3.Incident.
DOUBLE・CROSSはリリーの来日以降、最も静かな朝を迎えていた。
思ったより呑気な歌姫は、店内奥の席に腰掛けてスマートフォンに向かっている。
いつもの恰好では目立つからと、ハルトのスウェットをかっぱらい、ジーンズに伊達眼鏡のリリーだが、それでも何処か並ではない雰囲気が漂う。
お気に入りになったらしい、さららのドーナッツとカフェオレを前に何をしているのかと思えば、いつもの更新や、トレンドチェック、ネットショッピングだというから、落ち込んでいるわけではなさそうだった。
あまつさえ「ハルとデートに行きたい」などとこぼすリリーに「今日は仕事だから」と気のない返事をすると、ぷうと頬を膨らませてそっぽを向いた。
「ディックの注文なの。少し前からお得意様なのよ」
「あの野郎、本場育ちのパン屋なのに頼んでんすか。さららさん、気を付けた方がいいですよ」
BGM関係者には厳しいハルトにさららは苦笑して「大丈夫よ」とかぶりを振った。
「ディックって、結婚してるんじゃなかった?」
「ええ、奥さんと娘さんがアメリカに居ますが、『離婚寸前の別居』と奥さん本人に聞きました。奴は能天気に『カミさん』呼ばわりしていますが」
「そうなの……離れて暮らすのは寂しいでしょうね……」
「どうだか。別居の理由が理由ですから」
「何なの?」
聞くには忍びないといった表情のさららに対し、ハルトは呆れ顔で肩をすくめた。
「あいつの車狂いですよ。高級車三台持ってるくせに、大枚はたいて黄色のシボレー・カマロ買って、トランスフォームさせるって言い出したから、奥さんの我慢が切れたらしいです」
かつて、ディックは日本では子供の教育がどうのと言っていたが、実際は車が全ての始まりにして原因だ。最近、ハルトが取引にランボルギーニ・カウンタックをぶち込んだ為、高級車は五台に増えてしまったのだが。
あれはもう病気だ、と顔をしかめるハルトに、さららは腹を抱えて笑った。
「私はビートルの方も可愛くて好きだけど……出来たら見せてほしいわ」
「そんな甘いこと言ったら、マジで求婚されますよ」
実際、ディックはパン屋でも武器商でもなく、車の製造会社かディーラーでもやった方がしっくりくる。まあ、彼の手が加わった車が一般受けするとは到底思えない。少なくとも日本の一般公道で、ロケットスタートする車や、グレネードランチャーに耐える車は必要ない。程なくしてやって来た受取人は、何屋なのかと疑いたくなる軍人のような男で、ドーナッツの箱を受け取ると、さららに「ディックから」と封筒を渡して帰って行った。
「そういう手紙じゃないですよね……?」
“そういう手紙”にしては飾り気のない黄色っぽい茶封筒だが、油断ならんといった様子のハルトに、さららは再び笑い出した。
「ハルちゃんまで、未春みたいなこと言わないで。只の受け取りサインとお礼状よ。私がどういう趣味か知ってるでしょ?」
そう言われてしまうとディックの方がマシ、などと思ってしまうが、ろくな男が居ないなと舌打ちしそうになる。
……いや、本当は一人居るんだ。確かに。まともかといえば真逆の同類だが、彼女の隣に立たせて難のない、全く音沙汰無くなって久しい男が。
ハルトがその件を切り出すのを阻止するように、噂をすればの青年が外掃きからすたすたと戻ってきた。
「ハルちゃん、今日居る?」
「ああ、居るよ」
「じゃあ、リリーは平気だね」
のんびりしている少女の方を見てハルトが頷くと、未春はさららに向き直る。
「さららさん、今日も仕事終わったら行っていいですか」
「もちろん。……もしかして、具合悪いの?」
「いえ。大丈夫です。お土産を渡しに行くだけです」
「偉いわね。気を付けて」
未春は頷くと、今度は店内清掃に取り掛かり始めた。仕事には違いないのだが、未春の清掃は念入り且つ隙が無い。DOUBLE・CROSSは店内の半分は椅子が占め、半分がカフェスペースだ。カフェは椅子を試して購入を促すものだが、椅子の購入はネット通販が主体となる為、此処にあるのは殆ど展示品だ。半数以上が輸入品の椅子は一人掛けからソファーまで様々有り、こちらも試すことが可能だが、ひとつ残らず売りに出せるコンディションを保っている。その手入れを主にしているのが未春である為、お客の中にはそれを目当てに展示品購入するケースもある。木は勿論、布製や革など素材に合わせたメンテナンスをさくさく進める男を眺めつつ、ハルトはさららにそっと耳打ちした。
「……あいつ、よく出かける様になりましたね。具合って、どっか悪いんですか?」
「ハルちゃんもルームメイトが気になる?」
「さららさん……誤解を招く言い方はやめてください……」
「ごめんごめん。未春は何ともないわよ」
「じゃ、具合が悪いってのは……?」
「それは、未春の大事な人」
「えっ……あいつ、此処の人達以外に知り合い居るんですか?」
幾らか失礼な言い方だったが、さららは苦笑いで頷いた。
「未春が自分から言わないことを私が言うのは気が引けるけど……ハルちゃんなら怒らないかな」
あの未春が大事にしている人間。確かに興味を引かれる。……変な意味ではなく。
遠くで丁寧に椅子の埃を払う背を見ると、異常聴覚を持つ身は掃除に集中しているようだ。この距離なら嫌でも聴こえる筈だが、振り向きもしない。
「止めに来ないんで、良いと思いますが……どんな人です?」
「此処に居る人なの」
さららがスマートフォンで見せてくれた場所を見て、ハルトは首を捻った。
「特別養護老人ホーム……?」
耳慣れない言葉に首を捻るハルトに、さららは頷いた。
「そう。此処で暮らしてる、
「先生……というと、実質的には育ての親ですか」
「うん。とっても素敵な方よ。小柄でかわいらしいのに、芯がしっかりしてるというか、大らかで、いざというとき頼りになる感じ。そういうところは穂積さんに似てるかも。馴染めない子や不安な子にはそっと寄り添ってくれて、問題が起きた時は凛としていて。あっくんの悪戯も、笑ってから叱ってくれるような人よ」
ハルトは内心、感心した。未春や倉子に聞いただけの
「かなり長く現役で働いていらしたけど、体調を崩されてからは此処に居るの。周りの人に一生懸命で、ご自分のことはからきしだったみたい……ご結婚もしていなくて、身寄りも無かったから、ここに入る時もトオルちゃんが手配したのよ」
「十条さんが……そうですか」
恐らく、未春が世話になった恩返しだろうが、守村は未春の出自を知る数少ない人物なのかもしれない。あの男がすることは、良さそうなことも思惑が紛れて見えて仕方ない。
