第35話 妄念、俗念、消す懸想の根
不意に、目が覚めた。
意識の半分は、まだ温かい泥に浸かったかのような眠りの領域にあったけれど、しかし確かに目が覚めていた。
手のひらでグー、パーと閉じたり開いたりをしていると、そこからじんわりと熱が抜けていくように感じられる。ぺりぺりと眠気が剥がれていくような感覚にも陥った。
泥中からもう半分の意識を引っ張り上げるのと同時に、体をむっくりと起こす。眠っていたはずなのに、ぐったりと疲れた気分である。
まだテレパシーは止んでいない。誰のものかもわからぬ思考が延々と垂れ流され続けている。
気怠い感覚は多分これのせいだ。逆によく、こんな常時爆音のスピーカをつけられているみたいな状況で眠ることができたものだ。気を失うレベルでないと、そうそう眠りにつくことはできなさそうである。
やかましい雑音の域に達しているテレパシーのせいで、すっかり意識は冴え、脳裏にこびりついたような睡魔もどこかへと消える。
と同時に、先ほどまで朧げに残っていた夢の内容も、流れ落ちてしまった。ずいぶんトンデモナイ内容だったような気がするが……今になってはもう、記憶の尾を掴むことはできない。
頭が冴えたことで、取り巻く環境について目がいく。
ずっと眠っていたのだから、特に変化があるはずがない。
しかし現実には、その存在しないはずの変化が見られた。
まず言えるのは、部屋が綺麗に整頓されている。
昨日から脱ぎ捨てられた制服はハンガーにかけられており、ほっぽり出して中身がぶちまけられていた鞄も、何事もなかったかのような顔で部屋の隅に鎮座している。
記憶にもないほどの無意識下で、俺がこんな几帳面に整頓できるはずがない。
加えて、食欲はないがそれでも感じられる良い匂いが、部屋に充満していた。そしてそれで気付いたが、ベッド横の作業机に、なにやら料理と思しき椀が二つ並んでいた。
重い体を引き摺ってソレを覗き込むと、味噌汁か何かの汁物と、いろいろと具材の混ざったお粥があった。
整頓されているのは大家さんの仕業かと思ったけれど、この料理の出来を見てそうではないと確信する。彼女はお粥を作るだけでもトンデモナイ代物を生み出してしまうのだ。こんな大根や葉のようなものが混ざる、比較的手の込んだものを作れるはずがない。
となると、じゃあいったい誰がやったのか、という話になる。
こんな世話を焼いてくれるような人、俺の周りにはいない。そもそも俺の家を知っている人間の方が数少ないし、さらに言えば俺と親しい人間すら少数なのだ。体調を崩した時に面倒を見てくれる人などいないはず。
湯気がまだ立っているお椀と、それらを作った張本人の見えない部屋を眺めて、少しばかりの恐怖のようなものを覚える。
そしてそのちょうど。
──────サッ
何か、衣類が擦れる音がした。
一瞬わからなかったけど、背後の方から聞こえてきた。
背後にはベッドしかない。
だが、布団が崩れたり枕が落ちたりといった、物理現象による音とはあまり感じられなかった。もっとこう、作為的というか、人によって発生した音…という感じであった。
じゃあ、いったい誰がいるんだ、という話になる。
さっきまでベッドの中にいたわけだが……、もしかして他に人が入り込んでいたのか?
