2.Crush.

「不本意だけど、二人にお仕事ですっ」

出来の悪い生徒に補習を言い渡すように、さららはすぱん!とリビングのテーブルにファイルを置いた。二人と聞いて、ハルトと未春は互いに顔を見合わせる。

「久しぶりだな」

「最初の仕事以来だね」

そもそも組んで仕事をすること自体が珍しい業界だ。一人の殺し屋に、事後処理や協力に当たる多人数の清掃員クリーナーが居ることは多いが、失敗の観点から見ても、個人主義が最も安定していると言える。つまり、BGM内で二人以上投入される仕事は『デカい山』ということになる。歌姫が来る前で良かった。

「標的の人数が多いんですか?」

未春と初めて組んだ仕事では、一度に処理する人数が多かった為と、ハルトがハッピータウン支部で最初の仕事だった為だ。さららはファイルを開いて曖昧に頷いた。

「二人。多くはないわね。でも、居場所はバラバラなの」

「手分けするだけで、二人要ります?」

「説明するわね。要望が多い依頼だから」

冴えない口調で話し始めるのを、二人と二匹――どうしたわけか仕事の話を清聴するのが癖になっている猫たちが見つめた。

「今回の標的は一般人。このAさんとBさん。二人に面識はないけれど、ひとつ接点がある」

さららは嫌そうな顔をした。彼女がこういう顔をするときは、胸の悪くなる依頼か、標的が極悪人である場合だ。

「二人とも、あおり運転で死者を出した経験者。そしてどちらも、証拠不十分で大した過失は認められていない。ついでに……お金を積んで早く出たそうよ」

どうやら今回は後者らしい。昨今、悪質さが際立つ「あおり運転」は、運転中に車間距離を極端に詰めたり、真後ろに付いて走行するなどの危険行為のことだ。大抵は取るに足らないことで腹を立てたドライバーが過激な報復に出るというもので、中には自身の過失が原因の逆ギレのパターンもあり、その幼稚な怒りは始末に負えない。危険運転致死傷罪が適用されれば、二十年以下の懲役や免許取り消しなどの処分が科せられるが、察するに、証拠が少なかったか、うまいこと反省の態度でも示したのか……死刑や免許取り消しは免れたものらしい。

恐らく“それ故に”の依頼なのだろう。

「この二人を事故として処理するのが今回の依頼よ。……私は賛成しないけれど、依頼主はできるだけ苦しむ形を望んでるわ。事故も、自動車事故が第一希望。規模によっては額を上げるそうよ」

「……私怨か。報道されるレベルじゃ……派手にやらないとなあ……」

ハルトは難しい顔で呻いた。

有りそうで無い、珍しいタイプの依頼だ。誰かが公開処刑などと言っていたが、本質はまさにそれだ。ただし、無関係の人間を巻き込むのは三流以下、金を貰うなどとんでもない。同様に、大通りで脳天ぶち抜くとか、見晴らしの良い場所に死体を吊るすなど、周囲に迷惑だから以ての外……じゃあ、どうするんだと聞きたくなるようなモラルを強いられる。

殺しに美学や芸術性を感じる変態に頼めと言いたいところだが、そういう輩の多くは、第三者が死ぬのもお構いなしだ。

「やり方は二人に任せるわ。銃器の使用は証拠を残さなければ良いけれど、難しそうね」

日本の銃刀法に関しては言うまでもなく、銃というものは便利な飛び道具かもしれないが、弾痕、弾倉など、いかんせん物証が残りやすいものでもある。

「ハルちゃん、どうする?」

それまで猫と同様に黙していた未春の声に、ハルトは腕組みして唸った。

アメリカなら、何もない荒野やBGM関連の工業地に引っ張ったり、海に落とせば済む話だが、狭い日本ではそうもいかない。おまけに日本人というやつはブラックどころかダークな働き者で、深夜だろうと早朝だろうと、公道は常に車が走っている。

「日本は道路狭いから……路上でやると玉突きになるだろうし、カメラが怖い。こいつらもドライブレコーダー付けてるだろうしな」

単純な狙撃も危険だ。普通車のタイヤをパンクさせるなどわけもないが、公道でも高速でも、きつきつの道路事情の日本では、ひとつの事故がいくつ連鎖するかわからない。当たり前だが、一般人のオーバー・キルはミス以下だ。報酬がパアになるぐらいなら可愛いものだが、最悪、本物の首がふっ飛ぶ。

「いい機会だ、ガヤちゃんに手伝ってもらうか。相当、運転上手いんですよね?」

「上手いわよ。うちでは一番。酔う人が酔い止め要らないくらい」

「へえ……それもハンドル握ると変わるってやつですかね……?」

あの見た目で最上級リラックス運転とは恐れ入るが、隣の未春はこの見た目で地獄のドライブセンスだ。本人は、十条が「吐かない人間は居ない」とのたまった運転が下手という自覚は皆無らしく、自分のことかと己を指さして首を捻った。

「ガヤちゃんに頼むのはいいけど、ハルちゃん……日本でカーチェイスはダメよ?」

「あ、はい。大丈夫です。今は冬ですし……ちょっと遠出すれば済むと思います」

「遠出? 何処まで行くの?」

「ええと……日本でこの時季、雪が多い所って何処ですかね?」

「寒波が来てるし、北海道とか、青森、新潟や秋田辺りかしら? スリップ事故にするつもり?」

「いえ……さららさんにドン引きされたくないんで秘密にしておきます。とりあえず、標的はガヤちゃんの安心安全な車で運んでもらいますから。……失敗なら、俺がタイヤ潰します」

「俺は何すんの?」

「後で詳しく話すけど、お前はガヤちゃんと二人を捕獲。眠らせたら、そいつらの車で運んできてくれ。……普通に運転はできるんだよな……?」

「できるよ」

憮然と言い返す青年に、さららが不安げな顔をした為、ハルトは真顔で付け加えた。

「……絶対、お前は一人で乗れよ?」

未春は不服そうに眉を寄せたが、頷いた。

「ハルちゃんはどうすんの?」

「先に行って場所確保してくるよ。近所の車バカなら道路事情詳しいだろうし、奴に良い場所聞いてからな」



 一体、何がどうなってる?