「ハルちゃんがよければ、今度会いに行ってみて」
「え、俺がですか?」
「喜ぶと思うの。たぶん、どっちも」
未春は聞いているのかいないのか、振り向かないばかりか、異論を唱えに来る様子はない。
「急に赤の他人が訪ねたら、驚くだけなんじゃ……?」
「私が思うところでは、彼女はそういうことには動じないし、ハルちゃんなら大丈夫だと思う」
つい、二人で見た背は、長い脚を跪かせて木製椅子の足をせっせと拭いている。程なく立ち上がり、何気なく振り向いたのだろう、目が合った時、一瞬きょとんとした。
口には出さなかったが、アンバーの目が「何?」と問い掛けてくるのに、さららがにこにこと手を振ると、顔に疑問符を描いたまま、つられるように低い位置で手を振った。
カワイイ、と笑ったさららが、ふと窓の方を見た。
「あら……また、こんな朝からシャボン玉」
ハルトや未春も視線を移す先、ベースサイドストリートをふわふわとシャボン玉が通り過ぎた。何処から運ばれてきたのか、それは十にも満たぬ内に吹き飛ばされていく。
その様子を、ちらりとリリーが見、自身のスマートフォンに戻って行った。
夜。各々の部屋に引っ込んだ後、ハルトは猫の機嫌を取りながら、乾いた洗濯物をてきぱき外す未春の背を見ていた。飽きもせず同じ猫じゃらしにドタバタと向かって来る二匹とその背を往復していると、ハンガーを抜き取っていた未春が急に手を止めて振り返った。
「さっきから、何?」
「……あ、いや……その……相部屋久しぶりだなーと……」
今さら? と未春は見辛いものを見るような目をした。最近よくやるのだが、視力の低下ではない。単に、よくわからない事を考えている顔だった。
「ハルちゃんの相部屋ってBGMのだよね」
「……そう。BGMの教育機関居たとき、何年か。お前は?」
「あるよ。児童養護施設で」
「そ、そっか……此処に来る前はそこに居たんだったな」
守村の話を聞いた後では白々しいが、ハルトは頷いた。そこで打ち切るつもりだったが、未春は乾いた洗濯物を前に普通に話し始めた。
「BGMの教育機関て……どんなとこ?」
「ああ、お前詳しく知らないんだっけ……」
通称「マグノリア・ハウス」。ネバダ州のシークレットエリア――要は広大な私有地に隠された施設については、力也には話したことがあるが、なにぶん一般人なので抽象的な話に留めていた。
同業者の未春に遠慮は要るまいが、ハルトは難しい顔で言葉を選んだ。
「そうだなあ……友達作らない会社か学校かな……」
力也にもそう言ったが、やはり一番わかりやすい表現だ。軍隊ほどの規律や上下関係は無いが、連帯感や仲間意識も存在しない。英才教育と言えば聞こえはいいが、殺し屋の育成機関など、普通に考えてまともではないし、もちろん常識的な施設ではなかった。BGMのミスで両親を亡くし、若干五歳で送り込まれたハルトは後から知ったが、寄宿舎という括りの中ではなかなか良好な住環境だったらしい。元はホスピス――まあ、それも後ろ暗い背景があるものだったとの噂だが、ロビーは広々とした吹き抜けで、天井や壁が無垢の木で出来た食堂や、きちんとしたベッドは安ホテルよりよっぽどまともだった。
「友達居ないのに相部屋って、どういう状態?」
「いや、相部屋はさ、ちょっと変わった仕組みで……最初は二人なんだけど、だんだん大部屋になって人数増やすんだよ」
未春は首を捻った。待遇という観点だけで見れば、多人数から始めて少人数になるのがセオリーに思える。しかし、BGMでは人数に対する目的が違う。経済的な面や厚遇ではなく、人数自体が訓練の一環だからだ。
「簡単に言うと、相部屋になった人間は敵なんだ」
「警戒する人数を増やすってこと?」
「そういうこと」
ルームメイトと書いて、エネミーと読む。
尤も、常に命を狙うだとか、寝込みを襲えなどという戯けた訓練は存在しない。常に敵と思うこと――要は、自分の情報を安易に見せず、相手の情報は集める。敵しか居ない現場に行く実地訓練でもあったらしい。
「相部屋の人間とは基本的に喋らない。挨拶も必要以外はナシ。一度も声聴かなかった奴も居たな」
そして奇怪なことに、協力する時も稀に有る。大抵の寄宿生はサイレン・イベントと呼んでいたが、防災訓練よろしく、逃走や強襲に備える訓練があるのだ。当然、逃走側と攻撃側もどちらも行う機会があり、ほぼ抜き打ちなので作戦会議などやる間もない。また、一人から数名の裏切り者が存在することもあり、より複雑な訓練になることもある。
「面白いね」
「そりゃ……部外者から見りゃ面白いかもな。大変だったぞ……武器はオモチャだったけど当たれば痛いしな。皆が皆、優秀ってわけでもないし」
頼もしい奴も居れば、足を引っ張る奴も居る。こうした生活を重ねるうちに、苦手なこと、得意なこと、相手のそれも、自分のそれも明快になってくる。
「ハルちゃんは優秀だったの?」
「どうかな……中くらいじゃないか」
未春が微かに鼻で笑った。
「そうやって誤魔化してたんだ」
「え? おい、人聞きの悪いこと言うなって……」
狼狽えたハルトはまあまあ図星の顔だ。たかが二ヶ月程度の付き合いだが、未春にはよくわかる気がした。ハルトは優秀だ。トップではなくても、限りなくそれに近いだろう。そうでなければ、あの一流まみれのミスター・アマデウスが重用する筈がない。彼が初めて会う人間の中に入り込むセンスの良さは恐らく天性のものだが、好かれやすい人柄、余計な敵を作らない外面、殺意を感じさせない言動や行動は、BGMが望む殺し屋の姿として隙がない。
「じゃあ、ハルちゃんは相部屋に抵抗ある?」
「いや、別に。お前と敵ごっこするのは勘弁してほしいけど、イビキも煙草もないだろ……抵抗はない」
「ハルちゃん、一緒に住む話したときドン引きしてたから、嫌かと思ってた」
「いや、まあ……そりゃ……あれは思いもよらない話だったからな。お前こそ、抵抗ないのか?」
「無いよ。同じベッドでも平気」
「…………う、あの、未春? 最近、お前の発言が斜め上なんだが……?」
「ハルちゃんは嫌なの?」
「あのなあ……! 嫌とかそういうんじゃなく!」
思わず大きな声になりつつ、ハルトはびしっとベッドを指した。
「二十八の男が二人で同じベッドとか! 色々ダメなやつだろ!」
「あ、匂いとかそういうこと?」
などと言いながら「臭くはないと思う」と自分の襟元をつまんで嗅ぐ男にハルトは言葉を失う。――ええ、ええ、匂うわけないでしょうよ、いくら特殊イケメン詐欺でもイケメンはイケメンなんですから!
