第4話 西へ

-1-


スパンはぼんやりと窓の外の赤い砂を眺めている。

赤い砂は少しずつ、この町も覆っていこうとしている。日毎に白茶けた砂に、赤い砂が混じる度合いが増えていく、スパンの家の窓からみえるサマーズの海岸があったあたりは、すでに真っ赤に染まっている。海岸に抜ける公園の立木は随分と消えてしまったが、数えるくらいは枯れ木として立っている。

スパンは心の中で『がんばれ』とつぶやく。それは、自分に掛けている言葉かもしれなかった。頑張っても結果はでない。頑張る意味もない。分かってはいても、それしかおもいつく言葉はない。

ボロボロになった市場や露天のテントや柱。

ついこの前までは水と緑に溢れ、人々の笑いと、子供のはしゃぎ声と、鳥の鳴き声や、風の…やさしい風の吹く音に、溢れていた。

そんな、つい昨日のことのような、それでいて遠い、はるかな昔のことを思いだした。スパンはこのまま砂に埋もれてしまってもいいかなと思う。

-そしたら、コニータのそばにいけるかな-

コニータが砂になって、2つ季節が移り変わった。

スパンはすっかり生きる気力を失い、かといって死ぬ気力もなく、ただ、ただ、コニータと過ごした優しい時間を思っていた。

変わらない日々、変わらない時間、変わらない毎日。

どんな事柄も、変わらないものなんて、ない。

時間が流れるように、水が流れるように、ひとつとして同じところに、とどまることが出来ないということに気づかなかった。

同じように人も、心も、自分を取り巻く全てのものが変化し、流れていく。それは自然なことだったのに…。万が一、気がついたとしても認めたくはなかっただろう。

自分の掌なかにある、ささやかで、優しい時間が、移り変わるものだとは、形をかえながらながれ、消えて行く。そんなことは信じたくない。

人は、弱く、脆く、そして強い。


“…コニータ、僕は…一人で生きるのはつらいよ。”

コニータの言葉が脳裏によみがえる。

「生きてて。最後の最後まであなたは、生きて」

涙が出た。乾燥し干からびても、目じりにじわりと涙が出た。スパンはその涙を人差し指ですくった。そして、舐めた。

“しょっぱい”

スパンは無性に泣けてきた。もう涙はでない。だけど、泣けて、泣けてしょうがなかった。頭を抱え、肩を震わせ泣いた。どれくらいの時間がたったのだろう。ふと気がつくとイブがやさしくスパンの背をさすっていた。

「コニータのこと、思い出したのね。馬鹿ね」

スパンはただ、イブの暖かい胸の鼓動にコニータの面影を重ねていた。

「ほんと、大馬鹿」

イブはやさしく、スパンにささやきかけた。彼女も泣いているのかもしれなかった。

誰を思って。何を思って。人はみな何かを背負っている。このときのスパンはまだ気がついていなかった。ずいぶんと、長い時間そうしていた。夕闇の中、炎のような真っ赤な夕焼けで空も、地も真っ赤に染まっている。

