第37話 気鬱の中にアクシデント
もう一度、眠る気にはなれなかった。
頭の鈍痛がより酷くなって寝るに寝つけないのもあったけれど、なんだかこのまま苦しみ続ければいいと自己嫌悪に陥っていた。布団をほっかぶりながら、ただ虚な気分で窓の向こうを見ていた。
朝、あんなに晴れていた空が嘘かのように、空はどこまでも暗く厚い雲が覆い、全てを打ち流すように強い雨粒を降らせていた。
傘のひとつくらい貸してやれば良かった。
……いや、でもまぁあんなことを言った手前、彼女も俺なんかには借りないだろう。
それならば、このことを告げるのは、もう少し後にすれば良かったか。
別にまだ、組織の人間がただひとり近くにいるだけで、追手がすぐそこまで来ているというわけではないのだ。把握しきれていないだけで軍勢が付近にいる可能性もあるけれど、でも1日や2日なら、まだ大丈夫だったんじゃないか……なんて。
柄でもなく、だらしない考えが俺の思考を取り巻いていた。
もう別れなんて、これまで何度も
いや、そんなふうに甘く、出来損ないな奴だからこそ俺はこうして連中から逃げ回っているのか。
考えれば考えるほど、自己嫌悪は高まる。
「……まぁ、君の選択は、間違いではなかったと思うよ」
大家さんは、そう言って俺を慰める。
彼女には、先ほど連絡して来てもらった。龍樹が駆け出していくのが見えて、いずれにしろ訪問するつもりだったようだが、そんなのはどうでもいい。
龍樹の口から俺が欠席する経緯など、少しばかり話を聞いていたようだが、改めて俺からも今の状況について話した。体調が崩れていること、暴走するテレパシーのこと、そしておそらく組織の連中である可能性が高い人物が近くにいるということ……などについて。
心身が乱れているからか話すこともままならず、実にトロくさい言い様であったが、大家さんはしかと聞いていた。
「その、連中疑惑の子は私の調査では引っ掛からなかったね。もしかしたら調査漏れがあったかもしれない」
いつもの、なんでもどこ吹く風というような様子からは打って変わって、神妙な面持ちで彼女はそう頷いた。
「なら、早くここから発たないと」
彼女の手腕でもさらい出すことのできなかった工作員…ということだ。ならば余計に、素早くアイツのもとからは離れるほうがいい。こんな体たらくでいる場合ではない。早く動ける準備をしなければ。
心の奥底で喚く何かに蓋をして、俺はそう言い聞かせる。テレパシストは、自身の心情には鈍感であるらしい。
「まぁ、ちょっとまって」
無理して身体を起こす俺を、大家さんはピシリと制止する。
「そんな体調で出るわけにはいかないでしょ。そんなことしても、もし見つかったらすぐ捕まるのがオチだって」
彼女の言うことは正しかったが、別に俺だって、そのことに気がつかなかったわけがない。
ただ、なんというべきか。この空間からとてつもなく逃げ出したかった。そうしないと、ひたすらに底なしの沼へと浸かっていくのではないかと思われたのだ。
「ちょっと今の君は、精神的に参ってるんだろうよ。テレパシーはしんどいだろうけど、少し横になっていたほうがいい」
促されるまま、俺はまた体をベッドに沈ませる。
大家さんの手が俺の前髪を掻き分け、そのまま後ろへと撫で流した。なぜかはわからないけれど、ひどく安心感に包まれる。
「私も、そういう時期があったなぁ。若い子の特権だよ」
追憶するように語る彼女。
親近感を持たせようとしているのかわからないけれど、彼女はこう、先輩面をして物を語ることが多い。別に、それほど年齢は離れていないはずなのに……多分一回りも違わない。
それに対して、彼女と俺とでの境遇の差は異なりすぎている。もし俺が大家さんと同じように人並みの下に生まれていたのなら、あるいはその限りでなかったのかもしれないけれど。
だからそう易々と、近づいてくるな。分かろうとしてくるな。
───なんてことはもう、これまで何度も言ってきたし、今回ばかりはそれは八つ当たりでしかないので、口に出すことはない。
