摂領邸の中で

 領法が発布された後、領民が押し掛けて混乱する摂領邸に潜入しようというクジの目論見は、結論から言うと未遂に終わった。実際、摂領邸には多くの人が押し掛けたのだが、肝心の摂領が固く戸を閉ざして引きこもったからである。これでは侵入は断念せざるを得なかった。

 そして高札に書かれていた八月二十三日となった。今はまだ日の上る前である。

 さてここは摂領邸からやや離れた小道である。暗闇の中、黒服と白三角巾の二人組が話し込んでいる。

「本当に任せて良いのですか?」

 黒服、もといシエンが尋ねる。

「良いと何度も言っているでしょう。将来のある君が国法の一線を越える必要はない」

 それに対して白三角巾もとい、クジが答えた。

 二人して小道から摂領邸の方をうかがう。空が白み、温かくなり始めた頃、ぼつぼつと摂領邸前に人が集まり始めた。高札の設置から七日間、初めは意見を申し立てに訪れる者が大勢いたが、それも次第に減っていった。今も訪れるのは精々二十人そこらだが、一方でこれらの者たちは朝早くから屋敷の前へ集まる。

「しかし、本当に七日も引きこもるとは……領内の反発が大きいときに領主が屋敷に引きこもるというのは聞かない話ではありませんが、大体は途中で諦めて出てくるものです」

 シエンが手をかざして屋敷の方を眺めながらつぶやく。

 摂領アラタの引きこもりは徹底していて、実権を手放したとはいえ、仮にも領主である自身の祖父さえ門前払いをしたほどだった。

「逆に言えば、今日から摂領は門を開く。閉じこもったのは高札に書いた八月二十三日を待ったからだろうからね。今日になれば反対意見を例の領法で弾圧しやすくなる。……そら、昨日までは来なかった役人たちが今日は来たよ」

 クジは日陰に座り込みながら摂領邸につづく坂の下を指さしてそう言う。

 クジの指さす方から、黒色の冠をした者達が摂領邸に来始めた。ナミルの役人たちだ。邸前で待ち構えていた領民らがその役人らに食って掛かる。役人のほとんどは適当にあしらって摂領邸に入っていったが、役人の一人が立ち止まって集まった領民の一部を叱りつける。話の内容は聞こえなかったが、しばらくすると邸内から摂領の私兵が出てきてその領民を中へ連れ込もうと組み付き始めた。

「おっと、急展開。さては領法の犠牲者第一号か」

 クジがそう言って立ち上がる。そしてシエン、と呼びかけた。

「それじゃあ話し合った通り、君はアラタを引き付けてくれ。臨機応変が大事なのでやり方は任せるが……様子を見て良さそうだったら私が摂領邸の中をさぐる」

「了解です」

 言いながらクジは懐に手を入れて物をさぐる。そこから小瓶を取り出すと、中に入っている薄青色の液体を飲み干す。

 やや間をおいて奇妙なことが起こった。服から覗くクジの頭と四肢が体の中央から広がるように消えていく。最後には、クジの来ていた服と三角巾が宙に浮かんで残るだけとなった。

「透明薬というのは、本当に輪郭も残らず綺麗に見えなくなるんですね」

 見ていたシエンが感心してそう言う。

「しかし服はどうするんです?まさか脱ぐわけにもいきませんでしょう」

 その疑問に対してクジの頭があるであろう場所から音がする。

「そこは呪薬とは別に魔術で消す」

 直後、残っていた衣類もパッと消えた。そうなると見た目にはそこに空があるだけだ。

「うわ、消えた」

 空から声がする。

「呪薬の効果を体外まで引き延ばす魔法よ」

 風がシエンの頬を掠める。その風が顔全体に吹き当らなかったことだけが、目の前にクジがいることを示している。

 もう一度、シエンの目前の空間から声がする。

「それじゃあ、お互い幸運を」


 シエンが小道を出て摂領邸に近づく。クジと話しているうちにどうやら屋敷前の騒動は大きくなっていたようである。屋敷の敷地内に引きずっていこうとする摂領の私兵と抵抗する領民がもみ合っている。近づくと先ほどは不明瞭だった話し声がはっきりと聞きとれる。