夕焼けの赤さは室内の壁も、床も、家具も、スパンもイブも真っ赤に染め上げている。その赤い風景を見ていて、スパンがふいに言った。

「あのさ」

「なに?」

「ばかばかしいって笑うかな?」

「あはは。はい。笑ったわよ」

「いや、そうじゃなくて。」

「判ってるわよ。なに?」

イブの目はいたずらっぽく笑う。いつもこの調子だった。変わった女だ。

「この町もあと数日もすれば砂に埋もれてしまうかもしれない。」

「埋もれないかもしれない。」

スパンは苦笑する。イブはいつもスパンの反対を言う。それは一種の彼女特有のコミュニケーションだ。

「町を出ようか」

返事の代わりに、イブが小さく息を吸い込むのが聴こえた。

「きみやヨダが旅たったときのように、今度は僕と旅立たないか。」

「どこ、へ?」

「西…」

「西…」

イブは遠い目をした。

「イブも西に向かって歩いてきたんだろう。」

イブは黙っている。

「西に、なにがあるかはわからない。このままここでこうしているよりは、ずっと、ましな気がする。ここで、めそめそしていても辛くなるだけだ。」

沈黙

「ここより遠い、何処か…?」

「そうだ。ここより遠い何処か、さ」

「隣のエヴァが…ね」

「エヴァ…?」

「エヴァが、その、なんというか。信じられないことなんだけど…こんなときにって思うかもしれないけど。私たちの体はもうボロボロで、いつ死んでも可笑しくないし、元気なころだったら、誰にでも可能性のあることで、…そんなことを当たり前だと思ってた。いまは、当たり前じゃないことが、当たり前で、世界は変わってしまったし。だから?そう。だから。でもせっかくの命だもの、可能性があるなら、その可能性に掛けたい。奇跡だというなら、その奇跡を信じたい。」

イブは一気にしゃべると、肩で息をしている。スパンには、イブが何が言いたいのか、話の内容が読めずに、とまどっている。

「エヴァが、妊娠したの」

イブは、顔を火照らせ、目がきらきらしている。スパンの脳は無意識にその言葉を拒否していた。

「まだ、健康なのよ。その、どういっていいかわからないけど、妊娠したってことは、私たちはまだ生きてる。生きているから奇跡が、そう、奇跡よ。それが起きたの。嬉しい。ね、そうでしょ?未来なんてないし、絶望しかないし。めちゃくちゃだけど、そうよ。そうなの。でもね、なんかわかんないけど、とっても嬉しいの。」

少しずつ、スパンの脳に「妊娠」の言葉が染みとおってきた。顔を赤らめ、興奮気味に話すイブ。ふいに、スパンはコニータを思い出した。

“そうだ。こんな表情コニータもしていた。”

あれは何時だった…スパンは、また、コニータとのことを思い出していた。


コニータとスパンが結婚して、1年ぐらいたったときだった。スパンは今じゃ記憶がぼんやりしていて細かいところは思い出せないでいる。ただ、コニータが赤い顔して、鼻の頭にうっすらと汗をかきながら一生懸命話していた。

「あのね、あのね、赤ちゃんがね、できたみたい。お腹が張った感じがしてるの。それから、熱もちょっとあるみたいだし。胃が重たくて、吐き気がするの。そ、それとね、夢をみたの。スパン。あなたが赤ちゃんを抱いてるの。空も地面も真っ赤で、その中にあなたが今生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて立ってるの。笑いながら、涙を流していたわ。私の夢って結構当たるのよ。絶対できてると思うの。スパン、あなたパパよ。」

スパンは、嬉しくて嬉しくて、思わずコニータを抱き上げていた。

それから、2人で病院にいった。2人で興奮して、意気揚揚と。

「想像妊娠ですね。」

一言医者がいった。

“想像…なんだそりゃ?”

スパンは唖然とした。医師は、2人の顔をみて言った。

「よくあるんですよ。赤ちゃんが欲しいと強く思うことで、体が勝手に妊娠するんですね。でも、子宮には赤ちゃんはいない。特に結婚して、1年から3年ぐらいはそうなりやすいんです。いやーじつに人間の体は不思議です。」

医者は関心したようにうなづいている。スパンはどんなふうなリアクションをしようか真剣に考えていた。コニータを傷つけず、安心させることが出来るような。残念ながらスパンにはなにも思いつかなかった。

「えー、そうなの?!」

コニータの明るい声がする。スパンは予想以上に明るいコニータの声に安心するとともに驚きもした。コニータを見ると、うっすらと目に泪をうかべているが努めて明るくしゃべる。

