第39話 想い人は救世主


 五見怜という男の子は、私にとって「隣の席の男子」という存在以上でも、以下でもなかった。


 特に明るいでも暗いでもなく。誰かと群れるでも、かといって孤独でいるわけでもなく。掴みどころのない人間というのが最初の印象であった。


 席替えで隣の席になった後も、特に何かを話すわけでもなく。授業のペアワークや多少の事務連絡以外では、ほとんどと言っていいほど会話はなかった。


 その頃のわたしといえば、急な環境の変化と苦手な人間関係が同時に降りかかり、ストレスからに耽ることは多くなっていた。

 クラスメイトから何かと話しかけられたりすることもその頃は多々あった。


 ……が、いつかを境に一部の子以外はパタリと話しかけなくなる。


 風の噂で聞けば「私の表情があまりにも変わらないから、実は嫌がっているのではないか」という風潮が流れてだしたのだという。


 確かに、私は幼い頃から表情が乏しかった。ある人に言わせれば、表情筋が死んでしまっているのかと疑ってしまうほどであるらしい。

 自分でもなんとなくその気は感じていたけれど、それが「嫌に感じている」と取られるのは心外だったし、少し悲しかった。


 でも、苦手な対人関係が多少なりとも鳴りを潜めたということもあり、私は穏やかな生活を送りつつあった。


 その頃の怜くんは、まるで何かの音に耳を塞ぐような仕草を見せることが多々に見られた。何か体調が悪いのかと心配になったけれど、気軽に聞ける間柄でもなく、大抵は普通にしていることも多いので、それを種に会話をすることなどはなかった。



 事態が変わったのは、今からまだ1、2ヶ月ほど前のことだ。


 梅雨に入り、クラスの関係が固まり始めたくらいの時期。

 私はそこはかとない生活を送っていた……けれど、少しのワダカマリとして、男の子と仲良くなれないというものがあった。


 小学校中学校で女子校だった私には、男性との邂逅はほとんど初めてのようなもので、何かと緊張してしまうことがあった。

 相手も相手で、妙にソワソワしたりピクついたりしており、それが余計に話しにくさに拍車をかけた。


 小説や創作物は何度も目を通してきたけれど、実際に対面すると全くと言っていいほどそれでの知識は役に立たなかった。

 臆病な自分を、また、それらでるという日常が完成していた。


 しかし、ある日のこと。


 私は痴漢に遭遇した。

 あれほどまでに恐怖を感じたのも、知らない男に触られるのも、人生を通して初めてだった。


 いやだ、助けて。

 その一言二言すら声に出ない。表情をもって訴えかけようにも、強張った顔で隣の人を見つめることしかできず、それもあまり効果はなかった。


 もはや涙すらも出ず、このままどうなってしまうのかと尋常ではない恐怖を漠然と感じた、その時に。


 怜くんは現れた。


 颯爽と駆けつけた彼は、私から視線を切るように痴漢の前に立ち塞がり、問い詰め、轟轟と非難を浴びせかけた。

 実際になんと言っていたのかは、困惑で茫然自失としており、聞き取れなかったけれど、みるみると青ざめていく犯人の顔はそれとなく覚えている。


 犯人は逃がしてしまったようだけれど、窮地は脱することができ、安堵に包まれた私は情けなくも涙を溢れさせてしまった。


 突然のことで彼は困惑していたけれど、それでも怜くんは、私が落ち着くまでそばに寄り添ってくれていた。


 いろいろと慰めの言葉と心配をかけてくれて、どれほど心強かったか。

 

 その後。どのような成り行きなのかだったのかもはや疑問に思えてしまうけれど、私は彼の家に泊まり、一夜を明かすことになった。


 あの時点では、これほどまでのドキドキはなかった。

 

 そして、彼の優しさにつけ込んで、獣のように理性を解放した感情を抱く私に、少しの自己嫌悪を覚えた。


 

 彼への好意を明確に抱いたのは、私を痴漢から助けた理由として


 「怯えた表情をしていたから」


 と言ってくれたことだった。


 それまでの人生で、そのようなことを言われたことは一度もなかった。私の表情は常に変わらず、誰にも感情を察してもらえることはできない。そうずっと思っていた。


 しかし彼は、私の表情から危機を察知し、そこから救ってくれた。


 いや、あの時の少し困った表情を踏まえると表情だけから察知しただけではないのかもしれないが、しかし私の感情を理解してくれたというだけで、私がときめくには十分であった。


 それが、初めての恋なのだと自覚してからは、積極的なアプローチをみせた。よく一緒にいる木更さんにも相談しながら(彼女は彼を目の敵にしているようだったけれど)、彼に振り向いてもらおうと努力した。


 その過程はこれまでの人生を通してみても実に華やかであり、私の感情を柄でもなく昂った期間であった。


 ……がそれは、今日をもって、叶わないことを知った。


「嫌いだ」


 重々しく響く声が蘇る。

 嘘だったのかもしれないけれど、彼の笑顔はもうみれないのだと、そう悟った。


 もう、彼は私の前に姿を現さないのかもしれない。そうとさえ思えた。





 



 ───────しかし、事実として、彼は。五見怜は、目の前に立っていた。



「……ごめん。……ごめん、龍樹」


 窓ガラスと、何かが爆発するような音が炸裂し、立ち上った砂煙の中から、彼は現れた。

 ビショビショと水滴を滴りおとし、極めて辛そうな顔を見せている。今にも倒れそうなほどにフラフラだが、しかし眼差しだけは、まっすぐに私を見据えていた。


「……怜、くん」


 何が起きているのかわからない状況……ただ危機的状況であるとしか分からない中、さらに困惑すべき事態が発生して、私は彼の名前を呼ぶことしかできなかった。


「……怜。うん、まぁ。……そうだね」


 困ったように肩を竦める彼。


 フラフラとした足取りで、こちらへと歩み寄ってくる。


 しかし、その後ろで影がゆらりと揺れて───。


「ッ……!危な────」


 咄嗟に喚起しようとしたところで……その後ろの人物は、ビクリと体を震わせて。ばたりと床に倒れ伏した。


「…っ!?」


 私に触れようとしていた男が、驚いたような表情を見せて、怜くんの方を向いて身構える。私も同様に、驚きの表情をおそらく見せていた。


「……こんなおざなりな警備じゃ、ダメに決まってら」


 眉間をほぐしながら、彼は意地悪そうな表情で笑う。


「──────!!」

「─────!」

「──────っ!」

「───!!」


 白衣の男らと、その周囲の武装した人間が怒りを孕んだような声を彼に浴びせかける。

 慣れない男性の、さらに憤怒を露わにした怒号に、私は怯えることしかできない。


 しかし、浴びせかけられている本人である怜くんは、ただ体調をキツそうにしているだけで、実にあっけらかんとした表情を見せていた。


「あぁ〜、まぁ。もうあんま何言ってんのかわかんないけど」


 右腕に左手を添え、瞑目する彼。


 もう、ということは、以前は理解できていたのだろうか。などという疑問を思い浮かべる余裕は、私にはなかった。


「でも、お前らの言い分への回答は……アレだ」


 ゆっくりと呼吸をして、ニヤリと右の口角が釣り上がる。


 そして。




「俺はもう、お前らの知るでも、でもないってことだ」





 含み笑いでそういうと、彼の閉じられた目がカッと開く。

 

 しかしその瞳は、どこまでも吸い込まれていきそうなあの黒ではなく、極彩色ともいうべき、異様な光を放っていて。


 そしてその刹那、月明かりだけが照らすこの倉庫に、爆裂的な光が走った後、私たちの視界は真っ白く染め上げられた。

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