第26話 『魔術師』

 ――距離にして、ここからおおよそ百メートルと少し。

 私がすぐに動くと判断してか、クルスも行動を開始している。

 当然、私はそれを見越して動き始めた。

 校舎の屋上の出口からわざわざ出る、などというまどろっこしいことはしない。

 人の目につかない位置まで移動すると、私はそのまま建物を飛び降りて――壁を蹴った。

 すぐ近くに生える大木の枝に足を着いて、勢いを殺さないままにさらに跳ぶ。

 クルスは……人目の付かない場所へと移動しているようだ。

 私を誘っているのか――いや、きっとそうなのだろう。あの場において、アーシェのことを私が『護衛している』ことに気付かない男ではない。

 いずれは仕掛けてくると考えていたが、これほど早くに来るとは、正直あまり考えてはいなかった。

 故に、私の心の中にある怒りはクルスにだけ向けられたものではなく、自分への怠慢でもある。

 私は、何のためにアーシェの傍にいたのか。

 クルスの敵対行動がある程度予測できていたのなら、早々にこちらから対処すべきだったのだ。

 後手に回って動き始めるなど、二流のすること――いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

 クルスを追って辿り着いたのは、学園内にある庭園だった。

 ここは学園でクルスと初めて顔を合わせた場所で、今は人の気配はない。

 私が庭園を見渡すと、クルスはタイミングを計ったように姿を現した。


「おや、奇遇ですね。このような場所で」


 どの口が言うのか――罵詈雑言でも浴びせてやろうかと思ったが、私は幾分か冷静に、状況を分析していた。

 わざわざここに誘ったのだから、クルスが姿を現したことにも理由があるはず。おそらく罠か何か、仕掛けているはずだ。


「奇遇、ですか。クルス、あなた……自分のしたことがまだ理解できていないようですね?」

「僕のしたこと、ですか? ふむぅ、記憶にはありませんが……。もしかして、僕に対して何やら因縁でもつけようとしていらっしゃいますか? 分かっているとは思いますが、我々魔術師エージェント同士での私闘はご法度ですよ」


 なるほど、そういうことか。

 クルス――こいつの目的は、あくまで私への嫌がらせらしい。

 おそらく、ここで私が手を出せば、その『証拠』でも手に入れて、上官であるティロスに報告するつもりなのだろう。

 そうなれば、私はアーシェの護衛の任務からは外され、魔術師エージェントとしての評価も地に落ちる、と。

 それが分かった瞬間、私は思わず乾いた笑い声をあげてしまう。


「……ははっ」


 ピクリと、わずかにクルスの眉が動いた。


「何を笑っているのです?」

「いえ、あなたが思った以上の小物だったので、少しおかしくなってしまっただけです」

「僕が小物、ですか。どうやら、あなたは舌戦がお好みのようですね。あなたの護衛対象であるアーシェ様も、随分と口が達者なようで――」

「クルス・ケイレンス」


 刹那、ピタリとクルスは喋るのを止めた。

 彼は饒舌で、特にこうやって煽る時に口を止めるようなことはしない。

 性格は悪いが、魔術師エージェントとしては確かに優秀なのだろう。

 私にちょっかいを出すだけならば、少し脅してやる程度で許すつもりだった。

 けれど、やはりダメだ――この男は、アーシェに手を出そうとした。


「まさか、僕を殺す気、ですか?」


 たった一度、名前を呼ばれただけでそこまで悟ったらしい。

 そうだ、私はこの男を殺すつもりでここにいる。

 冷静に状況を分析して、この男の真意に気付きながら――なおのこと、私はその冷えた頭でこいつをどうやって『殺してやるか』を考えている。


「怯えていますか? 私に」

「……はっ、まさか。あなたにそれができるとは思っていませんよ」

「――そう。では、少しだけ、怯えさせてあげましょうか」


 ほんの少しだけ、私は魔力を解放した。

 瞬間、クルスの表情が一気に強張り、身構える。

 私の発した魔力に、それだけの危機感を覚えたのだ。

 本当にちょっと垣間見せた程度で、怯えを見せる小物――この男は、どうしようもない奴だ。


「な、なんだ、それは……!? そんなもの、どうしてあなたが……!?」

「私が他人に見せるのは、『式神』と『体術』が基本です。これらは鍛えれば誰でも扱えますから、『どうしてこんな奴が僕と同じ魔術師エージェントなんだ』、と――そう考えて、私に突っかかってきたのでしょう?」

「……っ!」


 図星だったようで、一気にクルスの表情に動揺が見える。

 私は普段――そして、普通の戦闘において、体内に流れる魔力をあまり使わない。

 だから、他人より傍から見れば魔力の量が少なく見えるだろうし、実際そういう風にカムフラージュしている。

 魔術師エージェントを冠しているのだから当然、私だって『魔術師』なのだ。


「ま、待ちなさい。分かっているでしょう? この僕に手を出せば――」

「私が罪に問われる、ですか? 私がそれを恐れて、あなたに手を出せないと思っていることの方が、おかしいですけれどね」

「……何だって?」

「分かりませんか? 私はアーシェ・フレアード様の護衛です。護衛の任に着いた以上、如何なることがあろうと、私は彼女を守り抜くと誓いました。たとえこの身が滅ぶことになろうと、構いはしません。そんな私が、あなた一人を殺すのに迷うとでも?」

「……口ではそう言って、僕を脅そうとしたって無駄だ」

「残念。脅しではありませんよ」

「――は?」


 クルスの間の抜けた声と共に、彼の左足は砕け散った。

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