第11話 世界の変転(3)

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窓の外では、一組の男女がにらみ合っていた。

男はナイフを持っていた。女は後ろに子供を隠していた。二人とも肩で息をしている。

小さい町だ。みんな顔見知りであった。どんな仕事をし、どんな風に暮らしているか知っている。困ったときは助け合い、協力しあって生きてきたはずだった。睨みあっている男女は、ヨダにはまったく知らない人に見えた。ヨダの知らない人、知らない風景、知らない、町。

男は恐ろしい顔で子供を見ていた。子供は怯え女の腰あたりにしがみついて震えている。

「その子をよこせ!」

「いやよ。」

「お前も食ったんだろう。だったら、次はお前の子だ」

「なにいってるの。あんたこそ、あんたの子供を食えばいいじゃないか。私は、この子のために、食料を手にいれただけだ。この子を食料にするためじゃない。」

「なに言ってんだ。親の無い子を食っといて、次に自分の子の番がくるのはわかってることだろう。さっさと、その子をよこせ。」

「いやよ!あんたの子が先よ!私の子は絶対、いやぁ!」

道端に座っていた人がユラッと立ち上がり、ポケットから小さなナイフを引っ張りだす。街の大人たちが、よたよたと集まってくる。手に手にそれぞれ、ナイフや包丁や、いろいろな持っている。ゆっくりとした動作で女と子供を取り囲もうとする。じわじわと女は追い詰められていく。女の後ろでは子どもが怯え、震えている。その顔色は、白と呼ばれる白より白かった。

女はナイフを振った。なんかを叫びながら、滅茶苦茶に。

ナイフの切っ先は別の男に触れた。血がドロリッと流れる。男は切られ腕を抑え、数歩よろめいた。回りの人間の視線が、濃厚な血に釘付けになった。誰かの喉を鳴った。舌をなめる音がする。荒い息が聞こえる。

切られた男は、自分の腕から流れる血を見て、喉を「ごく」と鳴らした。そして自分の血を舐めた。口の中にひろがる濃厚な血の味に男は一瞬目を細めた。ふと気が付くと回りにいた人々が男に近づいていった。そのうちの一人が手にした包丁をまっすぐに突き出した。

それが合図のように、人々は手にしているナイフや包丁、すりこ木などを振り下ろした。やがて、男は動かなくなり、人々はみな無表情でその男を担いでスクールに向かった。

女は子供の手を引いてみんなと一緒にスクールに向かっていった。


三人は瞬きも忘れて、今見た光景に釘付けになっていた。上手く呼吸ができない。吸い込んだはずの息が吐けない。

ヨダは胸が苦しくなった。“今見たものは、何だ”。心の中で誰かの声がささやく。

“知ってるだろう”

“知らない。僕は何も見てない”

“いや、知ってる”

“知らない、知らない、何も見てない”

“見たさ。こうなる事もわかってたはずだ”

ヨダは耳を押さえた。だが、声は黙らなかった。

“もうわかってるだろう。みんな、子どもを食べたんだよ。むしゃむしゃ、ぼりぼいりってね。次は、おまえの番だ。”

カリンの手がヨダを包んだ。

「大丈夫よ。ヨダ。大丈夫よ。」

ヨダは心の中の声を言葉にする。

「いなくなった子どもは、みんなで食べちゃったの?今の人も食べるの。お父さんもお母さんも食べる?僕を食べる!」

ジークの手がヨダの頭に触れた瞬間、ヨダはビックとして飛び上がり両手足をバタバタと振り回し暴れた。

「大丈夫、大丈夫。そんなことはない。」

ジークはヨダを強く、骨が折れるのではないかと思われるほど強く抱きしめた。

「誰も、食べない。お前を食べるなんてない。誰にもお前を食べさせない。」

「ほんと」

「ああ、絶対だ」

ヨダが落ち着くと、ジークはヨダが理解しやすいように、ゆっくりと言い聞かせた。

「よく聞くんだ。ヨダ。食料も水ももうない。だがここにこのままいたらいつさっきのようなことが、お前の身に起きるとも限らない。母さんも聞いてくれ」

そういうとジークはカリンを見た。カリンはジークが何を言おうとしているのか分かったのか、もともと大きな目だったが、その目を大きく見開くとうなづいた。そして瞬きもせずにジークを見つめた。

