魔の香り-2/3

 地平線の隙間から薄暗いような薄明るいような空が覗き、夜明けが近い事を示している。しかし、建物の連なる町の中からは、まだそれを見る事はできない。


 ひたひたひたひた……。


 ぼろぼろで色褪せたローブを纏った子どもの影が、懸命に足を回しながら、自ら迷い込んでいくかのように一つまた一つと入り組んだ道を曲がる。

 活気のある表通りですら寝静まる中、月に冷やされた風が通り抜ける裏路地では、真っ白い素足が石畳を踏む音すら響いていた。


 裏路地の脇には、連なる家や店の小物が乱雑に置かれ、ゴミも転がっている。ただ汚いだけにも見えるが、それもまた人間が生活している証でもあった。しかし、明かり一つない裏路地は静まり返っている。


 まるで何かから逃げるかのように走り続けるそれは、身体に熱と疲労が溜まっているのを感じていた。助けを求めて声をあげたい気持ちに駆られるが、恐ろしくて声は出せなかった。


 最後に後ろを振り向いたのは何分前だろうか。しかし、その気配が消えていない事だけははっきりと分かっていた。


 振り向く余裕はずっとなかったが、前を向き続けると段々と見えない恐怖が溜まっていくのを感じる。そして、押し潰されそうになる度に振り向いて、速度や疲労と引き換えに、つかの間の安堵を得ていた。

 そしてまた我慢の限界に達して、駆けながら後ろの様子を伺おうと首を曲げる。その瞬間、被っていたフードが風に煽られる。隠していた顔が露わになる。


 髪の毛と、その下の肌、眉毛も睫毛も生やしていない目、顔。その全てが色が抜け落ちたかのような白をしている、顔。


 まずい、と顔を強張らせながら慌ててフードを被り直そうと手を頭にやる。意識から外れた足がもつれる。そしてそのまま、受け身もとれずに勢い良く身体を床に打ち付ける。痛がるような素振り一つ見せず、駆けてきた道を慌てて振り返って辺りを見回す。しかしそこには誰もおらず、ただあるのは、日の出を控えて少しずつ分解されていく夜闇だけだった。


 額に汗一つないが、尻もちをついたような格好で苦しそうに口を開けて呼吸しながら、路地に沈む暗がりを端から順に、真っ白い瞳と瞳孔でなぞるように凝視する。動くものは何もなく、気付けば先ほどまであった嫌な気配もどこかに行っていた。


 落ち着いてきた呼吸を整えながら、ゆっくりと立ち上がる。濁り気のない澄んだ風がもう一度吹いて、ローブがなびく。

 知らない町の知らない道、行く先を尋ねられる人影も当然ない。けれど、その方が安心する。でも……本当は一人が嫌で、ここを目指していたはずなのに。

 そしてフードで頭を隠し直し、そして再び先に進もうと振り向き直した瞬間、何かが目と鼻の先に立ちはだかっていた。


 それが何かを認識する前に、黒い手袋を付けた手刀がローブごと胸部を貫通し、突き破った。




 くすんだブーツ、足元まで伸びるコート、革のグローブ。まるで影そのものが実体化したかのように全てが黒で構成されたその大柄なシルエットが、小さな生き物を貫いたまま持ち上げる様が、路地裏の一部を黒く切り取っている。


 "それ"は手ごたえのない感触を腕に感じながら、端が白み始めている空を見上げた。その首から上は、頭部を包む頭巾と顔面を覆う面体が一体化した、ガスマスクのようなものを被っている。しかしその面体に視界を確保するレンズはなく、無骨な吸収缶のような何かが一つ、口の辺りに取り付けられているだけだった。

 貫かれた身体をぐったりと自らに預けるように上体を倒すローブ姿のそれには見向きもせず、にじり寄る朝を背に、"それ"は身を翻してこの場を立ち去ろうとする。


「それはお前のものじゃない」


 その背後、空中から声がした。


 その声は、ローブで身を包んだ子どもを前腕で貫いた"それ"が発した言葉ではなかった。振り返った"それ"が見たのは、路地裏沿いに建ち並ぶ薄汚れた家屋の屋根、その暗い稜線の一部から飛び出す人影が、飛びかかってくる光景だった。

 頭部へまともに衝撃を食らった"それ"は、前腕で刺し貫いた身体が引き抜かれる感覚だけを残して、後方に蹴り倒される。そして起き上がろうとする前に、仰向けになったその胸が踏みつけられた。


「こんな時間にようこそ、この町へ。ローブのあいつは連れか? それとも獲物か?」


 ごく普通の市民が着る簡素なシャツとハーフパンツを着た人間――モノは、実体を得た影のような"それ"に声を投げかける。ハーフパンツの下から覗くその足は、堅い鱗に覆われ、細く長い指先には鋭い爪を生やす、猛禽類の脚そのものだった。


「その恰好じゃ、人相どころか体格すらもよく分からないな。そのコートの下はどんな姿をしてるんだ?」

「…………」


 モノは目を凝らしてようやくぼんやりと把握できる程度の路地裏に目を走らせ、酔い潰れた町人や他の気配がないかを確認しながら問う。


「まあ、別にお前を殺したり衛兵に引き渡したりしたい訳じゃないんだけど。もし良ければ、じっくり話を聞かせて欲しいな。わざわざそんな恰好をしてる魔物お前について、ね」

「…………」


 それは身じろぎ一つしない。代わりに、コートの下にある身体の厚みが、まるで空気が抜けていくかのようにじわじわと薄くなり始めた。モノはその異変に気付いたがどうする事もできず、たちどころにその厚みは失われていく。そして音もなく、服や装具だけを残して、消えた。

 するどい爪を持つ脚でぺしゃんこになったコートを踏みにじりながら、モノは舌打ちした。脚には、革と砂利が擦れ合う音と感触だけが伝わる。


「ちっ、コミュ障め。……まあ、許してやるか」


 ぺしゃんこになったコートから脚をどけたモノは、路地裏の脇に倒れたまま動かない、ローブで身を包んだ子どもに近付き、しゃがみ込んだ。ゆっくりとフードを取り、純白の顔を見る。血色は悪くなく、その表情も苦痛に歪む事なく、安らかに眠っているかのようだった。首筋に手を当ててみても、まるで乱れのない穏やかな拍動が伝わってくる。


「置いてく訳には行かない、よな」


 モノはフードを被せ直して肩で担ぎ上げ、その場を後にしようとした。が、すんでの所で振り返る。石畳に横たわる、マスクやスーツや手袋に、ブーツ。

 モノは目元のピアスに指をあてながら面倒くさそうにため息をつき、その指をその抜け殻に向ける――と同時に、炎が上がった。その勢いは凄まじく、その色を赤から青へと移り替えながら、一瞬にしてその服達を焼き尽くしていく。そして炎が燃え尽きる頃にはその影も形もなくなり、路地裏の光景は僅かな灰を残して全てが始まる前に戻った。


 ただ僅かに残る焦げ付く匂いも、日の出に追いやられた最後の夜風によって、まもなく散っていくだろう。

 跡は何も残っていない。血、一滴さえも。

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モノクローム イン ザ エンド Mono/Chrome in the end ナギシュータ @nagisyuta

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