4.Dilemma.

 陽が持ち上がるのが遅くなってきた季節。

日差しを浴びる前の青い時分、落ち葉の甘い香りと、どこからか燃えカスのような香りが煙る時間帯、米軍基地内でパン屋を営むディック・ローガンは、開店間近の店内整理に勤しんでいた。早くから勤めるスタッフを労ってから、バックヤードで業務の確認をしていると、不意に誰かが入って来た。

スタッフだろうと思ってそのまま机に向かっていると、相手はゆったり歩いて来て目の前に立った。

「――よお、ディック」

やや高圧的な日本語に、ディックは既に持ち上げていた顔を引き攣らせた。

「ハ……ハル!? どっ……どうやって基地ここに……!?」

思わず立ち上がった瞬間、着ていたTシャツとジーンズが肌に張り付く気がした。

現れたのは、パン屋以外のビジネス――武器商として長いお付き合いのBGMの殺し屋だ。一体どんな手を使ったのか。いくら壁一枚、フェンス一枚隔てただけのご近所とはいえ、米軍基地はそう安易に入れる場所ではない。来訪者は質問に答えず、ガタガタとテーブルにぶつかる屈強な巨体を笑顔半分で睨み据えた。

「ディックー……お前、クリス・ロットの部下が来てるの知ってただろお?」

ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、アウトロー丸出しの顔で尋ねるハルトに、頭ひとつは大きなアメリカ人はわかりやすい冷や汗を垂らした。

「え、ええ?……! クリス? は、はて……?」

明後日の方を見ながら、ふらふらっと後退るディックだが、ぶんと振られたハルトのキックが空の台車をひっくり返す音に、軍隊の気を付けの姿勢で固まった。

「奴らの潜伏先、教えろよ」

「む……むむむ無理だよハル! 俺の立場も考えてくれ!」

「チッ……じゃあアレ出せ、1911ナインティーン・イレブンの最高級モデル」

舌打ちして片手をしゃくるハルトに、ディックは伝説の傭兵めいたボディに似合わぬ情けない声を上げた。

「こ、困るよハルゥ……! まるで追剥おいはぎじゃないか!」

「相変わらずマニアックな日本語知ってんな……その反応は、基地内に居たんだな?」

「うう……ハルは変なとこがアマデウスに似てきたなあ……!」

観念したように両手を上げると、ディックは頷いた。

「……そーだよ、居た。昨夜まで……言っとくけど、俺が提供したのは車と部屋だけ!」

「車種は?」

「あぁーもう……トヨタの黒シエンタ……! 八王子のY‐・×16!」

「GPS」

「付けないよ……怖すぎるだろ……!」

「気が利かねえな。一緒に警官が居た筈なんだけど」

「ああ……置き去りの車ちゃんは彼のかい? かわいそうだからウチで預かってるよ」

「なに犬猫みたいに言ってんだ……どうせ隠しとけって買収されたんだろ?」

筋骨隆々のパン屋は心外だと首を振った。

「ハル……商売ってのは大変なんだ……時に、自分の望まぬ道を歩まねばならんこともあるんだよ……」

「おい、悪党が何をカッコつけてんだ……」

「ドル束には逆らえない……」

「いや、ディック……それは正直過ぎないか……?」

アマデウスにも何度か札束で顔面叩かれていそうな男に、ハルトも悪党面を改めて溜息を吐いた。

「ドルで現金持ってきたってことは……最初からお前に頼む気だな。どうなってんだよ、今回の件。十条さんは電話にも出やしない」

「俺が聞きたいよ。なあ、ハル……大体、アマデウスもクリスも何が目的なんだ? お前たちが動いてるのに、殺しじゃないんだろ?」

「ああ、そうだよ。マトモな神経もあるじゃないか」

壁に寄り掛かると、ハルトも怪訝な顔になる。

「この件、とにかく一貫性が無い。リリーが日本に来た件、殺し屋の俺がSPやる件、金にうるさいアマデウスさんが大金を前払いした件、クリス側が交渉もナシにリリーを奪おうとする件、その割に焦っている様子が無い件……」

指を繰ってから、ハルトはふと顔を上げた。

「ディックは、リリーのこと知ってるか?」

「もちろん。基地内でもよく聞くさ。リリーは可愛いし、目立ったスキャンダルもないから好感触だけど、ファンは……軍人には少ないね」

「てことは、ディックも興味ない派?」

「俺の歌姫ディーヴァはマドンナだけさッ!」

天に野太い腕を伸べる男をうんざり見たハルトだが、これは参考になる意見だ。

「お前の趣味はどうでもいいが……つまり、リリーは本当に新進気鋭なんだな」

「そうさ。良く言えばシンデレラ・ガールだが、悪く言えば『ポッと出』だね。けどさ、それはリリーの出生が謎っていう辺りじゃないか?」

「謎?」

「リリーはプロフィールが謎なんだ。普通はホラ、どんな人間でも下積みがあるだろ。例えば神童って言われるアーティストも、『神童』っていう時期がある。幼児の頃から売れた人間だって、練習や誰かに師事した前身ってのがある。リリーはそれが謎。何かの機会にアマデウスが拾っていきなりデビューさせた。ミステリアスって意味じゃあウケてるみたいだが、俺はちょっと強引に思えるね」

なるほど。隠したいプロフィールが有るのかもしれないが、それならそれで、改ざんすることはできるのに、リリーの場合はしなかったということだ。

無論、リリーに限らず、何もかも世間に公表などするわけがないが、例えば親兄弟に逮捕歴が有るとか、あまり口外したくはない病気を抱えているとか、不倫や隠し子など、マイナス・イメージになる人間関係を秘密にするのは自然だ。

ハルトの頭にふと、あの捜し人の少女が浮かんだ。

彼女が、リリーの秘密に関わるのだろうか?

だとしたら、クリス側の目論見は何だろう? 若年層のみにウケているリリーに商品価値は薄い。アマデウスと取引したいのなら、もっと良い方法があるし、仮に嫌がらせなら尚更まどろっこしい。

「ディック、お前とクリスとの取引は、過去どのくらいあるんだ?」

名うての武器商は、苦笑いを浮かべながら太い指を振って見せた。

「ハールー、いくら俺とお前の仲でも、顧客情報はNGだよ。こういうのはね、口が堅いから商売できる――」

「へえ。じゃ、表のカウンタックをパクって未春の練習台にするぞ」

一体いつ掠め盗ったのか、ハルトの手元では高級車のキーがゆらゆら揺れている。

「ノォー!! ハル……そ、それだけは……!!」

未春の破滅的なドライブセンスを知らぬディックではない。カーチェイスでは高度な技を見せたが、公道を走るだけで同乗者が吐くという走行は、文字通り破滅を招きかねない。

「元は俺の車だ。俺とお前の仲なんだろ?」

「……油断も隙も無い!……アマデウスに言わないでくれよ?」

よっぽどヤバいのか、ディックは周囲を見渡してから耳打ちし、離れてから再び周囲を見渡した。ハルトの方は、聞きしに勝る爆発物の取引に渋面を隠しもしない。

「……噂通りのテロリストだな」

ぽとりと落とされたキーを受け取って、ディックはホッとした顔で首を振った。

「って言っても……相当前の話だよ。現役引退後のクリスはおとなしくて……キリング・ショックが爆発じゃないかって噂だったけど、デマって話もあるくらいだ」

『殺人』という過度なストレスに対し、自己防衛の為に起きる過剰反応が、爆発で落ち着くなら、殺し屋としては気楽なものだ。多くはハルトのように大量の氷を摂取したくなる過食傾向や、ある行動を一心不乱に行うなどの症状が現れる。これが起きない人間は所謂『殺人鬼シリアルキラー』であり、殺しそのものがストレス解消である悪魔のような精神の持ち主だ。

そして、キリング・ショックを持たず、殺人鬼でもない場合、脆弱な精神であるほど、精神崩壊は免れない。

「爆発がキリング・ショックじゃ堂々巡りだからな……殺人鬼ならわかるが」

「ま……クリスの噂はどれも眉唾ものだけどね。ところでハル、せっかく来たんだし、付き合わないか?」

「出た出た……まーた変な事頼む気だな? お前、これから仕事じゃないのか」

「いやいや大丈夫、俺とハルの仲だろ」

「それ何回確認すりゃいいんだよ」

仕方なさそうに従うと、伴われたのは以前も連れて来られたハンバーガー・ショップだ。まだオープンしている筈もない時刻だが、ディックが声を掛けると扉は開いた。灯りの灯っていないネオンサインの下、店は薄暗い。カウボーイでもやって来そうな板敷の内装は、日本で言う所のバーの印象が濃かった。

「ちょっと待ってて」

そう言って先に入ったディックは、ほんの数十秒で戻ってくると中へと促した。

押しやられるように席に座らされると、ディックが奥へ引っ込み、小さな間接照明だけが点灯した。やがて戻って来たディックを振り返ると――同行者の姿に、ハルトはぎくりと腰を浮かせた。