「最初のあの子は、エマは死んでいたんだ。両親が死んで誰もエマを見向きもしなかった。まだ4歳だ。自分では何もできやしない。私たちもあの子を見殺しにしたから、ジャスミンの提案を非難する資格はないんだ。だが、ヨダ信じて欲しい。私も母さんは、誰も食べなかった。エマもジョンも食べたりしなかったよ。

ジャスミンは言った。死んでしまった子を砂漠に捨てるのは簡単だが、生きている人間のために糧になってもらおう。と。それは考えとしては合理的だし、この状況では正しいのかもしれない。いや、どうなんだろう。正しいのか、正しくないのか。どっちだ?母さん」

そういうと、ジークは途方にくれた迷った瞳でカリンを見た。

カリンは力なく首を左右に振った。

「お父さん、私たちは正しくないと思ったから賛成しなかったのよ」

「ああ、そうだった。そうだな。」

ジークは何度も何度もうなづいた。

「みんな、空腹と死の恐怖で狂しくなっているんだよ。私も最初はそうだと思ったんだ。

ヨダ。お前にだけは食べさせたい。なにか食べさせることができるなら何だって。ヨダが生きてさえいてくれたら、そのためなら何だって。そう思ってたよ。

だが、実際にエマの顔を見たら、あの子の笑顔を思い出して。エマはいつもこの庭で遊んでいた。…私には無理だった。それでも、迷ったんだよ。

動物だ。そう思えばいい。これは物なんだ。って。ジャスミンにもそう言われたが、結局、私はそう思い込むことはできなかった。」

ジークは少し目を細めた。

「あれは…、誰がいったんだろう」

「『こんな小さな子じゃみんなお腹一杯にはならないね。』って、そういうことを誰かがいったの。『じき、お腹がすいたら、そのときはもう飢え死にを待つしかない…』って。するとジャスミンが『大丈夫さ。そのときまでに誰か死ぬさ。親のいなくなった子供は、ほら。ごろごろしてるさ。』そういって笑った。」

「ああ、そうだったな」

カリンは身震いをした。ジャスミンの血走った目がカリンを見つめているような気がした。

「それで家に戻ってきたんだよ。だが、あの時はまだ人間らしい部分が残っていると思ったんだが、今、町の人々は完全に狂っている。さっきのあれを見ただろう。このままここにいれば何が起きるか分からない。今からサマーズへ向かう。辿りつけるかは分からない。しかし、ここにいるよりは生き残る可能性がある。」

「父さん…」

「あなた…」

「と、思うんだ。たぶん。」


ヨダたちは、出発の準備をし夜になるのを待った。夜、ジョナサンたちが寝静まったころをみはからって町をでることにした。

太陽が西に沈みかけたころ、町でまた騒ぎが起きた。ヨダたちは体を硬くして様子を伺った。

「砂だ!」

「北だ、北の方から砂がくる!」

砂は最初は少しづつ、少しづつサラサラと入り込んでくる。そして、突然山のようになってどっと押し寄せてくる。でも、騒ぎはそれだけではない。

ジャスミンだ。

ジャスミンは怒鳴っている。彼は何人かの人たちと“群れ”になって、ナイフを手に逃げ惑う人々を襲っている。

「砂がそこまできた。逃げても無駄さ。俺は腹いっぱい喰いたい。腹いっぱい喰いたい。」そんなことを口走りながら、手当たりしだいに襲い掛かり、手足を引きちぎりかじりついている。ジョナサンは人であることを捨ててしまったのかもしれない。野獣と、いや鬼と化した形相で殺した人々を食べていた。

