第1話 婚約破棄からの再会


 僕、木戸晴信きどはるのぶの人生は、何もかも唐突で一方的だった。

 中でも三つは僕の人生を否応にも変えた。

 一つ、家族が交通事故で死んだ。

 一年前、踏切前で停車していた車は、後続の飲酒運転トラックが激突したことで踏切内に押し込まれた。

 運良く外に投げ出された僕は、打ち身程度で一命を取り留めるが、車内にいた両親と兄はやってきた貨物列車にひかれて死んだ。

 二つ、家族の葬式の時、降って湧いたような婚約話、それも婿入り話が打ち明けられた。

 なんでも両親が内々的に息子の承諾なしに決めていたらしい。

 お相手はなんと東北にある由緒正しき神職の家系ときた。

 家族を失い一人となった僕に、その家はよくしてくれた。

 当初は軟弱者など認めぬ婚約者と、一戦どころか百戦ほど交えることになる。

 紆余曲折で、互いに物理の骨折り結果、可愛く可憐な乙女と一緒なら未来に向けて進むことが出来た。

 けれど、三つ目、その婚約者が神隠しに遭って失踪した。

 全国公開されるまでの大事件となろうと、半年経っても手がかりは掴めず。

 神社内の防犯カメラに手がかりすらなく、進展も見えぬことから、僕は一方的に婚約破棄を言い渡される。

 いつまでも家に縛り付けぬための配慮とはいえ、またしても僕は未来を失った。

 そして、失意のまま神社を出た僕は――ガボガボと溺れていた。


「ぶぐぶぐ、ぶぐ、(ぬ、ぬあんで、水の中にいるんだ、僕は)!」

 水が否応にも鼻や口から入り込む。

 酸素を求めて呼吸するから、なお入り込む。

 入り込んだ水は冷たく、塩辛くないため真水のようだが、問題はそこではない。

「ゲホゲホゲホッ!」

 足のつま先が底についたのを感じるなり、残る力をつま先に込めて蹴り上げた。

 無事、水面まで顔を出した僕は、酸素を求めて何度も呼吸を繰り返し、喉に入り込んだ水をせき込み吐き出していく。

 ああ、もう、足で立てるほど浅いのかよ、と心の内で愚痴ってしまう。

「げほげほ、どこ、だ、ここ?」

 鼻より滴る水を手で拭いながら、僕は周囲を見渡した。

 反響する声と目に映る岩肌に薄暗さから、どうやら洞窟、それも水の湧き出る場所のようだ。

「ロウソクがある」

 岩肌には一定間隔でロウソクが設置され、小さな灯火を揺らめかせている。

 ロウソクの溶け具合からして人の出入りはあるようだ。

「さ、寒い……」

 水を吸った服が重い。

 防水性皆無で吸水性抜群のシャツにジーンズだから、肌に張り付く服が体温を強制的に奪っていく。水を吸ったスニーカーは、重石となり僕の動きを妨げる。

 僕は濡れ紙巻いた缶ビールではないので、このままだと低体温症に陥ってしまう。

「ど、どこか休める場所を……探さない、と」

 沈んでいた荷物を岸に引き上げた僕は、鼻先を突く血の臭いに言葉を飲み込んだ。

 家族を失った事故以来、死の臭いに敏感となっている。

 生命の胎動であり、証でもある血。

 それが外に出て命を散らす臭い。

 気づけば、荷物の中から木刀を抜き、臭いの方向に駆け出していた。

 臭いの発生源は右に曲がってすぐだ。

「なっ!」

 眼前の光景に僕は危うく足を滑らせかける。

 泉の中で、全裸の黒髪少女が、黒色の醜悪な生き物に襲われていた。

「よ、耀夏!」

 何より、僕は水に滴る全裸女の名を口走っていた。

 女木華耀夏めぎかようか。年齢は僕と同じ一七。

 僕の婚約者であり、代々続く女木華家次期当主。

 見間違うはずがない。

 背中に張り付いた黒々とした長い濡れ髪。無駄なく引き締まった身体。一七四はある身長、スリーサイズは上から九一・五八・八七、左乳房にあるホクロと見事に一致している。

 唯一の不一致は、おへそ周りに黒い勾玉のような痣があることだ。

「こいつ!」

 僕はそのまま布袋に納めた木刀を抜き取り、水飛沫をあげながら彼女を守るように立っていた。

「耀夏、今の内に安全な場に下がって!」

 両手で握り絞める木刀の柄を腹の位置に、腰の重心はわずかに低く、剣先はゆるりと醜悪な生き物に向ける。