「そんなんだ。あーあ。せっかくできたと思って喜んだのに。なんか損した気分。ねぇ。スパン。そうおもわな…」

あとは、涙で言葉にならなかった。スパンはコニータの無理に明るく振舞おうとする気持ちにふれた。スパンは少し恥ずかしくなった。コニータを慰める言葉や、思いやる行動をとるまえに、コニータの明るい声を聞いて、ほっとした自分がいた。スパンはそっと彼女を抱きしめた。彼女がたまらなく愛おしかった。

「想像妊娠をするということは、体がいつでも妊娠できますよって教えてくれてるんですね。だから、きっと近いうちに本当のおめでたになりますよ。だから、体は大切にしておいてくださいね。」

慰めかもしれないが医者がいった言葉に、スパンたちは感謝した。


イブが頬を紅いろに染めて、エヴァの妊娠を喜んでいる。スパンはそんなイブを可愛いと思う。

「ねえ、エヴァの妊娠はトーイは知ってるの。」

トーイとは子どもの頃から2人でよく遊んだ。スパンがコニータを紹介したとき、トーイはらしくないほど焦ってた。スパンの幼馴染、大切な親友。エヴァの恋人。

コニータが最後の時もスパンの側にいてくれた。

イブが眉間にちょっとしわを寄せて言った。

「まだ、話してないの。2人でどう切りだそうか相談しているんだけど。苦しませるのじゃないか心配で…」

「そっか。そうだね。こんな世界じゃなかったらトーイもきっととても喜ぶんだろうなぁ。」

その続きの言葉をスパンは飲み込んだ。新しい命が生まれる。なにもなくなろうとする世界に、新しく生まれてくる。心の中に、ぽっと黄色花が咲いたような気分。が、半面、それが自分の子供だったらどうなのだろう。希望をみつけられずに、絶望しか子供に与えられないとしたら…そう考えると心に咲いた花がしぼんでいくような気がした。

「エヴァも私もどうしたらいいのか…トーイはきっと苦しむわ」

「もし自分が…自分の子供だったらって考えたら、手放しには喜べない。」

イブは小さくため息をついた。

「大丈夫だよ。トーイなら。」

「え?」

「トーイはね、大きな器をもっているんだよ。世界がすっぽり入り込むほどのね。あいつならどんな困難も受止め、また向かっていくよ。決して嘆いたり、あきらめたりしない。トーイは鋼のように強いのさ。」

そう、トーイなら大丈夫だ。それは、ただの思い付きとかではなく、スパンの知る限りトーイは、どんな難問でも、苦境のときでもそれを受け止め、乗り越える強さを持っていた。

『僕なら…もしも僕だっら…』とスパンは考えた。『自分は、トーイのように受止めたりはできないだろう。愛する人が、こんな状況の中で妊娠したら、嬉しいという気持ち以上に、悲痛な思いにとらわれるだろう。それ以上の…』

そこまで考えたが、スパンには、それ以上の想像力は働かせる気になれなかった。

「スパン聞いて。いまあなたが西へ行こうといったでしょ。だから私思ったの。私もあなたについて西へ行く。エヴァも一緒に。少しは望みがあるかも知れないし、もし望みがないとしても、ここでじっとしているよりはいいと思うの。あとどれだけの命か解らない。けど、何もしないで、ただ、じっと死を受け入れるのは、絶対に嫌!」

そういって、イブは強くかぶりを振った。スパンはイブを強く抱きしめた。ただ、彼女の強さがたまらなくうらやましく、また愛しいと思った。コニータの強さとは違う、強さだった。

今、目の前に“死”がある。

死神がその右手には紅い水晶球を。その左手には蒼い水晶球を、我々の前に突き出している。その汚れた笑顔は“さあ、どちらの死を選ぶのだ?”と問いかけているようだ。

静かに死を受け入れ、これが運命だと、自分の辿る道だとあきらめ、受け入れることでしか方法が見出せず、せめて表面だけでも穏やかに、静かに死を受け入れる。

それもあり。

消えゆくぎりぎりの瞬間まで生を求める。命を求める。あがいて、あがいて、あがき尽くし、目から血の涙を流すほどの苦痛があったとしても、その命の灯が消える瞬間まで、生きる方法を求め、生き残る希望を捨てない。