ヨダの耳には、悲鳴とも怒鳴り声ともつかない声が聞こえていた。

ぎりぎり…嫌な音が聞こえる。

ぐちゃぐちゃ…おぞましい音が聞こえる。

ぺちゃぺちゃ…身の毛のよだつ音が聞こえる。

音が聞こえる。

サラサラ、サラサラ、砂の音が聞こえる。


ヨダたちは急いで身支度を整え、裏庭から待ちの外へ出た。裏庭を抜けると、本来なら町外れは草原だったはずだったが、今そこは真っ赤な砂で覆われている。東からも砂が押し寄せてきていた。町は砂に取り囲まれてしまっていた。まるで生きている怪物のようだ。ヨダ、ジーク、カリンは一瞬踏み出すのを躊躇した。ヨダは両親の手をとり赤い砂漠に踏み出した。三人は並んでまっすぐに歩き出した。ジークが太陽を指差して、

「ヨダ、これから何が起きるか分からない、昼移動するときは、太陽を追いかけ、夜移動するときは月を追いかけろ、常に太陽や月を追っていけばサマーズに行ける。いいな」

「うん。あの太陽を追いかける、太陽の進む方向にサマーズがあるんだね。」

「そうだ、サマーズにいけばなんとかなる。」

「たどりつける?」

「絶対に辿りつく。」

サマーズがどうなっているのか、ヨダは父に聞きたいと思ったが言葉にできなかった。行って見なければ分からない。喉まででかかった言葉をヨダは飲み込んだ。

「なにがあっても辿りつく」

ジークは一晩中歩きながら、ぶつぶつと呟いていた。夜が明けてきた、太陽はヨダたちの後ろから昇った。振り向いて太陽を仰いだ。

確実な未来に続く輝きだと思った。


太陽と一緒に西を目指して歩き始めて、どれくらいたったのだろう。どこからか、ヨダを呼ぶ声がする。ジークはヨダの腕を掴むと勢いよく歩き始めた。

「振り向くな!さあ、急いで歩くんだ。」

「おーい、ジーク!女房と子供をつれて何処へ行くんだぁ。おれに挨拶もなしでかぁ」

お父さんは振り返るとヨダを後ろの隠した。ヨダは父親の後ろからそっとジャスミンの姿を覗き見した。ジャスミンは赤黒い肌をし、髪はべったりと額に張り付いている。遠目からみてもジャスミンの体にはなにかのカスのようなものが付着しているのが見て取れた。ヨダは胸が悪くなるのを感じた。