瞑目して、意識が落ちるのをひたすらに待つ。
テレパシーの喧騒から耳を塞いで、ただ、無の思いで。
---
また、夢を見た。
今度は夢なのかそうではないのか、はっきりと区別のつかないものであった。
まるで今、目の前で出来事が起こっているかのように。あるいは過去に、あるいは未来にこういった出来事があるかのように感じられる。
夢の中の俺は、何者でもなかった。
いわゆる神の視点で、今繰り広げられる状況を俯瞰していた。
目の前には、龍樹がいた。膝を抱えてうずくまり、陰鬱な表情でこれまた闇のような床を見つめていた。
夢の中にまで彼女が出てくるとは、と、未だその夢の中だというのに自嘲したくなったが、その間に視界に違和感なるものが入ってきた。
黒い手。
触手みたいにうねるそれが、無数に奥へと広がる闇から伸びてきて、座り込む彼女に纏わりついていく。
「龍樹」
俺が名前を呼んでも、彼女はピクリとも反応をしなかった。
いや、逆か。まず、俺の声が発せられなかったのだ。
身動きを取ろうにも、体がびくともしない。そもそもこれは俯瞰型の夢で、俺が自在に動くことは可能ではないのだろう。
ただ茫然と、黒に飲まれていく龍樹の姿を見ることしかできない。
「────」
ふと、何かを喋ったような気がした。
その証左として、彼女の口元が僅かに振動する。
だが何を言っているのかはわからない。距離もあるので、唇の動きから読み取るというのも難しかった。
その間にも、真っ黒な手が彼女を包んでいく。
ほとんど全身が包み込まれ、もはや目元しかわからないほどにまで侵略が進んでいった……その時に。
「─────」
カッと、彼女の目が開かれた。拍子に溜められていた雫がツーッと頬を伝っていく。
また何かを言ったようだが、しかしまたしても聞こえることはない。
しかしそれはどこか、猛烈なSOSにも感じられた。
そして、まるで聞こえなかった代わりかというふうに。
────ヒイイイイイィィィィンッッッッ
ハウリングのように甲高い音が脳内を取り巻いて、俺の意識はこの夢から弾き出された。
--
ガバリと身を起こした。
部屋の灯りはいつのまにか消され、窓からの薄らとした月光だけがこの空間を照らしていた。
大家さんの姿は見当たらない。
壁にかけられている時計に目をやると、すでに日付が変わっていることを知らせてくれた。たぶん、もう自分の部屋に戻ったのだろう。
全身が水に打たれたかのように張り付いている。額はぐしょぐしょに濡れており、滴り落ちてしまうほどである。
夢のことは、まだ覚えていた。
いや、もはやあれは夢ではないだろう。と、直感で思った。
もうひとりの俺が、妙に心臓の裏側を掻きむしっており、焦燥にも似た感覚が俺の脳内を取り巻いている。
「…龍樹」
誰もいない虚空に、そう呟く。
目を瞑って、耳を塞いで、そして、錯綜するテレパシーの応酬に耳を傾けた。
『『『───────』』』
膨大な情報量に、気が狂いそうではあったものの、テレパシーの波をかき分けることはやめなかった。
心の奥底の俺がそれを許さなかった。
無数に情景が移り変わり、人々の声が届き、しかしそれでもひたすらに、直感が導くままに進んでいくこと、しばらく。
『───たす─けて』
スッと、血の気が引くのを感じた。
「龍樹っ」
弾かれるように、俺はベッドを飛び出した。
ぐらっと意識が傾いて、それを妨げてくるけれど、構わずに玄関へと這い向かった。
雨はまだ止んでいない。むしろ勢いを強めてすらいる。
しかしそれでも、俺は躊躇なく部屋を飛び出した。
どうしてこうなったのかわからないけれど、しかしこれも多分俺のせいなのだ。だからその尻拭いをしなければならない、だなんて建前ではなく、助けを求める彼女を助けたいと思う気持ちが先んじて行動に出た。
龍樹は、誘拐されていた。
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