それもあり。


死神がその二つの玉をスパンに突き出し、“さあ、選べ”と選択を迫っている。

この地に残り、静に死が訪れるのを待つか、それとも、闇雲に旅たち、その果てにはなにがあるのかわからないが、一縷の希望、奇跡に、命のすべてを託すか。


スパンは心の中をさまよった。そこにはたったひとつの後悔があった。あきらめ、絶望してしまった自分が、コニータの死を早めてしまったのではないか、という思いが。

なぜ、あきらめてしまったのだろう。

なぜ、希望を持ち続けることをしなかったのだろう。

あきらめずに、あがいて、あがいて、あがいて…何故、あがくのをやめたのか。奇跡を望むのをあきらめたのは…何故だろう。

コニータの死を、スパンはただなにもせず、あきらめの中で見守り、そして見送った。もしあの時、備蓄庫を襲ってでもコニータにたっぷり水を飲ませていたら。もしあの時、ここに留まらずにイブのように西へ向かっていたら…と

スパンと結婚せずに、違う男、もっと行動力のある別の男と結婚していたら…コニータはまだ生きていたかもしれない。今もどこかで笑っていたかもしれない。

もしも…

もしも…あの時と、後悔は延々と続いていく。

“コニータは、もう、どこにもいないのに”



-2-


トーイはあっさりと言った。

「スパン、俺たちも一緒に西へ行くよ。 “エヴァと生まれてくる子供に奇跡起こさせたい”という想い。俺もその奇跡を起こしたいんだ。」

トーイはエヴァの手をとると、

「いいかい、エヴァ」

と聞いた。エヴァは泣き笑いをしながら、頷いていた。なんどもなんども。


スパンは広場-この場所は、この前まで子供たちが元気に走り回り、母親たちは他愛ないおしゃべり、夕方になるとあちらこちらの家から夕餉のいい匂いがしていた-の真ん中に立ち大声で叫ぶ。

「みんなー集まってくれー。」

そう叫びながら、頼むみんな顔をみせてくれ…と願う。今は、どれだけの人が生きているのだろう。そんな不安を打ち消すようにもう一度叫んだ。

「スパンだ。みんな集まってくれ。」

「ああ…」

と低い声。

「いま、そっちへ行く」

「ラルだ。よかった生きている。」

ラルは今32歳だという。赤い砂がでた当初、幼い息子のルイを背負って遠い町からサマーズに避難してきて、そのまま住み着いた。

顔をだしたのはラルだけだった。しばらく待ってみたが、他には誰も出てこなかった。スパンは勤めて、知らん振りをした。

「僕たちは街をでる。西へ行くことにしたんだ。トーイとエヴァも一緒に。“きみ”もこないか。」

(あえて“きみ”と)

ラルは黙って横を向いている。その瞳は、何も見ていないように感じた。光の消えた瞳。

「実は、エヴァが妊娠した。生まれてくる子供とエヴァに奇跡を起こさせたい。この町からでて、その奇跡をみつけたい…」

ラルは瞳を見開くと、驚いたようにエヴァをみた。そして、エヴァの下腹部をしげしげと眺めていた。スパンたちは、じっとラルの言葉を待った。ラルはスパンたちに向き合い、すっぽりと頭を覆っている帽子をゆっくりと脱いだ。スパンたちは、おもわず息を吸い込んだ。吸い込んだ息を吐くことができないでいた。ラルはスパンたちに右の耳のあたりを見せながら言った。

「耳が砂になってしまった。」

おもわずスパンはその耳にふれてしまった。ざらっとした砂の感触がする。ラルは皮肉な笑いを浮かべて言った。

「ルイは4日まえから砂になり始めている。多分、明日か、明後日かには完全に砂になってしまうだろう。少しづつ、でも確実に…」

ラルはうつむいて地面の赤と白の混じった砂を、強く踏みにじった。苦しい沈黙が続く。

「最初は、耳が砂になったんだ。どんなに水を飲ませても、赤い砂が吸い取ってしまう。沢山、ほんとに沢山の水を飲ませたんだ。ラルの全身にかけてもみた。でも、でも…君らもしってるよな。