「……君……タチバナさん?」

掠れた問い掛けに、日系ハーフと思しき少女は、キャップの下の目線を彷徨わせてから小さく頷いた。ソフィア・タチバナ――約二ヶ月前、ハルトを父親の仇として銃撃した少女である。以前会った時は肩に掛かる黒いショートヘアだったが、今は耳が見える程短く揃えている。鼻筋の通った欧米ならではの顔立ちは、居心地悪そうにしかめられていた。

ハルトはハルトで、数ヶ月前の不快感を吐き戻した心地で、屈強な連れを仰いだ。

「ディック……これはミスターの口利きか?」

「まあ、そうだ。うちのパン工場で、更正の支援をしてる”よしみ”というやつだよ」

相変わらず難しい日本語を使って、ディックは答えた。所謂、就労支援の一つか。

犯罪を犯した青少年に真面目に働く機会を与え、社会復帰を促すというものだが、ソフィアは少し違うらしい。強盗障害や無差別殺人ではない為か、普通の接客業に従事するらしく、その細い肩を軽く叩いて、ディックは穏やかに話し掛けた。

「ソフィ、ハルに話があるんだろ?」

「……」

気後れはあるようだったが、ソフィアは眉を寄せつつもハルトを仰いだ。

「……ミスター・ノノ。私、貴方を殺すのはやめたの……」

以前よりも流暢な響きの日本語に、ハルトは息を呑んだ。

「……ど……どうして……?――」

「……あの後、ママから、パパの本当のことを聞いたから」

自分の自由と利益のため、娘を殺そうとした父親のことだ。そうしなくても済むものを、殺し屋に依頼したばかりか、自分の手で葬ろうとした男。その眼はドラッグに狂わされ、別の子供を狙い撃ちしようとし――同じく、そうしなくても済むものを、ハルトに射殺された。後味の悪い仕事ランキングのトップ3に食い込む案件で、あの後ガリガリ食わざるを得なかった氷の量はアイスペール三杯近くに及んだ。

「I'm sorry I kept quiet about this(黙っていてごめんなさい)……と言われた。ママが私にしてたパパの話は殆どウソだったって……」

妻と娘を捨てたことも、ドラッグ中毒になったことも、母親は知っていたらしい。

そんな父親だと娘に打ち明けられず、嘘の話をしていたという。……案外、母親自身もショックで認めたくなかったのかもしれない。

「……パパを殺したことは許さない。……でも、私と、関係ない子を守ってくれたのが貴方なら……復讐はフェアじゃない。……やめることにした」

「…………そう……」

絞り出すようにハルトは呟いた。ありがとう、なんて言えない。

殺しの事実は残る。人間として、最低最悪の行いは決して消えない。

あの日――自分は確かに、この娘の父親を殺害し、彼女の心も地獄に突き落とした。

「……それと、私が早く出られるようにしてくれて、Thank……」

言い掛けた礼を、身内でもないのに保釈金を積んだ男は片手を上げて遮った。

「……よしてくれ。俺は君に礼を言われる資格はない。……ただ、自分がやったことに言い訳しただけだ」

床に目を逸らすハルトを見つめ、ソフィアは少し困り顔でディックを振り返った。

「ハル、ソフィは来学期から復学する予定だよ。家族や友達とも仲良くやれるさ」

「……そうか……良かった」

ひとり言のように呟くと、ハルトは少しだけ笑い、頭を下げた。

「……本当にすまなかった」

「……」

ソフィアはただ、殺そうとした男の謝罪を見つめた。

頷くこともなかったが、その瞳にかつての怒りは見られない。ひとしきり頭を垂れると、ハルトは目許を伏せたまま身を起こした。ディックは兄貴分のように少女の肩をそっと叩くと、陽気に口を開いた。

「なあ、ハル。ソフィなら、リリーを知ってるんじゃないか?」

「……ん? ああ、そうか……確かに」

「ソフィ、リリー・クレイヴンは知ってるかい?」

ディックの問い掛けに、ソフィアは頷いた。

「ええ……好きなアーティストよ。SNSもフォローしてるわ」

「やっぱり若い人に人気なのか……何処が良いか聞いてもいい?」

ハルトと話すことに抵抗はあるようだが、幾らか和らいだ表情でソフィアは答えた。

「声。メッセージも好きよ」

「声……ラッコちゃんもそう言ってたな……」

リリーの声や歌詞には、若者を惹きつける秘密があるのだろうか?

「君たちに響くメッセージはどういうのがあるんだ?」

「……大人に騙されちゃダメ、とか……上手い話は疑ってね、とか……」

ソフィアが言うと耳が痛いが、意外な回答に聞いていた男二人は顔を見合わせた。

ハルトも歌詞は読んだが、そういえばそんな文言が多かった気がするだけで、若者に支持される印象は無かった。ディックが厳つい顎を撫でて首を捻る。

「詐欺防止の広告みたいだね」

「ああ……若者が若者に向けるメッセージっぽくないな……事務所に言わされてんのかな?」

振り込め詐欺が後を絶たない日本ならありそうだが、アメリカのスターであるリリーが、わざわざ詐欺の注意喚起をするとは思えない。わずかに思案してから、ハルトはソフィアに頷いた。

「ありがとう、参考になった。仕事中に申し訳ない」

「……」

ソフィアは無言で首を振ると、ディックに小さく会釈して裏に戻って行った。

「どうだいハル? 会ってみて」

「……お前のカウンタックのハンドルを引き抜こうかと思った」

そう答えるハルトの手の中に高級車のキーを再び見つけて、ディックは悲鳴を上げた。

「No way!? ちょ、ハル! 俺は良かれと思って――」

「冗談だよ。良くはないけど……少し落ち着いた。クリスの件は水に流してやるよ」

ぽいと放られるキーを慌てて受け止めて、ディックは溜息を吐いた。

「しっかりしてるよなあ、ハルは。これからどうするんだ?」

「なんも……成るようにしかならない。ミスター・アマデウスが詳しいことを話さないなら、クリス側の接触を待つぐらいしか……――」

言い掛けて、ハルトは改めてディックを睨みつけた。

「……そういやお前、なーにさららさんにおべっか使ってんだよ?」

「え? あ、ああ――ドーナッツのことか? アマデウスに美味いって聞いて、つい……」

「へえ? さららさん狙いか? それともレシピをパクる気か?」

「ノーノー! どっちも魅力的だけど、そんなつもりじゃないさ!」

「変な真似したら、お前の店にドブネズミ放つからな」

「そ……それはシャレにならないよハルゥ! 俺とお前の仲だろ!?」

「……それ、俺とお前のお約束なのか……?」

うんざり呟いたハルトの視線の先、ソフィアが再び戻って来た。手には湯気を立てるマグカップを二つ持っている。

「……ディックの奢り?」

尋ねたハルトに、ソフィアは首を振った。

「私の」

「え、それは悪い――……」

即座に払おうとした男に、ソフィアは先ほどハルトがしたように片手を挙げて制した。

「いいの」

「でも――」

「リリーのサイン代」

強かなセリフを呟いてテーブルにマグを置くと、少しだけ微笑んで去って行った。

「良かったな、ハル」

乾杯、とコーヒーのマグを掲げた笑みを、どうしたわけかハルトはじろりと睨んだ。

「バカ言え。リリーの居所バラしやがって!」

舌を出す男の片足を鋭いキックが見舞った。



 オープン前に帰宅したハルトは、何やら思案顔だった。

手ぶらで行った筈の片手には、大きく膨らんだパン屋の紙袋を抱えている。またディックから奪い取ってきたのだろう、日本ではあまり見ない長いロールパンが覗いている。……と、いうことは、今日の夕飯にはあのサンドイッチが出る。

未春がそう思いながら声を掛けようかと思った瞬間、脇から勢いよく飛び出た影がある。

「ハール―! Where have you been?(どこ行ってたの?)」

抱きつかんばかりにすっ飛んで来たリリーだ。アタックは片手で止めたハルトだが、赤いマニキュアをした白い指先はすかさずその袖を掴んでいる。

「Just popping out(ちょっとそこまで)……リリー、また俺の服引っ張り出したな?」

素知らぬ顔で余った袖を振ってニコニコしている。

「Over size.カワイイ」

「……ったく……借りるなら、さららさんのにしなさい」

ちっとも懲りていない顔を呆れ顔で見下ろし、午前中から溜息が出るハルトだ。

何となく声を掛け難くなった未春が様子を眺めていると、二、三のじゃれ合いの末、ようやくハルトがこっちを見た。

「どうかしたか」

「……別に、どうもしない」

何故かそっけない返事になってしまい、硬い表情のまま、未春はどうにか言葉を絞った。

「……ハルちゃんこそ、ディックのとこで何かあったの?」

「んー……まあ、その内話すよ……」

腕に食いついてくる娘を面倒臭そうにぶら下げたハルトは生返事だ。悩み事があるというほどではなさそうだが、表情は冴えない。

「それよりお前、今日は午前中に出掛けるのか?」

「……うん。大丈夫?」

「ああ、大丈夫だろ……今んとこ、コバちゃん連れてドライブ中みたいだ」

いいから行って来い、と言うハルトに、未春は頷いた。

「ハルちゃんは……大丈夫?」

「ん? 俺は平気だよ。平気じゃないのはディックの片足と奴の台車だ」

悪びれもなく言ってのけるハルトに、また蹴っ飛ばしてきたのか、という顔で微かに未春は笑った。知らない人物の話題に、リリーが怪訝な顔をしている。一瞬、未春は妙な感覚が胸を占めるのに気付いた。――何だろう。すっと晴れた気もするが、さららを泣かせてしまった時のような居たたまれなさも感じる。

……リリーが見ているからだろうか?