「やあ、ジャスミン。俺たちはこのグリースを出て行くよ。」

「へぇ、そりゃ奇遇だ。俺もグリースを出てきたんだ。」

「そうかい。どこえいくんだい?」

「ジークは?」

「ジャスミンは?」

「俺の行き先はきまってんじゃねえか」

そういって、ジャスミンは薄気味の悪い笑いを浮かべた。ジークはジャスミンには聞こえないくらいの小さな声で、ヨダとカリンにささやいた。

「走れ。西に向かって走れ。俺はあいつを引き止める」

「だめだよ。お父さん一緒に逃げよう」

「あいつは食ってる。気は狂ってるかもしれないが、食っている分、体力がある。俺たちはとても逃げ切れない。ヨダ、お前だけでもジャスミンから逃げ切ってくれ。」

そういうと、ジークはヨダの肩に力強く手をおいた。カリンとジークは強く視線を合わせた。

「いきましょう。ヨダ。私たちはお前を守るの。」

カリンは恐ろしいほど強い力でヨダの手を引いた。その力強さに圧倒されるようにヨダは母の後を付いていった。

「おい。ヨダ、どこに行くんだ。カリンも」

「どこでもいいじゃないか。ジャスミン。息子にかまわないでくれないなか」

「なーどこ行くんだよ」

「ジャスミン!」

ジークはジャスミンを正面から抱きつくようにしがみついた。

「離せよ。ジーク」

さらさらと砂が流れ、風が吹いた。血の臭いがした。ヨダは思わず振り向こうとした。

「振り向かないで!」

母に強く手を引かれてよろめいた。

「振り向いちゃだめ、ヨダ。お願いだから。後ろを見ないで」

カリンは震えてた。ヨダは母に手を引かれながら、“僕が、強くならないと”心の中で何度もなんども繰り返していた。

“父さんがいなくなった…きっと追いかけてこない。僕が強くなって、母さんを守らないと。”だけど怖かった。どうやって母を守っていいかさえも分からなかった。


身を隠すところのない砂漠がどこまでもどこまでも続いていた。太陽は常に頭上にあった太陽は今は前方にあった。日が沈む。

二人は何度も、倒れこみ、しゃがみこみ、這うようにして前に進んだ。

月が真上に昇ったころ、砂漠の中に何かが突き出していた。貯蔵庫の屋根だった。サマーズに行く途中にあるどこかの町の貯蔵庫のようだった。砂がサラサラと音をたて、動いている。見る間に砂は左右に分かれ、貯蔵庫のドアが現れた。カリンは意を決したようにヨダの手を引きそのドアを開いた。中に入ると非常灯がついた。人が入ってくると灯がつくようになっているらしい。まだ電力はつかえることにヨダとカリンは少し安堵した。

貯蔵庫の中に、砂は無かった。食料と水が少しだけ残っていた。二人は水を貪り飲んだ。そして眠った。目が覚めては水を飲み、缶詰を開けた。そしてお腹が膨れると、また眠った。ヨダは眠るたびに夢をみた。

楽しかった頃を思い出すような夢が多かったが、その夢のところどころにジャスミンの顔がちらつく。赤黒い肌、額に張りついた髪、何かの破片が付いた頬。


ジャスミンが追いかけてくる。ジークの腕をかじりながら、

「おーいヨダ。どこいくんだぁ。ははははははは」


ヨダは飛び起きる。隣でカリンは闇に目を凝らしている。カリンは怯えた表情で起きた息子をやさしく抱きしめて額にキスをした。

「大丈夫よヨダ。ジャスミンは追ってこないわ。」

そして、ヨダが幼い頃によく歌ってくれた子守り歌を歌った。

何度目かの眠りに陥ったときに、ヨダは不思議な夢をみた。

空も大地も真っ赤な空間、どちらが天でどちらが地なのか分からないような空間にその女の人はいた。母さんよりは若い。でも姉のスフレよりは年上のようだ。きれいな女の人だった。『砂が帰ってくる。もう出発した方がいいわ』そういって、サマーズの方向を指した。

ヨダは目を覚ました。見ると母は起きて外の気配に耳を傾けているようだった。

「母さん、ここをでよう。」

「え?どうかしたの?」

「夢みたんだ。急いでここを出よう。砂がくる。」

二人は急いで水と缶詰をリュックに詰めようとしたとき、貯蔵庫の扉が開いた。

ヨダは母の顔をみた。カリンは静かにうなづいた。

「砂がくるわ。もうここを出ないと」

二人が歩く先にある砂が、まるで生き物のように道を開けた。そして通り過ぎた後は赤い砂が次から次へとその後を埋めていった。

貯蔵庫からでて振り返ると貯蔵庫は砂に埋もれて見えなくなるところだった。

ヨダはいったい何が起きているのか分からずに母をみた。母は黙ってヨダの手を引き歩き始めた。二人は無言で歩いた。ヨダは少し休めたことで体力がかなり回復してきたのを感じていた。日が沈むころカリンは座り込んだまま動かなくなった。

「母さん、どうしたの?」

「ごめん。ちょっと疲れたみたい。」

「母さん、眠ってないの」

カリンは静かに笑った。カリンは貯蔵庫にいる間も、いつジャスミンがくるとも知れずに、寝ずに見張りをしていた。もしジャスミンが着たらヨダを、息子を守らなければ、それが今カリンの体を動かしている原動力であったが、もう精も根も尽き果て一歩も歩けなくなっていた。カリンは何度か立とうとしては座りこみ、また立とうとした。