あっという間に赤い砂に吸収されてしまうんだ。ヨシやダンの家からも、水をもらってきてルイの体の浴びせたんだ。でも、ラルの細く白い指が真っ赤な砂になって、そして、そして、俺にパパと抱きついてくれた腕も砂になって、一緒に海岸を走った足も砂になって…みんな、なにもかも」

ラルはうつむいたまま砂を強く踏みつける。

「ルイが言うんだ。『パパ、僕は全然怖くないし苦しくもないよ。もうすぐママに会える。パパも僕がいってしまったあと、きっと来てくれるよね。』って、そうルイが言うんだ。だから、スパン。俺は君たちとはいけない。ルイのそばにいて、ルイが逝ってしまうのを見送らないと。俺がルイの後を追うのはそう先じゃないし。」

そう言うと、ラルはゆがんだ笑いを浮かべた。

「エヴァ。君の奇跡を信じるよ。生きるものすべて、星自体の命さえもが尽きようとしている。そんなときに、新しい命が、そこに…君の体に宿った。それ自体が奇跡だよ。失ってしまった未来が、まだそこにあって、君らに、あきらめるなと、ささやいているようだ。」

そういうと、ラルはエヴァを抱きしめそっとその頬にキスをすると、トーイ、イブ、スパンの顔を一人一人じっと見つめた。

「おきまりに言葉だが、“グッドラック”幸運を祈ってるよ。俺とルイの分も奇跡を見つけてくれ。」

そう言うと、スパンたちに背を向け、ラルはとぼとぼとルイの待つ家へと戻っていた。

赤い砂を、もっと赤く染めるように西に太陽が沈む。

スパンたちはラルが見えなくなるまで見送っていた。ラルが道を曲がるときに背を向けたまま、軽く右手を振ってくれた。その瞬間彼の指が砂になって風に飛ばされたように見えた。もう二度と彼に会うことはないだろう。



夜明けとともにスパンたちは出発した。スパンたちは、ラルに別れを告げなかったし、ラルも姿を見せなかった。


町の外は荒陵とした荒野だった。

少し前では、深い緑の森があり、その森を迂回するように道路が走っていた。今は枯葉をつけた枯れた木立が目立ち、地を覆っていた背の低い植物は枯れてかさかさになって地にはいつくばっている。その上をうっすらと赤い砂がおおっている。

道路を静かに、荷物とスパンたちを載せた小型トラックは、サマーズの町から荒野を北西へと進んだ。

荷台で揺られながら、イブが言った。

「今日は空が青いわね」

「ああ」

「風、ないわね」

「ああ」

「静よね」

「ああ」

「さっきから、『ああ』ばっかりね」

「ああ」

イブはあきらめたように、つかの間の青空に視線をもどした。久しぶりに見る青い空のような気がした。最後にこんなに青い空を見たのはいつだっただろう。記憶の中を探ってみて、思い出したのはずっと昔にみた深い蒼空だった。

(そうね、こんな色が蒼のわけ、ないわ)イブは静に目を閉じた。


スパンは以前この道を通った時のことを思い出していた。赤い砂がでる前だった。学術調査をしようと西の国への旅券をとり、西行きのバスに揺られながらこの道を走った。その時の気持ちは、楽しく、うきうきしていた。目にうつる深緑は目にしみるようだったし、時折、森からひょこっと顔をだす、野生のコリンがスパンが乗ったバスをものめずらしそうに見送っていた。森と反対側には、遠くに海がちらちらと見え隠れしていた。天気のいい日だったな。一人旅の楽しさと、目的地への期待から気持ちが浮き足立って、自然と鼻歌が出てしまっていた。その鼻歌にあわせて、後ろの席の老夫人が綺麗な声で歌ってくれたっけ。それがきっかけで、車内で言葉を交わした。西に住むお孫さんに会いにいくのだと言っていた。あの老婦人はどうしているだろうか。

