第20話 傘下にて
「雨っ…!?」
突然の事態に、俺は見りゃわかるような感想しか出てこなかった。
急いで近くの屋根の下へと避難するが、雨脚は一層に勢いを増す。
数秒もすれば、あらゆる音を掻き消すくらいの轟音が俺たちを襲った。
「うわっ……すごい雨」
けたたましい雨の隙間から、微かに龍樹の声が聞こえてくる。
「天気予報ではこんなこと言ってなかったですよね…。五見さんは、折り畳み傘持ってきてますか?」
「いや、生憎と持ち合わせてないね…」
そも予報なんて見ず、傘を常備する習慣もなかった俺には、この大雨は見事に不意を突かれる形になった。
「龍樹さんは?」
「私は…、一応持ってはいますが、」
鞄から遠慮するような手つきで、黒一色という実にシンプルなデザインの折り畳み傘を見せた。
雨はどんどん勢いを増し、足元に跳ね返った飛沫がスラックスの裾を濡らす。
「五見さんはどうしますか?多分、今日は止みそうにないですけど……」
「う〜ん、とりあえず弱まるまで様子を見るよ。そしたら、全力ダッシュかな……、龍樹さんはもう帰るでしょ?」
このまま濡れて帰るのも手段だと思うが、それで風邪をひいてテストを欠席するのは本末転倒だ。
勢いが衰えるまで学校で雨宿りをして、小降りになってから帰ることにしよう。
「そう…ですね」
「うん、じゃあまた明日」
龍樹は少し俯き加減になって、何やら逡巡する様子を見せるが、そのまま遠慮がちに傘を開いて、大雨の中に足を踏み出す。
「えっと」
だが、雨に傘が打たれる中、彼女は立ち止まった。
おもむろにこちらの方を向き、まるで決心したような顔をして──そして。
「な、なら、わ──て──しょう」
「…え?」
彼女の声は雨によって掻き消される。
…だが、テレパシーはそんなのお構いなしに脳裏に響く。
だから、今の俺の聞き返しは、その内容に対するものであった。
「な、なら私の傘で…一緒に、入って帰りましょうっ」
もとより控えめなボリュームを最大限引き出したと思われるような声が、今度は物理的に聞こえてきた。
不意を突かれた発言に、反応がワンテンポ遅れる。
「い、や。それだと龍樹さんが濡れちゃう…し、傘があるならひとりで帰った方が…」
俺が慌てて止めると、彼女は少しムッとした。
「わ、私は多少濡れるくらいなら…、別に大丈夫…です、けど」
「でも……」
「じゃ、じゃあっ、」
龍樹は無理矢理俺の右手を取ると、彼女の傘の中に俺を入れた。
鈍臭い俺は彼女の力でさえも体幹を崩してしまい、お互いの肩が触れるほどの距離で密着することになる。
「たっ……!?」
動揺する俺に構わず龍樹はまくし立てるように告げる。
「わ、私が!そうしたいんですっ……。置いていって風邪をひかれたら後味悪いですし…、それにっ、これまでの恩返しとかそういう意味も込めて…っ」
有無を言わさぬ語調で言い始めるが、だんだんとポーカーフェイスが崩れ始めて、口調も尻すぼみになっていく。
……こんな様子を見せられて、誰が断ることができるだろうか。
「わかった…。じゃあ、……お願いします」
俺が言うと、龍樹は一瞬瞳孔が開いて、しかしすぐにもとの調子に戻り、「もちろんです」と俺を傘下に迎入れた。
「良くないな…」と胸中ではわかっているのに、俺はどうすることもできない。
彼女の持つ黒い傘が、俺たちの頭上を覆った。
---
雨脚は弱まりつつあった。
俺たちの頭上に降り注いでいる水滴も、徐々に勢いを弱めていく。
……とはいえそれは先ほどと比べてのことであり、未だ大粒の雨は傘に弾けていて、全く止みそうな気配はなかった。
「──」
しかし、こんな煩いほどの雨の中に閉じ込められているのに、俺は世界が静寂に支配されているのではないかと錯覚していた。
彼女の存在と、心の声が色濃く感じられて、そのほかの周囲に気が行かなかったのだ。
『あ、相合傘…っ、こんなに距離がっ、近いんだ…っ。しかも
まるでむず痒さに身じろぎするような思いを、龍樹はぶちまけていた。
水泳選手もびっくりなくらいな速度で目を泳がせており、直でも緊張と興奮がありありと伝わってくる。
『間近で見ると、やっぱり五見さんも男性なんだな…細いけど、でもゴツゴツして頑強で』
『もし触れられたら───』
もちろんそんなことをぶっ通しで聞かされ続けて、こちらもむず痒い感覚にならないわけがなく、俺も妙な気分に心を支配されながら歩いていた。
靴が水溜りを割り、波紋と雫をたたせる。そんなふうに実況できるくらい、俺は俯いていることしかできなかった。
「そ、そういえば、五見さんは明日、何時の電車に乗りますかっ?」
…だが、そのなんともいえぬ空気を変え始めたのも龍樹自身だった。
努めて平坦な、いつもの口調で、彼女は質問してくる。
「や、まだ決めてないね」
俺もまた、平常心を保って返事をしてみせる。
「で、したら、明日、一緒の電車で登校しませんか…?」
またなんとも、アクティブな提案がされたものだ。
「頭が働くように早めに出ようかと考えているのですが、」
期待と緊張が混じったような流し目を見せる彼女。
正直、快諾するには迷う部分がある。
早くに登校しようとする者は多いはずだ。
これまでは他生徒は帰っていただろうからよかったが、もし誰かに龍樹といる様子を見られれば、そのときは俺の平穏の終わりだ。
既に目をつけられているというのに、また新たな燃料を投下すれば大火事になるどころではない。
「あ、もちろん嫌ならば構いませんが、」
『ま、舞い上がりすぎた、かも』
冷や水をかけられたみたいにおとなしい声と思考を漏らす。
そんなふうに捨て犬みたいな表情をされたら、こっちが申し訳なくなってくる。
俺は仕方なしに観念して頷いた。
「いや、そうしようか」
「─っ、わかりました。時間の方は……またあとで連絡しますねっ」
『やった』なんて控えめな喜色の混じる心の声が響く。
……そう、だな。
懐いてくれる分には、まぁ、構わないよな。
俺が上手く立ち回れば、ジェラシー攻撃も防げる…はずだろう。
俺の行動で誰かが、彼女が喜ぶというならば、やぶさかではない…か。
自分をそうやって納得させる。
また沈黙は流れる。
それは駅の明かりが見えるまで、緩く心地よく続いていた。
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