意識が朦朧とし過ぎて気づかなかった。流石に注意力が欠如し過ぎている。
気休めにもならないが、今背後にいるであろう存在に警戒心を露わにする。
そしてそうしたところで…。
「……っ、五見さん、起きたん……ですね」
まだ微睡みの中にいるようなとろけた声が、後ろから聞こえてきた。
急いで振り返ると、視線がかち合う。
彼女は少し驚き目を丸める、という顔をしたあと、安堵のような、心配するような、そしてどこか恥ずかしいとでも言いたげな表情を見せた。
「龍樹、さん」
どうしてここにいるのか、なんで来たのか、なんで入ってこれたのか、なんで俺のベッドの中で寝てたのか。
聞きたいことは山々だったが、言葉に紡ぐことはできなかった。
「…っえと、お邪魔…してますっ?」
状況を飲み込めず、ただ名前を呼ぶことしかできない俺を見て、龍樹は少し困ったような笑顔を花開かせた。
---
数分ほど経つと、俺の部屋の机は、大きなビニール袋ふたつによって占領されていた。
その内容物といえば、トイレットペーパー、のど飴、熱冷ましシート、湯たんぽ、フライパンなどエトセトラ。
病人看病スターターセットみたいなラインナップが詰まっており、そしてそれらは全て、先ほど龍樹が買ってきたものであった。
「ごめん、本当に…」
「いえ、これくらいさせてください」
彼女は妙に張り切ったような口調でそう言いながら、テキパキとタオルを絞ったり冷却水を用意したり、看病の準備をしていた。
いったい、こんな量の買い物をして「これくらい」で済ますやつがどれくらいいるのか。そしてソレを受けて、「あぁそうですか」と納得できるやつはどれくらいいるのか。
「困ったときはお互い様ですから」
ベッドで仰向けになる俺の額に、ひんやりとしたシートを貼り付けながら、龍樹は慈愛の微笑で俺のことを覗いた。
これまでの成り行きを概して話すと、こうだ。
昨日からただならぬ雰囲気を感じ、そして今日は学校を欠席したということから、龍樹は俺のことをかなり心配してくれていたらしい。
何かできないかと考えていると、俺の看病をすることに思いつく。
放課後、一度家に泊まった時の記憶とスマホの地図アプリを頼りにこのボロアパートまで辿り着くが、まぁ当然ながら鍵がかかっていて入れない。
そこでダメ元で大家さんの部屋を訪ね、素性と状況を説明すると、なんと何故か快く部屋の鍵を渡してくれたらしい。
……いや。あの人何やってんだよ。
もし龍樹がろくでもない輩であったり。組織の人間であったりしたら、どうおうつもりだったんだ。
まぁ彼女のことだから、そんなことは全て想定した上で、鍵を渡したのだろうけど。というかそう信じたい。
とりあえずそういうことで、渡された鍵で俺の部屋に入り、掃除なり食事の準備なりと…いろいろなことをやってくれたようで。
少し疲れたので俺の隣で横になると、そのまま本眠りに入ってしまったらしい。
どうしてそこで、俺のいるベッドに潜り込んだのかは甚だ疑問を呈したく思うが……。
で、そして目覚めた今、近くのスーパーで必要そうなものの買い出しに行ってきてくれていたところ…というわけだ。にしてもこの購入量は多すぎだ、どう考えても。
「本当にごめん……」
いろいろと世話を焼いてもらった手前、そんなことはおくびにも出さず、ただ馬鹿の一つ覚えみたいに謝罪の一言を告げるだけにした。
「……もう、さっきからそればっかりですよ」
龍樹は困ったように小さく唇を尖らせた。
「病人なんですからっ、そういうのはいいって言ってるじゃないですか」
彼女はプリプリというふうに言いながら、濡れタオルを俺の首に巻く。ひやっとした感触が伝わってくる。タオルに染み込んだ水が、動脈を通じて全身に冷感を与えていくが……頭の方はまだソワソワした感じが払拭できていなかった。
「ごめ……いや、うん。そうだね、ありがとう」
言い直して俺がそう言うと、龍樹は満足そうに頷いた。
その表情がまた、どこか愛おしく感じてならない。
そしてこれは……良くない感情だ。
……どうして、ここまで世話を焼いてくれるのか。
なんて野暮なことは聞かない。
彼女の内情はもとより全て垂れ流されているのだ。変に懐いている理由も、彼女がここに訪れた動機も、彼女がベッドに潜り込んできた理由も、全て筒抜けている。
だからこそ、彼女の気持ちを知っているからこそ。
俺は、その気持ちに応えることはできない。いや許されない。
「……龍樹さん」
何か作業に入ろうとする彼女を呼び止める。
なんだというふうな目をして振り返る彼女を、しかと視界に入れる。
俺は、もういなくなる。
龍樹莉央という物語からは退場する人物である。
だから今、お互いに感情が向き合っている今。
その方向を転換させなければならない。
彼女の人生からできるだけ、俺…五見怜とやらの痕跡を消さなければ……ならない。
「少し……、話さなければいけないことがある」
俺の雰囲気を察したのか、真面目な…そしてどこか心配そうな表情をする彼女を見て、なんだか泣きそうになってくる。
重い体を起こして、俺は龍樹に向き直った。
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