そこまで思いを馳せて、スパンは胸の中に急に苦い思いが広がるのを感じた。あのときの旅は楽しかった。目的地に向かって期待と希望があった。今、同じ目的地に向かって入るが、心がひりひりする感覚がある。目的地に期待はあるのか。自分が何を求めているのか判らないままだった。

ふと思いついて、口にしてしまった言葉が、いま、スパンの心をひりひりとさせていた。

旅は、行った先がたとえ期待はずれだったとしても、帰るところがあれば“期待に胸弾ませ”の言葉どおりにそれは楽しい期待であり、楽しみであった。が、この旅は目的地はあれど、そこに期待はなく、また、期待はずれであっても、戻れる場所もないのだ。ましてや、確信があったわけでなく、やりきれない思いに追い立てられるかのように、サマーズの町を出てしまった。

スパンは、無責任にも似た、思いつきのような気持ちでみんなを連れてきてしまったことを、後悔していた。なぜ、一人で旅たとうと思わなかったのだろうか。後悔と責任の重さに心はひりひりと痛む。


道路はまだ赤い砂がそれほど多くなく、他の障害物もなく、嘘のように順調に小型トラックは北西に向かって進んでいった。妊娠中のエヴァの身体を思って途中なんどか休憩をとった。

「ヤナギ渓谷までは、あと1日くらいかな。」

トーイが水を飲みながら聞いた。

「それぐらいかな。あそこには渓谷を渡る橋がある。そこを越えると西の国だ。」

「西の国は今どうなってるんだろう」

「さあな」

スパンは喉まででかかった言葉を飲み込んだ。みんなが望むようなものはないかもしれない。スパンは道路の赤い砂をけった。

「トーイ。すまないな」

「なにが?」

「ん、車の運転、任せっぱなしで」

「いいさ。スパンが運転できないのは百も承知さ」

「僕も練習くらいしておけばよかったよ」

「しかたないさ。スパンは機械とか苦手だからな」

「ははは。」

スパンは照れくさそうに頭をかいた。

機械いじりがにがてて、運転すらできない。もう少し自分が器用だったらなと、やはりここでも後悔していた。


夜になると寒さは半端じゃなかった。予想はしていたがこんない寒いとは。ちらりとスパンの脳裏に後悔がかすめた。

家の中いれば、冷たい空気は遮断できたが、野外ではそうはいかない。イブが念のためと余分に毛布をもってきていたがそれでも寒さは身に染みた。イヴとエヴァを小型トラックの運転席で休ませ、スパンたちは荷台に隙間を作って眠った。

トーイの静かな寝息が聞こえる。その寝息に混じって、遠くから、近くからサラサラと砂の動く音。

スパンは強く眼をつぶる。

コニータ。僕は君のいうとおり、最後まで生き抜くよ。後悔ばかりはもうイヤなんだ。おもわず思いついたままを口にしてしまったけど、サマーズの町を出てきてよかったと思いたい。今度だけは後悔したくない。いや、後悔は許されない。

思わず拳に力が入った。この先どうなるかわからず、不安で心が壊れてしましそうだった。スパンは、コニータの温もりを思い出そうとしていた。

(コニータ、僕を励まして。勇気づけて。)

「コニータ…」

そっとつぶやく。

眼をあけるとそこにコニータがいるような気がした。真っ暗な闇の中で、きらきらと星が輝いている。

空気が凍えて、星が激しく瞬いていた。この星空のどこかに、人類はいるのだろうか。スパンたちの祖先が旅立ったという故郷の星があるのだろうか。

空の星は、冷たく瞬いていた。


翌日、日が暮れたところに、ヤナギ渓谷についた。

目の前に目的地があるのだが、この暗さでは渓谷に近づくのは危険だった。渓谷には西と東を結ぶ鉄橋がある。鉄橋の入り口には、旅券を確認する事務所と、小さな売店、カフェ、ホテルがあった。夜でも明るく照らされた渓谷は、とても美しかったし、観光客は夜の渓谷の風景を楽しんでいた。