陽が沈み、月が出て赤い砂漠は幻想的な色合いになった。

ヨダは砂の上に寝そべって月を見ていた。となりでカリンの苦しそうな寝息が聞こえる。

渇いた風が吹いて、砂がサラサラと流れていく。怖いはずの砂がとてもやさしく気持ちよく感じた。サマーズの砂浜にいるような錯覚さえ起こしそうだった。サマーズに行ったのはとても小さかったから実はよく覚えていなかった。冷たい海とサラサラとした砂しか覚えてはいない。

冷たい水の音と、サラサラ、サラサラ乾いた砂の音。


ふいに血の臭いがした。

「ヨーダ。みーつけた。」

ジャスミンの顔が上から覗き込んだ。びっくりして飛びのくヨダの寝ていたところに、ジャスミンがナイフを突き立てた。

「おとなしくしろよ。やっと追いついたんだからさ。」

カリンがジャスミンの足にしがみついた。弾みでジャスミンはひっくりかえる。

「こ、これを」

そうって、カリンはリュックを差し出した。

「なんだぁ?」

「水と缶詰が入ってる。これをあげるから、ヨダを見逃して」

ジャスミンはリュックの中から水と、缶詰を取り出し、珍しいものでも見るような目で眺めていた。

「いらない」

そう呟いた。

「俺は、ヨダが食いたい。それ以外はどうでもいいんだよ」

そういうと、ナイフを掴みなおしゆっくり立ち上がった。

「狂ってる。あんた狂ってる。」

カリンは必死でジャスミンにしがみつき、そのナイフを取り上げようとした。

ジャスミンはカリンを振りほどくと、ヨダに歩み寄った。

「ヨダ、逃げなさい」

「だめだ、母さんも一緒だ」

「いいから。」

「母さん、母さん」

ヨダはジャスミンのナイフを交わすと、カリンを抱き起こそうとしたが、カリンは、ヨダを強い力で押しのけた。

「いいから行きなさい」

母の凛とした声が響いた。ヨダはびくっとなり、母を見つめた。母の目はしっかりヨダを見つめると、微笑んだ。そして母の髪、耳、指先が砂になった。

振り返るとジャスミンがナイフを振りかざそうとしている。そのジャスミンも砂になりかけていた。

両足首、左の肩から腕にかけて、頭の一部。鼻と耳はもうない。それでも立って、歩いている。右手にしっかりナイフを握っている。

ヨダは呆然としていた。ジャスミンが恐ろしい笑いを浮かべている。

「ヨダ。お前を喰うまで、俺。死ねないんだ。へへへ」

カリンが叫んだ

「走れ!」

ヨダは背中に激痛を感じたが、走った。何もかも捨てて、無我夢中で走った。

霧のような砂がヨダを包んだ。

「母さん…」

ヨダは泣きながら、必死で走った。絶対にヨダは後ろを振り向かなかった。

ジャスミンに切られた背中の傷は痛むが、気にしている暇はなかった。傷口に沢山の砂が覆っていて、血は止まっているようだった。

ヨダの頭の中で声がする。

「さあ、行け、行くんだ。お父さんもお母さんも、待っても来やしない。サマーズへ行くんだ。さぁ走れ!」

ヨダは走りながら、父の顔を思い浮かべた。どんなに頑張っても、お父さんの背中しか思い出せなかった。土を耕し、植物を愛した父の背中はとっても温かく広く、頼もしかった。母の顔を思い浮かべた。黒い瞳しか思い出せなかった。なにかを思いつめたような、最後に別れたときの瞳だった。どんなに両親の笑顔を思い出そうとしても、不思議なことに思い出せなかった。もうずいぶん前に別れたようなそんな気分だった。

どれくらい走ったのだろうか、突然何かに腕をつかまれ、意識が遠くなった。気が付いたらヨダは砂の上に倒れていた。やさしい瞳の女性がヨダを心配そうに覗き込んでいた。


イブとヨダがサマーズに到着して、イブが驚いたのはこの町の人々は静かに何事も無かったように暮らしていたことだった。赤い砂も、死も、別れも何もないままに。


スパンたちは大きくため息をついた。スパンはイブの目を見つめていった。

「そうだね。何もない風に暮らそうとしていた。ただ、明日が怖くて平静を装っていただけなのかも知れない。強さとか、信念とかそういうのではなくて。僕らがしていたことは、生きる努力とは違うのかもしれないね」