「匂い云々なら、俺が心配する側なんだが……?」
「ハルちゃんは匂わないよ」
「……そいつは何より」
「もしかして、俺が男娼してたから気になんの?」
突如、ぐさりと刺してくるのはこの男の得意分野がナイフだからなのだろうか。不意討ちに出遅れつつも、ハルトは渋面で首を振った。
「……違う……第一、お前の口からゲイじゃないって聞いたぞ?」
「そうだよ。じゃあ、ハルちゃんは何をのたうち回ってんの?」
「……」
そう言われてしまうと、こちらばかり意識しているようで釈然としない。
「俺たち二人じゃないのに」
「……へ……?」
未春の爆弾発言にも聞こえる言葉に間抜けな返事を発すると、やはり彼はばっさり言った。
「スズさんとビビも居るだろ」
「…………」
いつもハルトの上で寝る二匹は、確かにルームメイトに違いない。違いないが……
ぶつぶつ言いそうな顔で内部葛藤を始めた男など何処吹く風で、未春は黙々と洗濯物を処理していく。ピンチハンガーのじゃらじゃらした音をさせていた未春が、ふと声を上げた。
「ところで、ハルちゃん」
「……何」
「これ、どうやって畳むの?」
両手で摘まんで掲げたのは、ヒラヒラしたレースやフリルの装飾が付いた――何だったか、タンクトップ? 違う、キャミソール……? 違う……ベビー……
「……俺が知ってると思うか?」
一呼吸で一キロは痩せそうな気がしながら、ハルトは重い溜息を吐き出した。
未春は軽く肩を上下させると、さっと纏めたそれをリリーの洗濯物に載せ、ハルトに差し出した。
「置いてきて」
「げー……せっかく振り解いて来たのに……」
ぼやきながら立ち上がるハルトが出て行った後、未春は作業を続けようとして、顔を上げた。二匹の猫の耳もピンと立ち上がっている。
音もなく窓辺に近寄ると、閉め切ったカーテンの向こう側に耳を澄ます。
裏通りから、車。普通乗用車だ。壁の向こうが見えるような聴覚が、辺りを見渡す。
この時間に、周囲をうろつく車は居ない。国道は昼夜問わずやかましいが、この道を外れてくるもの、閉まっている店の前に停めるもの、そして今、この時間に出掛ける人間がほぼ居ない裏通りから国道側に出てきた車は、異様だ。
角地に位置するDOUBLE・CROSSの側面に当たる位置に停車した車は動かない。
未春は元居た場所に座り直した。修行僧のように目を閉じ、外の音に集中する。
意識しているつもりはないのだが、ハルトとリリーの応酬が聴こえて、鬱陶しそうに眉を寄せた。
車は動かない。ドアの音も、人が降りた気配も無い。待機するような低いエンジン音だけが聴こえる。走行音を付与している電気自動車ではないが、静かだ。
「……は―……やれやれ……」
のろのろと戻って来たハルトが、座禅しているような未春にはたと立ち止まった。
「どうした?」
「――裏から車が来て、店の脇に居る」
ハルトは返事をせずにするりと廊下に戻った。店の側面はキッチン側だ。窓から覗くなどすまいが、その窓と玄関ドアの両方が見える位置は廊下のみ。
察しのいい男が無言の警戒を始めて数分も経たぬうちに、車が動いた。店の周囲に何か投げ捨てたり、仕掛ける音は無かった。するりと国道16号に乗り入れると、大河のような流れに乗って行き過ぎた。
「ハルちゃん、行った」
「おう」
ドアの脇にもたれていたハルトが戻って来た。
「関係者か?」
「わからない。何かした様子はないよ」
「ほんと、カメラ要らずだな、お前……大したもんだ」
頷きながら、感心した様子で欠伸をするハルトを、未春はじっと見つめた。
どこか呑気な感じが、誰かに似ていると思った。
幾ら暖冬とはいえ、寒風吹きすさぶ季節なのは変わらない。
国道16号沿いも、薄曇りにぼんやり明るい陽の元、場違いなヤシは齧り取られたような葉を揺らし、乾燥した空気には灰のような砂が混じる。じめじめと纏わりつく暑さは消えたが、真逆の乾燥地帯はすっきりしない。ごうごうと流れる激流めいた道路の手前、DOUBLE・CROSSのガラス窓も埃が塗られたような有様だった。
ほんの少し、砂埃に覆われたあの国を思い出したが、それを丁寧に拭くハルトの心境は、久方ぶりの落ち着いた空気を楽しんでいた。
トラブルメーカーのお姫様はレッスンをしたいと部屋に引きこもり、カルシウム不足の未春は今日も外出中だ。清掃活動が落ち着くなど、以前は思ってもみなかったが、この大きなガラスが透明になるのは気分がいい。満足げに仕事を仰ぐと、急に吹いた冷たい風に目を細めた。いつかも妙な珍客はこんな風と共にやって来たが、今日は既に店内にお出ましだった。
視線を戻すカウンターには、さららと、数名の客が居た。
若いカップルに、未春が居ないことで肩透かしを食らった女性客、それはいいとして……問題は、隙あらばさららを見つめる若い男だ。
彼の初来訪は、少し前――例の事件後、十条が引っ越した直後に遡る。
あの日も、ハルトがさららと店を開けて間もなく、早い来客に振り返った時だった。
「どうもー、おはようございます」
気軽に挨拶した相手は、一般人でも緊張する濃紺の制服に身を包んでいた。
「あら……おはようございます、
パトロールですか?と笑顔を浮かべたさららに、山岸は温度差に曇りかけの眼鏡を外して「そんなもんです」と微笑した。
「すみません、山岸さん。トオルちゃん、今日は来ていなくて」
さららの言葉に、どの程度知っているのか――山岸は首を振った。
「いやいや、大丈夫ですよ。新しく入った若い奴を、ご挨拶に連れてきただけなんで……」
やや困った様子で、ひとつ宜しく、と山岸は頭を下げた。その隣で、待ってましたとばかりに身を折ったのは絵に描いたような若い警官だった。
「
正義感の塊めいた大声に、さららがちょっと吹き出しそうな顔になり、ハルトは力也以来の勢いタイプに目を瞠る。二十代前半だろう。まだまだお仕着せの感が否めない制服姿だが、そのスジでは将来有望そうな青年だ。警帽からちらりと除く髪は固そうな黒髪で、若さみなぎる両目は冗談など到底通じそうにない。