だが今は、真っ暗な闇が渓谷を覆っていた。小型トラックのライトも渓谷までは届かなかった。赤い砂の影響でどうなっているかわからない今、むやみに渓谷に近づくのは危険だった。渓谷から少し離れたところにあるカフェは無事そうだった。

中にはいるとうっすらと砂をかぶったテーブルや椅子などが雑然と置かれていた。

その夜はそこで眠った。トラックよりはずっと暖かで、また、手足を伸ばせて眠れることがうれしかった。

トーイが店の中から、魚の缶詰と紅茶の葉っぱを捜しだしてきた。携帯コンロであたため、食事らしい食事と、温かいお茶はみんなの気持ちをなごませ、笑顔にした。

「まるでキャンプみたいね」

エヴァが嬉しそうにいった。

「そうだね。なにかゲームでもしよう」

スパンが提案し、トーイとスパンが子供のころよく遊んだ言葉遊びのゲームを4人で始めた。久しぶりにみんなで笑った。こんな風に笑うことはもうないと思っていた。スパンは少しだけ自分の選択は間違っていなかったのかもしれないと思った。


翌朝、スパンは夜明けとともに目を覚まし、一人で渓谷を見に外へでた。東の空には、低く、赤い太陽があった。いやに赤く、どろどろとした感じの太陽だった。

スパンをその太陽をしばらく見つめていたが、ゆっくりと渓谷に向かって歩き始めた。カフェの隣に立っている3階建てのホテルの横を廻りこむと、そこに旅券確認の事務所があり、その先が鉄橋だった。ホテルも無事に立っていたし、事務所もあった。鉄橋の入り口もあったが、西側の光景にスパンは目を見張った。

渓谷の西側からは、赤い砂が滝のように流れ落ち、渓谷の底は砂で覆われていた。

鉄橋はかろうじて、渡れそうな感じだったが、それもいつ落ちるか判らないほど、朽ち果てていた。スパンはそっと鉄橋の手すりに触れてみた。ふわっと一部が砂になって風に運ばれて行った。

「だめだ」

スパンの中に暗い失望が沸いた。ふと背後に気配を感じて振り向くと、トーイとイブが立っていた。2人の瞳には絶望の色があった。おそらくスパンも同じ色の目をしているだろう。スパンは思わず2人から視線をはずした。

「このまま、ここに立っていてもしかたない」

スパンの言葉に、イブがはじかれたように飛び上がった。その様子が可笑しくて、思わずトーイが噴出した。

「いや、そんなに驚かなくても…」

「ご、ごめん。急に声をかけらたからびっくりしちゃって」

「すごいジャンプ力だよ」

トーイがからかうように言った。イブは顔を赤らめてトーイのお知りを蹴飛ばしていた。

「とりあえず、朝めしだな」

「そうだな、それからだ。」

「それからって?」

「次の目的地だよ」

そういって、スパンがイブの肩をやさしく叩いた。


エヴァが言った。

「マーリス山は立ち入り禁止区域ではなかったかしら?」

朝食の時に、スパンはマーリス山の東側から西の国へ入ろうと提案していた。マーリス山は遠い昔、先祖の飛行船が着陸した地であり、また、西の国の所有となっていた。西の国の政府機関の重要な拠点があるらしく、東の国の人間はもちろん、西の一般人も入れないようになっていた。

トーイが微笑みながら、エヴァの肩に手をおいた。

「もう、いまさら誰も“禁止”なんて硬いことは言わないよ。」

「そうね。でもスパン、東側からマーリス山に入れるの?」

「ああ。一度いったことがあるんだ」


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