自宅で寝ていた筈が……気付けば自分の車に乗って、真っ白な雪の中に居た。

外は一寸先も見えない吹雪、時刻は夜。背後には何やら大きな建物が鎮座していた。テレビで見る牛舎や倉庫のように横長の建物が左右に伸び、両端はおろか、入り口らしきものは全く見えない。人影はおろか、灯りひとつ無いところを見ると、今は使われていないのかもしれない。しかも、所持しているスマートフォンは、どうしたわけか電池が切れて使い物にならなかった。

まずい。男は寒気と冷や汗を同時に感じて身震いした。どう考えても死ぬ予感しかしない。落ち着け。何故だかダウンは着込んでいるし、ガソリンはそれなりに入っている。財布にも金は少しある。このまま気を揉んでいても、雪で埋もれてタイヤが動かなくなるし、車内に閉じこもっていては一酸化炭素中毒で死ぬだけだ。冗談じゃない。

男は焦る気持ちを何とか抑え込み、念のため、外に出てタイヤを確認した。ご丁寧にチェーンを掃いている。イタズラにしては念が入っているのが不気味だが、これなら動けそうだ。

急がなければ。

車内に戻り、寒さに悴む手でハンドルを握り、アクセルを踏み込む。

やや空回りこそしたものの、愛車は期待に応える様に滑り出した。例の事故のせいで久しぶりの運転だ。チェーンが多少なりとも雪を噛む為、思ったより気楽に走行できたので、ひとまずほっとする。慎重に周囲に目を凝らすが、目の前は完全なホワイトアウトで、信号も標識も見当たらない。

まさか、一般道じゃないのか?

どこか広い大雪原でも走っている気分になりながら、CMでよく見る海外の塩湖を思い出した。走れば何処かに辿り着くだろうとじりじりしながら車をまっすぐ進める。

何処までも続くかのような白の中を進む内、男は次第にイライラし始めた。恐怖よりも、この状況に追い込まれたストレスに腹が立って、気が変になりそうだった。

突如、男はクラクションを鳴らした。特に意味など無い。誰も居ないなら、好き放題に走らせればいい。

そうそう、此処ならトロ臭い車も、前に割り込むムカつく車も居ないじゃないか! 何がアグレッシブドライビングだ! 何がロードレイジだ! のろまが悪いんだ!

場を乱すのは、いつだっておつむの弱いのろまなのだ!

一度そう思うと、堰を切ったように愉快な気持ちになってきた。高揚した気分でクラクションをぶちまけ、面白おかしくハイスピードで走り出す。好きな音楽を爆音で響かせ、男は笑いだしていた。

――もう一人、そっくりなバカが猛スピードで迫っているとも知らずに。

「あ」

吹雪で何も見えない窓の外を見ていた未春が一言呟いた。

「ぶつかったか?」

後ろでホットコーヒー片手にハルトが尋ねると、動物めいた聴覚の男は頷いた。

尤も、同じ室内に居合わせたハルトと保土ヶ谷には何も聴こえない。吹雪が窓を揺らす音と、室内のストーブの上でやかんがシュルシュルと蒸気を吐き出す音だけだ。

そこは、スキー客が泊まるロッジの一つである。同じようなログハウスを模した建物が横に並び、洒落た橙色の灯りが点いた他の家には、吹雪で閉じこもらねばならなくなった本物のスキー客が宿泊している。

「ほぼ、時間通りスね」

「おっけおっけ……時間通りで何より」

厳つい時計を確認する保土ヶ谷にハルトが頷くと、未春が首を捻る。

「確認しに行く?」

「いいんじゃないか……ぶつかったんだし。仮に生きてても生還は無理だ」

ドライブレコーダーに捉まるのも困るし、と尤もらしく言いながら、最後に「寒いし」と小さく付け加えた。

「ハルさん、寒いの苦手なんスか」

面白そうな保土ヶ谷に対し、ハルトは素直に頷いた。

「好きなヤツなんてイカれてるよ……ブリザードの中で仕事しろって言われると、そればっかりは依頼主に殺意が湧く」

「今日は氷要る?」

「要るから腹立つんだろーが。お前は要るの?」

「要る」

「どれ……って、あ、コレか……何だこれ……?」

冷蔵庫を開けて、一目で異彩を放つ飲み物にハルトは首を捻った。白い缶に何の果物かわからない赤い粒々した実のイラスト。銘柄は「ジョミ」。ガマズミと青梅エキスをブレンドしました――説明されても全てがわからない。

こわごわ手渡すと、キリング・ショック解消に珍しい飲料、またはヤバい飲料を必要とする未春は、軽く振って、臆する様子も無く開けている。

「キリング・ショックって大変スね」

冷凍庫から季節外れにガラガラと氷を取り出すハルトを見つつ、保土ヶ谷が苦笑した。

「殺人ストレスって、直接殺さなくても必要なんですか?」

「……程度による」

自身のキリング・ショック――殺人ストレス解消に、氷が必要なハルトはロックアイスを口に放り、がりがりやりながら顔をしかめた。

「俺は、設置してきた時にどうなるか想定できてる時はダメだな。未春は?」

「最近気付いたからよくわからない。飲みたくはなる」

変な缶ジュースの裏面を眺めながら、無感動に未春は答えた。つい最近まで、己のキリング・ショックを「持っていない」と認識していた故らしい。

「清掃員にもたまに居るよな……遺体処理でトラウマになる人。ガヤちゃんはどう?」

「俺は無いです。だったら害獣の子供駆除する方がすげえストレスですよ……それに十条サンは、あんまり酷い状態の現場には呼ばなかったんで」

「ふーん……」

気遣いなのだろうか。……それとも、動物で慣れさせる気だったか。

「ハルちゃん、今日はもう終わり?」

「ああ。吹雪止んだら、一般人かマスコミが見つけるだろ……確認はそれでいいと思う」

「明日見つかるかも謎ですね。“あんなとこ”放置しといても誰も通りませんし」

保土ヶ谷の言葉に、ハルトは頷いた。

「……金もガソリンも役に立たないって気付く頃には、だな」


報道が公開したのは、正面衝突した二台の乗用車だった。

雪に半ば埋もれたフロントはぐしゃぐしゃに潰れ、運転席など見る影も無い。前輪どころか後輪までもが傾き、吐き戻されたような黒い内蔵部が雪道にばらばらとこぼれている。スキー場やロッジが近くにあるとはいえ、其処は何もない野っぱらのように見えた。耕作放棄地だというその場所に何故二台が入り込んだのか、マスコミも首を傾げていた。一般道から外れている為、誤って入る理由が無いし、付近の施設や家とは逆方向だ。殺人の可能性は検討されたものの、札付きのワル同士が仲良く相討ちでは、報道的には追究したところで面白くも何ともないらしい。

コメンテーターや元警察官などが、あれやこれやの想像を尤もらしく並べた後、キャスターが「一体どういうことなのでしょう」と述べて、さっさと締めてしまった。

人が死んだことよりも、責めようの有る芸能人や企業の汚職事件の方が重要とでも言うように、話題は切り替わった。

「ハルちゃん、悪党ねえ……」

出迎えた後、しみじみ呟いたさららに、戻って来た悪党は「すみません」と頭を下げた。さららはテーブルに頬杖ついた袖口に物憂げな溜息を吐く。

「ごめんね、悪気はないの。おつかれさま……トオルちゃんの話だと、依頼主は喜んでいたそうよ。メール上だけれど」

「……そうですか」

いつものことだが、恨み言を言われるのはともかく、感謝されるのは違和感がある。

「違和感が無くなったら仕事を辞めなさい」とアマデウスはよく言っていた。

「殺してくれてありがとう」は、大きな間違いだからだ。

殺し屋が人道やら倫理やらを説くのは筋違いだが、正当化してしまえばそれは単なる殺人鬼、戦争と変わりない。その違和感がある内はまともだと認識できる一方、それはこの世で最もまともではない人種たる殺し屋で居続ける枷でもある。

