第34話 好きだ
あのあと以降の記憶が、欠落してしまったかのようにない。ぶっ倒れたのか、みんなのところに戻ったのか、午後の授業には出たのか、どの時間の電車に乗ったのか。
あらゆる過程を吹っ飛ばし、気づけば家の玄関の鍵を開いていて。
ぐわんぐわんと揺さぶられるように、頭が酷く重く感じられて、そのまま倒れるように眠ってしまった。
……で、目覚めるとその時にはもう、太陽が一周し、気を取り直して空に燦々と輝いていた。嘘みたいに雲のない晴れ間が窓の向こうでは広がっており、耳をすませば小鳥の声でも聞こえてきそうである。
しかし、体調は優れるどころか悪化していく一方であり。
「39度9分……か」
体温計に映し出された数字を復唱して、俺は深いため息を吐く。
起床して早々、頭が割れるかのような鈍痛を感じたかと思えば、これだ。
救急車を呼ぶのも検討するくらいには高い体温、吐く息すらもまるでサウナの空気が流れ込んできたのかというほど高温である。
何かとんでもない病気にでもかかったのかと思われたが、おそらくそういうわけではない。ただ、別の要因は確かに存在しており、そしてその正体は明白であった。
『───── ▚█▚█▟█▜█』
まるで文字化けのような言葉かもわからぬ音の応酬が、俺の脳みそを侵している。芋虫がずるずると入り込んでくるみたいに、雑音にも似たそれは脳を支配していく。
ただ、なんの意味もなさそうな音だが、よくよく聞けばそれらひとつひとつは確かに意味のこもった言葉であり、それらが歪に重なり合って聞こえてきているだけなのだとわかる。
そう、これはテレパシーだ。
この能力は、何らかの調子によって浮き沈みが激しい。
ゆえに、何も心の声が聞こえないこともあれば、聞こえることもある。至近距離でないと聞こえないこともあれば、数万里ほど先の人間の心情すら聞こえてしまうこともある。
そして今の状況は、このテレパシーの調子が極めて良い……俺からすれば絶不調な状態によるものだ。
何度かこのような状況は経験してきたけれど、ここまで酷いというのもなかなか珍しい。
もしかしたら脳が焼き切れて死んでしまうかもと思ってしまうほどだ。
……まぁ、今の俺だとその方が良いのかもなんて考えてしまうが。
大家さんには、まだこんな状態であることを話していない。そして、昨日のことについて……具体的には、木更芽里という存在について。
彼女の怪しげな立ち回り、そして突飛ともいえる言動から、俺は……彼女が俺と同じ部類の人間なのではないかと推測した。
正直、確信と言っても良いくらいだ。
大家から渡された封筒の内容には、「潜入しているかも、能力をもっているかも」などと書かれていた。
それを踏まえて振り返ると、木更のまるでずっと俺たちを見ていたかのような発言は……彼女が能力者ゆえのものなのではないかと思われる。
心が読めるなどという、いかにもフィクションな能力が存在しているのだ。他にも、透視だったり……千里眼だったり、そういうあり得ない能力が存在していてもなんら不思議ではないだろう。
加えて彼女は、明らかな敵対意識すら見せた。
木更が連中の人間なのかはまだわからないけれど、何かしらで繋がりでもあるならば、即刻で関係を断ち切り、この街から出ていく必要がある。
連中が他に、どのような能力者を抱えているのかわかったものではないのだ。念には念を入れすぎるくらいが、逃亡するにはちょうど良い。
……しかし、そんな生活を続けるのは非常に厳しい。
既に、いろいろなツテを転々としてこの街に来ている。
逃げ切るというのは極めて困難な状況だ、無駄に足掻くのならばもう、いっそのこと楽になってしまったらいいのではないかとさえ思えてしまう。
まぁそれは、全てを裏切ってしまう行為だから、安易に取れるはずもないんだけど。
重い頭で寝返りをうつ。視界に映った時計が、すでに1時限目開始の時刻を過ぎていることを伝える。
学校に欠席の連絡をしていない。
龍樹は心配してくれているだろうか。
朧げながら、昨日の記憶が呼び起こされる。なんて声をかけられたのかすら思い出せないけど…、ただまるで子犬みたいな目で俺を心配している顔だけは、焼きつかれたように脳裏に浮かんできていた。
思えば、ここ最近では彼女への印象は180度変化している。
冷徹で、鋭さすら感じられる切れ長の目を持ち……ながらも、脳内はただひたすらにピンク色なムッツリ女。
そんな第一印象だったのに、今はもはや………好き、なんて言葉で片付けられない感情を抱いてしまっている。
いつからなのか。
一つ屋根の下で夜を明かしたあの日か。ポーカーフェイスが崩れ、無邪気な笑顔を見せたあの日か。演劇に感動し、感涙を見せた彼女の横顔を見たあの日か。
はたまた、彼女自身から、そういった感情を向けられた瞬間からか。
わからないけれど、俺はもう隠しきれない気持ちを抱えてしまっていた。
………でもそれが叶わないことなんて、とっくにわかっている。
俺が俺という存在である以上、彼女と結ばれることなどない。
この物語がラブコメディではないことを、俺自身が深く理解している。
それを悲観したりとか、嘆いたりしたりとかは、もうしない。とうの昔にそんなことは克服した。
だから、今の俺は療養に努め、次の逃亡先についてひたすら考えていればいいのだ。
……でも、だけど、なのに。
テレパシーでかき乱されている思考の端には、どうしてか、彼女のことを、彼女への別れの言葉を、考えていてしまっていた。
---
夢を見ていた。
いや、現実かはわからないけど、多分これは夢だ。
俺が一度たりとも使ったことのないキッチンに、龍樹が立っていて、料理か何かをテキパキと準備している。
到底あり得ない光景がそこにあった。
「龍樹」
呼びかけると、何だというふうに、彼女の視線がこちらに向かった。
驚いたような、少し気恥ずかしいような、そんな顔である。
まるで、本当にそこにいるみたいだ。
よろよろとした体を起こして、布団から出る。
あっと口を開けて心配そうな顔をする彼女。それがまた、どうも愛おしく感じられる。
あぁどうか、せめて夢の中くらい。
「好きだ」
きょとんとした後、まるで咀嚼して飲み込み、その熱が顔に現れてしまったかのように、みるみると赤面させた。
パクパクと何かを言っているようだが、どうしようもない耳鳴りのせいで何も聞こえない。
……でも、よくできた夢だな。
まるで現実みたいだ。
うつらうつらと視界が垂れ下がり、俺の意識はまた、深いところへと沈んでいった。
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