「ご覧の通りの、勢いだけの若造でしてねえ」
苦笑と共に山岸が言うと、さららがにっこり微笑んだ。
「元気が有って素敵だわ――店長の
キャバ嬢を紹介するような上司にハルトが抗議する間もなく、若手警官は帽子が落ちはすまいかと思うほど深いお辞儀をした。
「よ……宜しくお願いします!」
どもりながら声を上げると、気を付けの姿勢に戻った彼は床一点を凝視し始める。
その耳たぶが赤いのは、どうやら寒暖差ではなさそうだった。
「じゃあ、今日はこれで……十条さんには改めて、ご挨拶に来ますんで」
愛想笑いと共に一礼した山岸と新入りに、さららはにこやかに笑い掛けた。
「お忙しいのにありがとうございました。宜しければ、お茶しに来て下さいね」
店長のそつの無い――そう、そつの無いだけのお決まりの挨拶に、初々しい警官は頬染めて返事をした。
「……は……はいッ!」
――未春は『特殊イケメン詐欺』だが、さららさんも、大概、詐欺だな。
ハルトがそう思いながら、見込みの薄い恋をした若者の背を見送ったのが。
思った通り、彼はDOUBLE・CROSSの常連客にして、さららの熱烈なファンと化してしまった。
ハルトが気の毒そうに、その熱視線をガラス越しに眺めていたときだった。
「コバちゃん、また来てんの?」
振り向くと、無感動な声に呆れ……否、
「おかえり。早かったな」
「ただいま」
今日も買物以外の外出をしていたらしい彼は、ジーンズ姿のラフな格好に、ストンとした濃紺のコートを羽織っているだけで大層なイケメンだった。
無表情ながらも虫の居所が悪そうなところからすると「仕事」の後だろう。ひと頃に比べれば減った方だが、銃社会ではない日本では未春の仕事量が圧倒的に多い。
「なんでああいうタイプって、察しが悪いんだろ」
十条が引っ越した後、さららのガードに一段と磨きが掛かっている未春は、彼女の恋人かと勘違いされて以降、何となく小場が苦手らしい。店内で女性対応に追われていた際、突如「さららさんともあろう人が居ながら!」などと食って掛かられたら無理もないが。
「日本人て奥手かと思ってたけど、結構ぐいぐい行く奴も居るじゃないか」
ハルトが感心したように言うと、未春は迷惑そうにぼそりと言う。
「人に依るよ。ストーカーも変態も大勢居るだろ」
かつて、理由有ってそれを演じていた男を警戒していた頃に比べれば気楽だろうが、この若造も別の意味でなかなか手強い。暑苦しい以外は誠実なのだが、問題は山岸が後からもたらした情報である。
「変態かはともかく、ウチの事情を呑めないのは困るよな」
言われる前から確信していたが、彼は筋金入りの正義漢で、超がつく真面目君だという。しかも、この男の出どころは、店にやって来た油断ならぬ若警部・
あの純朴キャラに騙されると思ったら甘く見ないでほしいが、ジョークの通じない生真面目というのは御し難い。
山岸によれば、まず間違いなくBGMの思想は汲めず、正しいと信じたことは口角飛沫が飛ぶレベルで押し通そうとするらしい。つまり、彼がさららの周囲をうろつくと、ハルトや未春の仕事は非常にやりづらくなる。直接の上司である山岸が行動を制限することもできるが、そこを怪しまれるのも面倒だ。なるべく自然に、というこちらの方針にまんまと乗っかって常連になった男に、末永ほどのキレは感じないが。
「良い意味でも悪い意味でもリッキーと同系統ぽいよなあ……」
「リッキーの方が脳筋だからマシ」
同僚への酷な評価は愛なのかそのまんまなのか、未春はあまり関わらないようにと外階段から自宅に上がって行った。新鮮に思える未春の行動に苦笑しつつ、ハルトが店内に戻ると、さららが手招いた。
「ハルちゃん、私そろそろ休憩してくるわ」
「はい。いってらっしゃい」
「ごめんね、コバちゃん。ゆっくりしていって」
愛想笑いも程々に二階へ上がっていくさららを、非常に正直な面構えで小場は見送った。ハルト個人としては、裏表が無い点や、断られても諦めない根性は好感が持てるのだが、いかんせん、さららの心には十条の影と――いま一人の存在が色濃い。
タイプは違えど、どちらもハンサムで甲斐性もある強敵だ。
「コバちゃん、頑張るな」
肩を叩くようなハルトの言葉に、先ほどまでの熱視線は何処へやら、小場はへなへなとカウンターに項垂れた。
「ハルトさーん……十条さんて……そんなにカッコいい人なんですかあ……?」
幸い、初対面から敵視されていないハルトは首を捻った。
さららは十条を言い訳に使っているだけだろうが、思い出すのは、動物保護施設の
並の悪党が可愛いく思える程の殺し屋である点はともかく、同居した経験者に言わせれば、
さららに寄り添い続け、イジメに遭っていた力也を励まし続け、不幸な動物を想う倉子の気持ちを尊重し、借金苦で首を吊り掛けた保土ヶ谷家を救った。
町会活動にボランティア、自ら赴いてあらゆる寄付や支援をする殺し屋など、彼以外は存在しないだろう。あの極端すぎる人格は天使と悪魔が同居していると言われても驚かない。
「そうだなあ……十条さんは、笑顔がずるい人で、人気者だよ。けど、さららさんがあの人を好きなのは、そういうことだけじゃないと思うな」
家族なのだ。あの二人は。互いの口から聞いて尚、ハルトも釈然としない関係を、小場には理解できまいが。
「……そうみたいですね……」
カウンターに悩ましい溜息を吐くと、小場は羨ましそうにハルトを仰いだ。
「ハルトさんは、さららさんと暮らしてて、何とも思わないんですか?」
「思わないよ。第一、俺が要らんこと考えてたら、未春にとっとと追い出されるだろ」
「ああ……そうですよねえ……」
さららの口から、未春は弟同然と聞かされた小場は頷いた。
