた服。頭に着けた特徴的な白い三角巾は、あたり一面が白であるがゆえにいつも以上に違和感を醸し出し、左手には大きな白玉を載せている。

 別れて摂領アラタの邸内を探しているはずのクジがそこにいた。


「あなたもここに?……というか寒くないんですか?」


 吹雪に吹かれて髪や服をたなびかせながらも、気にする風もなく直立不動なので思わずそう尋ねる。


「ここは夢の中だよ。そこの虎も、ほら」


「そうだ、虎……」


 シエンが振り返ったとき、そこに虎はいなかった。倒れていた男もいつの間にかいなくなっている。

 驚き目を見張ったのも束の間、次は足下の雪が消えうせた。代わりに晩春を思わせる草花が広がりわたる。


「……!」


「驚いて声も出ないかしら?……これが奇病のよ。思った通り、摂領が呪術で人の夢に干渉する手段を有していたわ」


「こっちの玉は他人の夢に侵入するための呪具ね。ご丁寧に飾ってあったわ。そして……」


 言いながらクジは右手を掲げて、人差し指と中指で何か挟むような仕草を見せる。魂が抜けたように硬直した様子を見せると、途端に白玉が淡く光る。気づけば両指の間におふだが挟まっていた。


「そしてこれが、肝心かなめ。書き込んだ内容をその夢に反映できるようだわ。今の変化は私が《現実》で書いた内容でアラタが書いていた内容を上書きしたわけね」


 気づけば先ほどまで顔や指先に感じていた痛みもなくなっていた。余裕ができると栄辱に敏感になるのが人の常だ。シエンは急速に先ほどまでの自分の行動を恥ずかしく思う感情を抱くと、塾服の上に着込んだ服を脱ごうと手をかけた。



「他人の物を盗んで、随分と好き勝手してくれるじゃないか」


 若い男の声がする。この声は二ヶ所、別々の場所で同時に聞こえた。

 片方はシエンとクジが二人いる夢の世界だ。

 もう片方は――


 暗闇の中、クジは胡坐に座りながら瞑目していた。膝で固定した左手に白玉を持ち、ペンを握る右手は垂れ下がって床にミミズ様の線を引く。辺りには部屋中に貼られているのと同じ札が数枚散らばっていた。

 今述べた景色は、当然クジの魔術で透明化されて視認できないのだが、状況としてはこのようであるのだ。

 この透明な侵入者は間違いなく起きているのだが、しかし意識が現実から逸れているのだから、寝ていると言っても差し支えはないのかもしれない。

 どういうことかと言うと、つまり、クジは夢の中でのシエンとのやり取りに気を取られて部屋の主が入ってきたことに気が付かなかったのだ。

 

 摂領アラタは部屋に入ると、まず人差し指に魔術で火を灯した。

 照らされた部屋を見て、見る見るうちに顔色が青くなっていく。中央の机に駆け寄ってその周りをぐるっと見渡す。

 焦りのあまり、机や周囲の札を焼き焦がしてしまい慌てること数度、ようやく自身の白玉が消失していることを認めた。

 脂汗を浮かべ、大きく深呼吸しながら部屋の隅に向かう。アラタがそこを照らすと、床下収納口があった。そこに収められているいくつかの箱のうちの一つからクジが盗んだものと全く同じ白玉を取り出すと、片目を閉じつつ胸のあたりに掲げる。

 アラタが掲げる白玉が淡く光ると同時に、部屋の一角も同様に光るのがアラタの目に入る。

 そこへ向かうと、全く不思議なことに虚空から手許の白玉と同じような光が発せられているではないか。

 そこへ向かって中級の解呪の呪文を唱えると、服に三角巾、それと長い髪が現れる。

 アラタはそれに見覚えがあった。先日殴り飛ばした女が身に着けていたそれだと思った。

 そしてこう言う。


「他人の物を盗んで、随分と好き勝手してくれるじゃないか」

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