トーイがスパンの話の後を受けた。

「サマーズには政府の重要な機関もそろっていたし、他の町にいたかは知らないが、軍隊もやってきた。サマーズの気風ってね、自由が好きなんだ。何かにしばられたりってあまり好きじゃない。それで軍隊とよく衝突した。武器をもっている軍隊が圧倒的に有利だったはずなんだけどね、いつのまにか市民の間にも武器が出回るようになって、一部の地域で争いが始まったんだ。あれは、何時だったけ…ひどい争いになって、町の半分が家事で焼けてしまった。ところどころで爆発もあって、大勢が死んだ。爆発の影響がほとんどなかった、残った人間は住めそうな町の北西に住み着いた。

俺たちはもともと街の北西に住んでいたんだ、沢山の人が逃げてきて、一時期にぎやかになって、町に一時的に活気が戻ってきたなぁ。な、スパン」

そういうと、トーイは少しうれしそうにスパンを見た。スパンもうなづいた。

「だけど、やっぱ現実なんだよ。赤い砂は。ただ怖くてどうしようもなくて、スパンの言うように平静をよそったふりをして、何も見えない振りしてたんだ。だからだよイブ。俺たちは町に来た人間を誰一人拒まなかった。昔から知っている人のように迎えたさ。」

スパンたちの町は、別に誰かがリーダというわけではなかったが、自然と若く力のあるスパンやトーイが中心となって、生活のルールはできていった。

食料の分配は等しく協力し、また、互いの生活には立ち入らない。どこか一線を引いて暮らす。今日会った人が明日は砂になっているかもしれない、次は自分の番か? それとも愛する誰かの番か? そう思いながら暮らすには人は弱すぎる。できるだけ人と関らずに生きていくことで精神のバランスをとっていたのかもしれない。

その生き方は傍でみていると、しごく冷静な行動のように思えるが、その実すべてに目をつむって、そ知らぬ顔で生きているんだ。傷つくことを恐れ、亡くすことを恐れて。

町の広場には誰もいなくなり、貯蔵庫に食料をとりに行くときも、確実の人は減り必要な食料や飲料水も手付かずの物が増えてきた。

消えた人々のことは、最初からいなかった。存在しなかったと思い込むことで心を正常に保とうとしていた。

グリースや、トーソンの町の人々と結果は違ったとしても、それほど異なってはいなかった。

スパンやトーイがどうやて生きていくか、本当のことで“生きる”を考えだしたのはコニータが死んでからだった。人はぎりぎりにならないと、真剣に考えることができない。コニータという大切なものを失ってから、気が付いたのだった。

コニータの最後の言葉「最後まで生きて」。この言葉が疑問を投げかけた。“どう生きればいいんだ”。

「だから、かな。エヴァのお腹に宿った新しい命に気づいたとき。俺は、俺たちはヨダや、イブのように、何かを…たとえば、未来を信じてみようかって。」

「な、なんだって…?」

ヤン博士とカーミラが目を丸くしている。

「いま、なんて…」

トーイは澄ました顔で、

「“未来を信じてみようかって”?。」

「いや、違う違う。」

博士はつよくかぶりを振る。

「エヴァ、君は妊娠しているのか?」

エヴァはコクンと頷く。博士は、よろめきながら、エヴァに近づくと、

「さわっても?」

と聞く。エヴァはちょっと頬を赤らめうなづく。博士はそっとエヴァの下腹部に触れ、小さくため息をついた。

「ここに、命があるのか…」

ヤン博士は泣き出した。カーミラもエヴァの下腹部にそっと手を触れる。そして涙をながした。博士はゆっくりと自分の椅子にもどり、カップの冷め切ったお茶を一口のんだ。みんなを見回し、嬉しそうに頷いている。そして誰にともなく、博士は話はじめた。

ヤン博士の知っている赤い砂と西の国の創始者、イブの記録を。



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