彼女の男運の悪さは折り紙つきで、未春のガードマンぶりはお馴染みだ。本物の悪党はそう居ないが、彼女に手を出そうとしたアウトローが未春に張り倒されたのは一度や二度ではない。その現場に出会ったこともある小場は加勢しようかと思ったようだが、相手を一撃で黙らせる義弟を前に出番は回ってこなかった。
……さらら自身も並の女性ではないので、どちらにしろ出番は無さそうだが。
「元気出せよ。少なくともコバちゃんは嫌われてないぞ」
――何しろ義弟より更に若いので、限りなく見込みは薄いが。
「……はあ、ありがとうございます……」
頼りない笑みを浮かべた小場は、愛しい人が淹れて冷たくなったコーヒーを飲みほした。
閉店後、店内の音楽を消したとき、二階の騒がしさに気付いた。
さららと顔を見合わせて、互いに「しまった」という顔になる。
「ハルちゃん、行ってあげて。私、後やっとくから」
乞われるままに、店のエプロンを引っ掛けた状態でハルトは二階の自宅に上がった。
「ミハのわからず屋!」
外国人目線ではマニアックな日本語が響いた瞬間、廊下の奥で何かがバサン!と落ちる音がした。――雑誌か何か投げたな――そう思いながら、ハルトが靴を放り出す様にして入って行くと、その二人はリビング&ダイニングで向かい合っていた。
椅子に座って硬直しているリリーの手前、今夜のシェフは包丁を握っていた。
「こ……こら、未春!」
ハルトが大慌てで踏み込むと、リリーがさっと立ち上がって抱き付いてくる。一方、包丁片手に直立不動の青年は、これ以上無い程恐ろしい目でハルトを見た。部屋の隅にはリリーが放り投げたとみられる女性誌、テーブルには、一体どうやったのか――袈裟懸けにすっぱり断ち切られたドーナッツが落ちている。
「ハルー! ミハがー!」
未春を指してリリーが騒ぐ。……実は、この暴動は同じパターンで何度目かである。ご近所様は、この家に小さな子供が来ていると思っているかもしれない。
「あー……ハイハイ……何となくわかるけど、何があったんだ?」
「……メシの前に食うなって言ってんのに聞かないから」
大きめの駄々っ子と、包丁で躾ける母ちゃん……――同時に存在してはいけないものを目前に、ハルトはリリーを引っぺがして座らせる。
「リリー、怖がらせて悪かったけど、未春が言ってることは正しいぞ。夕飯前にドーナッツはやめとけ」
何歳児に言い聞かせてるんだと自問しながら
「ミハ嫌い! 謝って!」
「やだ。リリーが悪い」
こちらはこちらで、ずばり、包丁の切っ先で示す男に、取り成す側も渋面になってくる。
「あのな、未春……お前の怒りは尤もだが、包丁で指すのはやめろ」
「刺してない」
「いや……そっちの刺すじゃねえのよ…………」
疲れてくるとツッコミも冴えずに曇る。
「あらまあ、夕食前にお嬢たちが静かだと思ったら」
苦笑いを浮かべながら入って来たさららが、リビングを見渡した。その足元には、隠れる様にした猫たちが居る。
「さららさーん…………」
救助を求める男に微笑みかけ、さららは包丁片手に立ち尽くす青年に顔を向けた。
もうその表情は、何が起きたか理解したらしい。
「いい匂いがする。未春、準備手伝おっか?」
「……いえ、大丈夫です」
急に素直に答えると、すたすたとキッチンに戻り、引っ提げていた包丁を静かに洗い始める。大人しくなった背を見てから、さららはむくれているリリーを振り返った。
「リリー、私のドーナッツ気に入ってくれたのね。とっても嬉しい」
にっこり笑うと、辻斬りに遭ったドーナッツの半分を皿に戻し、半分を指で摘まんだ。
「半分こしましょ。そのくらいなら、ご飯も入るわよね?」
「……」
差し出される皿をリリーは黙って見つめていたが、程なくして両手で受け取った。少々ばつの悪い顔で微笑んで、その甘い菓子を一緒に頬張る。
――さすが、さららさん。
ハルトがほっとしてキッチンに立つ背に近付くと、包丁は本来の役目に戻っていた。軽快なリズムを奏でる手元を眺めてから、ちら、と見た表情はいつもと変わらない。
「……一般人に刃物向けんのはやめろよ」
「向けられない様にすればいいだろ」
おっと、取り付く島もない。同い年の男は、思っていたよりも大人気無いらしい。
日本人は和を重んじるんじゃなかったのか――などとアメリカ育ちが思い浮かべた時、未春がすっと顔を上げた。ほぼ同時に、二匹の猫が耳を立てて玄関の方を見る。
「――さららさん、リリー連れてトオルさんの部屋に行ってください」
未春が端的に告げると、さららも聞き返さずに頷いた。
「リリー、行きましょう」
一人、不安そうな顔になるリリーの手を取ると、滑らかに部屋へと消えた。
猫たちがわかりきった顔で一緒に行くのを見送ると、ごく当たり前のように包丁を置いた未春が、代わりに包丁差しからナイフを一本引き抜く。ハルトはハルトで、缶詰などの入った収納ケースから拳銃を引っ張り出している。以前、食器棚の上からライフル銃が出てきた時に唖然としていたハルトも、この状況に感化されて久しい。
「何人だ?」
不自然ではない程度の静かな問い掛けに、未春はピースサインだけで答えた。無論、ふざけているわけではない。
――二人。
「なんか喋ってる」
「喋る? 強襲すんのに余裕だな」
自分たちを棚に上げ、未春のバケモノじみた聴覚に感心しつつ、ハルトは拳銃片手に、未春がナイフを引っ提げ、音もなく玄関に向かう。
ほんの少し前。DOUBLE・CROSSの前を一台の車が通過していた。
国道16号を通過する車など珍しくも何ともない――四六時中、ごうごうとあらゆる車両が突っ走っている国道だ。
が、その車を運転していたのは悩める新米警官――小場だった。
女々しくも、小場は出掛ける度にDOUBLE・CROSSの付近を通るのが日課になっていた。今夜は非番の為、別の用事で国道を走った帰り道、開いていないと知りつつ、ついつい目を向けたところだった。既に閉店している店舗は暗かったが、その傍ら――脇道に、見慣れない車が一台停まっているのに気付いた。
――何だろう?