「領法を知らんとは言わせんぞ!観念して縄に着け!」

「ふざけるな!地主級にすら相談せず勝手に決めたくせに!しかもその後も引きこもって意見の機会もなかったじゃないか!」

「法は法だと分からんのか!そもそも摂領様が貴様ら領民に相談するのに慣習以上の理由はないわ!」

「横暴だ!め!」

言葉を禁じたのだと、何度言えばいい!」


 領民らも必死に抵抗していたが、そこは地力の差である。徐々に敷地の方へ引きずられていく。シエンは途中から駆け出して騒動の中心地へ向かう。

「まあまあ、初日なのですから大目にみて下さっても良いではありませんか」

 そう声をかけて両者の言い争いに割って入る。

「なんだ貴様は!」

 私兵の一人が振り返ってシエンを怒鳴りつける。

「はあ。旅人、ですかね。分類としては。都で塾をやっているタンの門下生のシエンという者です」

 シエンはわざと気の抜けた返答をする。

 そういうことを聞いたのではない、と私兵は怒ってシエンに詰め寄ってくる。

「邪魔をするなと言ったんだ!」

 胸倉をつかむ私兵相手に、シエンはまあまあと両手で制す。

「とは言ってもですよ。見ていられないではないですか。彼らが怒るのも妥当なことで、今回の一件はいささか一方的すぎます」

「何っ!?口答えするかーっ!!」

 いきり立つ摂領の私兵に対して、シエンは火に油を注ぐように話し続ける。いつのまにか正面の胸倉をつかむ私兵に加えて、二人がシエンを囲むように立っていた。

「領内でも多くの人が言っていますよ。は悪法中の悪法だと――」

 そこまで言ったところでシエンは言葉を詰まらせた。私兵が更に胸倉をつかみ上げて首がしまったからだ。

「貴様から牢に入れてやるっ!来いっ!」

 そのままシエンは三人の私兵に引きずられて摂領邸の中へ消えていった。


 摂領邸の中。

 シエンは引きずられて移動させられていた。

冤罪えんざいだ!冤罪だーー!摂領様、話を聞いてくださーーーい!!」

 初めは静かにしていたシエンだったが、屋敷に入った途端にみにくく騒ぎ出した。

 彼を引きずる私兵も呆れてその醜態について話し出す。

「なんだコイツ。急に人が変わったみたいに」

「摂領様ーッ!摂領様ーッ!」

「ふん、どうせ怖気づいたのさ。素直に遵法すればよかったものを」

「摂領様ーッ!摂領様ーッ!」

 呆れた様子の私兵もそっちのけにシエンは騒ぎ続けた。

「ええいっ!うるさいわ!もともと初めの何人かには会いたいと摂領様が仰せだった。黙っていても会える!最もその後は牢屋行きだがな」

 先頭でシエンを引っ張っていた私兵がしびれを切らしてシエンを怒鳴りつける。

 シエンはそれきり大人しく私兵に引きずられていった。


 ドサッ

 しばらく引きずられたのちシエンは邸内の一室に放り出された。

 うーん、と呻き声をあげて体を起こすと、秋の盛りの紅葉のような赤冠がシエンの目に映った。それを被るのは当然、摂領アラタである。

「意外だな、一人目がお前とは。来るにしてももう片方の方かと思ったが」

「へ、へへへ」と少し気持ち悪い笑みを浮かべながら、シエンが正座して姿勢を正す。

「とりあえず申し上げますと、私が連れてこられたのは冤罪ではないかと思う次第で……」

 アラタはシエンから目を離し、彼を引きずってきた私兵を見る。

「こいつはどうして連れてきたのだ?」

 問いかけられた私兵がはっ、と言って気を付けをする。

「例の領法に対してと言っておりました」

 それを聞いてアラタはうんうんと頷いてシエンの方へ視線を戻す。

「駄目だね。善悪を用いて事物をはかるを許さず。そう書いたのを見ただろう?」

 シエンは確かに、と言って膝に手を置き身を乗り出す。

「確かに書いてありました。はかるを許さず、確かに。ところで先ほどの彼の報告は大切な部分を省いています。」

 そう言ってアラタに報告をした私兵を指さす。

「私は悪法と人がと言っただけであって、自分から悪法とわけではありません」

 はかったのは私でなく別の人です、と締めくくってアラタの方を見据える。アラタは本当か、と私兵を見つめ、私兵が首肯するのを確かめる。そしてシエンの方を見つめ返す。

「……ふ、ふふ。確かに冤罪のようだ。とんだ失礼をした。これお前ら、外まで送って差し上げろ」

 アラタはそう言うと私兵らにシエンを連れて出るように手振りをする。

 それをシエンが手を挙げて引き留める。

「おっと、お持ちください。折角です。少し私と話をして頂けませんか?」

 アラタは顔をしかめたが、シエンはアラタが拒否の言葉を発する前に次の言葉を発し始めていた。

「そもそも人があの領法をというのはもっともなことなのです。――まあまあ、そういきり立たずに最後まで聞いて下さい」

 悪法という言葉に反応した私兵やアラタを両手を挙げて制止する。

「人というのは程度の差こそあれ、兎に角自分を善だと思いたがるものです。今回の領法は善悪で物事を語ることを禁じました。それはつまり、領民にとっては自身の善性の否定だったわけです。自身の善が揺るがないとするならば、それを否定する領法の方はその敵、つまりは悪法となるわけです。加えてですねぇ――」


 さて、このようにシエンがべらべらと語りだしたわけであるが、聞いていたのはアラタと私兵らの四人だけではなかった。

(……やるじゃないか!)

 クジである。部屋の外で聞き耳を立てながら中の様子を窺っている。透明薬を飲んだクジは引きずられていくシエンを追って上手いこと邸内への侵入に成功した。

 無様に叫びながらシエンが引きずられていくので随分心配したが、どうやら杞憂だったようだ。

(さて、こっちも仕事に入ろうか。シエンに負けてはいられない)

 クジは部屋の戸から耳を離すと、くるりと振り返って屋敷の奥へと向かう。途中、使用人や私兵とすれ違ったが誰も透明になったクジには気づかない。それでも音まで消せるわけではないから、慎重に慎重に忍び足で歩く。

 本当にあるかも分からない呪術の根拠地を探しに、クジは国法の一線から遠ざかっていく。

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