 あらゆる剣術の型で基本であり最強とされる構え、正眼。

「――――――!」

 耀夏が何か言っているようだが、聞き取れない。

 耳が遠いわけではない。英語でもフランス語でもない。

 何を言っているのか、全く分からないのだ。

「ああ、もう、なんて言って、くっ!」

 グチった僕めがけて醜悪な生き物が飛びかかる。

 ロウソクの薄明かりが灯すのは錆び付き、刃こぼれしたナイフ。

「こいつ!」

 僕は木刀で飛びかかる生き物の喉元めがけて突きを入れる。

 剣道において突きは殺傷性が高い故、ある一定の年齢まで禁じ手となっている。

 だが、目の前の生き物は、人間には到底見えないので使用に躊躇も問題もない。

「ゴブリンか、こいつ!」

 ライトノベルに出てきそうなゴブリンそのものだ。

 稽古の休憩時に、スマートフォンで小説投稿サイトの作品をよく読んでいたから知っている。緑の皮膚が定番だが、色や正体の正誤をあれこれ考える暇などない。強かな突きを入れたつもりが、このゴブリン、ただ後方に突き崩されようと、すぐに身を立て直し襲いかかってきた。

「なんか、ムカつく顔だな!」

 醜悪に歪んだ顔が嗤い、僕の神経を逆なでする。

 僕は何度も、何度も木刀を打ち込んだ。

 なのに、このゴブリンは、傷一つ負うことなく襲いかかってくる。

 ゴブリンって普通、ゲームとかの序盤に出てくる経験値稼ぎの雑魚だろう。

 群れれば強いが、個自体は弱いはずが、この黒いのは強い!

「くっ!」

 子供ほどの体躯にすばしっこい動き。

 短い四肢をバネのようにして岩肌を蹴り、木刀握る僕を奔走している。

 右に、左に、ある時は天井を蹴り、狙いを絞らせない。

「し、しまった!」

 一瞬、ほんの一瞬だけ、ゴブリンを見失ってしまった。

 次に位置を把握した時には、耀夏に襲いかかろうとしている。

 下半身にぶら下がる粗末なものをおっ立てているから、瞬時に怒りが湧いた。

「耀夏の純血は――」

 怒りの叫びで、肺の中の空気を全て吐き出した僕は、深く、鋭く、息を吸い込んだ。

 吸い込んだ息が、肺に貯まり、貯まった息が酸素として全身に血管を通して行き渡る。

 水濡れの身体から湯気を昇り、身を深く沈み込ませて脚部に血と力を集中させていた。

「僕の物だ!」

 踏み出した衝撃で、水面に雷鳴のような音と水柱が走る。

 肌が震え、脈が激しく波打ち、鼓動は無限に刻まれる。

「せいっはあああああっ!」

 僕は強かなかけ声と共に、渾身の突きをゴブリンの後頭部に叩き込んでいた。

 剣先から柄にかけてぬるりとした感触が伝わり、ゴブリンの口から木刀の剣先が生える。

 ゴブリンが黒き煙となって痕跡残さず消えた。

「抜かった」

 僕は左肩に走る痛みに、木刀を手放してしまう。

 このゴブリン、最後の最後に、手に持つ刃物を僕に突き刺してきた。

 アルコール度の高い酒でも飲まされたかのような、酩酊感が急激に押し寄せてくる。

(これ、刃先に毒塗っていた、だろう)

 刺された左肩が異常に熱い。

 意識が遠のく、両足を踏ん張って倒れぬよう立っていられるのがやっとだ。

 呼吸で一時的に身体能力を強化した後だけにきつい。

「耀夏、や、やっと、会えたのに……」

 僕はこのまま死ぬのか。

 訳も分からず、奪われ続け、失い続け、今まさに自分の命が失われようとしているのが自覚してしまうのはイヤだ。

 ああ、父さん、母さん、兄さん、今行くよ。

 朦朧としながら、水面にうつ伏せで倒れ込んだ僕は仰向けに起こされた。

「よ、耀夏……」

 霞む目がとらえたのは、濡すぼった耀夏だ。

 しきりに何かを言っているが、遠ざかった意識が彼女の声を拾わない。

 彼女は意を決した表情を浮かべるなり、自分の左親指の表皮を犬歯で噛み、出血させた。

 流れ出る血を口に含めば、そのまま僕に口移しで流し込む。

「んぐっ」

 流れ込む血は僕の身体に新たな熱を与え、意識を途絶させた。

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