「午後までには戻るから」

文字通りの居たたまれなさに、未春は逃げるように上着を取りに踵を返した。

「おう、行ってこい」

呑気に片手を上げたハルトが、本当に呑気そうに見えて、今度は胸の奥がチリチリした。

この感じ。叔父に感じる気持ちに似ていて困る。……どうにも、苛々するんだ。



ハルちゃんと、トオルさんは違う。

それはわかっている。似ていることが無いことも無いが、似ていない。今のハルトに苛々するのは、リリーが居るから。では、一体、トオルさんの何に苛々していたんだっけ?

未春は悶々と電車とバスを乗り継ぎ、ほのぼのと明るい街並みを抜ける。車の方が楽だろうが、特別養護老人ホームで事故が起きてはと皆が止めるので、致し方ない。

目指す施設は、旅館か大病院のような三階建ての立派な建物だ。周辺には大小様々な木々が植えられ、今は桜や楓の葉が黄色や橙、ほんのり朱に色付いている。

シャンデリアがぶら下がった玄関ホールに立ち入ると、顔見知りの受付スタッフはすぐに気が付いた。

「こんにちは、十条さん」

にこやかな挨拶は、何故か何度聞いても慣れない。お辞儀をして、未春は来館記録に名前と行き先を書いた。『十条』と名前を書くのも、未だに慣れない。

……いや、一度は慣れていた。施設から“正式に”十条の元に引き取られると決まり、嬉しそうにした先生と、新しい苗字を書くのを練習した時。実はそれまで、便宜的に先生の苗字を借りていた。それは何故か、ごく自然なことだった。生涯、その名でも気にならなかったろう程度には。

十条の名を受け取った時は、漠然と……「名前が変わっただけ」……そんな気がしていた。

穂積が、『十条未春』と書かれた名前シールを沢山用意して、あらゆる持ち物に貼り付けた。別に、前の名前に愛着や寂寥感などはなかった。それまでと違う名前になる。ただ、それだけ。名前に対する認識は、その程度だった。

しかし、十条が本物の叔父であるとわかった今、不思議と別の誰かのような気さえする。

「あ、そうだ……十条さん」

愛想ひとつない青年が呼びかけにのそりと顔を上げると、彼女は親切に教えてくれた。

「守村さん、屋上緑地にいらしてましたよ。まだそちらに居るかも」

「……どうも」

来館証を受け取ると、慣れた足取りで大きなエレベーターに乗り込む。

降りた廊下を進み、聞いた先の扉を開くと、細長い通路のような屋外で数名の高齢者が看護士に付き添われて景色を見ていた。申し訳程度のコニファーや、季節を問わなくなったビオラが植えられた向こう側には、淡いブルーの山々が見える。

今日は12月にしては暖かく、日差しは穏やかだ。彼らはそれなりに楽しんでいるように見えた。

見知った看護士に会釈して、車椅子に座した一人の老婦人に近寄ると、隣に立ってようやく彼女は振り向いた。

「ああ、未春ちゃん……居たの」

くしゃっと皺を寄せる婦人は、櫛の通った白髪混じりの髪をきちんと纏め、カラフルな毛織のストールを羽織っていた。さららに選んでもらったのを贈ったものだ。

未春はストールと彼女をぼんやり見つめ、小さく頭を下げた。

「こんにちは、先生」

「こんにちはあ……良いお天気ねえ。今日は何持ってるの?」

青年が手にしている紙袋と、別に取り出された小さな容器を目敏く見つけ、婦人は楽しそうに言った。

「お土産と、シャボン玉です」

「はいはい……シャボン玉……そおお……」

さも知っているという風に頷いたが、今の彼女は知らなくてもそんな具合だった。未春が何気なく吹き始めると、彼女はあらあらと空中に手を伸べた。

「まあ……きれいねえ」

「はい」

屋上の風に吹かれ、色とりどりのシャボン玉が、互いに避けながら空を舞う。他の高齢者も振り向いたり、幼子のように手を差し伸べたりしていた。

「未春ちゃん」

「はい」

とおるさんとは、うまくいってるの?」

ふと、未春は間を置いた。時折、我に返る様な言葉を発した婦人は、皺を刻んだ目元を和ませて見上げてくる。未春の表情は変わらなかったが、逡巡するような間隔の後、頷いた。

「はい」

「ああ、そう……そうなの。良かったわねえ……」

手を叩いて喜ぶのを、静かに見下ろして、未春は少しだけ笑ったようだった。

「……先生、俺……変わりましたか?」

「未春ちゃんが?」

婦人は微笑んで小首を傾げた。

「未春ちゃんは、ずうっと優しい子よお……」

「……」

しわくちゃの笑顔を静かな目で見てから、未春は再び景色に向かって吹いた。浮かび上がるシャボン玉が、音もなく飛び、弾ける。

「きれいねえ……」

「……先生、俺、最近なんだか変なんです」

「どこか悪いの?」

急にきりりとした語調になる彼女に首を振ると、ほっとしたように胸を撫でおろした。

「良かったあ。もう……未春ちゃんはいつも怪我をしそうで、先生すっごく心配だったのよ……」

「……はい、すみません」

そうではなくて、と、かぶりを振る青年の言葉を、婦人は聞いているのかいないのか、菩薩のような目で見上げてくる。

「うまく説明できないんです、先生……」

「いいのよ。ゆうっくり……話してみて」

「……居なければいいと思う人が居るんです。でも、その人が嫌いなわけじゃないんです……すみません、俺、変なこと言ってますよね?」

いいのよ、と婦人はおっとり首を傾げて微笑んだ。不思議と彼女の声はしっかりしてきている。表情は若々しく、施設に居た頃を彷彿とさせた。

「どういうとき、その人が居ないといいと思うの?」

「どういうとき……?」

「とっても大好きな家族やお友達もね、いつも一緒に居たいとは限らないものなのよ。反対に、すごく嫌な人だと思っていた人と、いつもと違う場所で出会ったら、違う一面を見て見直したりするの。人間関係って面倒臭いわねえ」

眉を下げて微笑むと、確かな知性を宿した小さな目が、未春を見た。

「でもね、何十億もの人が居る中で……その一人一人の出会いは奇跡なのよ。未春ちゃんがこの世に生まれたことも、好きな人、嫌いな人、そのどちらと出会うことも奇跡なの。誰にも会わず、誰にも何も感じないことより、嫌いな人に対して悩むことは、とっても人間らしくて、きっと素敵な事なのよ」

「……素敵な事ですか」

「そうよお……未春ちゃん。あなたがそんな話をしてくれたのは初めて。なんでもじっと我慢していた未春ちゃんが……先生は、とっても嬉しいわ」

我慢。そうだろうか。未春はぼんやりと婦人を見て、頷いた。

「……ありがとう、先生。もう少し、考えてみます」

にこにこと微笑んだ彼女は、既にかつての先生ではないようだった。未春は再び、シャボン玉を吹き始めた。

「未春ちゃん、久しぶりねえ」

時が戻ったような言葉に、未春は動じることなく頷いた。

「はい」

「この間ねえ、十さんが来てくれたのよ」

「えっ?」

その反応は、未春にしては珍しいものだった。微かに映る緊張を知ってか知らずか、婦人の方は気にした様子もない。

「……いつですか?」

「ええ……いつだったかしらねえ。忘れちゃった」

青年の動揺に気付かぬらしく、婦人は肩をすくめて誤魔化すように笑った。未春もそれ以上訊ねなかった。軽度の認知症を患う彼女が、一年以上前のことを昨日のように述べることはまま有る。別に驚くことではない。