通り過ぎつつも、すぐ先の脇道に向かってハンドルを切ったのは、交番勤務ならではの勘だった。国道沿いのベースサイドストリートは、駐車場を持たない店も多く、ちょっと停めて立ち寄るパターンはまあまあ大目に見られている。DOUBLE・CROSSの駐車場は店の裏手に存在するが、基地関係者と思しき外国人客が、店頭の車にドーナッツ入りの箱を運ぶのを何度か見ているし、山岸も日常風景として黙認していた。ところが今夜の車は、脇道に潜むように停車している上、ナンバープレートはY……もといアルファベットから始まる米軍関係者だ。DOUBLE・CROSSの駐車場に車を停め、怪しい車の近くまで来た小場は、よっぽど不審者の素振りで車を眺めた。暗がりであるのも含め、中はしかと見えないが、人は乗っていないし、見るからに怪しいものは積んでいない。しかし、運転手は何処へ行ったのか周囲には見当たらず、停車位置からして用事があるのはDOUBLE・CROSS以外考えがたい。どんどん嫌な方へ想像が肥大する小場は、足音を憚るように外階段の方へ回った。店内からも二階には上がれるが、閉店中の今、道はそれだけだ。何事もなければ誰も居ない筈――そう思って鉄階段を見上げた小場は、瞬時に凍りついた。
誰か居る。
しかも、体格からして女性ではない。黒服にマスク、インターフォンを鳴らさずに中を窺う仕草――どう見ても怪しい!
また、さららさん目当てのよからぬ男か? きっとそうだ……!
ハルトも未春も、上司の山岸や町会の人達が太鼓判を押す好青年――あんな輩と付き合う筈がない。むしろ、彼らを逆恨みして来たのかも……!
正義感が導いた予測のままに、小場は息を潜めて目を凝らす。
相手はすらっとした体形で、マスクから見える目元の彫り深い印象はどうやら外国人――ええと、山岸から教わった英語は……何て言うんだったか?
「ふ……フリーズ……!」
大抵の相手はそれで止まる、と聞いた通り、男は顔を上げて制止した。付け焼刃の英語が呪文のように通じたことに自信を得た小場は、二の句を喋った。
「……は、ハンズ・アップ……!」
手を挙げろ――そこまで言って、ようやく小場は気付いた。自身が普段着で、拳銃さえ携帯していないことに。幸い、男は軽く両手を挙げてくれた。慌てて警察手帳だけ引っ張り出し、相手が凶器らしきものを持っていないことにホッとしたのも束の間。
「
男の問い掛けに、小場は息を呑んだ。フライ……? なんだ? 意味はわからない。
「Or……
尚も被せてくる謎の英語にしびれを切らし、小場は精一杯の知識で喋った。
「あ……アイム……ポリス!」
小学生じみた発音の英語が飛び出すと、男は首を傾げたようだった。
「Policeman……?」
「い、イエス……!」
「Did you need me?(何か用か?)」
男が、やや威圧的な声になる。ひょっとして間違い? まさか米軍のお偉いさんとか……?想像を飛躍させた小場が、よく知りもしない国際問題について考えたとき、男の目には、さすがに面倒臭そうな色が浮かんでいる。
「……Do you understand?」
「……??」
部下に問うような問い掛けだったが、気が動転している小場には届かない。男は丸腰の私服警官を眺めた後、警察手帳だけに目を留め、しばし黙した。
「……日本語が良いか?」
「えっ……!」
イントネーションに癖はあるものの、滑らかに出た日本語に小場は仰天した。その間に男は自身のポケットから、小さな手帳――ちょうど、小場が提示しているものによく似たそれを差し出した。
そこには、顔写真の脇にでかでかと見覚えのある文字が書かれていた。
「え……FBI……!?」
陳腐な頭でもFederal Bureau of Investigation――通称FBIこと、アメリカの連邦捜査局は知っている。急に警戒を別のものに変えて手帳を見つめる小場に、男は神妙に、且つゆっくり言った。
「私のコードはフラムだ。君は?」
「こ……小場です」
「ミスター・コバ、私は此処に逃れた我が国の容疑者を追っている。協力を頼めるか?」
「そっ、そうなんですか……? 構いませんけど……此処は普通の家ですが……」
「恐らく、彼らは容疑者に脅されているか利用されている。あまり会話を聞かれてはまずい……少し、場所を変えてもいいか?」
「は、はい……! そ……そういうことなら……」
小場が安直に頷くのを見て、男は電話に耳をあてた。
「ドルフ、作戦を変える。例の場所で落ち合おう」
一方――扉の向こう側。
ナイフ片手に、ぴたりとドアに付いていた未春が、胡乱げな顔をした。
「ハルちゃん」
ドアを凝視して聞き耳を立てていた未春が、ナイフを下ろして静かに言った。
「なんか、変なことになった」
「はい……そうですか。わかりました。……ええ、はい――宜しくお願いします」
電話を置いたさららが、ふうっと溜息を吐いた。
「コバちゃん実家暮らしですって……そっちは山岸さんがうまく誤魔化してくれるそうだけど……困ったことになったわねー……」
いつも通りおっとりしているものの、さららの表情は浮かない。いっそ、突っぱねておけばこうはならなかったかもしれない――多少なりと責任を感じるのだろう。
「さららさんのせいじゃないです」
「未春……そうは言うけど、私がはっきりしてたら……」
「盲目とストーカーは言うこと聞きません」
さららの苦慮を、未春のコメントが容赦なく切り捨てる。ハルトは、きょとんとしているリリーを見てから、苦笑いを浮かべるしかない。
――正直、この状況は笑ってもいいくらいだ。
いくら新米とはいえ……詐欺が横行する世の中で、現役警察官が殺し屋のFBI手帳に騙されてのこのこ付いていくなど、末代まで馬鹿にされかねない失態である。奴らと一緒に居る以上、直接連絡をするわけにもいかず、上司に話を通したからには、もはや笑い者になるのは避けられまい。
「ま……しかし、FBIか。芸が細かい奴だ。日本人をよく知ってる」
それを名乗った時点で、偽物ですと言っているようなものなのだが。
アメリカ暮らしのハルトではなくとも、ドラマや映画じゃあるまいし……普通に考えれば、FBIこと、Federal Bureau of Investigationが現れることはまず無い。
何故ならFBIの管轄はアメリカ国内の治安を守ることが主体で、海外での活動など、国家転覆レベルの事態でもなければ有り得ない。
中央情報局ことCentral Intelligence Agency――通称・CIAならば、国外での活動が主流だが、こちらは諜報活動が仕事なので、単独で犯人を追うのは不自然だ。
