5.Hard pass.

 了解はしたが、『この状況』は業務外だと思う。

だだっ広いスーパーマーケットの一角で、ハルトが追加料金の請求を思案し始めた時、左右を挟む二人のバトルはヒートアップしていた。カートのカゴに入れる、戻される、入れる、戻される、投げ入れられるよりも早く、受け取られて戻されるが繰り返され、押しているカートと一心同体の気になってきたハルトはうんざりした。

「ミハは何なの! 勝手に戻さないで!」

「菓子ばっか入れすぎなんだよ、トオルさんかよ」

「Who is it?」

「日本一のクズ」

「……お前ら、本ッ当に……いい加減にしろ……」

何度離しても腕に食らいついてくるリリーはぐいぐい揺すってくるし、やや高い位置からこっちまで睨んでくる未春は器用に出し入れを繰り返す。

無論、想定済みの戦闘が有るとわかって一緒に来たわけではない。さららに買物を頼まれたハルトにリリーがくっ付いて来たところ、出先から戻る前にスーパーに寄るという完璧な主夫に出くわしたまでだ。案の定、ただ買物をすればいいだけなのに、水と油――否、この場合は火と油のように炎上してしまっている。目立ちたくないのだが、只でさえ目立つ容姿の未春が、如何にもなサングラスに帽子のリリーと揉めている姿はさぞや悪目立ちしているに違いない。他人のフリをして立ち去りたいハルトだが、リリーはがっちり腕を捕らえているし、未春は腕こそ掴みはしないが、当然のように反対側にくっ付いてくる。

「なあ、未春……俺、買っとくからいいって。お前、今日“仕事”帰りだろ?」

実は二度目の申し出に、十条家の良く出来た主夫はじろりとこちらを睨む。

出会った段階で彼のカゴの中には今にもミックスジュースにされそうなドリンクが二本転がっていた。仕事――BGMのそれをこなした後、キリング・ショック解消に変な飲料を必要とする未春は、常日頃からおぞましい調合を繰り返している。先日のように地方限定の謎の飲料はそのままで良いのだが、それらは未春の中で『謎』ではなくなった段階で効果が無くなる。味の想定ができなければ、酒はもとより、それこそ水でも問題ないそうだが、そう奇怪なドリンクばかり販売されている筈もない為、常人には見ているだけで気色悪いブツを飲んでいることがしばしば有る。

「……もう一本飲んだから平気」

彼のショック解消がどういう換算をしているのか不明だが、死者数や心身ダメージが増えるほど氷を必要とする身としては頼りない返答だった。現に、店内照明に晒される未春の顔色はあまり良くない。無表情の中に疲労が透けて見える辺り、後味が悪い仕事だったのかもしれない。

「ヘンな強がりやめろよ。解消法はあくまで応急処置に等しいんだ。ちゃんと休め」

「平気」

……頑固な奴。

憮然と言い放ち、棚の商品を物色する未春だ。ほっそりした長い指には血一滴さえ付着していないが、足元に大層な血だまりが見える気がしてハルトは溜息を吐いた。

「ねえ、ハル。アイスクリームも欲しい」

「ハイハイ、溶けるから最後にしような」

「ブタにしたらアマデウスさんに怒られるんじゃない?」

「……未春、リリーは十条さんじゃないから、敵意はその辺にしておけ」

「ミハはデリカシーが無さすぎるわ」

――……デリカシー?

一瞬、ナッツが詰まったような違和感にハルトはリリーを見たが、彼女はサングラスの向こうからニコリと笑っただけだ。訊ねようかと思った一言は、すかさず何か言い掛けた未春を制止したが為に途切れた。

結局、リリーの要望を七割ほど通した決済に、未春は不機嫌丸出しで袋詰めに着手した。

「そう、むくれるなよ。お前が怒る事じゃないんだし」

「前から思ってたけど、ハルちゃんはトオルさん並にレディファーストだよね」

「おいおい……俺にまで噛み付くな。俺は普通だ。無差別タラシと一緒にすんな」

ちょくちょく流れ弾に当たる十条はともかく、タラシならば未春の方が数枚以上は上手ではないか。一歩外に出ればモテて仕方ない男に、女性関係を四の五の言われるのは心外だ。しかも、十歳は年下。コイツは何をイライラしているのか。

くだんのリリーはリリーで、小さな子供のようにハルトの上掛けの裾を掴み、すぐ傍に有る製氷機を物珍しそうに眺めている。

「ハル、あれは何?」

「ああ、氷。生ものが傷んだり、冷凍品が溶けないように、袋に入れて持っていくんだ」

「Does it cost money?(お金は要るの?)」

「No, it doesn't.(要らないよ) 自分のアイスの為に取ってくるか?」

促された彼女は、面白そうに扉を開けてガサガサやり始める。

それを視界に入れながら、カゴの中に手を伸ばし、不意に触れた生温かいものにハルトはぎくりとした。菓子箱でも野菜でもなく、未春の手だと気付いてぱっと放す。

無意識だったが、些か大げさな動作だったことに気付き、しまったとほぞを噛むが――遅かった。なまじ優れた動体視力を持つ未春には、下手な誤魔化しも言い訳も通用しない。息を呑んで振り返ると、案の定……未春はこちらを見ていた。

その表情に、見つけてはいけないものを見つけて――ハルトは急いで声を絞った。

「あ、いや、今のは避けたとかじゃなく――……」

「……」

あっそ、と、いつも通り流してくれればいいものを、未春は目を伏せ、硬い表情のまま黙って停止してしまった。その表情が少し、保護犬のマックスにかぶさる。

「未春、あのな、俺――」

「ハルー、氷取れたわ」

バッドタイミングで氷の袋片手にしなだれかかるリリーに注意を逸らされると、急速に再起動した未春は、さっさと残りのものを詰め込んで踵を返している。

「お、おい未春! 怒るなって……!」

「なんで俺が怒るの?」

そうは言うが、肩越しの無表情は研ぎ澄まされた氷の刃だ。

「怒ってるだろ……?」

「怒ってない」

まるきり凍結した返事は、弁解を聞く気は無いらしい。すたすた行ってしまう背を、リリーが不思議そうに見つめた。

「What happened?(どうしたの?)」

「……あー……I screwed up(失敗した)……」

呟いてから、ハルトは肩を落とした。

……いや、何故ここで罪悪感に胸を傷める必要があるんだか……。



 車の中は炎上を免れた。それは未春が一言も口を利かなかったからだ。

おかげでハルトの胃は切りたての擦り傷のようにヒリヒリした。

店に戻って来てからも、彼は荷を手にさっさと行ってしまい、こちらが声を掛ける間もない。さすがにリリーも異質の空気を感じたのか、物静かに帰宅した。

カラカラと店の入り口を開けると、まだ店先で片付けをしていたらしいさららがポカンとした顔付きで振り返った。

「未春、何かあったの?」

ハルトがどう説明したものかと答えあぐねると、さららは衝撃的な言葉を続けた。

「帰ったと思ったら、『ちょっと出てきます』って出て行っちゃった」

「げっ……はっや……!」

逃げ足どころの騒ぎではない。何かのトリックかと思うほど素早すぎる。

ひとまず、アイスを冷凍庫に納めるようリリーを促し、さららに事のあらましを説明すると、彼女は腰に手をやって頷いた。

「それはハルちゃんが悪いわ」

ズシリと重くのし掛かる言葉のままにハルトが頭を垂れると、穏やかに笑う声がした。

「……なんて、責められるわけないでしょ。大変だったわね」

のそりと持ち上がった顔に、さららは微苦笑を浮かべて優しく肩を叩いた。

「……すいません」

「いやね、謝ることないじゃない。私には尚更」

「はあ……」

そう言われても何やら後ろめたい。優しい対応に気持ちはほぐれるが、憂鬱さも染み渡る。

「たまに俺、あいつの要らんスイッチ押してますよね……」

「ふふ、そんなことない。未春は、ハルちゃんが来てから慣れないことが多いだけ」

「でも、あいつ……言わないですけど、自分に否定的な方でしょう?」

「そうね……子供の頃から、未春は自分に優しくない方かも」

「……ですよね」

「でも、ハルちゃん……その責任は、私やトオルちゃんにはあっても、未春やハルちゃんには無いのよ。傷付くのも怒るのも……私は必要だと思う。むしろ、ハルちゃんが参っちゃってて、心配になってきた」

「……俺は、まあ……それほどでは……」

それを言うなら、変に意識させてすみませんが正しい。さららは片手で片腕を抱くと、こちらより申し訳なさそうに微笑んだ。

「任せっきりでごめんね。上手く言えないけど……私が出来なかったことが、ハルちゃんには出来てるのよ。もう少し、見てあげてくれると嬉しい」

何と答えたものか浮かばなかったが、ハルトは曖昧な苦笑いだけ返した。

「あの、さららさん……ついでというか、聞きたいことがあるんですが……」

「うん。何でも聞いて」

「……答えたくなかったら、いいですよ?」

「オッケー」

指先で輪を作るさららに、ハルトはなるべく声量を落として尋ねた。

「未春は……海外から戻った後、十条さん――或いは他の誰かと、肉体関係はありましたか……?」

その名を出すこと以上に躊躇われたが、さららは思ったより落ち着いた表情で首を振った。

「……たぶん、無いわ。私も含めて」

「そうですか……」

「トオルちゃんは……“必要”以上のことはしないもの」

愛した相手に、愛が無いと言うような言葉だったが、ハルトは頷いた。

「じゃあ……未春が要求しない限りは、起り得ないんですね」

「私の記憶が曖昧な時も、無いと思う。仮に有るとしたら、お相手の姿くらいは見ているはず。未春は隠したりしないだろうから。それがどうかしたの?」

「その……十条さんの意図がどうあれ、“そういう”商売してた人間が、安易にやめられるとは思えなくて……」

精神教育が目的なら、薬は使っていない筈。未春の体がスプリングによって傷が残らない点から、悪趣味なプレイを強要されていたかは確かめようがないが――本人に特殊な性癖は認められない。まあ、この教育が悪趣味以前の問題なのは別として、だ。

「俺の同胞――BGMの教育を受けた人間はほぼ百パーセント、異性への関心が薄くなるか、または完全に失っているんです」

「えっ」

「……一応断りますけど、逆に同性を好きになるわけじゃありませんよ?」

「それはわかるけど……だからハルちゃんは鈍感なの?」

「……はあ、そうなんでしょうね」

何やら申し訳ないのだが、正直、さららの下着を洗濯して畳むことにも抵抗はない。

そういう目で見ていないからだ。目の前で脱衣されるとか、間近でいちゃつかれるのは目のやり場に困るが、知らない人間のAVなら平然としていられる自信があるし、露出の多い女性を見ても何とも思わない。リリーのアプローチに困るのは、彼女が元上司の商品だからだ。この表現が不適切なのはさすがにわかるので、面と向かって言うわけにはいかないが、性的な意味で困ることは今後も無いだろう。

「アマデウスさんが考えたBGMにとって、恋愛は必要ないってことなのね。……ハルちゃんが言いたいのは、未春が別の教育を受けたのに、普通の恋愛感情を持たないのがおかしいってこと?」

「その通りです。スプリングの作用で、未春の感情がスリープ状態なのは聞きましたが、十条さんは未春に恋愛を禁止せず、むしろ、未春が誰かを好きになるのを望んでいたようなので。それなのに、あいつはあの調子だ。特殊詐欺扱いされてたぐらいですから、好きで親しくなった相手も居ないんでしょう?」

「ええ。穂積さんや守村さんは好きだったと思うけれど……恋愛ではないわね」

「俺が思うに、未春が最も異性として意識していたのはさららさんです。でも、あいつがそういう行動に出たことはなく、貴女に似た女性を選ぶ様子もない。これ、よく考えたらおかしいですよね……?」

さららは目をぱちぱちさせ、少し恥ずかしそうに頷いた。

「そうかも。私はずっと、可愛い弟だと思っていたから……意識した事ないけど……」

そう、さららが鈍感かはともかく、未春は確かに、さららに男女の恋愛感情らしき特別な感情を持っている。二人は実の姉弟ではないのだから抑制する理由は無いのに、行動には至っていない。さららに関わる件で十条や優一に抱いていたのは遠慮ではなく、明快な嫉妬と警戒心――にも関わらず、自分がさららを得ようとはしなかった。

「さららさんの気持ちを尊重した、というなら聞こえはいいですが、それはそれで異様です。十条さん以上の博愛主義者でもなさそうですし」

「博愛かはわからないけど……、」

やや躊躇いがちにさららは小さく言った。

「未春の“好き”と……性行為が結びつかないのなら、どうかしら?」

なるほど。有り得るかもしれない。手を繋いだりハグするぐらいが理想的だとしたら……結局は異様な嗜好と言わざるを得ないのだが。

「多分ね、未春の“好き”に名前が付くなら、家族愛だと思うの」

今度はハルトがきょとんとする番だった。

「ハルちゃんはこっちも鈍感みたいね。……私も偉そうに言えるほど、世間的な家族には疎いけど」

よっぽど複雑な家庭環境を過ごしてきたさららは首を捻り、店のテーブル席を振り返った。

「未春にとっての大切な繋がりは、一緒に食卓を囲む人なんじゃないかと思うの。私は同じ家に住んでいても、食事がバラバラだと、何となく疎遠な感じがするのよね。反対に、一緒に暮らしていなくても、リッキーやラッコちゃんは一緒にごはんが食べられる相手として、家族愛に近いものを感じてると思う」

「つまり……今、未春が機嫌を損ねてるのは、食卓が乱れてるからですか?」

マジメに言ったつもりだったが、さららはぷっと吹き出して笑った。

「うーん……未春がリリーを闖入者扱いしてるのはわかるけど、やっぱりその原因はハルちゃんじゃない? 好きな人が構ってくれないのが寂しいって感覚かしら」

再び、ふわふわした尻尾の犬が重なる。

「ハルちゃんが気になるのは、未春の不機嫌が恋愛から来ていると困るってことかな?」

「……そうです」

散々確認しておいて何だが、未春は娼館での出来事を良い事とは捉えていない一方、恐怖体験ほどの嫌悪感を持っていない。もし、恐怖しているなら、他者に触れるのはまず無理だ。ところがハルトに触れるのをタブーとしていない上、先程は避けられたと思って機嫌を損ねた――これはどういうことなのか。

「すごく単純に、ハルちゃんが大好きなだけじゃない?」

「…………」

それはそれで、非常に困る。一周回って床を睨み始めたハルトに、さららはやんわり微笑んだ。

「ハルちゃん、こんな私だって……最初はトオルちゃんが好きだってわからなかったのよ。自覚した時も、穂積さんとセットだもの。自分で言うのもヘンだけど、普通じゃないわ。二人がにこにこ笑い合ってるのを見て『ああ、この人たち本当に大好き』って思ったのが最初」

ふう、とさららは物憂げなため息を吐いたが、表情は穏やかだった。

「自分がそうだからわかるの。誰かを好きになるのは、自分が良い方に変わる為でもある。それが悲しい結末でも、誰かを好きになる度、心は豊かになる。それは離れても別れても消えないから……相手に押し付けないで、自分の心に大切にしまえばいい。私はトオルちゃんを好きになって、辛いことは沢山あったけど、好きにならなければ、今、大好きな皆と過ごす日々は来なかったと思う。ハルちゃんと未春がどういう関係に落ち着いても、二人にとって今の時間は無駄にはならないんじゃないかな」

「……そうですね」

納得したわけではないが、他に返す言葉も出ずにハルトは頷いた。

どのみち、互いに何かを望んで出会ったわけではないし、一緒に居るのも、さららや効率を理由にしているだけ。成る様にしか成らない。

「長々とすみません。支度してきます」

「いいのよ、ありがと。……あ、待って、ハルちゃん」

呼び止められて振り返ると、さららはポケットから自分のスマートフォンを取り出し、画面を見つめて目をぱちぱちさせた。

「……『あっくんのとこに泊まる』ですって。わ、驚いた。こんなの初めて」

純粋に驚いているさららに対し、ハルトは溜息しか出ない。

『二十八男の初めての家出』の原因になったのもそうだが、今夜は高性能センサーが不在になってしまった。確かに、依頼を受けたのは自分だけだし、未春に頼るのは筋違いだ。知らず知らず、彼を便利な機械の如く扱っていたようで始末も悪い。

「連れ戻しに行った方がいいんですかね……?」

「うーん、ハルちゃんがそうしたいなら私は異論ナシ。……でも、なんとなく、今夜はそっとしておいた方が良いかも。リリーのこともあるし、未春は頑固な方だから。あっくんに任せておけば大丈夫よ」

「……わかりました。後で明香に連絡しておきます」

それがいいわね、と、頷いたさららは少し楽しそうに見えた。



 その頃、未春は無表情というより仏頂面だった。

明香あすかが劇場主を務める小劇場「Gemstoneジェムストーン」の小さなロビーにぽつねんと座っていると、通り過ぎる人々がちらちらとこちらを見た。慣れた視線だが、虫の居所が悪いと鬱陶しい。

待っている間に思い出すのは、ドーナッツをばっさりやる羽目になった日の事だ。

ダイニングテーブルでスマートフォンを弄っていたリリーが、不意に話し掛けて来た。

「ミハにとって、ハルは何なの?」

唐突な質問に、未春はすぐに答えられなかった。友達、相棒、仲間……周囲が評価した言葉が巡るが、相互関係についてハルト本人と正確に確かめ合ったことはない。

「……別に。何でもない」

「What? 友達でも恋人でもないの? だったら、私に嫉妬するのはおかしくない?」

「そんなものしてない」

即答すると、リリーは細眉をきゅっと寄せた。

「自覚が無いの? アナタ、私がハルと一緒に居るだけでイライラしてるのに」

「……」

否定できずに、未春は押し黙った。イライラはしている。でも、それはハルトがはっきりしないからだ。嫌ならはっきり拒絶すればいいのに、しない。彼は何者も受け入れない姿勢を取っているにも関わらず、気は配る。

……嫉妬? いや、嫉妬じゃない、はず。

「……俺は、ハルちゃんが好きでもないあんたのワガママを許すのが気に入らないだけ」

「ハルは優しいだけよ。アナタがややこしくしてるんでしょ……ハルは貴方のものじゃないのに」

未春は不服そうに顔をしかめた。

ハルちゃんは、俺のものじゃない。そんなのわかっている。当たり前だ。彼は誰のものでもない。強いて言えば十条の部下に当たるが、それで自由を制限されたりはしていないし、ハルトは気に入らないことがあれば上司にも反抗する。一般的なそれよりも、圧倒的に強い個人だ。謙虚に従うようで、本音は誰にも帰属しない。

「あんたが何言ってんのか、俺にはわからない」

「アナタがハルを好きじゃないなら、邪魔しないでほしいの」

何故か、こめかみがひくついた。

「俺は邪魔なんかしてない」

「わからないなら、自覚したら? ハルはアナタのこと、好きではないでしょ?」

ふと、頭から腹の奥底までピリリと電流が走る気がした瞬間、低く穏やかな声がした。

――女の子は叩いちゃダメだよ、未春。

……わかってる。トオルさんに言われなくても、俺はそんなこと、もうわかってる。

それじゃ、この押し込みがたい気持ちは、何処に出て行けばいい?

「……それは、あんたも同じだろ」

ぼそりと言った一言は手痛い攻撃だったらしく、リリーはぱきっとしたまつ毛に縁どられた目で未春をねめつけた。

そこからは泥沼の言い合いになってしまった。モテ男の叔父に口を酸っぱくして忠告された「女性が指摘されたくはない点」を理解していたつもりが、口論ともなればすらすら出てしまった。結果、ハルトが泡食って止めに来る手前、「そんな食い方してたらデブになる」の一言が飛び出し、哀れなドーナッツが投げつけられる始末となった。

人の気配が無くなったうそ寒いロビーに、小さく溜息をこぼす頃、待ち人は思った通りの、誰よりも鬱陶しい笑顔でぴょんぴょんと飛び跳ねる様にやって来た。

やや小柄だが、すらりとした四肢の青年だ。どことなく雅で中性的な印象の顔立ちは黙っていれば利発そうだが、一たび喋ると、パレードが始まったかの様に賑々しい。

「おっやおや~~すっごいイケメンが居ると思ったら、ミー君じゃーん!」

顔中に『うるさい』と描いた未春は、無言で道化が歩いてくるのを眺め、正面に来るなり整った眉を寄せた。連絡済なのにこれだ。昔から茶番が好きな男はやかましい。

「出よっか。此処もう閉めちゃうからさ」

古びた鍵束を指先でちゃりちゃり弄びながらの明香に、未春は大人しく頷いた。彼が慣れた仕草で照明を落とし、入り口や裏手の鍵を閉めるのに静かに付き従う。

「そんで~? 今日はどうしたん?」

周囲の安っぽい照明の中、建付けの悪い扉の具合を確かめながら言う明香に、未春はぼそりと言った。

「今日、泊めて」

ひぇっ、と息を呑んだ明香がまじまじと見返してくる。

「ウッソ……マジ?」

「良いの? ダメなの?」

「うえ、いつも通りの強硬派……イイよ、モチのロン。ミー君が俺を頼るなんて超珍しーもん。アメリカのお土産あるし、丁度いいや。ミー君、夕飯は?」

「まだ」

「じゃ、食いに行こ。いや~……ミー君と二人でメシとか何年ぶりだろ」

フットワークの軽い明香は、指差し点検などしてから、パチンコ屋やチェーンの飲み屋が並ぶ界隈を陽気に歩き出す。麻薬中毒者ジャンキーの両親の間に生まれ、放置された挙句にその親も幼少期に事故死した壮絶半生の明香だが、昔から異様に明るく、くよくよした姿など見たことが無い。古びて安っぽく光る看板やネオン、橙や赤に光る提灯も、彼の為のスポットライトのように見えた。

そういえば、最後に明香と二人で食事をしたのはいつだろう?

「二人でメシがいつだったか? んー……施設の頃じゃない?」

行きつけだという近所の小料理屋にて、席に着いた明香はそう言った。

人気店らしく、ようやく一人通れる狭いスペースで区切られた小さな店内は、カウンター向こうの店主が切り盛りしているらしい。人声はもとより、油のじゅっと響く音や包丁がまな板を軽快に叩く音、換気扇や空調の音、食器が触れ合う音が入り混じり、混沌としているが一塊のリズムを感じる店だ。一見、漁師のような雰囲気の髭面の大将は、明香を見るなり片手を上げ、カウンター前の席を詰めさせた。先に居た客も嫌な顔はしない。こちらも顔見知りらしく、二十は離れていそうな男は明香と数年来の知己のような挨拶を交わし、今日はとんでもないイケメン連れてるねえ、と笑い掛けた。

「今日は何にする?」

見た目からは想像もつかない優しい声の店主に、明香が紙の品書きを見ながら二、三頼み、熱いおしぼりを受け取った。すぐに出てきた生ビールを受け取り、乾杯~とジョッキを合わせると、彼は演技かと思うほど旨そうに飲んだ。

「あの頃さー、俺が転がり込むと、ミー君がよく前に座ってたね。一緒に食ったこともあるけど、俺が食うのを茶飲みながら見てることが多かったっけ」

幼少期の明香は両親の放任主義を物ともせず、自由人よろしくあちらこちらを渡り歩き、たまに児童養護施設にふらりと現れては厄介になっていた。

子供たちを怯えさせる大人や乱暴な親など、気に入らない人間に度の過ぎた悪戯をする悪ガキだったが、当時から妙に好かれるタイプで、あまり人が近付かない未春にも平気で話しかけてきた。

「アレってさ、俺が何かしないか見張ってたのもあるんだろうけど、一人にならないように居てくれたんでしょ?」

「別に。先生に『居てあげて』って言われたから座ってただけ」

「守村先生か。懐かし~……元気にしてんの?」

「……介護老人ホームに居る。ちょっと認知症気味だけど、元気」

「そっかー……俺も顔見に行こうかなあ……」

明香が懐かしそうな溜息をビールに落とし、通しに出てきた蓮根の煮物に箸をつけてニヤニヤ笑った。

「で? 今日はなんで俺ンとこ来たの?」

「……別に」

「こらこら、ミー君……ンなわけないでしょーが。どっちとケンカしたの? さららさん? それともハルトさん?」

未春が舌打ちしそうな顔でジョッキを睨んでいると、眼前から早々と料理が出てきた。豪快な雰囲気の店主からは想像もつかない綺麗な紫色の秋茄子の煮浸しや、色まで柔らかそうな黄色のだし巻き玉子が湯気を立てる。

「わーい、うまそー。大将、後でアジフライもちょーだい」

明香の気軽な声に、店主もオーケイと陽気に返す。

「ミー君、ここは何でも旨いよ。内臓好きだっけ? 好きなの頼んでいいからね」

隣で何でも旨そうに頬張る男を見つつ、未春も箸をつけた。明香の『何でも旨い』は伊達ではない。彼は幼い頃から整った顔と冴えた頭脳と話術を武器に、夜の街の人間を散々たらし込んできた男だ。ホステス、居酒屋、クラブにバー、酒に合うもので育ったと言ってもいい。現に、この店の料理は出てきた瞬間から旨いとわかるような品だった。

「喧嘩はしてない」

ぼそりと言った未春に、明香は「フーン」と呟いて、早くも二杯目のおかわりを注文した。

「じゃ、何があったか説明してよ。それが宿代ってことで」

宿代を支払う方が気楽だったが、未春は事情を説明した。

……説明しながら、明香の顔がどんどんヘラヘラしていくので、いっそビジネスホテルに転がり込む方が良かったかと後悔し始めた。最終的に、事情を聞いた明香は腹を抱えて笑った。無論、彼がゲラゲラ笑おうと、店内はそれを掻き消すノイズに満ちていた為、振り返るような客もスタッフも居なかった。

「ハハハハハ……やっべ、涙出てきた。も~~ミーく~ん~~だいぶハルトさん困らせて……大人になったねえ~~……フ、フフ……ヒヒヒヒ……飲み代、ハルトさんにツケちゃいたいわあ……ウヒヒ……」

カウンターに突っ伏さんばかりに身を折って小刻みに震える年下の男を、未春は憮然とした顔で見下ろす。

「とっくに大人なんだけど」

「わはは……ミー君のそういうとこ好き」

涙を拭い、明香はへらへらと笑った。

「ホント、ハルトさん来てから変わったよね。トオルさん家じゃなくて俺ンとこ来る辺りもイイ感じ」

「……あっちは穂積さんたちに迷惑かけるから」

「そうかなあ、ミー君にとっても家族じゃん。喜ぶに決まってるよ」

こちらが躊躇することを容易く言ってのけ、明香は未春の顔をびしっと指した。

「大体さ、ミー君が来て喜ばない女子なんてそう居ないって。アメリカの歌姫ちゃんはどうかしてんね。確かにハルトさんはカッコいいけどさ、隣にミー君が居て、ハルトさんを選ぶのはよっぽどの物好きだよ」

未春は少し虚空を見つめた。言われてみれば、あの時、リリーはどの人物がハルトか聞いたが、最初からまっすぐハルトを見ていた気がする。あの場には、さして歳が離れていない力也も居たが、何故だろう? まるで……あらかじめ、ハルトを知っていたような。

「ハルちゃんがカッコいいって、普通は思わないの?」

本人が居たら文句の一つは言いそうな問い掛けをすると、明香はそっと顔を近づけ、未春にしか聞き取れないだろう程度に声を潜めた。

「……だってさ、俺らが知ってるハルトさんのカッコいいとこって、一般人には見せられないし、見せないじゃん」

未春はじっと明香を見つめた。『ハルトのカッコいいとこ』とは、BGMこと、殺し屋としてのハルトの話らしい。

「俺だって、こないだの件でバイクかっ飛ばしてきたハルトさん見たとき、やっべえ、超カッケェーって痺れたよ。トオルさんだって、あの狙撃は惚れちゃうってキャーキャー言ってたじゃん。わかるなぁ……映画から飛び出したみたいでさあ」

正確には、バイクを運転していたのはハルトではないが、彼はその後部座席から数名を射撃する技を披露し、さららや明香の危機を救った。更に、十条と優一が手を焼いた謎の戦闘員二名を見事な精密射撃で屠っている。見ていないが、未春は頷いた。

確かにあんな芸当は、一般人には見せられないし、見せない。

「ホントは稼ぎもヤバいしね。だから、ラッコちゃんが懐くのはわかるんよ。こっちの事情も、落ち着いてて頼れるとこも知ってるからさ。ま、ラッコちゃんは見た目で選ばなさそうだけど」

「ハルちゃんは、『アレ』が無いとカッコ悪い?」

「カッコ悪くはないね。『お、よく見るとイイ男』って感じ。俺はあの人の声や雰囲気は好きだから一目置かせて頂いてるけど、知らない女から見たらフツーじゃない? それに、ミー君と並べちゃうと殆どの人は霞んじゃうんだよ。相乗効果になってることもあるけどね」

よく言われるが理解の及ばない評価に、未春は数回瞬き、ビールを含んだ。

「……トオルさんは?」

「トオルさんもミー君と同じ部類。ま、あの人はボサボサ頭で寝間着でもモテモテのチートだから一緒に考えちゃダメ。優一さんも別格だね。トオルさんが自然体の確信犯なら、あの人はきちんと整えた高品質。ちなみに室ちゃんは、何処にでも出せるイケメンを一生懸命抑えてるレアなシークレット」

的を射ているつもりらしい難解な表現に、未春は顔をしかめたが、言わんとする意味は何となくわかった。

普段のハルトはさほど自身を抑えているようには見えない。自然体だが、十条ほど愛想は振り撒かず、優一ほど完璧に整えず、室月ほど装うこともない。

では、リリーはハルトの何を良いと思ったのだろう?

現にあの日のハルトは、歌姫を前にイイ顔をしようなどという気は全く無さそうだった。英語は堪能だが、女性を嬉しくさせるような誉め言葉やジョークも無かったし、髪も服装もいつも通りのラフな印象、対応もずば抜けて紳士というほどでもない。

「あっくんみたいに、声を気に入った可能性はある?」

「ンー……アーティストだし、無いとは言わんけども……一目惚れの要因が声ってのは、相当なフェチだよ。こう言っちゃナンだけど、ミー君は声も大変宜しいよ。もさもさ喋るけど、そういうのが好きな人も多いしさ」

未春は首を捻った。明香の言い分では、ハルトは未春と並べてしまうと、一般人目線では太刀打ちできないということになる。リリーはBGMを知っているが、関係者ではないし、現状で明香の言う、映画みたいな出来事は起きてはいない。

「もし、ハルトさんがミー君よりずっと年上で、歌姫が年上好みならわからんでもない……うーん、やっぱり見た目の話になっちゃうな。聞いた方が早そう」

確認する意味もわからず、未春は曖昧に頷いた。

「あっくん……俺、ハルちゃんに迷惑かけてると思う?」

「それは、俺が答えることじゃあないかな」

オススメの内臓――もつ煮込みの飴色の大根をつつきながら明香は軽やかに笑った。

「ハルトさんの性格からして、迷惑より困惑してそうだと思うね」

「困惑」

「そ。ミー君が選び放題の女の子に行かずに、男の自分に懐いちゃったから、戸惑ってんだと思うよ」

「……あっくんは、女の人が好きだよね」

「そりゃーそうよ。ミー君は俺の華々しい恋愛歴を知ってるでしょ?」

「知らない」

身も蓋もない返事に明香は当然のように抗議した。説明される内に未春も何となく思い出してきたが、そういえば、小学生の明香は施設にボランティアとして来ていた女子大学生たちにアプローチしたり、どう見ても夜の仕事だろう美人と歩く学生だった。整った容貌を最大限に利用し、『お金持ちの年上美人が好き』と平気でのたまうマセガキは、昔から変わらぬスタンスを貫いているらしい。

「あっくん、今は?」

「お? カノジョ? 今は居ないよ。俺、忙しいからねー」

「なんで忙しいと、彼女はいらないの?」

未春が思い浮かべるのは、忙殺状態でも、さららと穂積の両方に専念していた叔父だ。彼は二人を愛していたが、愛されることも楽しんでいた。それは忙しさとは関係ないように思える。

「ん~~……それはねえ……教えてあげるけど、俺の価値観だよ?」

未春が頷くと、明香はコホンと咳払いし、倉子が眉つり上げそうな一言を放った。

「俺にとって『彼女』はね、ペットとあんまり変わんないから付き合わないの」

「?」

「あ、不謹慎に聞こえる? わかりやすいと思うんだけどな」

トントンと指先でカウンターを叩いてから、明香は言った。

「俺はペットって、可愛くて癒されると思ってるのね。彼女もそう思える子と付き合いたいし、付き合ったら尽くしたいし、構いたいわけ。一緒に出掛けたいし、一緒にメシ食いたいし、楽しいことを共有したい。けどさ、忙しいと構ってあげられないじゃん。今の俺はやりたいことが多すぎるんだよね。劇場のことも、アポロの件も、役者の勉強もあるし、大学も留年したくない。あっちこっちに連れ回すわけにもいかないし、仕事の時は行先も言えないし、連絡も付かない。一人にして寂しい思いをさせるなら、飼わないイコール付き合わないってこと」

女性なら眉を潜めたかもしれないが、未春は一理あるとでも言うように頷いた。

恋人を対等な関係性として捉えると非難殺到だろうが、明香は面倒や世話を焼きたいとも言っている。女性に“らしさ”を求め、何かしてもらおうと期待するだけの男よりは、幾らかマシかもしれない。

「ミー君はさ、ハルトさんのこと、どう思ってんの?」

リリーに聞かれたのと同じ問いに、未春は表情を硬くした。

「……どうって?」

「え、何か無いわけ? ハルトさんが来てそこそこ経つし、仲良さそうじゃん。友達とか、仲間とか、ぶっ飛んで恋人にしたいとか。俺、偏見はないよー?」

明香の問いはリリーのそれよりよっぽど軽く感じたが、ジョッキを持ったまま、未春はフリーズした。胡乱げな、幾らか不審そうなアンバーの目が明香を見たまま。未春がこういう顔をしている時は大抵、難題を噛み砕いているので、明香は舞い降りた黄金色のアジフライをサクサクやりながら気長に待った。周囲のお喋りや、何かが注がれる音、グラスの中で氷が触れ合う音がする。

「……俺は、ハルちゃんと……」

しばらくして、喧騒に掻き消えそうな声がぼそりと言った。

「……どうしたいとは、思ってない」

「ほおお~……?」

「ハルちゃんが、『友達』が苦手なのは知ってる。ハルちゃんは俺たちのこと、よく、『同じ穴のむじな』って言うけど、それが正しいんだと思う。友達とか仲間とか……恋人とか、そういう関係にはならないと思う」

「それはハルトさんの見解じゃん。ほんとのとこ、ミー君はどうしたいの?」

「俺は……――」

ぼそぼそと答えた声は、ひどく自信無さそうに響いたが、明香はキツネにつままれたような顔をしてから、首を捻った。

「ミー君、それってさ、もしかして――」



 未春が居ない食卓は、何やら新鮮だった。

先日も不在だったが、理由が理由だけにぽっかりと空虚に感じる。十条が居なくなった時の空席は、よくスズが座るので何とも思わなかったのだが、当の猫は未春の席には飛び乗らない。見えない料理が気になっているのか、それとも本当に未春が居ないことを気にしているのか、二匹で窺う様に首を伸ばしているだけだ。

「いただきまーす」

いつもよりにこやかに手を合わせたさららに対し、胡乱げな顔をしたのはリリーだ。

「……ミハが居ないのに、どうしてさららは嬉しそうなの?」

問いかけた彼女も、どこかばつの悪そうな顔をしている。ハルトも同様の視線を向けると、さららは悪戯っぽく笑った。

「だって、ハルちゃんのことで拗ねて出ていったんでしょ? すごく感情的じゃない」

言いながら、テーブルの中央に置かれたキャセロールを楽し気に取り分け始める。

彼女が時々ハルトにリクエストするそれの湯気を前に、当事者二名は顔を見合わせた。無論、ハルトはぐうの音も出ない。性的な目で見られていないとはいえ、特別視する感情の在り処は計り知れない。

「ミハはハルについて、嫉妬してないと言ったのに」

そんなこといつ聞いたんだという顔になるハルトに、リリーは細い眉を寄せた。

「彼にとって、ハルは何なの? 友達?」

友達のワードに微かにハルトは身が強張る感覚がしたが、以前よりひどくはない。

リリーも気付かぬ風で小首を傾げただけだ。さららは優しい笑顔で首を振った。

「リリー、未春の気持ちは彼にしかわからない。私たちはその一部を知っているけれど、彼が自分の気持ちを表に出してきたのは、本当に最近なの。未春はハルちゃんに対して自分が何を望んでいるのかわからなくて悩んでるけど、それは彼にとって素晴らしいことだから、許してあげて」

「ミハは……自分の気持ちがわからないの?」

「全部は説明できないけれど、未春は少し複雑な育ちなの。自分の気持ちがわかっていても、上手く表現できなかったり、整理がつかないことがある。それに、友達や恋人みたいな名前が無い関係もあるかもしれないよね。ハルちゃんと過ごして未春は変わったから、特別なのは間違いないと思うわよ」

リリーが答えを求めるように振り返る。ハルトは肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

本当に、そんな反応ぐらいしかできない。こちらとて、未春の変化は感じているが、周りが言うほど仲が良いとは思っていないし、最低最悪の想定は互いに覚悟している。殺し屋である以上、自分の死の相手が互いになる可能性はゼロよりも百に近い。

「私には、よくわからないわ……」

「いいのよ、それでも」

「私、彼の迷惑よね?」

「そんなことない。たぶんね、未春の癇癪はリリーじゃなくて……自分に感じてると思う。自分で結んだ紐が解けなくて、イラっとする感じじゃないかしら。私はリリーが来てくれて良かったと思ってるから、そんな顔しないでゴハン食べましょ」

「……」

こくりと頷き、止まった箸を動かし始める。相変わらず、使うのが上手い。米も容易く掬い取るし、欧米人が苦労する熱い味噌汁も難なく飲む。未春の努力の甲斐あってか、当初は避けていた野菜も大人しく口に入れている。彼女は彼女で、譲歩しているのだ。半ば感心するように眺めていると、リリーは言った。

「ハルにとっては、ミハは何?」

いつかは出ると思っていた問い掛けが、ぐさりと刺さる気がした。

さららも興味深そうな目を向ける。ハルトは口に入ったものをやたらに咀嚼し続け、飲む他なくなってから……ようやく口を開いた。

「……同じ穴のむじな

「ムジナ?」

「アナグマのこと。別々だが、同類って意味だ。……あのな、リリー、今のところはそれが一番わかりやすい表現なんだ。あいつは一緒に居て不都合はないし、殆どストレスもない。それは俺たちが同類で、明快な関係性が無いからでもある。もし、未春が俺より弱い人間なら今のような関係性は成り立たない。……言ってる意味わかるか?」

「kind of……(なんとなく)」

頷いてくれてほっとしたが、彼女は小首をもう一ひねりして言った。

「じゃあハル、一緒に寝ちゃダメ?」

「リリー……何がどうしてそうなるんだ……駄目。絶対ダメ」

むくれたリリーだが、こっちはこれでも真剣だ。今夜は未春が居ない。

熟睡は勿論、寝かしつけをやっている場合ではない。連中が爆弾を投げ込むような強行策に出るとは思えないが、仕掛けられると非常に困る。室月に言えばすぐに回収の手配をしてくれるだろうが、清掃員のスタッフに危険な作業をさせるのは気が引けるし、今回の件はアマデウスからハルトへの“殺しではない”もとい――BGMとしてではない依頼である為、彼らはそもそも無関係だ。

「私も気を付けるから、ハルちゃんもちゃんと寝るのよ?」

心中お察しのさららはそう言ってくれたが、生憎、そういうわけにはいかない。クリス・ロットの経歴を思えば、警戒し過ぎるぐらいが丁度いい。

中東などに見られる自爆テロのような強硬策は稀だが、『爆破』というやり方はBGMの中では異色の目立つ殺害方法だ。それは一方で、世論を爆破に注目させ、他の事案から目を逸らせる手段でもある。極端な話、死者が一人の事件と、百人の事件では、数が多い方が注目される。クリスはマスコミの性格をよく理解していて、他のTOP13が起こすひとつの件を小さな出来事にする為、昨日まで黙殺していた麻薬組織をビルごとぶっ壊すこともある。

そういう相手に個人的に狙われていると言われて呑気に眠れるのは、十条十やアマデウスくらいだろう。

就寝時、一人だと少々広く感じる室内にて、ハルトはようやっと深く呼吸した。

当然のように傍に座るスズとビビを交互に撫でながら、明香に電話をかけた。

〈はーい、スティーブ・マックイーンです〉

「……名乗るなら、もうちょっと真面目にやれよ」

『荒野の七人』や『大脱走』で有名な俳優の名に呆れ声を絞り出すと、電話越しのトリックスターは名優とは思えぬ声で笑った。

〈ミー君なら、いま入浴中。代わります?〉

「アホか。お前に用が有るからお前にかけてんだよ」

〈わあ、ハルトさん~……俺までミー君に睨まれそうなラブコールは勘弁してよ~〉

「お前、さては酔ってんな……?」

平素の陽気さが三割増しになっている男にうんざりすると、相手は空気混じりの笑いで耳をくすぐった。

〈ミー君なら大丈夫ですよ、ハルトさん。なんか納得したみたいだから〉

「……納得したって、何を?」

〈およよ……ハルトさんがそういう反応だと、ミー君も大変だねえ。ま、いいや……おかげで楽しい夜を過ごしてるんで、気にしないで下さーい〉

こちらは全く腑に落ちないが、明香がそう言うなら良いのだろうか。

今度何か埋め合わせると告げたハルトに、明香は「お金がいいなあー」と、ディック以上の正直さを晒して電話を切った。

会話がふつりと途切れると、部屋は静かになった。

十条が「壁薄くないから」などと要らぬ情報を漏らした部屋は、未春でもなければ外の音が聴こえない程度には静かだ。ハルトは少しだけ部屋の扉を開け、灯りを落とし、きちんと整ったベッドを前に迷ったが――いつものソファの方に横たわった。

眠るつもりはない腹に、いそいそとやって来る猫たちの重みを感じつつ、静けさに溜息を吐いた。

あまりにも静かだと、正反対に身の内から音がしてくる。

呼吸と、心臓の鼓動とは別に、ジワジワ、ジャカジャカとやかましい虫の鳴く音、ガサガサ、ザワザワと揺れるジャングルのバカでかくて濃いグリーンの植物。

熱帯の――むっとした緑、濡れた土の香。

誰かが頭の近くで土を踏む音を聞いた気がして目を開くが、そこには誰も居ない。

ひとかけらの熱い空気もない、静かな部屋。……最近、仕事も無いのにな。

眠ることは、もう難しくないと思っていたが、それほど安易ではないらしい。



 翌朝、始発で来たのかと思われる時刻に未春は帰ってきた。

昨日出ていった格好のままだが、くたびれた様子は微塵もない。預かったというアメリカ土産の紙袋をぶら下げ、やや曇った表情以外は頭から爪先まで爽やかだった。

強いて言えば、明香が使うソープかシャンプーなのか、知らない微香が漂った。

「……おかえり」

白い光が差し込むリビング&ダイニングで顔を合わせたハルトが、ぶっきらぼうに言ってしまったのは怒っていたからではない。誰かさんのように眠かったからだ。気を利かせてくれたさららが一人で店の準備に行った後の室内には、彼女の朝食の香り――パンの焼けたそれや、コーヒーの芳しさが漂う。リリーはまだ夢の中だろう。

未春はいつもの無感動なアンバーでこちらをしばし見つめ、ずばり言った。

「ハルちゃん、寝てないの?」

やせ我慢しても無意味なので頷いた。

「俺はお前ほど、ドッキリに対応できないからなー……」

語尾をあくびが拐う様子を、未春はゆっくり瞬いて見つめた。

「……俺が、居た方が良かった?」

「そりゃあ、お前が居た方が良い。勝手に安心材料にして悪いが……」

溜息かあくびかわからない吐息と共に、ハルトが眉間を押さえて呻くのを、未春は静かな目で見た。

「それは、俺が役に立つから?」

「……そういう言い方になると、俺はどっかの寝坊助以下のクズだな」

今度は苦笑混じりの溜息が出た。寝不足時の押し問答は始末が悪い。

「お前は人間なんだから、『役に立つ』、じゃなくて『頼りになる』だ。……この際だから言っとくけどな、俺が同業者と同棲するなんて、古馴染は皆驚いてるんだ。アマデウスとジョン辺りは何日保つか賭けてたぞ」

「なんで?」

「俺が面倒を避けるからだよ。世話する相手は自分一人が一番楽って考え方だからな。結果的に、面倒臭かったのは十条さんだけで、お前やさららさんは快適だった」

「ハルちゃんは、集団生活してたのに同棲が苦手なの?」

「お前なあ……俺の集団生活は、まともじゃないって知ってるだろ。敵陣真っ只中みたいな状況で暮らした奴が、何でもall rightになると思うのか?」

瞬きしてから首を振った男に、やれやれといった溜息の代わりにあくびが出た。

「あいつらは俺の同胞だが、世界的な危険人物だ。今、隣に寝ろと言われても、俺は一睡もできない。多分、相手もそうだろう」

「俺に殺される心配はしないの?」

「しない。はっきり言って、お前は警戒したって無駄だ……俺が殺されるに決まってる。仮に銃を携帯していても、俺は確実にお前に遅れをとるだろうし、そんなこと気にする前に死ぬ」

どうせ殺されるなら心配しない――なるほど、殺し屋としてのハルトは常識的に見えて、超・非常識だ。

「加えて、俺はお前を信頼してる。理由を言うと利害の話が絡むが、今のところ、俺が気兼ねなく何か頼めるのはお前しかいない」

「俺だけ? ……ジョンは?」

アマデウスの有能な秘書を、ハルトが私的に利用するのは未春も知っている。何故か彼には辛辣且つ高慢な態度で接するのだが、ジョンがそれを非難したりすることは無いらしい。それは信頼足るわけではないのだろうか。ハルトは少々考える顔をしたが、首を振った。

「お前、俺と奴の関係は聞いてるか?」

「知らない」

「……ジョンは俺に貸しがある。奴はそれを生涯掛けて返すと誓ったが、アマデウスには忠誠を誓っている。その天秤がどっちに傾くかは、その時次第だ。アマデウスが百パーセント俺の味方じゃない限り、ジョンは信頼できない」

言い得ぬ空気を察し、未春は別の問い掛けに切り替えた。

「室月さんや、ディックは?」

「室月さんは頼りになるが、それはスタッフとして向かい合える時だけだ。十条さんに心酔してる時点で信頼はできないし、全部筒抜ける。義理堅い性格なのは解ったが、俺が今から恩を売っても十条さんのそれには届かない。対照的に、ディックは札束と車で叩かれると安易にくつがえる尻軽野郎だ。俺と奴は親しい方だが、最終的にはビジネスライクにしか付き合えない。奴はあくまで、金利主義の悪党なんだからな」

――ハルには、友達が居ない。意図的に、作らない。

……アマデウスが言った通り、ハルトは好かれるタイプでありながら、上辺の関係を望み、相手の心を合理的に判断して接する。一方で、利用する為に相手の弱い部分を突こうともせず、明香が自身の容姿と話術で次々と協力者を増やすようなことをしない。それはかつて、友人だと思った相手に銃を向けられた際、本能的に射殺してしまった為。

今もそれを後悔しているだろう彼に信頼されるとは、如何なる理由なのか。

ハルトは逐一、丁寧に説明してくれた。

「お前は金や物で買収されない。そして、十条さんのことはクズだと思ってる」

全くその通りなので、未春は頷いた。

「だが、さららさんが関われば敵になるかもしれない。だからお前に掛ける不安は一割。今のところ、俺がさららさんの敵や脅威になる可能性はゼロに等しいから、お前は信頼できるし、俺は隣に居ても熟睡できる。……理解できたか?」

「できた」

有難い返事に、ハルトは溜息を吐いて苦笑いを浮かべた。

「じゃ、もう一つ聞くが」

「うん」

「お前、俺のことが好きなのか?」

ストレートな問い掛けに、未春は無表情だったが――微かに笑った。

「うん」

ハルトは笑わなかった。が、嫌そうな顔もしなければ、怒ることもなかった。

冷蔵庫の奏でる低音と明るい日差しに包まれて、腕組みし、床を見つめ、顎を撫で、突っ立ったままの未春をちらりと振り返る。

「マジか」

「うん」

「どういう意味で?」

訊ねてみて、ハルトは気付いた。未春の表情に、昨日までのもやが無い。

「ハルちゃんは、家族だから」

ぼそりと出た言葉は、何故か、納得するしかない啓示のようにダイニングに響いた。



「ご無沙汰しております」

待ち人が現れたのは、その日の午後だった。

――それもちょうど、客が引く時間帯を見計らったらしい室月修司は、身内のカフェではなく、取引先を訪ねたような礼儀正しさで頭を下げた。隙のないスーツ姿は、彼が仕事帰りなのか、それとも仕事の合間なのかさえ定かではない。毎度のことながら、彼の低姿勢に慣れないハルトは平服せんばかりにペコペコやる羽目になったが、この得体の知れないきちんとしたオーラは、纏わりついていたリリーを上手く退けた。何を察したのか、挨拶もそこそこにさららの方へと離れていくリリーを見送り、ハルトは如何ほども姿勢の崩れない男に向き直った。

「お電話でも良かったのに。遠いところ、すみません」

「いえ、直接、お会いしたかったので」

そう言って微かに目元を和ませる男に、ハルトが奥でにこにこしているさららを振り返ると、室月は丁寧にかぶりを振った。

「さららではなく、ハルトさんに」

「え……俺?」

未春同様、さららの実弟に等しい室月まで何を言い出すのか。急に生気を抜かれた様に静かになったハルトに、事情を知らない室月は怪訝そうな顔をした。

「何か、ご都合が悪かったでしょうか。お疲れのご様子ですし……」

「あぁー……いえいえ……大丈夫です……」

今朝、未春の告白を聞いて以降、ハルトの疲労はピークに達していた。

あまりにも清々しく言われてしまった家族宣言を、論破できなかったのである。

……じゃあ、リリーに対抗してキスしたのは何だったんだ? 一緒に寝てもいいとはどういう心境だ? 接触を避けられて家出したのはどういう感情なんだ?

血も繋がっていない男と二ヶ月程度同居しただけで、「家族だから好き」とはどういう意味なんだ!

この内部葛藤の一切合切を、未春は「家族だから」というパワー・ワードで乗り切った。さららに相談したところで、「あ、やっぱりそうだったの」としか返ってこなかった。半ばヤケクソで電話した明香は電話越しにケラケラ笑い、

〈ミー君はピュアなだけだよ。だから言ったじゃん、目を放しちゃダメですよって〉

……言うなり、授業があるからと切られてしまった。

結局、未春は何をどう腑に落としたのか、いつもの調子を取り戻し、リリーに対しては店に来る女性客向けの対応に落ち着いた。ネチネチもチクチクもさっぱり消えた。

……こっちがおかしいのだろうか。

こんがらがるばかりの思考を一旦取りやめ、リリーが目に入る位置に座ると、気を利かせてくれたさららがコーヒーを運んできてくれた。

「いらっしゃい。今日はハルちゃんに用事?」

「そうなんだ。少し借りるよ」

血は繋がっていないが、さららが姉らしければ、室月も彼女の前では弟らしい。

「どうしようかな~」などと言うさららに、慌ててハルトが口を挟む。

「すみません、さららさん――例の人捜しの件で調査をお願いしてたんです」

「ふふ、わかってるわよ、ハルちゃん。修司は用も無しに来やしないんだから。私はその気の利く弟の手土産を貰いに来ただけ」

苦笑して淡いグリーンの紙袋を差し出す弟に「ごゆっくり」と手を振るさららが戻って行くと、彼はすぐに冷静沈着な清掃員クリーナーの顔になった。

「まず、お捜しの亀井秋菜さんですが……」

切り出した室月の顔つきは浮かない。ハルトが死亡している可能性を視野に入れたとき、彼は彼にしてはひどく珍しい言葉を口にした。

「行方不明です」

「え……?」

「申し訳ありません、ハルトさん。この人物は戸籍上に確かに存在していましたが、生存、死亡の両面に該当データがありませんでした」

「……それ、“ウチ”のデータでもって話ですよね?」

「はい」

ハルトは顔をしかめた。これは存外、異質なケースかもしれない。

行方不明者、失踪事件などは表社会でも多々ある。自分の両親が夜逃げしたように、稀有な話ではない上、捜索願いが出ても発見に至らないこともまま有る。

しかし、BGMが知り得るデータ上で不在ということは、当該人物が存在しないパターンと、顔や名を変えたパターン、そして今ひとつ。

「失踪に、ウチの関係者が関わっているんでしょうか?」

「その可能性は高いでしょう」

静かに頷くと、室月は順を追って説明した。

まず、国内にて亀井秋菜が顔を変えた痕跡が無い。ここ二十年ほどの間で、金を積まれればやるような非正規の医師まで捜索したが、彼女の情報は見つからなかったという。同様に、正規の出国者リストにも、裏のリストにも彼女らしき人物は見当たらなかった。

「性別を変えたことも考慮しましたが、こちらも空振りでした。更に申し上げますと、彼女が自分で整形などに出資するのは難しかったと思われます。彼女名義の口座や同伴者が存在しなかったのと、カメラに写っていた映像からして、大金を持ち歩いているようには見えません」

ハルトは二、三頷いた。BGMの目を搔い潜れる程の悪党が日本に居るとは思えない。身内の犯行だとすれば室月が嘘を吐くのが最も安易だが、現状、彼がそうする意味はない。そんなことをするぐらいなら、当件を引き受けること自体が無駄だ。山岸が話した、ストックに無いという話も本当なら、彼女はBGMの何者かによって意図的に消された――又は非正規ルートで出国し、海外で亡くなったか、別人になった。

「行方不明になったのは七年前で間違いないようです。この時、十七歳なので、生きていれば二十四歳ですね」

「うーん……彼女の件はとりあえず置くとして、近親者の行方はわかりましたか?」

山岸が、家族は秋菜を見捨てたのではと仄めかした件だ。

室月も、同じような顔をした。

「はい。……ですが、亀井一家は彼女の失踪後、両親は離婚、互いに事故と病気で既に他界しています。こちらも調査しましたが、一般的な交通事故と肺ガンだったので、失踪との因果関係は薄いと思われます」

「なるほど……他には誰も?」

「現在、二十歳の実弟が一人。一般商社に勤務し、裕福ではありませんが困った様子もありません。独身ですが、友人は人並みに、社内、近所、金融関係、ギャンブル等、トラブルは見受けられません」

「はあ……聞くまでもなくシロですかね……」

「ええ、彼も失踪への関与はないでしょう……ただ、姉が居たことは周囲に黙っているようです」

「え?」

意外そうに目を瞬かせたハルトに対し、室月は厳しい目を細めた。

「蛇足かと思いましたが、秋菜が居た頃の一家について調べました。失踪届が出された件もそうですが、彼女と家族の関係は芳しくなかったようです。当時、近所に住んでいた人間によると、男女両方の怒声や、何かがぶつかる音は日常茶飯事だったといいます。これは夫婦喧嘩と思われますが、原因の一つが秋菜だそうです。彼女は大人しく、素行は真面目という評価の一方、顔をなじられると豹変して暴れたらしく、弟は姉の容姿を理由にからかわれることも有ったと」

「……でも、弟が姉を恨んでいたとは限りませんよね?」

「勿論です。私なら姉をからかった人間に食って掛かります。両親と不仲でも、兄弟と上手くやっていたケースはまま有ります。例外が無いとは申しませんが」

予想通りの素直な回答に、ハルトは苦笑いを浮かべるしかない。

「そうですよね。ウチにも一人居ますし……じゃあ、彼はどうして黙ってるんですかね? 両親に遠慮していたならわからなくもないですが、どっちも既に居ないんじゃ関係ないし……勝手に居なくなったから、捜す気も無いってことでしょうか」

「当時の年齢を思えば或いは。遺産は争う程の額ではありませんし、死亡したものとして諦めている可能性もあります」

「彼から手掛かりは出そうにないか……、名前だけ聞いておいていいですか」

得たりとばかりにすっと差し出される紙には、『亀井 勝巳かつみ』という名と共に、現住所から職場、指名手配犯かと思う程の情報に埋め尽くされていた。何やら覗いてはいけないものを見ている気がして、ハルトは目を通すのもそこそこに折り畳んだ。

「あまりお力になれず、申し訳ありません」

「とんでもない。俺じゃ此処まで知るのに何日掛かるかわからない。助かりました」

ハルトの身振り手振りの評価に、室月はようやくほっとしたように、にこりと笑った。血は繋がっていないが、彼のこういう空気感はさららに似ている。

……これも、家族故なのだろうか?

「……えーと、幾ら払いましょう?」

「いえ、この程度で頂くわけには参りません」

「いや、あの……室月さん、そう言うと思いましたけどそれは良くない。俺が今後、頼み辛くなるので、手間賃ぐらいは取ってくれませんか。俺は十条さんじゃないし、タダ働きを憎む身として居心地が悪い」

必死な形相が面白かったのか、室月は小さく笑うと、こちらのレートを至極丁寧に説明してくれた上で、ハルトが「子供の小遣い」と呟くレベルの額を提示した。

「ゼロ増やしちゃダメですかね……?」

うんざり言った青年に、今度は室月が頑として首を振った。

「いいんです、ハルトさん。代わりと言っては何なのですが、ひとつ、ご相談したいことがあるので……」

「へ? あ、はい。俺で良ければ」

室月はちらりとカウンターの姉を振り返り、急激に音量を絞った。

「……さららの事です。最近、どうしていますか?」

「どう……? まあ、普段通り……で、すが……」

言い掛けたハルトだが、気付いた。窺うように室月を見つめ直し、思わず周囲を見渡す。未春は非番だ。上で耳を澄ましていたとしても、此処には居ない。

「あの、もしかして、さららさんというより……優一さんのことですか?」

「お見通しですね」

室月は伏し目がちに頷いた。

千間せんま優一ゆういちは、戦国の頃から暗殺を生業にしてきた千間家の殺し屋である。力を失いつつあった当家は、日本屈指の実業家・ひじり家に支配されることで保ってきたが、先祖返りの天才と謳われた優一は、期待と同時に耐えがたい恥辱と圧力に晒されてきた。

実姉の優里をしちにされて大人しく従っていたが、十条が彼女の保身と引き換えに仲間に引き入れる形で自己を取り戻し、先の件ではひと役も二役も買っていた。

主に大小様々な針を用い、「ギムレット」のあだ名で呼ばれている彼もスプリング適合者であり、ハルトが絶対に当たりたくはない殺し屋の一人だ。

直接聞いてはいないが、偶然、姉と親友になっていたさららに、彼は非常に慎ましい愛情を寄せている。……が、この思慕は本当に、とてつもなく慎ましい。

「さららの事も心配です。それも含めて、優一さんは些か無理が祟っているようで……」

最後は彼にしては珍しい、あからさまな溜め息になってしまった。

「もうご存知の事と思いますが、優一さんは非常に真面目な方です。生来の優しい性格と、責任感の強さが更に重石を増やしているんです。あのままですと、ご自身の気概に殺されかねません」

ハルトは少々面食らって瞬きした。当初は殺人鬼だと誤解させられていた優一が、クールな言動にそぐわない慎重派のお人好しなのは知っている。

とはいえ、真面目が死を招くとは穏やかならない表現だ。

「俺はてっきり、十条さんが居なくなったら、さららさんを迎えに来るかと思ってたんですけど……」

「そうして頂けたら、何よりです」

神にも祈る調子でこぼす室月にとって、優一は高校の先輩という関係から始まり、十条とは異なる意味で主人のように慕う存在だ。もう何度も説得に及んだものらしい。

「多分、さららさんも待ってるんじゃないかと思うんですが」

あの事件の後、二人は和解している。今後一切関わらないと言い出した優一に対し、さららは申し出を拒否、素直な気持ちで会うことを伝え、彼は承諾した筈だ。

未春とハルトがさららと同居するのは、優一がこの提案に譲歩した理由でもある。

自分がみだりに手を出さない保険として。

この処置だけでも、彼はとんでもなく紳士であり、恋愛に疎いハルトでもわかる程度にさららを大切に考えている。さららも、薬物や諸々のショックで忘れてしまう前から、彼に惹かれていたと思われる。

だが、彼は以降、一度も訪ねて来ない。

その姉である優里は、出産を控えて大きくなってきたお腹を抱え、穏やかそうな夫と共に遊びに来た際、弟が来ないことに憤慨していた。

「一体あの人、何に遠慮してるんですか?」

「ひとつは、ご実家のことです」

千間家か。戦国時代からの暗殺一族ということだが、既に分家の殺し屋は十条に殺されている為、優一の父が当主である本家しか残っていないという。現当主は足が悪く、殺し屋としては機能せず、聖家が裏社会での力を失ったことで後ろ盾は消えた。残る希望が優一であり、彼が跡取りの男児を設けることを、両親を始めとした一族は期待しているが、彼はこの世襲を自分の代で断ち切る気で結婚を避けている。

ただ、男子と判明している優里の子が狙われることを不安視し、次代に座る気はあるらしい。

「……座ったら最後、のらりくらりと独身を貫く気でしょう」

なるほど、室月が焦っているのはこれが原因か。優里もこれには口を酸っぱくして、「絶対に渡さないからさららと交際しろ」と苦言を呈しているそうだが、どのみち、さららが男子を産めば同じことになると拒否しているそうだ。

「交際を拒否しているのは……他の理由も有るようですが」

「他にも?」

「本心は誰にも話されないので推測ですが、恐らく、ご自身の経歴です」

「……はい?」

何を今さらという顔をしたハルトに、室月も頷いた。

「ええ、そうです。BGMを理解しているさららは、優一さんの経歴を問題視しません。ご承知の通り、親族トラブルも解決しましたし、彼女の実の両親は他界しています」

改めて溜め息を吐くと、室月は辛そうに眉を寄せた。

「……優一さんが気にしている経歴とは、性的な面の話なんです」

ハルトも思わず嫌なものを呑んだ顔をした。

そうだった。優一は聖家に重用される代わりに、文字通り支配と寵愛を受けていた。

わかっているだけでも、故人の聖茉莉花まりかと、さららの実兄である小牧こまき要海かなみとは肉体関係があった。勿論、優一は本心ではどちらにも同意していない。考えたくはないが、彼らのやり口からして、他にも“接待”させられた可能性がある。

「望まない関係は先の件で全て清算されましたが、事実は消えません。ずっと、ご自身を卑しい存在だと考えているんです」

「そんなバカな……もう終わったじゃないですか。すぐに切り替えろなんて言えませんが、引き摺ったって何にもならない」

「ハルトさんはそう仰ってくれると思っていました。私もその通りだと思います。ただ、あまりに傷が深いんです。さららに殺人鬼だと思わせていた時期も、だいぶ苦痛だったようで……見ていない所で吐いていましたから……」

見ていない、ということは室月にも隠そうとしたのか。

……もはや彼の生真面目は頑固の領域だ。スプリングに適合している為、怪我の回復力はバケモノじみているが、やはり精神面まではカバーできないらしい。

あの当時、記憶が喪失と混濁に微睡んでいたさららは、優一が演じるまま彼を殺人鬼と認識し、害虫以上に嫌っていた。度々、アプローチを断り、持ってきた花束をバラバラに崩し、短く切ってから生けるという行動は、彼女の認識からすれば然るべきだが……真実がわかった今、優一が不憫だ。

更に、この頃のさららは十条と男女の関係にある。十条とて好色というわけではないし、……まあ、それは恐らくだが――当時のさららの心は十条に有ったため、完全悪とは言い難い――いや、やっぱり部外者のこちらさえ、胸くそ悪い。

「あの確信犯に責任取らせたらどうです……?」

嫌そうに言うハルトに、室月は困り顔で微笑んだ。

「ええ、十条さんは、いつでも協力すると仰っているのですが……」

「じゃあ、やらせればいいじゃないですか。働いて当然の黒幕なんですから」

十条は先の計画で、全てを――優一の気持ちを知った上で彼の協力を仰いだ。

さららの為、未春の為と言えば聞こえはいいが、十条は彼の性格なんぞ手に取るようにわかっていただろうし、どんなツケがあるかも承知の筈だ。

「……十条さんに頼めば、二人は間違いなく接近するでしょう」

頷いたものの、室月の返事は煮え切らない。

「何か、変な条件でも出してきてるんですか」

「いいえ。何も。……十条さんは、ご自身が家族と認識した存在を何より大切になさいます。優一さんのことも、部下や同胞以上に考えて下さっているのは本当です。だからこそ、優一さんは協力した。さららの事もありますが……十条さんは、実のご両親さえ無関心だった優里さんのことも考えてくれていましたから。……言わないでくださいね」

優一が、人質の扱いを受けていた実姉の優里をどれだけ想っていたかは後で知ったことだが、これは十条自身の遍歴も有るだろう。優一に取り入る為に優里は外せない駒だが、若くして姉を失っている十条が、全く感情移入しなかったとは言い難い。

「仮にこの話が地球の裏側でも来てくれるでしょうし、見返りを求めることもないかと」

「あの人、ヒーロー思想ですからね」

今にも舌打ちしそうな顔のハルトに室月はやんわり苦笑した。

「私が苦慮致しますのは、そう……あまり、十条さんに頼らない方が良いと思っていまして……」

「それはつまり……?」

「十条さんに頼めば、“確実”に成功します。型枠にはめると申しましょうか……決められたシナリオに乗せるというか……そういうものを感じるのです。一度、その計画の一部になれば、生涯そうなのではないかと。私は優一さんにお会いした後、初めて十条さんに恐怖しました。彼の計画は、偶然と思える全てに繋がっている。さららの件が相当練られたものなのは存じていましたが、私は勧められた覚えもないのに優一さんと同じ高校に進み、ごく自然に紹介されました。一度、十条さんの支配を意識すると、もっと些末なことにまで及んでいると気付きます。交遊関係、近所付き合いは勿論、近所に存在する飲食店や量販店、身に着けるものの好みまで意図的に組まれているんです」

「……だとしたら、貴方が俺を頼るのも、計画済みのことかもしれませんよ」

「そうですね。いえ、きっとそうなのでしょう。それでも、直接的ではないだけ気が楽になります」

「室月さんがいいなら構いませんが……俺は恋愛には疎いので、お役に立てるかどうか」

「ハルトさんの尺度でいいのです。もともと、無理を承知で頼んでいます」

そうは言うが、恋愛感情なぞ抱いた経験もない男が、遠慮し過ぎてくっつかない男女を進展させる案など浮かぶわけがない。恋愛と捉えるから駄目なのだろうか?

殺し屋の尺度で言えば……互いに逃げようとする二人を、同じ空間に収める、で、良いのか?

なんだか嫌な感じだが、仕方がない。

「優一さんて……ご自身の疲労が認識できないんですよね……?」

しばらく唸った末にハルトは言った。室月が即座に頷く。

スプリングの適合者は、とんでもない強さと引き換えにそれぞれ奇妙な疾患を持つ。十条は一般人よりも睡眠を必要とする一種の睡眠症、未春は感情の多くがスリープ状態、又は理解が及ばない。そして優一は、自身の疲労度を認識できない。体の限界を越えた過剰労働にさえ気付けない為、油断するといきなり倒れてしまうという。彼のキリング・ショック解消法は『読字』なので、たとえ仕事で疲れていても、ハルトや未春のように氷やドリンクを摂取して倒れるわけにもいかない。

「今まで、急に倒れたことはあるんですか」

「私が知る限り、公の場で見たことはありませんが、ご自宅では何度もある筈です。表の仕事が原因のときもありますから。お仕事上、自由度は高い分、急な話も多いので」

優一の表の仕事はデザイナーだ。革製品のブランド「ハンドレッド」は人気が有り、海外ブランドからのオファーもある。室月のホルスターも彼の仕事で、先の件の後、ハルトも財布を新調した。これは色々世話になった為……いや、実を言うと、知らぬとはいえ彼を撃ったことがあるのが申し訳なく、その詫びである。

……それはさておき、海外と仕事をすると日時変更や納品遅れなど、トラブルは多かろう。

「イレギュラーが重なると、ってことですか。当然、一人の時でしょうね?」

「はい」

ハルトは頷きながら顎を撫で、首を捻った。

「俺の尺度で言えば、疲れさせるのが手っ取り早いかもしれません」

「と、仰いますと?」

「この間、仕事で東北のロッジを利用しました。大雪になりやすい場所だそうで、吹雪ふぶくと身動きがとれない。設備はしっかりしていたので、ロッジに籠れば安全です。如何にスプリング保持者でも、吹雪の中を数キロは無理がありますよね?」

室月が微かに目を見開き、机に広げられた盤面を見るように俯いた。

「……なるほど。ええ……確かに。防寒しても、そう長い距離は無理です」

「それに、彼の性格からして、さららさんを“置いてはいかない”と思います。彼女が独りになる不安を訴えれば確実でしょう。こういうやり方が良いのかは疑問視するところですが……実行の前に、さららさんの気持ちを再確認しないといけません」

「天然の牢に入るのですからね」

らしくもないブラックジョークをとばし、室月は頷いた。

「名案と存じます」

「そ、そうですか? 問題は、優一さんを過労に追い込む手ですけど……俺じゃあ相手にもならないでしょうし、未春は――」

――家族だから。

いやいや……そうじゃない。妙な咳ばらいをして、回らぬ頭から言葉を絞り出す。

「あいつは……さららさんの事になると扱い辛い。優一さんのことは味方だと理解したと思いますが、弟としては釈然としていない。そこは十条さんが適任だと思いますが……」

「そういうことでしたら、私に心当たりがあります」

意外な回答に、ハルトは目を瞬いた。

はて? 現状、日本にはこの面子以外の殺し屋は居ない筈だが。

十条が秘密裏に育てている可能性もあるが、優一の脅威になる程の者がそう何人も居る筈がない。先日の事件で当たった謎の軍人には苦しめられたようだが、これはハルトが射殺し、正体は依然として不明、その後は音沙汰もない。室月に心当たりが有るということは、清掃員の過剰労働でも押し付ける気か?

「ありがとうございます、ハルトさん。目途が立ちましたら、こちらで手配致します」

「お役に立てたなら良かったですけど……」

いつになく高揚した様子の室月を見ていると、エデンの蛇になったような心地がした。室月は口は堅いだろうが、その相談相手が多くないのは十条ではなくてもわかる。次にあの針に出会った時に、痛いお礼を見舞われないか不安が過るが、さららと上手くいけば不問にして貰えるだろうか。

――……いざとなったら十条の所為にしよう。

ハルトが薄情な対策を思案したところで、室月は義姉が淹れたコーヒーを物静かに含んだ。飲食をする様をあまり見ないので、普通の人間らしい様を物珍し気に見ていると、彼は柔和に微笑んだ。

「何か気になりますか?」

「ああ、いえ……室月さんて、ホントにスーパーマンって感じの人だと思って」

「茶話ですか。それはオーバーですよ。私からすれば、あなた方の方が余程そうだと思います」

「どうかな。アマデウスさん辺りが本当に欲しいのは、室月さんみたいな人ですよ」

「光栄です。ミスター・アマデウスは、尊敬に足る方ですから」

長く、秘書のような立場で聖家に潜伏していた室月は当然、アマデウスとも幾度か会っているという。その場で本性を見せなかった辺りも、彼はこの道のセンスがある。普通の人間は評価されることは表に出したいし、積極的に話すものだが、この男は影に徹し、少しも驕るところが無い。

「尊敬って言われると……俺はあの人の恥ずかしい話をしたくなりますが」

積年の恨み事がむくむくと頭をもたげるハルトに、室月は苦笑した。

「十条さんも時折こぼしていましたよ。あの方に面と向かって言えるのは、あなた方ぐらいでしょう」

「子供じみたオッサンですからね。でかい思想のわりに、細かい金勘定にうるさいし、アイスもドーナッツもやめられないし、未だにブロッコリーは苦手だし……」

ぶつぶつと指を繰るハルトに、室月は穏やかに声を立てて笑った。

「……私は、会合に同席した際、ミスターが仰った一言が印象的でした」

「一言?」

「はい。彼は『夭折ようせつの天才を持てはやす世界より、彼らが数え切れないほどの芸術を生んで往生おうじょうする世界が良い』と仰った」

――全ての人間に、正しい評価を。

確かに、それはアマデウスの信念の一つだ。優しいかもしれないが、同時に厳しくもある。あの男は、どんなに素晴らしい事をした人間も、史上に残ることを成し遂げた人間でも、錆びつき、誤りを犯せば淘汰する気だ。

勤勉であれ。学び続けろ。周囲に目を配れ。

できない者に、高価な椅子に座る資格は無い。

――そうか。言われてみれば、リリーは、あのアマデウスの元でデビューしたのだから、彼女はやはり凄いアーティストなのだろう。

「私も、その世界が良いと思います」

室月さんは、その世界でも生き残れるものな。

ハルトは酷薄な笑みを浮かべて首を振った。

「……あの悪党は、嘘も一流ですよ」

にこりと笑った男は、そうしていなければ鋭利な刃物のような目をまっすぐ、ハルトに据えた。

「気を付けます」

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