第8話 来てくれるはずもなかったのに

「はっ、はっ――」


 気付けば裸足のまま、外を走っていた。滅多に外になんて出ないから、少し走っただけでも息が切れてしまう。

 けれど、あそこにはいられなかった。

 あのメイドが、嫌なことばかり思い出させるからだ。

 母との思い出は、わたしにとって大切なもの。

 唯一、わたしのことを愛してくれていたからだ。愛してくれて――そして、そのままこの世を去ってしまった。

 母がいなくなってすぐに、わたしの周囲の人々は……距離を置き始めた。

 その時にわたしは、『母』がいたから、みんながわたしに優しくしてくれているのだと気付いた。

 母のいないわたしは無価値で、フレアードの名を持つだけの、いらない人間に過ぎない。

『炎』は使えず、『氷』が得意で、金髪ではなく銀色の髪。

 何もかもがフレアード家の人間とは違って、わたしはすぐに理解してしまった。

 ……わたしを愛してくれる人は母しかいなくて、母はずっと一緒にいてくれなかった。――ううん、ずっと一緒にいられるなんて、本当は思っていない。


「わたし、は……」


 息を切らしてわたしは足を止める。

 すでに夜も更けて、人通りのない暗い場所に一人だった。

 一人の方が気楽など思っていたのに、それに気付くと湧き上がるのは、恐怖心だった。


「お母様が、いてくれたらよかったのに……」


 ただ怖くて、わたしはその場に蹲る。

 あんな風に家を飛び出してしまったのだ――あのメイドも、きっと追いかけては来ないだろう。

 母と友人だったというメイド……セシリア。

 拒絶しても、時間が経てば話しかけてくる。

 彼女はわたしの言葉に嫌そうな表情を浮かべることもなく、ただ仕事をこなしていた。

 いや、仕事をこなすだけならば、他のメイドと同じことをすればいい。

 わたしに関わる必要など、何もなかったのだから。


「……でも、分からないよ」


 どう接したらいいのか、分からない。

 わたしと話したいという人なんて、母以外にいたことはなかった。

わたしに朝食を強要する人なんて、初めて出会った。

 わたしに魔術を教えたいなんて言う人は――この先いるはずもないって、思っていたのに。


「……」


 セシリアは、わたしのことを追いかけてくるだろうか。

 そんなことを期待してしまうわたしは、どうしようもないほどにダメな人間だ。

 彼女の気持ちに甘えて、我儘ばかり言っているのは、わたしの方なのだから。

 けれど、近づいてくる足音を聞いて、わたしはそちらの方を見てしまう。

 ――姿を現したのは、三人組の男だった。


「おいおい、見ろよ。裏口も張っておいて正解だったな。まさか、フレアード家のお嬢様が一人で飛び出してきやがった」

「……っ!」


 その言葉を聞いて、男達の狙いがすぐにわたしであることが理解できた。

 すぐに立ち上がって逃げようとするが、腕を掴まれてその場に押し倒される。


「う、ぁ……」

「逃げるなよ。結構前からお前のこと、狙ってたんだぜ? 大貴族の娘だってのに、護衛の数が少ないってんだからよぉ……。だが、さすがに敷地内に入ればバレちまうからな」

「へへっ、それでも変なメイドが一人いるだけで、いつか押し入ってやろうかと思ってたんだぜ」

「何の、つもり……?」


 わたしが問いかけると、きょとんとした表情で男達が顔を見合わせる。

 そして、大きな声で笑い出した。


「はははははっ! 分からねえか? 貴族を捕まえるって言ったら誘拐だろうがよ。フレアード家の娘なら、金になるだろうからな」

「でもよぉ、確かこいつはあれだよな。不貞でできた娘とかいう噂も……」

「それならそれでいい。身代金が取れねえなら、売っちまえばいいだけだ。見ろ、ガキでも高く売れそうな面してやがる」

「……っ」


 男達の言葉を聞いて、わたしは抵抗した。

 けれど、大の男の力に叶うはずもない。

 口元を押さえつけられたまま、近くに止めてあった馬車に連れ込まれる。


「おい、騒ぐと面倒だ。縛って黙らせとけ」

「や、やだ……っ」

「抵抗すると痛い目見ることになるぜ?」

「……っ」


 刃物を突き付けられて、わたしは押し黙るしかなかった。

 ――氷の魔術を使えば、逃げ出せるだろうか。

 でも、もしも失敗したら……ひどいことをされるかもしれない。

 そう思うと、身体が震えて動かなかった。


「よしよし、大人しくしてればいいからな。おい、とりあえず馬車を出せ」

「あいよ」


 ガタン、と馬車が動き出す。――もう逃げられないのだと、悟ってしまった。

 だって、こんなわたしを助けてくれる人なんて、いるはずもない。

 それなのに、セシリアのことが頭をよぎるなんて、わたしはどこまで最低なのだろう。

 この状況で、彼女が来てくれるはずもないのに。


「さてと。それじゃあ腕から――おぶっ!?」

「お、おい! どうした!?」

「……?」


 わたしに手を伸ばしてきた男が、不意に顔を押さえて苦しみ始める。

 確認すると、男の顔には――一枚の紙がピッタリと張り付いていた。そんな、まさか。


「おい、しっかりしろ……! うお、なんだ!?」


 さらに、馬車の上からドンッという大きな音が聞こえる。

 まるで『人』が降り立ったような響き。

 絶対にありえない――そう思ったのに、次に聞こえてきた声は、紛れもなくその人だった。


「お嬢様、そのままドアから飛び降りてください。何も考えずに、迷わずに。私が必ず受け止めます」


 ――その声を聞いて、わたしは反射的に飛び出した。

 彼女の姿は見えなくて、幻聴だったのかもしれないと思ったけれど、すぐに身体が誰かによって支えられたのが分かる。

 抱きかかえてくれたのは、セシリアだった。


「なん、で……?」


 わたしが最初に口にしたのは、そんな疑問の言葉。

 セシリアは微笑みを浮かべて答える。


「私はお嬢様の世話係ですから。これくらいは当然のことです」


 ――そんな世話係なんて、いるはずがない。

 そう言いたかったけれど、わたしの目の前には確かに存在した。

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