「どうしよう、ハルちゃん……」
「ほっといていいんじゃないすか」
「もう! 未春は黙ってて!」
猫二匹にエサを与えながら呟く未春をさららが強めにどつく。まあまあ、とハルトが宥める様に両手を上げた。
「さららさん……かわいそうですけど、とりあえずほっとくしかないです」
「ハルちゃんまで!」
「気持ちはわかりますけど、仕方ないです。少なくとも、すぐに殺されることはないと思いますよ。その気なら、あの場で盾なり人質にしています」
「でも……殺し屋よ? 皆が皆、未春やハルちゃんみたいじゃないでしょ?」
「……俺的には、未春みたいなのが何人も居る方が困りますけどね」
肩をすくめるハルトに、さららは呆れた様子で肩を揺らし、椅子にどかん!と腰かけて先ほどのリリーほどに頬を膨らませた。対岸で目をぱちぱちさせているリリーに、ハルトが声を掛けた。
「リリー、座っていいよ。今夜はもう来ないだろ」
リリーはいまだ困惑した様子だったが、おとなしく頷いて着席した。未春も無造作にナイフを片付けて再び包丁を握っている。ハルトが缶詰の隣に銃を戻すと、さららが『なんもできない』誰かさんのように叫んだ。
「未春ー! お腹空いたー!」
一触即発から始まった夕食は、強襲犯のおかげで(?)平和に済んだ。
さららは不服そうな顔をしつつも、蓮根の挟み焼きやブロッコリーとゆで卵の和風サラダなどをパクパク食べ、機嫌を直した様子で部屋に引っ込んだ後、しばらくしてハルトと未春を呼び付けた。
「二人とも、そこ座って」
大の男二人が叱られる前の子供のようにベッドに腰掛けると、示し合わせたようにスズがハルトの膝に飛び乗り、負けじとビビが未春に飛び乗った。四対一のような状況に、さららは向かいの椅子に座って、ふっと息を吐いて言った。
「未春が聞いた名前――フラムとドルフって二人組について、トオルちゃんに電話したら、データをくれたの」
「はあ……手が早い。最初から知ってたみたいだ」
ハルトの皮肉に、さららは苦笑いを返した。
「貰ったデータは南米支部関係者、全部よ。名前がデータと同じで良かったけれど……わかるのは名前と顔、やり口ぐらい」
落胆した様子もなくハルトは頷いた。当然だ。BGMの情報に公式データなど存在しない。このデータは十条が勝手に調べて、勝手に纏めたものだろう。勿論、TOP13同士で情報交換をすることはあるだろうが、顧客が選ぶことなどない殺し屋のデータを、わざわざ公開している筈もなく、殺し屋も手の内を明かすのはリスキーだ。アマデウスが過剰なネーミングをして宣伝したパターンもあるが、それは知られて困らないから、というだけ。
当の『
「会話の内容からして、フラムがフレッド・ピアソンの方でしょうね。主に爆弾と拳銃を扱うそうよ。トオルちゃんメモには、『シャボンくん』って書いてあったけど……」
「……なんですか、『トオルちゃんメモ』って……?」
「わ、私じゃないわよ……そういう項目名が付いてるの……!」
久方ぶりに聞いた十条節は、あたかも彼女が読むことを前提にしているようだ。
会議に参加しているようなスズのじいっと見つめる薄緑の目に恥ずかしそうにしつつ、さららは首を振った。
「でも……『シャボンくん』って……何の事かしらね? シャボン玉?」
シャボン玉なら、先日、店の外に飛んでいるのを見たが……あれはこの男が吹いたものなのだろうか? あれが武器――では、さすがにないだろう。毒が混じっているとか、引火する物質だとしても、吐く息で容易に飛んでしまうものなど危なっかしくて使いようがない。
「そうだとしても謎ですけど……『くん』ってことは、男確定なのかな?……まあ、いいです、ドルフの方は?」
「こっちはかなりマズイわ。二人がよく言う変態タイプ」
眉をひそめたさららの反応だけでよくわかる。キリング・ショックを持たない殺人鬼、シリアルキラーだ。
「この殺し屋の仕事は殆ど火事を装っていて、ターゲットは焼死体で発見されるそうよ。仮に事故死に見せかけるとしても、火事の死傷者は一酸化炭素中毒が多いのに、彼のやり方はそうではなく……」
「わざわざ、焼き殺すわけですか……間違いなく変態ですね」
「トオルちゃんメモは?」
未春が言うと変な響きだが、さららは肩をすぼめて答えた。
「……か……かちかち山……」
「かちかち山?……って、何処の山です?」
「ハルちゃん、『かちかち山』は日本の民話だよ」
いつの間にかハルト専用生き字引と化している未春に、所有者は首を捻った。
「民話って、昔話か。どんな話?」
「おばあさんを殺した悪いタヌキを、おじいさんの代わりにウサギが殺す話」
ざっくばらんな説明に、ハルトはもろに嫌悪の表情を浮かべて身震いした。
「……お前が言うからか知らんけど、恐ろしい内容だな……ウサギのヒットマンじゃねえか……かちかち山ってのは何なんだよ?」
「タヌキが背負った小枝の山に、ウサギが火打ち石で火を点けるとき、タヌキに音を怪しまれて『此処はかちかち山だから、かちかち鳥が鳴いてる』って答えるから」
「……そのヤバい民話と殺し屋に何の関係が……?」
「さあ」
“トオルちゃん”の察しの良い甥もそこまでは思い当たらないらしい。
「まさかウサギみたいな殺し屋じゃないだろうな……?」
ユカイな想像に陥ってしまったハルトに対し、未春は首を振った。
「それは違うと思う」
「放火魔の殺し屋を、タヌキを焼き殺すウサギに例えてるわけじゃないってことか?」
「だってハルちゃん、タヌキは焼き殺されるんじゃなくて、溺死させられるんだよ」
「は……!? かちかち山の流れで、どっから溺死になるんだ……!?」
未春がご丁寧に、ウサギがタヌキの火傷にトウガラシ味噌を塗る下り、泥船に乗せて沈める下りを講釈してやると、すっかり慄いたアメリカ育ちの日本人に、
「めでたし、めでたし」
無感動に締め括った。
「……めでたいのか……日本の民話、エグいな……」
「未春が言うと、更にシュールよねえ」
呟いたさららの訂正がないので、筋書きに脚色は無いのだろう。
メモのかちかち山とは、薪に火が付く状態と、火事を起こす殺し屋を掛けただけなのだろうか。こればかりは独特なセンスの本人に確認を取るしかない。
「十条さん――今後はどうするか言っていましたか?」
「ハルちゃんに任せる、ですって」
頬が引きつったが、さららが肩をすぼめるので額に手を当てて押し留めた。
「この依頼自体、ハルちゃんがアマデウスさんから引き受けたものだからって言うの」
「店ごと巻き込んでるくせに、よく言いますね……」
