第36話 嫌いだ
「え……っと」
「…はい」
少し掠れる声を絞り出しながら、俺は適切な言葉を探した。
彼女は少し不思議そうにはしながらも、真剣な表情でそれをじっと待ってくれている。
だが俺は今、その誠実さを、彼女の心を、踏みにじろうとしているのである。
龍樹の世界から俺という存在を完全に消し去ることは、アレを使う以外不可能だろう。そしてできるだけアレは、俺も使いたくはない。
だからせめて、彼女の記憶から次第に薄れていくように、もしくは彼女自身が消し去ってしまいたくなるように、俺は立ち回らなければならない。そのためにはいったい、俺は彼女になんという言葉をかければいいのか。
それを思うとなんだかやりきれなくなる。今まで、こんなにも心苦しくなったのは初めてかもしれない。昔からこんなことは慣れているはずなのに、今の状況をその慣れのケースに当て嵌めることは到底できなかった。
……そんな弱い心を今だけ押し潰すかのように、俺は喉を震わせる。
「龍樹さん、もう、……会うのは、…いや関わるのは止めにしよう」
「……え?」
目を大きく見開き、龍樹は停止した。
やがてその瞳孔が微かに揺れ、そしてきゅっ……と細まっていく。
「ど、どうしてですか。すいません、意味が少しわからないっ…です」
無駄な罪悪感に駆られて、顔を彼女から背ける。動揺の入り混じった声を漏らす彼女を、目の端で捉える。
心臓に釘を刺していくような気分で、俺は言葉を続けた。
「もうこれ以上……龍樹さんと関わろうとすることは……できない。僕は君と、関わってはいけない人間だ」
その言葉に彼女はあからさまに表情を歪ませた。
だが、それは一瞬のことで、すぐに彼女は気丈な振る舞いを見せる。
「…いやですね、五見さんは、五見さんじゃないですか。関わってはいけないだなんて、そんなの誰が決めたんですか」
たぶん何かを勘違いしたのか、彼女は俺を励ましにかかった。
木更の分析が正しいなら、龍樹は自身の影響力もよく理解しているということらしい。となると、「自分の近くにいて、陰口を浴びせかけられているため、この、病気で弱ったタイミングで気分もまたネガティブになってしまったのだろう」だなんて推測したのかもしれない。
というか、テレパシーでそう言っていた。
もちろん、的外れな推測である。
…いや、もしくは察しのいい彼女のことだ、俺の突き放そうとする態度から目を背けようと、逃げの気持ちで言い聞かせていたのかもしれない。
だから俺は、その逃げ道を潰していくしかない。
「…あぁ、そうじゃない。そうじゃなくて……、関わってはいけないんだ。関わっちゃダメなんだ。あぁ、本当に…」
語尾はだんだんと尻すぼみになっていった。選ぶべき言葉が見つからなかったのだ。
…いや、違う。そうじゃない。
俺もまた、逃げていたのだ。今、龍樹に言うべき言葉はとっくに見つかっていた。だがそれに、目を向けなかっただけだ。
なぜなら、彼女に嫌われたくないなんて感情が、まだ俺の心に根付いてしまっているから。
龍樹は俯きがちに、口を結んでいる。
表情はよく見えない。ただ拍子に、行儀良く膝の上に乗せられていた拳に、ぐっと強く力が込められるのがわかった。
「五見さん」
しばらく沈黙が続いた後、龍樹は口を開いた。その声はまだ微かに震えていたが、何かを吹っ切ったような強い意思も感じられた。
「あなたが……どうしてそこまで思い詰めているのか、私には到底推し量れないことなのかもしれません」
伏せられていた彼女の目が、真っ直ぐと俺を見据える。
「でも、少なくとも私は……、わたしはっ」
瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。だが。それを悟られまいとするようにして、龍樹はぐっと顎に力を込めていた。
そして、その拍子に。
───────フッと、甘い香りがあたりに漂った。
かと思えば、体にギュッというような圧力が加わる。どこか温かくも感じられるそれに、俺はなす術なく身を委ねる。
