悪法まかりとおる

 晩夏の暑い日が差す小道を、黒色の塾服をたなびかせながら青年が歩いていた。町の大通りは人で賑わっているが、徒歩数分離れたこの小道にはわずかに一人、二人を遠目にみかけるだけである。青年は小道を突き当りまで進むと、若干色あせた小さい家の前で立ち止まる。

「お邪魔します」

 庭に立ち入って、そう言いながら玄関を開ける。吹きすさぶ潮風が開けた戸の隙間を勢いよく通ってガタガタと音をならす。青年は気張って風に軋む戸を閉めると、靴を脱いで家の奥に向かう。

 青年がその先にある部屋に入る。室内は板張りの床の中央に丸机が置かれていて、その上に液体が入った試験管やらピペットやらが置かれている。そして白三角巾を着けた長髪がその机に向かって何やら計算をしていた。

「いらっしゃい、シエン。今日は風がすごいね」

 三角巾を着けた長髪ことクジは、計算を続けたまま顔を上げずに来客にそう声をかける。

「その後進展はありましたか?」

 シエンが風で乱れた服や髪を整えながら尋ねる。クジは身をかがめて丸机の下へ手を伸ばすと、そこから紙束を拾いだして渡す。シエンがざっと目を通すと、どうやら検査結果を表にまとめたものらしい。

「君にもらった試料のほとんどから、うちの井戸水と同じ結果が出たよ」

「すると……仰っていた溶精薬とかいう呪薬がこの町の奇病の原因ということですか?」

 クジの家に役人が侵入した一件の後、二人は家周りに呪薬が撒かれていないか検査を始めた。結果、井戸水が陽性。更に詳しく検査してクジが出した結論が溶精薬だった。表にまとめられた検査をしたのは、この港町の件の奇病の患者の家からシエンが貰ってきた井戸水である。

「いや……」

 クジがそう小さな声でゆっくり呟く。頭を振り、道具を置いて腕を組む。そのまま目をつむって、しばらくは考え込む風を見せる。

 一方のシエンはクジが考え込んでいる間に床に散らばった紙をはけて空きスペースを作り、そこに座りこんでクジが話し出すのを待つ。

「……溶精薬の本来の使用目的は精神的緊張をほぐすためのもの。現代の国法でも六級制限しかかけられていないし、九十年前までは民間で勝手につくるのを国が黙認していたくらい初等の呪薬よ。過剰に服用して人格に影響を及ぼしてしまった例は書物で読んだことがあるけれど、ここの奇病のような夢に関係したという話は知らないわ」

「では溶精薬は関係ないのでしょうか?」

 呪薬に関してはほとんど知識を持たないシエンは、検出された呪薬に対する評価をクジに委ねる。

「これだけ検出されて関係ないことは無いでしょう。患者以外の家の試料からは検出されなかったし。たぶん色々な魔法が複合されていて、溶精薬はその一端を担っているに過ぎないのだと思う。今は他の成分が出てこないか再検査しているところよ」

 言いながら肩をすくめるクジ。疲れを一緒に発散させるように手中のペンをポーンと放り投げると、そのまま空いた手で三角巾越しに頭を掻く。

「だけど……正直、呪薬以外の魔法も使っているならお手上げね。そもそも私の専門外だし、特に組み合わせているのが儀式型の魔法なら、何十人と動員して総当たり的に根拠地を探すしかないわ」

「人数が必要なら私から塾の先輩方を頼って朝廷に捜査を上申してもらいましょうか?それでももう少し確証が欲しい所ですが……」

 手詰まり気味な現状に辟易して、二人して口を閉ざしてしまう。数十秒会話がない状態が続く。時々風が家を揺らす音が鳴るだけの沈黙を破ったのはクジの方だった。

「そういえば昨日、摂領の祖父に会いに行くと言っていたわね。そっちはどうだった?」

 机の上の道具を掃けて作ったスペースに頬杖をつきながらシエンの方を向いて尋ねる。この朝、今回の調査の命令をしてきた法制省国法院長官テンドッグの名を使って、シエンはナミルの領主と面会しにいっていた。

「これといって収穫は……近頃は病が進んで一人では歩けないほどらしく、先日摂領が商人らへ暴行をはたらいたことも知りませんでした」

 シエンの返答の後、また沈黙が流れる。

 二人はこのようにぼつぼつと話題を変えながら会話や雑談を交わしつつ、他に現状できる検査をしながら時間を過ごした。話はどれも長くは続かなかったが、二人とも元来あまり話す方ではないので、さして気まずさはなかった。

 正午を過ぎ日が傾き始めた頃、ボーン、ボーンと鐘の音が鳴り始めた。ボーン。ボーン。ボーン。さらに続く。

「……時報じゃないみたいですね」

 三回目が鳴ったあたりでシエンがぽつりと呟く。クジはと言うと、おもむろに立ち上がって開いた窓を閉めに向かっていた。鐘は十二回で鳴りやんだ。部屋の中の窓を全て閉め終わると、クジは振り返ってシエンの方を向く。

「出かけましょう。さっきのは役所が領法の発布を知らせるとき用の合図よ。広場に確認しに行かないと」


 蒸気の立ち込めるむわっとした暑さが広がる中、二人は船着き場の方にある広場へと向かった。広場ではすでに人だかりができていて、立てられた高札のまわりに群がっている。近くの者と一緒に騒ぎ立てる者や、文字の読める者に内容を教えてもらっている者、色々な人が広場の騒音を形成していた。シエンらも群衆の隙間から高札をのぞき込む。

 高札に曰く、

 

序文


 古来、道徳は人の関心のむかう所の第一であった。

 人の言う、これは在否の論ではなく、是非の論であると。

 人の言う、古今の雄弁美辞といえどもこれを覆すこと無しと。

 また我聞く、これを決するに衆寡をもってせず、必ず理を持ってすべしと。

 しかるに、諸人の敢えてこの理を論ずるを聞かず。ただ己の情動利権の正道なるを称するを聞くのみ。

 また、王朝開闢かいびゃく以来、およそ礼徳と呼ばれる所のもののまことに理に依るを知らず。ただ衆を持って寡を圧し、盛をもって衰を制するを知るのみ。

 僭称これにくは無し。目を閉じて景色を見、耳を塞いで歌を聞くを鑑賞の第一とするようなものである。

 哀嘆これに達することが有るだろうか。我ただこれを矯めんと欲するのみ。

 今、陛下の許しを得て以下の令を発し、七日後、八月二十三日より施行す。


領令

 

 この領令の存する間、領内に於いて善悪を用いて事物をはかるを許さず。

 これを破った者へはその軽重に応じて禁固以上の相応の刑を科す。



 読み終わったとき、シエンは喩え様のない気持ち悪さと共に、自分の下腹部のあたりが揺らぐような感覚を覚えた。それまで騒音としてしか認識していなかった周囲の人々の話し声が、意味を持った言葉として聞こえてくる。大抵は基準の曖昧さを不安がる声だ。行為と刑罰の不釣り合いに怒る者や、専横的な内容に義憤を発する者もちらほらいた。

 だがシエンが衝撃を受けたのはこれらの理由によるものではなかった。

「こんなものが、領法審査会を通ったのか……!」

 領法審査会は法制省領政院に属し、王朝が領主の自主性が強い領政を最低限制御するための機関である。領地間の領法の違いによる問題の処理や、五年ごとの領法の点検などを行う。また、審査会の示す条件に抵触する領法は審査会の許可を得ずに発布することを禁止されている。

 この領法は刑罰に死刑を含むという点で条件を満たしていた。

 要するにシエンの受けた所の衝撃は、この領法の内容そのものというよりは、内容の領法を審査会が許可したという点だった。普通の審査をしていればこの領法に許可が下りるはずがないのだ。

(四の五の考えている場合ではないかもしれない。このままアラタが摂領の座に居続ければ、この先ナミルで何が起こるか分かったものではない)

 額に汗を浮かべて考え込むシエンの袖を誰かが引っ張った。振り向くと人込みの中から白い三角巾がのぞいていた。どうやら高札を立ち読みをしている間に隣にいたクジと離れていたようだった。

 シエンの袖を引っ張るクジは、体をよじってごみを脱すると少し息を切らしながら話し始める。

「人生、博打を打たなければならないことが必ず有ると聞くけれど、私は今がそうだと思うわ」

 そこまで話すとクジは喉の渇きをうるおすためにグッとつばを飲み込む。シエンは続きを促すように黙って相手をみつめる。クジはふうっと一息つくとシエンの耳元に顔を近づけ、声を潜めて先の続きを話す。

「アラタの屋敷に忍び込みましょう。この領法の発布で彼の屋敷はきっと領民の訪問が増えて混雑するわ。まだ彼が犯人だという確証はないけれど、今しかあそこに入るチャンスはない。」

 シエンはクジの提案を顔をしかめながら聞いた。眉間にしわを寄せたまま、顔を話してクジの方を向く。数瞬じっと見つめた後、今度はシエンがクジの耳へ顔を近づける。

「違法行為になりますが……」

 シエンはそこで言葉を切った。頭の中を色々なことがよぎった。

 生気を失いかけた患者たちや、摂領の暴行のことを思い返した。あるいは自分に調査を命令したテンドッグのことも考えた。恥ずかしくも、自身の将来のこともおもんぱかった。

 時間にすればそれは瞬きの二つ三つくらいの長さしかなかったが、話を聞くクジに翻意を悟らせるには十分だった。

「いえ、行きましょう。僕もここが勝負所だと思います」

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