彼は身内ではない彼女の為に此処を手配し、後見人となって費用まで負担している。

そして目立った用がなくても、こまめに訪ねて来ていた。

……今の自分のように。

未春は改めてシャボン玉を吹いた。

それはなんだか、先ほどとは違う風に吹き流されていく気がした。



「それ、気分転換か何かですか?」

躊躇いがちに訊ねた警察官に、FBI捜査官を名乗ったフラムという男は振り向いた。

その周囲には、シャボン玉がいくつも浮いている。片手に液体の入った容器を持ち、もう片手には専用のストローを摘まんでいる。朝日がうっすら差し込むビジネスホテルのベランダは、沢山のシャボン玉で幻想的にも見えたが、中央に居るのは良い歳の男で、アンバランスな光景にも見えた。

「そんなところだ」

緩やかに宙を舞うシャボンの合間で笑った男は、往年の俳優のようにクールに見えた。煙草を吸うではなく、シャボン玉を吹くというのはどういう心境なのか気になったが、聞いてはならない事に思えて、「そうですか」としか答えられなかった。

死がきっかけの童謡があることから、日本では大人が吹くと、何となく侘しい印象のシャボン玉である。風に吹き飛ばされながら弾け飛んだり、右往左往しながら、建物の隙間や道路に消えていく姿は、亡くなった命かと思うと、あまりにも儚く感じる。

「あの……海外の警察官って、ホントに映画みたいなことしてるんですか?」

小学生のような問い掛けに、フラムは「例えば?」と聞き返し、シャボン玉を吹いた。黄色やブルーが忙しく混じり合って大量に吹き飛んでいくのを眺めながら、小場はそこに何か書かれているように言葉を探す。

「例えば……えーと……カーチェイスとか、麻薬組織との銃撃戦とか……」

「現実には存在するが、頻度は地域によって異なる」

「あ、でもホントなんですね」

そっかあ……と、純粋な眼差しをシャボン玉に向け、しみじみ呟く。

「日本は銃社会ではないから、平和で良いだろう?」

「ええ、まあ……あ、でも――お会いしたDOUBLE・CROSSでは、少し前に銃撃事件があったんですよ! 死傷者は出なかったし、犯人もその場で捕まったんですけど」

「それは良かった。禁じている銃器で何か起きては、市民が怯えるだろうから」

事件や責任の在り処より市民を考える男に感心しながら、小場はこくりと頷いた。

犯人が十代の少女というのは衝撃的なニュースだったが、思えば日本の世論が注目したのは、銃が存在することより、少女の生い立ちや人間関係ばかりだった気がする。そんなつもりはないのか、或いはそう思って尚、それを報道する使命感でもあるのか、ニュースキャスターはこの事件が氷山の一角と問題提起し、コメンテーターはこれが繰り返される不安をめいっぱいアピールし、滅多にあるものではない危険に対してどこぞの教授が大げさに驚き、年かさの何らかの専門家は嫌な世の中になったことをしみじみ呟く。

彼らも、日本に銃器がゼロだとよもや思ってはいまい。警察官しかり、自衛隊しかり、猟友会、競技用、公的に持っている人間は大勢居る。銃の事件を危険視するなら、持っている人間か、その近親者の方が遥かに危険だ。上記のいずれにも該当しない少女が、銃による事件を起こすなど、そうそう有る筈がないのだ。

尊敬してやまぬ末永警部もそう言って顔をしかめていた。

この事件で肝心なのは、持っている筈のない少女に誰が拳銃を与えたのか、という点であり、見つけられなかったそのルートこそ、皆で目を光らせるべき場所だ。少女の生い立ちなど、面白おかしく辿っている場合ではない。

彼は「銃の事件なんて、うちも子供が居るから不安」などと眉を潜めた芸能人はどうかしていると述べ、少女の狙いは無差別ではなく、言うまでもないが子供を狙ったわけでもない、勝手な妄想は不安を煽る、発言には責任を持つべきと報道に釘を刺していた。

日本が平和に見えるのは、テレビやネットがこういう連中に溢れているからだろう。

「ミスター・フラム、今日も聞き込みですか?」

彼はシャボンを吹きながら頷いた。

当初、悪の組織やらに襲われるのを覚悟していた小場だが、現実には隣の男は朝な夕な手が空くとシャボン玉を吹かし、もう一人の捜査官は昼寝をしたりと呑気なものだった。なんでも情報提供者の接触を待っているそうで、それまではAの足跡や、怪しい動きがある場に赴き、様子を窺ったり、小場が手帳をかざして聞き込みをするぐらいだ。今のところ目ぼしい情報はなく、目立った異変も見られない。

永久に変化しないのではと感じる鉄とコンクリートの模型のような街に光が浮かび上がっていくのを小場がぼんやり見つめていると、目の前をシャボン玉が通り過ぎた。

「コバ、君、家族は?」

急な問い掛けに、小場は慌てて振り返った。

「あ、えと……一緒に暮らす両親が居ます」

「そうか。私のような人間には、簡単に教えない方がいい」

目を白黒させた粗忽者に、ストローを手にした男は笑い掛け、眼前の街並みを見下ろした。

「日本は良いところだな。衛生管理は行き届いているし、サービスも良い」

「そう……ですかね。わりと荒んでいると思いますよ。先進国の中じゃ、いつも遅れを指摘されますから」

バブル崩壊後、日本はだらだらと不景気に浸っている。

他国から平和というイメージを抱かれるだけに、生命の危機に晒される機会は圧倒的に低い筈が、国民の幸福度は低く、将来に不安を感じる人々は老いも若きも少なくない。政界や経済界などへの女性の社会進出もまだまだ、医療が整っている割に、介護や介助を必要とする人間は手が足りぬほど溢れてしまっている。低賃金や価値観の変化で結婚する若者は減り、子供は減少の一途だ。支援制度は増えているにも関わらず、子供を欲しがらないカップルや、子供を理由に別れてしまうカップルも居る。

かと思えば、せっかくの我が子を虐待死させる親や、いじめを苦に自殺してしまう子供も居るなど、子供への意識が低い。一方、経済成長期に日本を支えて引退した高齢者は増え続け、彼らが励んで積み重ねた貯蓄が、億単位で悪党に騙しとられる始末。ところが、豪邸に住む人間も居れば、家賃数十万のマンションに購入希望者が殺到し、一般人が唖然とするラグジュアリーなサービスは続々と増えている。

今後の日本が辿るだろう道を知りつつも、自分のことで手一杯、或いは我関せずの姿勢で居る人間が混じる社会が日本だ。

「良い大学を出たのに就職できないとか、難関の資格を取ったのに仕事が無いとか……なんだか、とてもちぐはぐしているんです。汗水垂らしてコツコツ頑張る人より、数分の動画を投稿した人が儲かったら、バカバカしくなるでしょう? そういう憂さ……あ、憂さって通じるのかな? なんていうか、ストレスが溜まってるのが日本っていうか……」

最後はグダグダになった説明に、物静かにシャボン玉を吹く男は頷いた。

「贅沢なことだな」

フラムの呟きは、シャボン玉のようにビル風に掻き消えた。

「ミスター・フラムは、アメリカにご家族が?」

返事はしないかと思ったが、彼はビル群を眺めながら独り言のように言った。

「私の父はアフガニスタンで、母は9.11のテロで死んだ」

「えっ……!」

アメリカ同時多発テロ。通称・『9.11』は、世界を急速にテロ対策、結果的に対テロ戦争に走らせた事件だ。

さる2001年9月11日の朝、イスラム過激派テロ組織・アルカイダにハイジャックされた旅客機4機中、2機は世界貿易センタービルのノースタワーとサウスタワーのそれぞれに激突し、1機はアメリカ国防総省本庁舎・ペンタゴンに激突、最後の1機はコロンビア特別区に向かう途中、乗員乗客が制圧を試みた末、ペンシルバニア州の野原に墜落した。

犠牲者は、救助に当たった消防士や警察官なども含め、三千人近くが死亡、二万五千もの人々が負傷。アメリカ史上、最も衝撃を与えたテロだろう。

「父は軍人でね。貿易センター職員だった母をはじめ、旅客機の乗客、あの時亡くなった人々の無念と、残された人々の怒りや悲しみを一身に戦地に赴き、多くのアルカイダやタリバンを殺して死んだ。あの戦争はアメリカが関わったが為に、現在も続く悲惨な状態に到ったと言われるが、それならテロリストらは9.11を起こすべきではなかった」

小場は半ば唖然として、捜査官の横顔を見つめた。彼の口調は水のように静かで、少しも怒りに震えることはなかった。煙草を吹かすようにシャボン玉を吹き、再び口を開く。

「テロが生むのは混乱と恐怖、疑念、そして断絶だ。混乱は不信を生み、恐怖は憎悪に変わる。やがて断絶に達し、テロとは無縁の人々への差別に発展する。私はある人に出会い、それらに呑み込まれずに済んだ。その恩に報いる為にも、テロが起きるのは防ぎたい」

「どうして……俺にそんな話を?」

「さて、どうしてだろう。君が誠実な男だからかな。それとも、正義を信じているからか……」

白い光が、シャボン玉を攫う。それは音もなく、次から次に割れ、残ったいくつかは見えない空気に流れ、どこかへ運ばれていく。

「正義……それは、勿論、俺は警察ですから」

「コバ、君が正義を重んじるならば胸に留め置くといい。戦争を起こす者も、テロリストも、軍人も、皆、自分たちが正義だと思っていることを。多くは家族や愛する人を持ち、彼らを守りたいが為に奮闘する。君との違いは、その過程で人が死ぬか否かというだけだ」

「……そ、それは……」

返す言葉が見つからず喘いだ小場に、フラムはシャボンをひと吹きして、容器の蓋を閉めた。

「そろそろ、行くとしよう。同僚はイビキもうるさいが、腹を空かすと更にうるさい」

先に室内に戻って行く男を見送りながら、小場は無意識に胸に手をやった。その下には、警察手帳が収まっている。

この国の正義を司る者の証は、熱くも冷たくもない。

更にその下にある心臓は、熱いが何も答えはしない。



「Sine?」

リリーは、プライベートな頼みに快く応じてくれた。手渡した色紙にマジックをさらさらと滑らせ、ハートで締め括る可愛らしいサインを書いた。

「Thank you、リリー。恩に着るよ」

「ハルの為なら何枚でも書くわ」

すかさずしなを作るリリーから一歩引いて、ハルトはぎこちない笑みを返した。

「えーと……How did the lesson go today?(今日のレッスンどうだった?)」

今日の午後、リリーは日本で著名なボイス・トレーナーの元に出掛けていた。

アマデウスの部下――敏腕デカブツのジョンが送迎に来た時は何事かと思ったが、あらかじめ予定していたものらしい。おかげさまで午後に戻って来た未春とタッチしたハルトは、久々に落ち着いた時を過ごしたのだが。

「Perfect.」

そう言いながら見せてくれるのはスマホの画面で、レッスンの合間に撮ったらしい写真が何枚もスワイプされる。中にはジョン以外にも見覚えのあるアマデウスの部下が居た。おいおい、オッサンたちが何をにこにこしてるんだと写真に言いたくなりながらも、ひとまずほっとした。

調子は良いらしいし、事件性も窺えない。

「変なことも無かったか?」

にっこり頷く様子からして、どうも取り越し苦労の感がある。これではまるで、ただ親日家の芸能人がお忍びでホームステイしに来ただけではあるまいか?

夕食を作りながら、お決まりのハッピータウン調を感じていると、さららが店から戻って来た。出迎える猫たちを踏まない様に気を遣いながら、リビングにやって来る。

「ただいまー。……あら、お邪魔だった?」

「……いや、あの……さららさん……」

「わかってるわよ、ハルちゃん」

真面目なんだから、と笑いながら、さららはリリーに向き直った。

「リリーもおかえりなさい。いい匂いねー……コレはあれね、フィリーチーズステーキ」

「はい。ディックにロールパン貰ったんで」

正確には徴収したようなものだが、そこはパン屋のオーナー……耳を揃えて差し出した。日本ではあまりお目に掛かれない長いロールパンに、炒めた牛肉やチーズ、スライス玉ねぎやマッシュルームのソテーを挟んだそれは、ハンバーガーやサンドイッチとは異なる味わいを持っている。

「クラムチャウダーもあるー嬉しい。ハルちゃんが来てから太った気がするのよね」

「俺のせいですか。……未春はどうしたんです?」

まだ店に居るのだろうか。圧倒的に主夫力の高い男の姿は見えない。

「居ないの? 先に上がって行ったはずだけど……」

「? リリーが戻った時は店に居ましたよね? 部屋に居るのかな?」

てっきりまだ店に居ると思っていたハルトが相部屋を見に行くが、もぬけの空だ。

「何処に行ったのかしら……」

小場の件があるだけに不安そうになるさららは、電話を手に取って掛け始める。ハルトも怪訝な顔で暗い部屋を眺めた。未春が行き先を告げずに出て行くことが無いわけではない。

しかし、子供の門限宜しく、夕食にはきちんと戻り、用があるならば事前に理由を告げている筈だった。

「出ないんですか?」

スマホを眺めて唇を結ぶさららに問うと、眉を寄せて頷いた。

「話し中なの。珍しいわ。誰と話してるのかしら……」

「……」

「あ、掛かって来た!……未春? 今どこ?」

慌ただしく尋ねたさららだが、一言、二言が過ぎるごとに落ち着いていき、最後は小さく謝って電話を切った。

「……あいつ、何て?」

「ごめんハルちゃん、忘れてた……」

疲れた様子で言って、さららはこめかみを押さえて言った。

「町会の役員会だったわ。トオルちゃんが居ないし、私はお店あるから……けっこう前に代役頼んでたの。電話は遅れてる人に掛けただけだって」

「……ちょ、町会……」

この支部の特徴たる久方ぶりのアップダウンだ。ハルトも要らぬ緊張が抜けてくらくらしそうだった。町会のおじさんおばさんに混じって、会合の席に鎮座しているわけか。愉快な映像だが、ご苦労なことだと感心する。

「まあ……何でもなくて良かったです……」

あの未春に『何か』が起きる筈はないのだが、心配なのは相変わらず振り切れている価値観だ。保土ヶ谷の仲間同様、知り合いに絡んでいた相手の骨を折るような事件が起きては目も当てられない。

「ごめーん……コバちゃんの件で吹っ飛んじゃったのよ……」

「いえ、平常通りの未春の方が、世間的には不自然でしょう」

「あの子、昔から予定はきっかりだから。施設育ちなのもあるのよ、きっと」

「……施設?」

リビングから顔を覗かせたリリーの声は、妙に鋭かった。ハルトとさららは顔を見合わせ、十代にしては厳しい目のシンガーを見つめた。

「どうかしたの、リリー?」

「いま……施設って……」

リリーの口から出た滑らかな日本語に、ハルトは微かに眉を寄せた。一方、さららは彼女が動揺した姿に戸惑ったようだったが、やや声を潜めて答えた。

「……うん、児童養護施設のことよ。その……未春は事情があって親が居ないから、そこでしばらく育ったの」

「……ミハ、親が居ないの……?」

急にしおらしく呟くと、リリーはゆらゆらと席に座った。目に見えてこれまでと異なる様子を、猫たちが不思議そうに仰いだ。

「なにか……気になることでもあった?」

リリーは小さく首を振ると、テーブルに添えた陶器のような両手を見つめ、自分のスマートフォンを覗き込んだ。

「……Never mind……(何でもないわ)」



 夜十時を回って帰宅してきた未春が出会ったのは、リリーが部屋の前で就寝時のキスをねだるのをハルトが断っている現場だった。

「お、おかえり……大変だったな……」

「ただいま」

タイミングの悪さは、そのまま相性の悪さなのかもしれない。硬い返事のみを返し、例によって未春はさっさと通り過ぎる。うがい、手洗いという定型プロセスを終えると、リビングにすたすた行き過ぎる――筈だった。

「ハルちゃん」

「……ん? どうし……」

た、と言い終える前に、戻って来た未春の手はハルトの襟首をやにわに掴むと、目を白黒させる男の口にたっぷり三秒キスして――すぐに離れて行ってしまった。

「…………??」

これにはリリーもハルト同様、目が点になる。そのすらりとした背が、振り向くこともなくリビングに消えるのを声も出ずに見てから、混乱から立ち直れずに唇をわななかせているハルトを仰いだ。

「ミハ……ゲイ……?」

「……ち……違う筈だ……ぞ……?」

確認したときは常に“違う”と言っていた。確かに。確かに……確かに!