「私はいいのよ、ハルちゃん。ラッコちゃん達は、休ませればいいんだし……それに、トオルちゃんが『大丈夫』って言う時は、たぶん『大丈夫』なの。少なくとも、私たちが知っている人たちに害は無いわ」
「コバちゃんは、入ってないんじゃないすか」
未春の熱の無い一言に、ハルトとさららは揃って項垂れた。
「私、伝えたわよ、ちゃんと」
「……コバちゃんの立ち位置を、十条さんがどう解釈しているかによりますね」
察したさららが首を振って椅子にもたれた。
相手は“あの”十条だ。底知れぬ慈愛に満ちているかと思いきや、愛していない者は虫一匹以下にしか考えていないことがある。小場はさららに付いた余計な虫一匹の可能性が極めて高い……かもしれない。
「いいわよ、薄情なトオルちゃんなんか放っておけば。ハルちゃんが居るもの」
よっぽど手痛い注文をしてくるさららに、ハルトはぐうの音も出ずに頭を抱えた。
今度は、一般の警官を助けるのか。マジか。
「あの……さららさん、俺は、」
殺し屋なんですが、と言うより早く、さららは大きなあくびを一つすると、伸びをした。
「私も疲れちゃった……なんか温かいの飲んで、もう寝ようかな……」
肩をさするさららを見て、未春はちらとハルトを見た。今にも溜息を吐きそうなハルトだが、無表情の未春から送られた意図が汲めぬほど鈍くはない。数か月の仲とは思えぬ完璧なアイコンタクトを済ませた後、未春がビビを降ろして立ち上がった。
「さららさん、カモミールでいいですか?」
「……ありがと、未春」
「俺、明日、ディックを当たって来ます。車は奴に聞くに限るので」
「ありがと、ハルちゃん……」
ふー……と、さららは何度目かの溜息を吐き出すと、前髪を掻き上げて苦笑いを浮かべた。
「貴方たち、心得てるわねえ……」
小場は緊張していた。警察官の採用試験の時よりも緊張していた。
自分が、FBIの捜査に参加するなど――数時間前までは考えてもみなかった。
褒められる事といえば、挨拶がでかいぐらいの自分が、だ。
フラムと名乗ったFBI捜査官は、想像を少しも裏切らないハンサムな男だった。連れられた場所が米軍基地内であるのも信憑性を高めた。実際のところ、軍と警察は全く別の部署なのだが、興味の薄い日本人の認識などその程度のものだった。
「Who is the little boy?(誰だそのちびっこいのは)」
出会い頭のドルフの
「Watch your mouth.」
同僚に「言葉に気を付けろ」と命じると、ドルフはますます訝し気に眉をひそめた。小場を憚るように英語で問い掛ける。
「……どういうことだよ、フラム?」
「彼は日本の警察官だ。奴らの知り合いらしい」
「ポリス? それは拙くねえか?」
「そうでもない。……この男、どうやら我々や連中の本職も知らない」
手早く英語での会話を済ませると、フラムは小場を振り返った。あまり二人だけで会話をしていては怪しまれる――と思ったが、小場は観光に来た子供のように周囲を見渡していて、何の疑いも抱かぬ様子だった。
「……ドルフ、彼には我々をFBIだと思わせている。そのつもりで頼む」
「げえ……まさか日本に来て、お前のお遊戯に付き合う羽目になるとは……」
心底嫌そうにするドルフを余所に、フラムは小場に歩み寄った。
「コバ、紹介する。彼のコードはドルフ……私の同僚だ。この件は我々二人の
「そ、そうですか。はじめまして……!」
男臭い笑みを返したドルフは半ば呆れ顔だったのだが、「任務」というワードに浮かれた小場には届かない。社会を生き抜くには絶望的な感受性だ。昨今は幼い子供でも、もう少しマシな警戒心を持っている筈だが。
「……このボーイを使って何しようってんだよ?」
こっそり尋ねたドルフに、フラムは素っ気なく首を振った。
「後で教える。ひとまず黙ってシナリオを聞け」
やれやれ、とソファにどっかり腰かけたドルフを無視して、フラムは小場に椅子を勧めた。言われるままに腰かけると、やっぱりきょろきょろを止めない男に、良く出来た執事のように話し掛ける。
「早速、説明をしたいが……何か飲むか? 酒も用意できる」
「あ、いえ……お構いなく。飲酒運転するわけにいきませんし、下戸ですから……あ、下戸っていうのはお酒飲めないってことで……」
小場の要らぬ説明にドルフが「ミルクでも買ってやれ」と言い、じろりと睨んだフラムは素知らぬ顔だ。無論、小場も目をぱちぱちさせるだけで気付かない。
今日、お家に帰れると思っているだけでも大層な頭だ。
「日本の警官は真面目だな。では、話すとしよう」
フラムが話し始めると、小場は姿勢を正し、そのでっち上げに真剣に聞き入った。
南米で活動していたテロリストが日本に入るつもりだという情報を受け、来日したこと。狙いは、爆弾の性能公開。日本が舞台に選ばれたのは、この平和な島国でもテロが可能であるという実証、安易に武器を持ち込めるという宣伝、他国に比べて警戒が甘いという理由らしい。
先に入国したテロリストの一人は日本人で、七年前に失踪した
つい先ほど、別の場所で目撃情報が入った為、相手はこちらを警戒して、偽情報を多数流しているかもしれないということ、見つけ次第、確保する云々――……
ドルフはあくびでもしそうな顔で聞いていたが、同僚の話が見事な効果を発揮したのは、真剣な小場の表情を見るに明らかだった。
「なんでこんな回りくどいことしたんだ?」
話が済み、小場を寝室に下がらせると、ドルフは当然のように噛み付いた。フラムはすまし顔で首を振る。
「……さてはドルフ、先程の強襲が既に失敗していたと気付いていないな?」
「ハァ? 冗談抜かせ、お前がそこの警官と会って中断したんじゃ――」
「違う。小場に声を掛けられる以前に、奴らは気付いていた。噂に聞いていたが、スプリング保持者の聴覚はセンサーどころの精度ではない」
フライクーゲルの射撃は縦横無尽と謳われる厄介な代物だが、そこまでの身体能力はデータに無い。もう一人の未春――十条十と同様に、かつてのBGM東京支部が開発した、禁止薬物にして身体機能向上薬・スプリングに適合した男は、人間の能力を遥かに上回る」
ドルフは天を仰いで息を吐いた。
「フーン、モンスターってことか」
「そうらしい。しかし、思いのほか良い人物と接触できた。これなら”リリー”の件は“後回し”にできる」
「あのリトル・ボーイ、ホントに役に立つのかあ……?」
信じられん、という眼差しの男に、フラムは静かに頷いた。
「我々は一般人には関わり難い。せいぜい、代わりに働いてもらうとしよう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます