第5話 太極の概念

 始めに混沌のうねりあり。

 混ざり合い、融け合い、境界にて隣り合う。

 隣り合った二の混沌から、陰と陽が生まれ出た。

 陰から大地が広がり溢れ、陽から天が広がり満ちた。

 二は四となり、四は八と境界を敷きて、世界に数多の事象を生み出した。

 事象は命を巡り育み、因果を巡る。

 陰と陽は、生命に事象広げる力与えて深き眠りに落ち、境界より夢にて現を眺め続ける。


「ポーボーボーボー!(※超特別意訳:汚ねえ手でアウラに触ってんじゃねえよ、この毛無しサルが!)」


「痛った!」

 暗闇から意識を強制的に引き戻す激痛。

 僕が彼女に伸ばした右手は、真横からの衝撃で引っ込めねばならなかった。

 衝撃の正体は、ポボゥの体当たり。

 全身の羽毛を逆立てては、右片足立ちの態勢で、左脚の鋭い鉤爪を打ち鳴らしては、僕を威嚇している。

「なんだよ、今の!」

 赤くなった右手に涙目となった僕は、強制的に見せつけられた先の映像に疑問と驚愕を零すしかない。

「「陰神様との交信に割って入るなど不敬だぞ!」」

 金剛力士像似の男二人が、怒声を揃えてきた。

 顔面は真っ赤に染まり、額に浮かぶ血管が今にもブチ切れそうなほどだ。

「いんしん? しんって、神、様?」

「はい、そうです。神様ですね」

 僕の疑問に答えるのは、瞑想を解いたアウラだ。

 羽毛逆立て僕を威嚇するポボゥを再び抱き上げれば、膝上に乗せて優しく頭部を撫で出した。

「ポフゥ」

 荒ぶる野生は瞬く間に鎮まり、まん丸としたポボゥが彼女の膝上で愛くるしく鳴いた。

「この世界は、太極より生まれずる陽の神が天を、陰の神が地を創世されました。そして私の血筋は代々、陰神の声を聞き届ける役目を担っています」

「それで、姫巫女か」

 神職の家に婿入りするはずだった僕だ。

 巫女とはいかなるものか理解している。

 神に奉仕し、神職を補佐する未婚の女性、別名、かんなぎだ。

 別の意味として、神のお告げ、つまりは神託を受けとる意味もあり、アウラの場合、後者のようだ。

「なら、君がその陰神の声を受け取れるなら、逆に陽神の声を受け取れる巫女がいるってことになるのかな?」

「はい、その通りです。もっとも陽神の場合、女ではなく男ですけど」

 そういえば婿入り予定だった故の座学で、陰は女を、陽は男を意味すると聞いたことがある。

 天は陽であり、地は陰に位置するとも。

 平安時代などの昔の人たちは、陰陽道にて星の流れや方角で物事の善し悪しや未来を占っていた。

 その根幹を為すのが、太極と呼ぶ陰陽が結合した宇宙の根元。

 根元には、陰と陽の二つの属性により成り立っているとされるのが陰陽思想。

 この世界の太極が如何なる形かはさておき、地球の太極は、円紋、円形の中に波のような線を引いて半分に分けた図をしている。

 陰が黒で陽が白、半々でありながら白の中に魚のような黒があり、黒の中に白が互いをかみ合うようにして描かれている。

 これは陰が高まれば陽となり、陽が高まれば陰となる螺旋のようにぐるぐると繰り返し、相克と呼ぶ。

 日の出と日の入りに例えるのならば、明るくなれば暗くなり、暗くなれば明るくなる。

 何より勘違いをされやすいが、陰陽に善悪、上下の関係などない。

 陰がなければ陽になれず、陽がなければ陰となれず。

 善悪や上下の解釈は、人間が生んだことで陰陽とは自然を二分した思想。

 なるほど、それで陽神は天を、陰神は地を創世したとされるわけだ。

 ただ、僕が次に抱いた疑問は一つ。

「太極の概念がこの世界にあるのか……」

 異世界なのだから、未知が全てを占めるのは当然だが、地球からの転移者や転生者がいるせいか、知識や技術、概念が符合する部位がある。

 だからこそ、次に沸き上がる疑問は一つだが、一端飲み込み、彼女からの答えを待った。

「と、ともあれ、その神様はなんて?」

「陰神様は、全く心当たりがないそうです」

 一瞬だが、実は僕を異世界に召還したのは、目の前の彼女なのかという疑問が過る。

 けれども、初対面時の出来事を思い返せば、僕の転移に関与していないと思う。

 そもそも僕なんかを召還する利得がないと、考えればなおのことだ。

「ただ、ですね、世界と世界を分かつ境界の一部に内からの凹みがあるそうです。普通、境界の外から転移者なり転生者なり現れれば、世界と世界の敷居を跨いだ影響で境界の外側に凹みが生じるのですがね」

 僕がこの異世界に現れた理由は不明。

 ただ、彼女の困った表情からして、僕の転移は今までにない出来事(トラブル)の可能性が高いようだ。

 行くことができるのなら、出ることもできるのが理屈なのだが、理の違う異世界は問屋が卸さないようだ。

「どうするかな、これから」

 僕は先の不安を口に出す。

 ゲームの世界だったら、深き森だろうと、次から次に天の声ことアナウンスの文字や目印が正解を示してくれる親切設計だろう。

 外でモンスターに殺されようと、コンテニュー可能ならば、他人の家の戸棚漁って薬草入手も窃盗だろうとシステム的に無罪放免。

 生憎、僕が居るのは異世界たるもう一つの現実。

 ただ目の前に森がある。果てなく深く広く、目印どころか地図皆無。ないなら自分で地図作りのクソ仕様。

 モンスターに殺されればコンテニューできず、他人の家の戸棚を漁れば窃盗となる。

 望む、望まぬとしても、僕はこの異世界で生きていかねばならない。

 家族はいない。知人友人もいない。かといって如何なる文化か、人種は、貨幣の価値は、そもそも貨幣という概念はあるのか? 他国と戦争はあるのか? 食糧事情は? 米はあるのか? 疫病は流行っているのか? 魔物の脅威と種類は? 未知が多すぎる故に疑問は尽きない。

「あれ、どうしてなんだ?」

 あらゆる疑問が脳裏を駆ける中、至った疑問は僕に左肩を触れさせていた。

「傷が、ない?」

 服をめくって左肩を露出させるも、傷どころか傷跡すらない。

 今更だが、僕はあの洞窟内でゴブリンみたいな化け物に左肩を刃物で刺された。

 毒の塗られた刃物により意識を失い、死にかけたはずだ。

「も、もう突然脱ぎ出すなんて、ここは脱衣所ではありませんよ?」

 アウラは恥ずかしそうに両手で顔を覆い隠しながらも、指の隙間から僕を覗き見ている。

 ただ、声音には羞恥ではなく気まずさが宿る匂いが強い。

「そ、それに、どうして僕は、君と普通に会話をしているんだ?」

 泉の中で出会った時、彼女が何を言っているのか全く分からなかった。

 今では母国語のように何気なく会話している。

 異世界とは別なる世界、異なる世界だ。

 ならば言語が日本語であるはずがない。

 神様から言語理解能力を与えられた、は無しだ。

「あの時、倒れた僕に君は何を……」

 刻々とあの時の光景が、想起されていく。

 ゴブリンの毒に倒れた後、何が起こったか。

「そうだ、君は指を噛み切って」

 言い掛けた瞬間、僕は彼女の唇が小さく、ポボゥと動いたのを見逃さなかった。

 猫のように彼女の膝上で丸まっていたフクロウ似が左羽を軽く揺すったと同時、僕の前にある湯飲みが突然倒れて中身をぶちまける。

「熱っち!」

 熱々のお茶が僕の膝にかかり、思わず叫びながら立ち上がってしまう。

 熱さに悶える中、目の前を一枚の羽根が舞い落ち、囲炉裏に落ちて燃え尽きる。

「あらあら、ばあや、ばあや、来てもらえますか!」

 アウラは素知らぬ顔で立ち上がれば、部屋の外に呼びかける。

 膝上で丸まっていたフクロウ似の鳥は、コロコロと床の上を転がれば、ダルマのように起きあがっていた。

 ふと、人の気配がすれば引き戸が音もなく開かれ、正座した老女が現れる。

「おひいさま、どうしましたか?」

 見た目穏和そうなおばあさんだが、僕を見る眼光が鋭いのは気のせいか。

「お茶を服の上に零してしまったそうなので、新しいお召し物の用意をお願いします。ああ、そういえば、そろそろお部屋の準備も終わっていますよね」

「はい、準備は終えております。ではお客人、こちらへ」

 立ち上がったおばあさんの有無をいわさぬ目に渋々と僕は従うしかない。

(では、夜分に詳細を説明いたしますね)

 すれ違いざま、アウラは僕の耳元で甘く囁いてきた。

 耀夏と同じ声だからか、記憶と悔恨が刺激され、心臓の鼓動を否応にも上げてしまった。

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