「と……とにかく! おとなしく寝ろ、リリー!」

抗議を述べようとするリリーを部屋に押し込むと、ハルトはそろそろと意味のない忍び足でリビングに向かった。未春は背を向けて、水を飲んでいた。その長い脚の下で八の字を描くビビが、ハルトに気付いて歩いてくると、彼も振り返った。

「……お前……アレはどういう意味だよ……?」

入口にもたれての気怠い抗議に、未春はいつもの無感動な口調で答えた。

「別に」

「いや、それじゃわかんねえから――……リリーに変な対抗意識燃やすのやめろって……」

「もしかして、初めてだった?」

「違わい!」

大声にならない程度に荒い返事を放ると、両手を腰にやり、床に重い息を吐く。

同じ部屋で寝るのが気まずくなるだろ、と言いたくなるが、未春はこの点はあまり……いや、全く頓着しないのを知っているのでやめた。寝入るのも早く、死んではいまいかと思うような細い寝息で殆ど動かない。それでいて、どんな腹時計をしているのか謎だが、朝はきっかり六時に起き上がり、寝惚けた様子は見られない。キラー・マシーンじゃなくても、大した性能だ。

「……っあー……くっそ……、お前メシは?」

「まだ。有る?」

「……有るよ。座ってろ」

おとなしく腰掛ける未春の膝に、待ってましたとばかりにビビが飛び乗る。スズはいつも通り、誰も居ない席に我が物顔で腰かけ、まるで己に食事が出るのを待つ体だ。膝の上で居場所を捜す様にくるくる回る錆猫を眺めながら、未春はぽつりと言った。

「ハルちゃん」

「何だよ」

「怒ってる?」

「うぬう……怒っちゃいないが、お前は――」

「どうして怒らないの?」

ハルトが振り向いた。未春も顔だけ向けている。相も変らぬ無表情の中、瞳だけが何事か話し掛ける素振りだった。見交わす沈黙の中、トースターが、チン、と高い音を響かせた。

「どうしてって……怒るほどのことでもないだろ……」

くるんでいたアルミホイルを半ば剥いでテーブルに置くと、パンやチーズの香りが立ち昇り、鍋から上がるクラムチャウダーのミルクや貝の香りと混ざり合う。いただきます、と背に聞いた直後、未春は尚も口を開いた。

「怒ってないなら、ハルちゃんは何をグダグダ言ってんの?」

「あのなー……」

フランスなどでは『ビズ』という両頬にキス、或いは頬を合わせる挨拶があるが……さすがに口は無いし、アメリカとて、せいぜいハグ止まり。無論、日本ではどちらも無い。

「つうか、お前がどうなんだよ。男とすんの気持ち悪くないのか?」

「別に。やってたし」

もぐもぐやりながら平然と答える男の前に、げんなりした調子でチャウダー入りの器が置かれた。――仰る通り、香港の男娼に居た経験を持つ未春にとって、たかが数秒のキスなんぞ、問題にもならないのかもしれないが……いかんせん、地雷が多い男だ。ここ数日で溜息も枯れそうな――手前の席に腰かけ、もはや面倒臭さから、唇を奪われた件は不問に処す気のハルトである。

「……大人なんだから、もう少し歩み寄れないか?」

「なんで俺が歩み寄るの?」

男にしては行儀良くスプーンを動かしながら、「仲良くならなくていい」などと身も蓋も無いことを言う。

「そりゃそうだが、ものには円滑に進めたいとこがあるだろ。俺に協力すると思って」

「ハルちゃんは、リリーに何を遠慮してんの?」

「遠慮っつうか……一応、仕事だしな……」

細やかな湯気の向こうで、わずかに未春が鼻で笑ったようだった。

「前にも思ったけど、ハルちゃんは時々、殺し屋じゃないみたいなこと言うよね」

ちっとも笑っていない顔で可笑しそうに言われて、答えに窮する。

思い出すのは、倉子の同級生に殺しを依頼されたときのことだ。恐らく、未春も同じことを考えている。あの時、高額な依頼料と未成年を理由に断りつつも、未春は十条を通せばやってもいいと告げた上、それが無理なら自分でやれとナイフを差し出した。ハルトはそれに反発し、未春に対して殴らんばかりに激怒した。

当時、未春はハルトが何を怒っているのか理解できず、ただ変なものを見る目をした。殺し屋としてはどちらが普通なのか――ハルトも知らぬわけではない。

「ハルちゃんをそういう殺し屋にしたのは、アマデウスさん?」

「それは……」

わからん、とハルトは首を振ったものの、煮え切らぬ様子だった。

「確かにミスター・アマデウスは……私生活にも口を出す人だったが……」

ご丁寧に倫理学を講釈されたことはない。何といっても、彼自身が悪党だ。

若い頃は軍人だったようだが、殺し屋になってからは『死神』と呼ばれ、全世界のマフィアやギャング、命を狙われる覚えのある人間を震え上がらせた『One Shot One kill』一撃必殺のスナイパーは、恐れられるだけの人間を殺している。

一方で、正義を思わす理念もある。例えば、大のドラッグ嫌いである点。

何が有ったのかは知らないが、麻薬も、覚醒剤も、彼にとってはすべからく敵であり、存在すること自体が機嫌を損ねていた。あまり命令口調にならない彼が、絶対に手を出すな、と厳しく言い、ハルトにはその手の仕事に殆ど関わらせようとしなかった。他に、殺し屋のスタイルや素行にも拘りがあったが、長々と語るのはそれぐらいで、あとは――一緒に劇場に行った。映画も行った。趣味を見つけなさいと、本を買い、カフェを巡り、スーツを仕立て、料理をしたかと思うと、良いレストランで食事をした。要らんというのに、誕生日にはケーキとプレゼントを買ってきて……――

「ハルちゃん?」

「……ん? ああ……悪い。何でもない」

未春は胡乱げな視線を上げたが、特に何も言わなかった。食器が鳴らす小さな音と、アルミホイルのカサついた音だけが響く。部屋を満たしていた温かい香りが間延びして消える頃、ハルトは独り言のように口を開いた。

「……お前さ……マジで男娼やってたのか?」

「やってたよ」

それが何か、という顔はいつもと変わらない。

「……ああいうのって……行っていきなり出来んのか?」

未春は首を捻った。彼にしては難しい問い掛けだったのか、しばしの沈黙後に頷いた。

「出来たけど」

僅かに息を呑むハルトに、空のアルミホイルを折り畳みながら一言付け加える。

「練習はした」

「れ……練習……? ンなことやってんの?」

「違うよ、ハルちゃん。現地じゃなく」

現地じゃない――そのセリフだけで、ハルトは質問を心底後悔したが、未春は意に介した様子も無く言った。

「トオルさんとやった」

「げ…………」

――あの人、何処までイカれてたんだ?

妻と娘も居た上、さららとも関係している男が、ゲイではないのは立証済みだ。仮にバイだったとしても……そんな素振りは見られなかった。冷たいと思われた態度の中に、信じがたいほどの愛情を溢れさせ、娘が生まれる前は唯一の血縁者だった甥っ子に。人と触れ合う為の練習と称した娼館に送り込むために。自ら指導したのか。

「……悪い、変なこと聞いた」

「いいよ。もう終わったことだから」

「さっぱりしてんな……良い思い出じゃないだろうに」

「そうだね。最初は痛かった。トオルさんが『僕のに慣れたら殆ど大丈夫』って言った通り、後は平気だった」

「おいぃ……嫌な方にリアルだな……つうかもう良い。聞いた俺が悪かった……」

「別にいいのに」

己の痴態トークに抵抗が無いのは良くない、とハルトが教えてもよくわからなかったらしい。どうやら未春の崩壊具合はポンコツどころの騒ぎではなさそうだ。この叔父と甥は、まったく末恐ろしい価値観をしている。

「大体……俺はお前がそういう勉強をした癖に、結局この状態じゃねえかと言いたい」

「ハルちゃんが何を言ってるのかわかんない」

「……いい、俺もわからん」

嘘だ。わかっている。

いくら未春が非常識だとしても、『お前を普通にする気だった意図が生かされてない』――そんなことを言う気は起きない。それでは彼が生きてきた時間の全てが惨いことになってしまう。

「お前、痛くないだけで我慢できたのか」

つまらないことを聞いていると思ったが、未春の欲求がどうなっているのかははっきりしておきたかった。高性能でも機械ではない人間。精神面で嫌だと思うことを、身体面でカバーするのは非常に難しい。

「我慢したというか……トオルさんは――苦手なことは、『交換しながら、捨てろ』って」

「なんだそりゃ……?」

「例えば――俺はセックスに慣れるまでに『痛い』と『怖い』を捨てた」

「……」

嫌な述懐が始まってしまった。普通の生活をさせようとしながらも、それが不可能であるのを察していた十条の意図がちらり覗く。ハルトも薄々気付いた。

この話は、さららには聞かせられない。一種の極限状態に追い込んで、都合が悪いものを捨てさせるやり方。

「捨てたところを違うもので埋めると、気にならないことが増える。皮膚は平気だな、とか温度は嫌じゃないな、とか」

「……お前の話聞いてると、BGMの教育機関がお遊びに思えてくるよ……」

えげつないばかりか、吐き気がしそうだ。正直、自分がその教育に従事させられた場合、脱落しない自信は無い。

「交換しながら捨てて行く内に、こんがらがったこともあるけど」

常に感情を操作する内に、自己はあべこべになり、心動かすべき場が見えなくなる。

好きではない行動に抵抗は消えているのに、嫌でもない皮膚を突き刺せる。感情が無いわけではないのに、感情の使い方を忘れ――キラー・マシーンになる。

しかし、捨てなかったものが残る為、家族を愛する気持ち、近しい人に対する優しさは失わない。

完成するのは、機械仕掛けのヒーロー。優しく力持ちで、痛みを知らない。

「……そういうことかよ、ったく……おっそろしい人だな……」

全くあの男は、未春の話を聞くたび嫌いになるなと思っていると、当の未春が無頓着といった様子で顔を上げた。

「ハルちゃん、ディックは何て?」

「ああ……あの野郎、やっぱりドル束で買収されてた」

ディックがもたらした情報をかいつまんで話すと、未春は小首を傾げた。

「コバちゃん誘拐して、何処に行ったんだろ」

「さあな……車種は山岸さんに伝えたから、車はすぐ見つかりそうだけどな」

「リリーを誘拐する気なら、警察連れ歩くのは邪魔じゃないのかな」

「俺も全く同感。……なんで奴らはこっちに何も言ってこないんだ? ディックだってアマデウスさんの旧知なんだし、話通す気になれば仲介できんのに」

ディックはBGM内でも概ね中立の立場だ。BGMのTOP13の数名を知る上、英語は無論のこと、日本語も堪能な彼はまたとない仲介人になれる。決裂なら決裂で――その場で決着をつければいい。もし、アマデウスを、或いは十条を恐れているのなら、それこそ対決姿勢は望まない筈。

一般警察に追っ掛けられるというリスクを増やし、何処で何をしているのだろう?

それとも、日本警察の捜索など、屁でもないと思っているのだろうか。

「一度、会った方がいいな……」

「アマデウスさんに?」

「ああ」

このタイミングで会うのは、彼の計算通りだろうが致し方ない。

滞在先のホテルは聞いた。ディックを札でぶっ叩いて。



 翌日、ハルトは例の「I'm busy!」を聞いた後、何食わぬ顔で時間を作れと言った。彼はブーブー言いながらも、都心のホテルで顔を見せた。相変わらず、いい所に泊まっている。外国人客インバウンドや要人を意識しているのだろう、温かい木製の直線に仕切られ、灯篭のような間接照明がほの明るいロビーは高級感と共に、品の良い『和』を感じさせる。

その欧米人が現れると、先にロビーに居た誰かが歩み寄り、挨拶を交わした。

同じ欧米人だが、相手は自宅で過ごすようなラフな黒を纏った男だ。彼も長身だが、この男も背が高い。髪や髭は薄く、どこか禁欲的で聖職者を思わせる色白の容貌に、細いシルバーフレームの眼鏡が掛かっている。

彼らは旧知の仲のように言葉を交わし、互いの肩を叩き合った後、何気ない様子で別れた。きっとあの男も、何処かの会社代表やアーティストなのだろう――そう思いながら待っていると、陽気な欧米人はにこやかにやって来た。

「やあ、ハル。直接会うのは久しいね」

声だけなら日本人かと思う男は、ビジネスライクな笑みと軽い手振りで挨拶した。

青く美しい目と金髪をした、若くはない筈だが年齢不詳の男は、高身長に仕立ての良いスーツがよく似合う。ステファノリッチの目の覚めるようなブルーのネクタイをしめた襟首を掴みたいのを抑え、ハルトは冷静に頭を垂れた。先日会ったばかりの隣の大男――敏腕秘書のジョンが光らぬ灰色の双眸を向け、こちらも微かに会釈した。

「うちのシンデレラはどうだい?」

最後に会った時のように、向かい合って着席したミスター・アマデウスは、孫か娘の話をするように口元をほころばせた。一方、歌姫の談話に花を咲かせる気のないハルトは、高級そうな一人掛けソファーに深く腰掛けて首を振った。

「本人のSNSを見ればわかるでしょう?」

毎日、朝な夕な、更新に余念のないリリーだ。こまめなそれは、天気予報か相場情報に匹敵する。効率的な提案に、今度はアマデウスが首を振った。

「Oh……そういう話じゃないが、ハルらしいと言えばハルらしい」

「そうですよ、俺らしい話をお願いします」

にべもない元部下に、元上司は含み笑いをしてから椅子にもたれて足を組んだ。

「マグノリア・ハウスは概ね、順調だよ」

のんびり言ったアマデウスをハルトは鋭く睨むと、同じように足を組み、鼻を鳴らす。

「そりゃ、施設内がにおいそうですね」

かつて、アマデウスがハルトを含む数十名の子供を殺し屋にする為に教育した施設・マグノリア・ハウスは、多数のシリアルキラーを生んで閉鎖した場所だ。

今は殺し屋志望などという馬鹿げた目標を掲げた百名の日本人が居る。引きこもりだった彼らは、自分達を追い詰めた日本を見限り、アマデウスの口車に乗ってネバダ州の僻地に旅立った。しかし、如何にやる気があろうと、根本的に運動不足の彼らは、ハルトさえ「ヘバってゲロった」と言う地獄の特訓に耐えられる筈がない。

あらかじめ、別の目的を含めて百名を招いた男は、ひじ掛けに頬杖ついて笑った。

「フフ……殺し屋を志すのは既に一握りだ。ハルの望み通りに進んでいる」

「全滅するのを楽しみにしています」

万一、殺し屋に成り得る人間が出た場合、最終テストすることを申し出ているハルトだが、無いに越したことはない。なまじ、逃げる発想から始めた人間の根性などたかが知れているが、追い詰められた人間の行動力は未知数でもある。

「落第生は、帰国したんですか」

ハルトの問い掛けに、アマデウスはにやりと笑った。

「死んではいない。それ以上はプライベート事情というものだよ、ハル」

「人のプライベートに面倒を持ち込む人が言うことですか」

「彼女を迷惑がるのは君ぐらいさ」

元部下の呆れた溜息を堪能し、アマデウスは両の手を組み合わせた。

「では、お望みのビジネス・トークをしよう。今回、ハルに頼んだ件は、BGMの内部抗争ではない」

さらりと述べられた言葉に、ハルトが目を瞬く。

「クリス・ロットとの揉め事では、無いと?」

「Yes. BGMの思想は『世界を滞りなく回すこと』、これに尽きる。同士討ちを禁じるのと同様、TOP13同士が争うことはない。この盟約に従い、我々は互いに干渉することなく、自らのエリア内を管理するだけでよい。無論、例外はあるがね――」

恐らく、TOP13の中で最も顔が広く、影響力のある男は、他の支部へ顔を出すことも多い。表向きの仕事は音楽会社のCEOを中心に事業展開をする一方、その動きに乗じて様々な金と情報を動かす。アマデウスは表の活動内に、“問題行動”を見つけた場合、躊躇なく力を行使することはまま有る。

そこも、TOP13同士の暗黙のルールのようだが。

「同様に、手を携えねばならない例外もある」

この男が仕切る北米から日本へと移ったハルトも、経験済みの例に頷いた。

「一つは、国家間戦争が起きた場合。我々は戦争には直接的に干渉しない取り決めをしているが、互いの国の出方次第では共闘も辞さない。我々を戦争屋と勘違いしている者が居るからね。そしてもう一つが、身から出た錆の対処だ」

「BGMの関係者が問題を起こした場合、ですね」

「その通り。私が東京支部の件でトオルに協力したように、TOP13同士の協力関係は多くがそれに尽きる。ハルの同期の問題も含まれる」

ハルトの気配がピリリとひりつく。マグノリア・ハウスの同胞中、シリアルキラーした者はほぼ全てハルトが射殺しているが、二名だけ生き延びた人間が居る。この二人はシリアルキラーでは無さそうだが、殺し屋として優秀の冠を頂く彼らは何をするかわからない。

アマデウスは穏やかに笑った。

「心配しなくても、今回の件は彼らではない。ある殺し屋の件と、別件の二点でクリスに助力を求められた。重要なのは後者。そちらに関係するのが、うちのシンデレラだ」

「前者の方が気になりますが……」

「心配要らないと言ったろう、ハル。前者はトオルの思惑通りに進めば造作もない。後者の方が厄介だ。法に触れようとも、何をしてもいいと思っている人間の話だからね」

「法に触れようと……?」

「世界中で悪質なハッカーがのさばっているように、ネット環境には取り締まれない悪が溢れている。我々も迷惑している例が多々あるんだ。ハルは、ステファニー・レッドフィールドを覚えているだろう?」

「ええ、もちろんです」

ハルトがまだアメリカに居た頃の、TOP13の一人だ。筋ジストロフィーを患っていた彼女は病で二十代の若さで死亡したが、異常に高い知能を誇り、指一本で当時のヨーロッパの株式を支配していた。表の顔は障害者支援を精力的に進めた人物で、音楽会社の顔で表向きもチャリティーなどで親交のあったアマデウスは葬儀に参列し、ハルトも社員の顔で同伴した。

「彼女は、自分のネット環境を整える為に、『ゾンビ狩り』という趣味を持っていたんだ」

「ゾンビ狩り?」

つい先日のゲームや引退したバイク集団が思い返されるが、まさか本物のゾンビなど日常的に居る筈もない。

「ソレ、また何かの謎かけですか?」

「いいや。彼女の言う『ゾンビ』とは、腐った死体ではなく、ネット広告だ」

消しても消しても復活してくる鬱陶しさを『ゾンビ』と呼んだらしい。意外な回答にハルトは目を瞬かせてから、薄気味悪そうに眉を寄せた。

「……今回はいやにペラペラ明かしますね」

「Oh……当り前じゃないか。以前はトオルの計画内だったから遠慮したまでだよ。意味を持たない嘘や謎かけは時間の無駄だ」

ハルトは顎を撫で、頷いた。全く以て同意する。いつもそうしてほしい。

「ネット広告というのは、ウェブサイトを閲覧すると表示されるアレですよね?」

「そう。ひと口に言っても色々あるがね。リスティング広告、リターゲティング広告、ディスプレイ広告、バナー広告等々……彼女がゾンビと呼んでいたのは、『悪意あるリスティング広告』だ」

リスティング広告とは、検索したキーワードに応じて掲載される連動型の広告で、分類を示す『リスト』を語源とする。ユーザーが広告をクリックすると、広告主が検索サイト側に料金を支払う仕組みだという。広告を表示する優先順位はオークション形式で決められる為、各検索キーワードにより多く入札した広告が検索上位に表示される。これを利用し、入手困難なゲーム機の名前や、美容に関わるワード、有名会社の名前にヒットするように入札し、検索上位に挙がったことに油断したユーザーを詐欺サイトへ誘導する悪質な業者が存在する――と、いうのだが。

「現在のリスティング広告市場は約9000憶と言われていてね――」

「9000憶……!?」

「ハルでもこの額には驚くかい? まあ、私も張り切り過ぎだと思うね。過剰に憤慨していたのがステファニーだった。ステフは自由が利くわずかな時間でネット環境を利用していたからねえ……その最中、悪意ある偽物がネット環境に溢れ、彼女の作業を妨害すれば、怒っても仕方が無い」

「自分の環境を守るために、広告を削除していたと?」

「まさか」

優雅にかぶりを振ったアマデウスはニヤリと笑った。

「ステフは表向きは心優しい慈善事業家だったが、BGMとしてはその辺りの殺し屋よりも冷酷だ。削除はもちろん、 “徹底的に”やった。彼女のスタッフは、優秀だからね」

身を起こすことも困難なステファニーの傍には、常に身の回りの世話をするスタッフが五、六名は常駐していた。彼らは立場上、BGMの事後処理を担う清掃員クリーナーに近く、長く活動できないステファニーの代わりに株式市場を見続け、彼女の護衛や、裏向きの指示の統括などを行っていた。まるで王に従う臣下のような働きぶりだが、彼らは彼女を心から尊敬していたというから、やはりステファニーはTOP13たるカリスマ性の持主だったのだろう。

そしてその中には、彼女を慕う殺し屋も居た。

「趣味ということですが、これは彼女のポケットマネーで支払いを?」

「フフ……さすがハル、金の行く先にはめざといねえ」

人を守銭奴みたいに言わないでほしいと思ったが、アマデウスへの嫌がらせに”小金”を出させたことは一度や二度ではない。とぼけた顔で頭を掻いたハルトに、アマデウスは子供の悪戯を受け流すように笑った。

「恥じることはないよ、君の指摘は正しい。彼女の『趣味』には私も出資していた。他のTOP13の中にも数名居る。クリスもその一人だ」

「あー……なるほど、ようやく外堀が埋まってきた気がしますね」

「そう。我々は困っている。この道にかけて、ステフほど短期間に発見と処理が出来る者は居なかった。彼女がハンディを抱えつつもTOP13に認められた理由でもある」

「彼女のスタッフはどうなんです? 引退したと聞きましたが、有能さに変わりはないのでは?」

彼女の死後、スタッフの殆どは、BGMを抜けている。遺言通りに表向きの事業は引き継ぎ、BGM関連の情報云々はアマデウスと共に処理した。アマデウスはスタッフ全員を再雇用したがったが、欧州の他のTOP13が懸念を示したことや、本人たちがステファニー以外に従えない点から、全員の雇用は諦めたそうだ。

「ネット環境の問題なら、表向きとして頼むこともできるんじゃ……」

「もちろん、頼んだとも」

「断られたんですか?」

「いいや、彼らは引き受けてくれたし、期待通りの働きをしてくれたよ」

「……?」

ハルトが再び、目を瞬く。

「……ちょっと待って下さい。俺、終わった話をされていますか?」

「安心したまえ。現在進行形の話だよ」

面白そうに肩を揺らし、アマデウスは長い足を組みなおした。

「つまりね、ハル……我々はステフのスタッフに依頼し、彼らは見事に大量のゾンビを輩出している場所を発見した。が、当のゾンビを撃退することはできなかった。何故ならそのゾンビの出身地は、欧州でもユーラシア大陸の大国でもなく、彼らの知識が及ばない東洋の謎の国だったんだ」

ハルトが額を抑えた。アマデウスはニヤニヤしながら畳みかける。

「無論、他の国にも複数有るが、最近とみに増えているのがこの国だ。しかも内容がバカバカしくてね……法外な費用請求する工事、健康食品に、偽物さえ存在しない物品の販売、同じゲームの案内等々、見るのも鬱陶しい。TOP13の多くは昨今の特殊詐欺を嫌うが、クリスはステフの次にネット環境にうるさいものだから、相当『おかんむり』だ」

つらつら述べられる話に、ハルトは顔も上げられない。予想できる未来に冷や汗が垂れる。

「彼のやり口はハルも知っての通りだ。奴は標的の周囲が何であるかなど知ったことではない。見つけ次第、爆破するだろう。ビルだろうと、只のマンションだろうと」

アマデウスが言葉を切る頃、額から顔を撫でつけて、ハルトは溜息を吐き出した。

「とんでもない話を持ってきてくれましたが……リリーは何の関係があるんです?」

「彼女は人捜しだ。本人が言わなかったかね?」

「聞きましたけど、クリスがリリーを狙う意味が無い。彼女が詐欺広告の発信源じゃないんでしょう――……し、……?」

妙なところで沈黙したハルトを、アマデウスは口元だけ歪めて見つめた。

「……リリーのSNSが、詐欺広告の震源地なんですか?」

「Exactly.リリーに心当たりは無いがね」

男の指先がちょいちょいと空をなぞると、すぐに傍らの大男がハルトに向けてスマートフォンを差し出した。リリーのSNSのページだ。彼女がこまめに更新している記述の合間に、広告が掲載されている。画面を更新すると、また別の広告が現れた。

「美白に、整形、ダイエット食品……なるほど、リリーのファンが引っ掛かりそうな内容ですね」

「我が社の芸術家を利用して稼がれるのも腹立たしいがね、こういうやり方は彼女の品格を貶める。天然を人工扱いされるも同然だよ」

確かに、これでは無許可の広告塔だ。リリーがこうしたものを利用した事実が無くても、疑惑の材料にされかねないし、この広告の中身が詐欺であれば尚悪い。

「当然だが、我が社は正規の手続きを踏んだ。サイト運営者に削除依頼を行い、悪質な広告として報告もしている。その対応は失望するものだった。法が平等と整合性を守れぬのなら、我々は我々のやり方を持ち出さねばならない」

ハルトは肩をすくめて苦笑した。どこの誰かは知らないが、つまらぬ広告で首を括る羽目になりそうだ。

「クリスの部下が接触しようとしているのは、リリーを疑っているんですか」

「恐らくね。リリー本人と、人捜しの相手の双方を疑っているようだ」

「捜し人を先に見つける必要があるってことですね……」

「わかってくれて何よりだよ、ハル」

「わかったからって上手くいくとは限りませんよ。俺は専門外なんですから」

ハルトは腕組みすると、短く唸った。

「一般警察が巻き込まれた話は、聞いていますよね?」

「ハハ……ああ、聞いているとも。ジョークかと思ったが、“そういうこと”だろうね」

間違いない。小場を攫ったのは、人捜しを手伝わせる為だ。彼が如何に無能でも、現役警察の肩書は聴取の役に立つ。日本という国は世界的に見ても特殊な文化の国だ。地域ごとに違う常識もある。いくら事前学習したとしても、外国人だけで行動するよりは、国内に明るい人物が居た方がずっと良い。

「捜し人は……見つけた場合は、保護するのが妥当でしょうか」

アマデウスは顎を撫でて笑った。

「ハルに任せるさ。その人物の存在如何そのものは、私が関与するところではないからね」

ひやりとする一言を穏やかに述べ、アマデウスは微笑んだ。

「リリーを守ってくれたまえ。今回、私がハルに期待するのは“それだけ”だよ」

光らぬ目が、かつての上司を仰ぐ。

いっそ、慈愛に満ちて見える青い目を見つめ、ハルトは溜息を吐いた。

「……了解」

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