「私は、あなたと居たいっ……」
彼女の涙を堪えるように震えた声が、耳元に聞こえた。優しく包み込むような彼女の両手が、俺の背中に添えられる。
「龍樹さ───」
突然の出来事に、拒絶することすら忘れて目を白黒とさせる。
だがそんな刹那の間にも、彼女は俺を強く抱き寄せるようにして引き寄せる。そして俺の首元に顔を埋めるようにして俯いたかと思うと、スーッと静かに息を吸った。
彼女の髪の香りが鼻腔をくすぐる。どこか落ち着くような、それでいて何故か落ち着かないような、そんな匂いだった。
「……ごめんなさい」
彼女が耳元でそう囁くのが聞こえた。吐息混じりのその声は、どこか熱を帯びているように感じられた。
彼女は、ゆっくりと俺の身体から離れていく。
……時間が止まったかのような静寂が俺たち二人を包む。互いに何も口にしないまま数秒間の時が流れた後、龍樹は我に返ったかのようにハッとしたように揺れた。その顔はすっかり熱に浮かされているようで赤く上気していた。
「でも……、そういうことです。私は…、あなたのそばに居たい」
恥ずかしそうな様子を見せるが、しかし視線だけは俺のことを凛と向かっていた。
真剣なトーンで、告白ともいえるその言葉が。俺の耳にすんなりと届いた。
「うん……、うんっ……」
気づけば俺の目元は灼熱のように熱くなっていた。
視界がぐにゃんと歪み、彼女の顔がぼやける。
「大丈夫ですから」
再度、軽く彼女は俺の身を寄せた。
どこまでも広く、温かい抱擁に、いつしか俺は絆されそうになっていた。ずっとこうしていられれば、どれだけ幸せなことだろうか。
「……ごめんっ」
そっとまた距離を取り、涙を拭う。
「はいっ…」
困ったように、それでいて慈愛のこもった眼差しで彼女は笑った。
本当にできた人間なんだと思った。
その好意が俺に向けられること自体、もはや勿体なく感じられるほどに。
──────だからこそ、俺はもう、決意した。
目の前の彼女の肩を強く掴み、力任せに押し倒す。
体格差と油断していたこともあって、弱った相手でもあっさりと彼女の体はベッドに沈んだ。
すかさず俺は彼女のワイシャツの襟元を掴み掛かり、ぐっと顔を引き寄せる。
「お前は、俺の何を知っている」
自分でも驚くほどに低く、冷ややかな声が、喉の奥底から響いた。
弛緩したの龍樹の顔が、再度強張る。
「なっ……えっ…」
彼女の表情がまた、困惑したように、それでいて怯えるように変わった。
でも、もう俺は止まれない。
「五見さ────」
「五見ね。そんな偽物の名前でしか、お前は俺を呼ぶことができない」
俺の影に飲まれる彼女の顔を睨む。
ブルブルと震える龍樹の瞳に、どこまでも醜悪で邪悪に思われる俺の顔が映し出されている。
「所詮、上っ面しか知らないのに、どうしてそんなにも自惚れることができる、受け入れることができる」
感情に蓋をして、ただ、俺は最悪極まりない言葉を、ひたすらに吐く。
「決めつけて、調子に乗って、自分が特別か何かと思い込んで… 嘘に踊らされた愚か者がッ……、」
今の龍樹の心情を、聞くことはできなかった。
その原因が、はたしてテレパシーが無数に殺到しているからなのか、それとも無意識に聞くのを拒絶しているからなのか、俺にはわからなかった。
「俺はな、お前みたいな馬鹿が一番」
「嫌いだ」
龍樹の顔が、悲しげに歪んだ。
「っ……」
そしてその刹那、彼女はバシッと俺を振り払った。もとよりそこまで力も強めていなかったので、あっさりと彼女は俺のもとを離れる。
そしてそのまま、逃げるように…まぁ実際に逃げたのだろう、玄関の扉から飛び出していった。
彼女がいなくなり、まるでもぬけの殻になった部屋の中。俺は、彼女が出ていった扉の向こうを、ただただ眺めることしかできずにいた。
机に置かれたお粥は冷めたのか、もう湯気は立っていなかった。
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