「それにしても貴方たち、すごい荷物」

ようやく呆れ顔で微笑んださららの言う通り、殺し屋二人は揃って両手に紙袋状態だ。

「トオルちゃんもお土産好きだったけど、未春も変なとこ似ちゃったわね。ハルちゃん、驚いたんじゃない?」

「はあ……思い切りが良いのは驚きました」

普段からそうなので、土産を買うと言い出したことは驚かなかったが、躊躇なく籠盛りにしていくのは中国人の爆買いを連想させた。当たり前と言わんばかりに、林檎に、いちご煮缶、様々な林檎のチップスなどなど……ぎっしり詰まった紙袋を無造作に差し出す未春に、さららは溜息混じりに微笑んだ。

「こっちはガヤちゃんからです」

「ありがとうって言い辛い……でも、ありがと。ラッコちゃんやリッキーにもあげましょ。ご近所さんにも配れそうね」

テーブルに置いた紙袋を、すかさずスズとビビが確認しにやって来る。匂いを嗅ぎながら袋の周囲を回転する二匹の前、未春はもう一度さららを見た。

「それと、写真撮りました」

「え。未春が? 珍しい……何撮ったの?」

「あっ! お前まさかそれ――」

ハルトの制止を完全にスルーした未春のスマートフォンを、さららだけでなく猫たちまで覗きに来る。

「ハルちゃんとガヤちゃん……これ、何処? ラーメン屋さん?」

写っていたのは、照明と熱気に白む店内と、麺類の飲食店や定食屋などで見掛ける食券の発券機だ。それを指して驚いた顔をするハルトに、保土ヶ谷が使い方を説明しているらしい。

「これは、食券と替え玉に驚いて感動するハルちゃんです」

動画で撮れば良かった、と言う未春をハルトが横目で睨む。

「……か、画期的だと思っただけだろーが。替え玉とか凄いシステムだろ……」

No kiddingマジかよ!って叫んでました」

「かわいいー、見たかった。ハルちゃんは時々、すごく外国人よね」

「…………」

感覚だけならばほぼ外国人の日本人は返す言葉も無い。実は初めてではなく、居酒屋などのスタッフ呼び出しベルや、ディスプレイにタッチして購入できるデジタルサイネージ型自販機――更に温かいスープ系飲料が存在することにもそれなりに驚いたハルトである。

「他にもありそう。おでん缶とか驚くんじゃない?」

「お、おでん缶……?」

「ウォシュレットに驚くってよく聞くけど、驚いた?」

「あれはミスター・アマデウスがオフィスに設置してるから家にも……って、やめんか!」

「ツッコミは日本人ね」

「……もうほっといて下さい……」



 12月も一週目を過ぎた午後。

そろそろ三時のおやつ、という頃合いに、そのスターはやって来た。

「お人形さんみたい……!」

倉子の呟きは、リリー・クレイヴンを見たことがある人間の多くが述べる感想だろう。

中世のドレスを着た陶器人形を思わす少女は、バレエダンサーのように小柄でほっそりしていた。肩に掛かるまっすぐなプラチナブロンドの髪や、灰色の眼、ピンク色がはっきりわかるルージュの全ては、彼女が並の少女ではないことを主張していた。

ただし、その格好は力也がソワソワしてしまう程度には際どい。裾の短いワンピースにブルーフォックスの毛皮のコート、きらきら揺れる大きな金のピアスときたら、日本で言うところのバブル臭く、おしゃれ以前に少々けばけばしい。

「ハルは?」

開口一番が日本語であることに一同がはっとする中、歌姫の視線は既に、倉子の後ろに居たハルトに注がれていた。当人が気の無い様子で挙手した。歌姫はつかつかと歩み寄って来ると、ヒールのブーティを履いて尚低い位置からハルトを見上げた。

「Hi,Haru.Can you speak English?」

「Ah……just a little.」

苦笑とジョーク混じりの返事に、リリーはくすりと唇を歪めて頷いた。

「ワタシも少し、日本語OK.」

「That would be helpful.」

頭を下げての「助かります」という返事は概ね、彼女を満足させたらしい。目に見えてリリーは悦に入った様子で頷くと、他のメンバーを見渡した。

「Nice to meet you. Please call me Lilly.」

配慮なのか、ややゆったりした口調での挨拶に、ハルトは周囲を見回した。

「さすがに皆……今のはわかるか?」

「リリーって呼んでって言った?」

「お、さすがラッコちゃん」

褒め言葉に倉子がにまにましたのも束の間、リリーはハルトに向き直り、更に述べた。

「Could you introduce everyone to me?」

「え? ハルちゃん……なんて?」

遠慮がちに訊ねてくる倉子に、ハルトは小さく答えた。

「皆を紹介してってさ。……じゃ、さららさんから――」

一通り名前を告げると、リリーはOKと答えてから、小さく溜息をこぼした。

「Haru……Can I just take a rest for a while?」

「OK――さららさん、彼女休みたいそうなんで、部屋に連れていきます」

「それじゃ、お茶は上に持っていくわ」

「はい。Lilly,Follow me」

先行するハルトに従ってリリーが階段を上がっていくのを、一同はしみじみと見上げた。

「ハルちゃんは出来る男ね」

感心した様子のさららに、現役学生である力也や倉子も頷いた。

「前にもお客さんと喋ってんの聞いたことあるけど……超上手いッスね」

簡単な羅列だったが、感動、と言わんばかりに力也は目を輝かせる。倉子はまだ腑に落ちない表現でもあるのか、首を捻りながら同意した。

「みーちゃん、今のわかった?」

「うん」

「え、すご。全然って言うかと思った」

一回り年下の倉子に堂々と貶されるが、未春は嫌な顔もせずに首を振った。

「ハルちゃんみたいに喋るのは無理だけど、言ってることはわかる」

「そっか、未春サンも海外居たことあるんスよね」

力也の何気ない一言に、さららは表情を曇らせたが、当の青年は気にした様子はなかった。

「……未春、すぐに仕度するから、運んでくれる?」

「はい」

嬉々として「ヤバいー」を繰り返す倉子と力也を背に、未春はさららに従った。

「未春、大丈夫?」

キッチンに着くや否やのさららの問い掛けに、未春は首を捻った。

「何がです?」

「英語。トオルちゃんのせいで、嫌なこと思い出すんじゃないかって……」

ああ、そういうことか。

さららの気遣いを理解し、未春は首を振った。かつて、叔父の指示で海外のクラブで働いたことを言っているのだ。これには理由があったのだが、感覚云々に関わらず虐待には違いないそうで、この件にはハルトも良い顔をしない。

「気にしてません。大したことじゃないです」

「それも問題ねえ……」

さららは、憂鬱そうでも手際が良い。温かいコーヒーを淹れて、ミルクと砂糖を添えると、ミスター・アマデウスをも唸らせるドーナッツと共に盆に載せた。

「お気に召さなければ無理に勧めないで。長旅でお疲れでしょうから」

こくりと頷いた未春は盆を受け取ると、自動人形のように運んでいった。自宅に入ると、二匹の猫が何やら不服そうに足元をうろついた。まだ室内を案内しているのか、ハルトの姿は見えない。アメリカ育ち同士、話題に花が咲いているのだろうか。

「ハルちゃん?」

リリーに貸すことになっていたハルトの部屋をノックしたが、応答が無い。静かだ。職業柄、感覚の鋭い未春はドアをしばし凝視し、裏側に誰もいないのを確かめてドアを開けた。数ヶ月前からハルトが使用している部屋は、ベッドとクローゼットに占拠されたコンパクトなもので、一目で見渡せる広さだ。

「み……未春……!」

確認するまでもなく、そのコンパクトな部屋の壁際にハルトは立っていた。

が……目の前には頭一つ分は低いリリーが向かい合い、狼狽えた様子の男の首根に手を回していた。毛皮を脱ぎ捨て、薄着で抱きついた仕草ときたら、歌姫よりも海外で見たコールガールが相応しい。ほんのり紅い唇で焦りを満面に浮かべたハルトが、少女をひっぺがそうとあたふたするのを、未春は胡散臭げに見た。

「……何してんの?」

「ち、違うからな……! 俺じゃなくてリリーが……!」

軽蔑の視線と受け取ったハルトは大仰に首を振った。一方、リリーは慌てるどころか余裕の態度で、闖入者をガラスのような目でちらと見ただけだった。何故かありがちに聴こえる弁明を伺うのが面倒臭く、未春は眉だけ寄せた。

「どっちでもいい。これ、さららさんから。此処置くよ」

「こ……こら! 助け……!リリーも……! Get your hand off me……!」

「Thank you.」

「ごゆっくり」

抗議か悲鳴かの声をまるきり無視して、未春はばたんとドアを閉じた。

こちらを見上げていた猫たちを振り返ると、二匹はきゅっと身構えてから、廊下を一目散に駆け抜け、店へと飛び出して行った。

「わわっ! どったの?」

登って来るように腕に飛び込んできたビビを抱え上げ、足元をコーナリングしてくるスズを見た倉子が胡乱げな眼差しを上げた。

「みーちゃん、顔こっわ……」

そう言うわりに物怖じしない様子の倉子を、未春は静かな目で見た。

「……ラッコちゃんなら、許せる」

「ほえ?」

唐突にぼそりと言った青年に倉子がきょとんとするが未春はそれ以上言わなかった。

「ハルちゃんは?」

「……リリーの相手してる」

言うなり、さららとそれを手伝う力也の方に戻っていく未春を、倉子は不思議そうに見送った。腕の中のビビをちょいちょいと撫でて、首を捻った。

「変なみーちゃんだねー?」

まんまるの黒目をゆっくり瞬かせたビビが、ナッ、と同意するように鳴いた。



「ハルのこと、気に入ったの」

夕食に顔を出したリリーの言葉に、当事者はサーッと青ざめ、それを向かいの青年が光らぬ目で見、さららは口に手をやった。

「あら、まあ」

やるわねハルちゃん、と言うさららに、ハルトは食器の上でそれ以上できないほど大きく手と首を振った。

「無いです無いです……リリー、俺は断っただろ? I’m not looking for a relationship right now……」

そんな風には見られません、という至極控えめな断りに、リリーはしれっと顎を反らした。

「That's ok. I don't mind……振り向かせるからいいわ」

「リリー、日本語とっても上手ね。バイリンガル同士かあ……」

「いやいやいや、さららさん……無いですって……十歳も離れてるんですから犯罪です!」

ハルトの台詞に、未春は少し目を上げたが、無言で食事を続けた。さららは意味ありげに唇を歪めると、おっとり微笑んだ。

「それを私に言われても。ねえ、未春?」

即座に答える筈の青年から返事はなかった。さららも、ハルトもそちらを見るが、彼は何か考えるような顔付きで箸さえ止めていた。

「未春? どうしたの?」

隣の顔を覗き込んでの呼び掛けに、未春はようやく機械的な面を上げた。

「……はい。何ですか?」

「何って……大丈夫? 昼間のトオルちゃんみたいだったわよ?」

かくいうハルトも、あの寝坊助代表を思い出していた。叔父と甥の関係である二人は、互いにハンサムだが、タイプは似ていない。にも関わらず、今の表情は、あくびをしていた十に近い。

「大丈夫です。……何ですか?」

「恋愛に年の差は関係ないわよねって話だけど」

改めて言葉になると、未春に振るには難の有る話題だ。案の定、彼は途方に暮れた様子で首を振った。

「……すみません、俺にはよくわかりません」

「まあ、お前らしいけど――」

「ハルちゃんに言われたくない」

何が癪に障ったのかぴしゃりと言われてしまい、ハルトは押し黙った。触らぬ神に祟りなし――そんな雰囲気の未春に、さららも驚いた顔をしている。

「えっと……ハルちゃん――リリーの護衛の詳しい内容はわかったの?」

話題を切り替えたさららに感謝しつつ、ハルトは曖昧に頷いた。

「まず、期限が12月25日のクリスマス。で……ミスター・アマデウスが俺に頼んできた理由なんですけど――……」

ハルトは恨めしそうにリリーを見たが、情報をもたらした彼女はにっこり笑っただけだ。

「リリーが、年齢の近い日本人が良いと希望したそうです。アマデウスさんの部下にはプロのSPも殺し屋も大勢いますが……若い日本人は俺ぐらいなんで」

「どうして日本人が良かったの?」

不思議そうなさららの問い掛けに、リリーは事もなげに言った。

「ジャパンが好きだから」

仰る通りなのか、欧米人が苦戦しがちな箸を使うのも上手い。

「だから日本語も上手なのね。若い人が親日家って、なんだか嬉しいわ」

「俺はあんまり日本人らしくないんですけどね……」

先日の食券騒動からして、日本人の「普通」が通用しない男の言葉はげんなりしている。

「ふふ、そうね。案内が要るなら他の皆にお願いすればいいんじゃない? ラッコちゃんやリッキーなら張り切ってやってくれるわよ」

「――なんでリリーは、BGMを知ってるの?」

冷えた鋼鉄のような声に、場の空気は一変した。未春だ。持っている箸さえ凶器に見えるような緊張感でリリーを見据える。

「自分で説明するか?」

ハルトの問い掛けに、リリーは首を振った。

「ハルの方が、わかりやすいと思うわ」

「わかった――彼女のマネージャーだった男が、BGMの殺し屋だったそうだ」

慣れた話だが、聞いている二人は厳しい目に変わる。

「名前はフレッド・ピアソン。リリーのデビューが決まる前から担当していた男が、先月、彼女を誘拐しようとしたそうです」

「誘拐……?」

穏やかならぬワードにさららが眉をひそめる。

「リリーはアマデウスさんの会社所属だから……ちょうど居合わせた清掃員が気付いて助かったそうです。逃走したフレッドは、この事件で身元を洗い直して、BGMの殺し屋だとわかった。問題なのは、同じBGMでも、この男が管轄外ってことなんです」

「アメリカじゃない支部の人?」

未春の問い掛けに、ハルトは難しい顔をして頷いた。

「勘が良いな。そう、南米支部所属だった。ミスター・アマデウス管轄の北米に対し、ブラジルやコロンビアなんかが含まれる。BGMに関わらず、かなり治安の悪い場所が幾つかある厄介事の多い支部だ」

「そうでしょうね……この間の麻薬組織のテリトリーも、その周辺でしょう?」

仰る通り、麻薬組織ロスカ・カルテルは、この周辺地域を縄張りにしていた。さららと関わりある男と手を組んでいたが、大のドラッグ嫌いであるアマデウスの罠に掛かり、組織は壊滅に追い込まれた。彼らの攻撃的な行動は、周辺界隈でも群を抜いていたようだが、似たような麻薬組織が他にもごろごろしているのが南米だ。

無論、その弊害――貧困を助長しているのが、北米という論評もあるのだが。

「北米と仲が悪そうね」

「まあ、BGM同士の争いは原則禁じられていますし、利害の一致があれば協力する関係ですかね……いくらBGMでも、政治や経済、歴史と全く無関係にはできませんから」

歴史的に北と南の確執は多いが、現在の政治情勢もあまり楽観視できるものではない。北の政府は今、南を閉め出したい考えを押し出しているが、世論は二分、地域差もある上、アメリカ政府内でも意見は衝突している。アマデウス当人は治安よりも利益に興味があるため、ただ南を追い出すのは良しとしていないのだが。

「もう一つ問題なのは、南米支部の代表なんです」

「ハルちゃんは会ったことあるの?」

「……無い。というより、南米支部の代表者が何者なのかは、アマデウスさんも知らない」

「アマデウスさんも……? どういうこと?」

「南米支部代表は、クリス・ロット。TOP13の一人で『シークレット・クリス』と呼ばれています。実はこれまで彼、或いは彼女を名乗る殺し屋が、老若男女、何人も逮捕されているんですが、いずれも本人ではなかった。しかし、彼らは皆、自分がクリスであると譲らなかったそうです」

「そういえば、何処かで聞いた名前かも……」

「日本でもニュースで取り沙汰されたことがあると思います。アジア人が名乗ったことは無かったと思いますが、クリスの殺しはテロに等しく、標的以外の無関係な人間も巻き込む爆弾魔でしたから」

爆弾魔の言葉に、さららが少しだけ息を呑んだ。

「そんなあやふやな人が……どうして代表で居られるの?」

「『殺し屋をまとめるほど有能な人物が存在するから』です」

明瞭に答えたが、ハルトは已む無しとでも言うように首を振った。

「犯人は皆『自分がクリスである』と名乗り、出所が不明の爆弾を所持・爆発させるスタイルです。マインドコントロールなのか、代表が点々と入れ替わっているのかは謎ですが、とにかく指示役のクリス・ロットが存在する。形そのものはテロですが、依頼が存在した上なので無差別殺人ではない。そして、他支部との連絡を担うクリスは、一貫した思考の持ち主だそうです。赤の他人が突然入れ替わっている様子は無いというのが、アマデウスさんの見解です」

「そう……BGMなんだから、仕事の相手は悪党なのよね……?」

「そうですね。建物もろとも、という発想での。安心しろとは言えませんが……アマデウスさんの話では、直接的な殺しからは引退したそうです。俺がアメリカで仕事をしていた頃も、クリスの活動に関しては聞いていません。思うに、ロスカ・カルテルが日本に出張ってきたのも、彼が大人しいのと関係があるかもしれない」

「その人が、リリーを狙っているのかしら?」

「わかりません。TOP13が私的な理由で殺し屋を動かすことは稀ですし、殺し屋を誘拐に使う意図が謎です。一般人に金を掴ませた方が上手くやるでしょう」

一番困るのは、本物のクリスが何らかの原因で死亡している場合だ。不安にさせるだけなので言わずにおくが、偽物がそれとわからぬよう台頭し、意図せぬ事件を起こすことが最も危険で予測不能だ。

「逃走したフレッドの写真は無いの?」

矢継ぎ早に質問するさららに対し、ハルトが顔をしかめた。

「さららさんは……深入りしない方が良いと思いますが」

「あら……私は一応、貴方たちの上司よ。仲間外れにしないで。此処に来たとき、顔を知らないのは困るわ」

ハルトは溜息を吐いて、優雅に食事を続けていたリリーに振り向いた。

「リリー、見せてやって」

声を掛けられた彼女が、自身のスマートフォンを取り出した。

表示された画面に映っていたのは、色白に彫り深い面、サッカー選手などによく見る黒髪の短髪に薄い髭を生やしたなかなか良い男だ。南米支部ということだが、どう見てもヨーロッパ系――スペインなどによく見る顔立ちである。黒目に飾り気のない眼鏡を掛け、仕立ての良いスーツを着込んだ様は堅物といった印象の男だ。

「顔はあまり参考にならないだろうな。この顔で指名手配されてるから、多少は変えるだろ。こっちが変装の可能性もある」

「彼じゃない仲間が来るってことも、ある……?」

「あると思います。清掃員や交渉人を立てずに、いきなり殺し屋を出す辺り、穏やかじゃあないですしね。フレッド本人が現れるより、接近しやすいですが」

「どうして殺し屋が誘拐をするのかしら?……ちぐはぐしていて、釈然としないわ……」

さららが言う通り、殺し屋であるフレッドが長いこと潜伏してから誘拐に乗り出し、殺し屋であるハルトがSPを務める――双方、ミスマッチな駒の選択だ。

「リリーがバカンスに来る予定は、先に決まっていたことなの?」

「Yes.」

さららの問いに、リリーは砂糖菓子みたいな顎をこくりと頷かせた。

「予定変更しなかったのは、アメリカに居ると危ないから?」

「No……I did not want to cancel.」

やや早いレスポンスに、ハルトが「予定を変えたくなかったそうです」と訳す。

「そう……何か大事な用事?」

「It's not such a big deal……」

そんなに大したことじゃない、と、リリーは苦笑いと共にかぶりを振った。十代にも関わらず、大人っぽい表現はアメリカのティーンならではだろうか。

「I'm looking for someone.」

「なんでも、人捜しをしたいそうなんです」

「人捜し」とハルトの言葉を反復し、リリーはスマートフォンの画面に別の写真を映した。先程から居ないも同然に物静かな未春の表情は変わらなかったが、ハルトとさららは同様の反応を見せた。

「Sorry that I scared you.」

驚かせてごめんねとリリーが肩を竦めて苦笑すると、真っ先にさららが頭を垂れる。

「いいえ、私の方こそ、ごめんなさい」

リリーはルージュを笑ませて首を振ると、同じように頭を下げたハルトにも顔を上げるよう促した。

「Never mind.(気にしないで)」

それが普通と苦笑するリリーが見つめる写真には、一人の日本人と思しき少女が写っていた。いや……濃紺のセーラー服を着ていなければ、少女とは思えなかったかもしれない。その顔は、どちらかといえば美しいとは言い難かった。頬骨は張り、かくばった印象の面の中、目はくぼんで骸骨を思わせる。年相応のふっくらした印象は無く、痩せっぽちの脚や、背で束ねた艶のない黒髪、伏し目がちの暗い瞳は、未来有る若者というよりも、死を目前に控えた者のそれだった。

「この人は、友達?」

“普通じゃない男”のまっ平らな問い掛けにリリーは曖昧に「……Yeah.」と頷いた。

「それにしては、古い写真だね」

未春が言う通り、画素数の低い写真は、ところどころピンボケしている。リリーは気にした様子もない。

「昔の」

「……それじゃ、この人は今は学生じゃないのね。お名前は何て仰るの?」

「アキナ・カメイ。I only know it.」

「名前だけなのね……ぱっと思い当たる人は居ないなあ……」

「制服着てるから、学校当たればわかりそうじゃないですか?」

ハルトの言葉に、さららは口元に手をやって俯いた。

「……卒業生だとしても、学校から個人の情報提供をすることは無いと思うわ。それに……このセーラー服はもう使われていないかも」

えっと声を上げるのはリリーとハルトだ。難しい顔のさららに同意するように、未春が静かに頷いた。

「さららさんが言う通りだと思います」

「やっぱり? 見掛けなくなったよね、セーラー服。この辺の高校も、殆どブレザーよ。私立の小・中学校なんかにはありそうだけれど」

そういえば、先日出掛けた商業地でも、女子高生といえば倉子のようなブレザーしか居なかった。この時季はコートで隠れていることもあるが、何故か大抵はマフラーなどで頑張っているため、一目でわかる。さららによると、彼女が在学していた当時から、減少傾向にあったという。日本の女子にセーラー服がウケないわけではない。むしろ求めて学校を決める女子も居たというが、温度調整が難しいとか、昨今のジェンダーレス問題や、製作元の都合等で徐々に減っているらしい。

「とりあえず、町会長さんに聞いてみましょうか。彼女のお家が町会に入っていれば、市内なら分かるかもしれないわ」

「Wow! 町会ってスゴいのね」

変なところに感心するリリーを見てから、ハルトが首を捻った。

「リリー、どうしてその人に会いたいんだ?」

リリーはふと、口をつぐんでからにこりと笑った。

「……I'll leave that to your imagination.(ご想像にお任せするわ)」

「あ、そう……」

腑に落ちない表情でハルトは頷いたが、リリーは微笑んだままだ。

「You don’t have to go out of your way to Search.(無理に捜さなくてもいいのよ)」

「せっかく来たんだもの、出来るだけのことはするわよ。何か手掛かりを思い出したら教えて」

「OK……アリガトウ」

微笑み合う女性陣をよそに、ハルトがちらと顔を上げると、未春と目が合う。最近、同じことを考えている場合、こんな風に視線が合う。

それは大抵、考えを口に出したくない場面だった。

「それはいいとして……ハルちゃん、パパラッチとかは大丈夫なの? 日本のマスコミも、かなり空気読まない方だけれど」

「なんでも、リリーの替え玉を都心にやっているそうです。そっちはアマデウスさんの部下が付いているんですが……マスコミ対策なので、クリス側にはこっちが本物だとわかるように示してるとか。宿泊先もやっぱりウチだそうです」

「替え玉……」

ぼそりと未春が呟くのを、ハルトがじろりと睨む。

「なるほど。オッケー……騒ぎは郊外でやれってことなのね」

さららが苦笑いと共に頷くと、未春も納得した様子で頷いた。

「うちに泊まるなら、ピーマン食えた方がいいよ」

「え? ピーマン?」

ハルトが振り向くと、確かにリリーの皿では艶めく緑色の野菜が綺麗に避けてある。彼女は悪びれた様子はなく、おどけた仕草で軽く両手を上げた。

「苦手なのか? 珍しいな?」

意外そうなハルトに、さららと未春は顔を見合わせる。

「トオルちゃんも生は苦手だったわね」

「アメリカの人はピーマン好きなの?」

こちらも意外そうな未春の問い掛けに、アメリカ育ちは首を捻った。

「俺が知る限りは、あまり……ピザに入ってるから、子供も抵抗なく食ってるはず。苦いって嫌がるのは、ブロッコリーじゃないか?」

「知らなかった……アメリカ産ブロッコリー苦くないのに。感覚が違うのかしら。どっちも美味しいわよ、リリー。苦手な人向けに作るね。きっと好きになるわ」

さららの優しい言葉に、リリーは浮かぬ顔で頷いた。



一緒に寝てとごねるリリーを苦労して部屋に押し込んだハルトは、ぐったりして現在の自室にやって来た。さららが使っていただけに、元の主が居た頃とはまるで違う部屋に見える。もともと八畳間はある部屋は、男二人で使っても狭くはない。

窓以外を本棚が覆う空間は、持ち主のオフィスを思い出すが、かつて町会資料の分厚いファイルやら、冊子やプリントの山で足の踏み場が無かったデスク――及びPC周りも、きちんと整頓されて清々しいぐらいだ。

未春はセミダブルのベッドに座って、ビビに邪魔されながら大きめの雑誌をめくっていた。

「何読んでんだ?」

問い掛けに、未春はひょいと冊子を持ち上げた。ビビも見上げるそれは、よく有りそうな料理雑誌だ。美味しそうな鍋料理のカラー写真と共に、『野菜が美味しくなるレシピ』、『子供もパクパク絶賛おかず』、『冷え性にオススメ!あったかお鍋』などなど、それらしいタイトルがやかましく散っている。

「お前は何処に向かってるんだ……?」

未春はぱちぱち瞬いただけで、脇に雑誌を置いた。

「ハルちゃん、ほんとにベッドじゃなくていいの?」

「ああ、いい……リリーが帰ったら、さららさんが使うだろ。なんか悪い気がするから」

「それは俺でも変わんないよ」

「お前は弟同然だろ」

正直、お借りするソファもさららが持ち込んだものなので気が引けるのだが、ベッドよりは幾らかマシに思えるし、布張りなので、クロスを一枚敷いてしまえば違和感もない。

未春は何か言いたそうだったが、言及せずにソファに座ったハルトを見た。

「さっきの話、どう思う?」

「人捜しの件か?」

「そう」

視線が合った際の意見だ。やはり、同じことを考えていたらしい。

「……お前、どう? リリーは殺しを考えてると思うか?」

「違うと思う」

あっさり出た意見にハルトは頷いた。

「俺もそう思う。だが、親しい相手を探してる感じでもない」

「うん。わからないけど、言いたくない関係なんだと思う」

未春の推測にはハルトも同意見だ。容姿や名前からして日本人。少なくともアジア人なのだから、白人のリリーと血縁関係ではない。仮に祖父母の代まで遡るのなら別だが、内縁者なら、BGMに駆け込むよりも適度な調査会社や探偵事務所は山とある。

「TOP13の一人にも調査会社を仕切ってる人物が居る。本社はイギリスだが、世界中に精通してる筈だ。表の仕事もやってるんだから、ミスター・アマデウスが遠慮する意味もない。ただ、リリーを紹介すりゃ良い」

何より、リリーの撮影好きからして、相手の写真が数年前というのは妙だ。

仮に数年前だけの付き合いだとしても、ガラパゴス携帯の時代からメール機能は存在するし、画像も送れる。アナログだが、エアメールという手段もある。日本とアメリカで連絡を取るのはそう難しくはないのに、何故なのか。しかも、手掛かりの写真はあまり良い雰囲気ではない。撮影したのがリリーではないとしても、仲が良いのなら、もう少しにこやかな写真を撮る筈だ。今にも恨み言を言いそうな表情を眺めて、ハルトは眉を寄せた。

「……こういう表情の子、日本に居るんだな」

「居るよ、沢山」

「沢山、か……」

そこらを歩いている学生が、仲間と愉快そうにしながらも、悩みや苦しさを抱えているということだろうか。そうでなければ、年間三百人前後も子供の自殺者が出る筈がない。今朝の新聞記事を思い出しながら、ハルトは頭を掻いた。

「なんつーか……リリーとは、相容れない感じがするんだよな……」

若くお人形めいた美貌を持ち、アーティストとして成功したリリーと、老いた骸骨のように陰鬱な娘では、嫌でも妬みや嫉みが生まれてしまいそうだ。

「トラブルなら、リリー本人が会いに行くのは危険だし……」

仮にも有名アーティスト。まずは事務員や代理人を立てるのが通例だ。

第一、あのアマデウスが、稼ぎ頭を危険な目に遭わせるとは思えない。考えるほど、両者の接点は消えていく。或いは、アマデウスに断られたからこういう形になったのか……?

「ハルちゃん」

「ん……?」

「リリー本人のことはどう思ってんの?」

「え、ああ……殺し屋じゃないだろ。清掃員やるには有名過ぎるしな」

きちんと答えたつもりだが、じっと見るアンバーの視線は妙に怖い。

「色仕掛けに騙されてないよね?」

「アホか……無いって言ってるだろ。年下趣味とか無いぞ」

「あっそ」

何やら拗ねているような視線を向けてから、未春は雑誌を避けて顔を背けた。

「な、何だよ……」

「なんもない。おやすみ」

さらりと言うと、ハルトが声を掛ける前に背を向けて横になる。

……変な奴。

唖然と出た呟きは胸中に留め、ハルトも横になった。電気を消すと、外灯の明かりだけがカーテン越しにうっすら見える。今しがた夜が巡って来たように、急に国道のざわめきが聴こえてくる。同じ部屋の青年からは何の気配もせず、もぞもぞと布団に入り込んでくる猫たちが、今日はいつもと違うなと言うように、羽根布団を揉み込みながら長めにさ迷う。

「……おーい、お前ら……あっちのが広いぞー……」

ぼやいてやるが、通じるわけも無く、二匹は仲良く重石となって丸まった。



 今、職場に有名人が来てる……!

家族にも友人にも叫びたいのを必死に堪えたのは、力也としては奇跡だった。

待ちに待った日曜の出勤日、意気揚々とDOUBLE・CROSSの扉をガラガラと開く。

「おはようございまーッス!」

力也が元気よく出勤すると、店内は騒然としていた。開店前なので客は居ないが、当の有名人と倉子が、準備中のハルトの周囲を小ガモのようにうろうろしている。

倉子は出勤日ではなかったが、リリーが暇だと聞いてやって来たらしい。同じ年頃だけに打ち解けるのは早かったようで、スマホ片手にクスクス笑いながら困り顔の男を追い回している。

「ねー、ハールちゃーんー、もっと撮ろーよー」

「ハルー、Let's take a picture together!」

「……もう撮ったじゃねーか……君たち何枚撮るんですかー……」

「わかってないなあ。三枚じゃあ撮った内に入らないよ」

「Year. You are right」

「はいはい、お二人さん……俺は仕事なんで二人でやんなさい……」

もはや読経するような顔付きで答えたハルトが、力也に気付いて片手だけ上げた。

声を掛けるに掛けられず、ひとまずお辞儀だけしてカウンターに向かうと、さららが手を振った。

「おはよう、リッキー」

カウンターに頬杖つき、のんびり一部始終を眺めていたさららである。

「なんか……スゴいッスね……何やってるんスか?」

さららは両手で頬を支えて、おっとり笑う。

「あれはハルちゃんが大好きな女子の集い」

「えっ! じゃあ……センパイ……リリーに!? うわ、すっげ……マジすか!?」

「初対面で気に入っちゃったんですって。ラッコちゃんも大変ねえ」

あんまり大変そうにしてないけど、と言うさららに、ぎょっとしたのは力也だ。

「え、て、ことはラッコちゃんもセンパイを……!?」

「……リッキー、それは鈍すぎない?」

「うッ……い、いや、気付いてましたよ!?」

さららは笑って、伸びをしてから肩をすくめた。

「ラッコちゃんと一緒なのは可愛いんだけど、未春が居ると、なーんか険悪なのよねえ」

「え……リリー、センパイだけじゃなくて未春サンまで……!?」

「……あ、ごめん、そうじゃなくて――“未春も”なのよねー……」

疑問符を顔にくっつけて固まってしまった力也に、さららは笑い掛けた。

「いいから、着替えてきて」

追い払うように手を振り、二階から降りてきた件の人物をさららは仰いだ。

無表情なアンバーの瞳やアッシュグレイの髪はいつもの無造作スタイルだったが、濃灰のチェスターコートを着るだけで、デートに出かけるのかと思う様な華やかさを持っている。お土産の紙袋を引っ提げ、黒のズボンをはいた長い脚を気怠そうに落としながら降りてくる中、その目は階下のやかましいじゃれ合いを見向きもしない。同業者の中でも並の聴覚ではない彼は、嫌でも見てしまいそうなものだが……聴くだけで十分といった態度だ。

――見ない様にしてるわ。

弟に等しい青年の新鮮な様子を見つめながら、さららはなるだけ自然に声を掛けた。

「未春、出掛けるの?」

未春はにこりともしなかったが、すぐに頷き、断りを入れるようにすたすたとやって来た。やはり、ハルトには一瞥もくれない。違う意味で笑ってしまいそうになりながら、さららは愛想笑いでごまかした。

「ステキな装いだけど、いつものところ?」

「はい。夕食の買物もしてきます」

何かありますか、と尋ねる青年に、さららは指を顎に当てて宙を眺めた。

「んー……牛乳とヨーグルトはまだあるし……あ、じゃあアボカドと、マグロかサーモンのお刺身頼もっかな。未春、タルタル食べたがってたよね」

「はい。ありがとうございます」

「あと……リリーに何か飲むもの買ってあげて。未春が好きなの以外でよ? 女の子が好きそうなの」

急に無理難題を言われたような顔になる青年に、さららは苦笑いを浮かべて付け加えた。

「ラッコちゃんに買うつもりで選んで」

「はい……わかりました」

視線が煙のようにゆらゆらと傾いだが、未春は頷いた。

出て行く背を見送り、さららは「あら」と窓の外に目を細めた。

何処から飛んできたものか、ふわふわとシャボン玉が行き過ぎて行った。未春が振り返るように目で追う姿は、映画やCMを切り取ったように見えた。

「……」

ちら、と、こちらを向いた姿ににっこり手を振ると、彼は少し困った様に、ほんの僅かに微笑んだ。

「ほんと、変わった……私も、頑張らなくちゃ」

「何がッスか?」

気付けば立っていた青年を見て、さららは可笑しそうに首を振った。

「こっちの話。それより、リッキーったらエプロン曲がってる。直してあげるから後ろ向いて」

はーい、と大人しく従うエプロンを結び直し、ポンと叩くと、力也は照れ臭そうに笑った。

「ありがとうございます」

「いえいえ。リッキー、ありがとうついでにハルちゃん助けてあげて」

「えー、いいんスか? 邪魔じゃないスかね?」

「そう見えるのー?」

腕組みして呆れ顔をしたさららの視線の先は、クリスマスツリーの下で繰り広げられる色恋沙汰というより幼稚園のお遊戯会だ。抵抗に諦めが滲み始めたハルトが、ほうきを持つ手もそのままに、ツリーの下に追いやられている。歳が近い為か、リリーと倉子は早くも互いのスマートフォンを見ながら日本語と英語が混ざった会話で盛り上がっている。

「リリーって、思ってたより気さくな感じッスね。俺もっと……なんていうか、近寄り難いアーティスト~って感じか、住んでる世界が違うセレブかと思ってました」

「そう言われればそうね。私もカルチャーショックあるかなと思ってたけど、日本に居たことがあるみたい。お箸使うのは上手だし、お米も大好き。お味噌汁飲むのも上手いの」

早々に青年たちの助力を諦めて、カフェの支度を整えながらさららは言う。

「へえ~……スゲー。やっぱ全米一位になるアーティストは違うッスねえ……」

全米一位の歌手との関連は謎だが、感慨深げな力也にさららが吹き出す。

「リッキーも大人になったわねえ」

「ええっ! さら姉~~俺もう、二十歳超えてるんスけど!」

「知ってるわ」

力也の変化は、ハルトや未春も評価している。

原因の一つが、先の事件でBGMの後処理を担う団体、清掃員クリーナーに引き入れられた国見くにみ正幸まさゆきだろう。祖母が詐欺の被害者である力也は、一度は彼を殴ろうとしたが踏み止まった。なべて、ハルトとの出会いがきっかけと十条は言うが、これでも力也は以前から周囲に翻弄されてきた人間だ。

いじめを受けて不登校だった頃、 “偶然”出会った十条からDOUBLE・CROSSという居場所を与えられ、仕事中の未春と出会ってBGMを認識し、彼らをヒーローのように尊敬していた矢先に、ハルトから「悪党」がどんなものか教えられ、改めてこの店の面々を見つめ直し、自分の答えを探している。

「そういえば、国見くんは最近来ないのね。忙しいの?」

「あ、ハイ。仕事もですけど、冬休み前のテストも近いんで」

「あら、リッキーは? バイトしてて大丈夫?」

「え、えーと……だからバイトに来てるっていうか~……」

モゴモゴと歯切れの悪くなる力也は、自分のバッグが置いてある更衣室の方角を見ている。

「なるほど、ハルちゃんに英語を教わるってことか」

「いや~……リリーも居るから丁度いいかな~って……」

頭を掻きつつ言う力也が、照れ臭そうなのは無理もない。この店の片隅で何度か行われている英語講座で、講師が頭を抱えていたのは一度や二度ではないからだ。聴くだけ、喋るだけ、と言いつつ、結局、綴りまで教える羽目になっているハルトは、根がマジメなのか妥協はしない。英語にも方言や訛りがあるというのを断り、イギリスとアメリカでも異なる点があること、アメリカ英語にも大きく分けて東西南北の方言や訛りがあること、日本に多く英語教師を輩出しているオーストラリアにも独特の訛りがあることを講釈し、力也の頭は一時的にパンクした。

「なるほどねえ……ハルちゃんが喋ってるのは?」

「センパイはイギリス英語寄りで教わったそうです。ニューヨークの方は大体そうだって……でも、イギリスも国別で四つに分かれるから参考にするなって言われました」

「ふーん……リッキーは、英語教わって何かやりたいことがあるの?」

「……いえ、まだ特にないッス。センパイは、あっくんみたいに行きたい場所を視野に覚えた方が効率が良いって言うんですけど、俺、まだ学ぶ目標が漠然としてて。十条さんが背中押してくれなかったら、大学も行かなかった気がするし。もう周りは結構、将来何したいとか言うんスよねー……確かに、早くそれらしいことしておかないと、就職するときの面接で言う事が何もなくなっちゃうんで。夢に一直線なあっくんも凄いなあって思うし、リリーみたいに若い内に成功するのも凄いッスよねえ……」

羨ましそうに歌姫を眺める力也の背中を、さららが再びポンと叩いた。

「人と比べなくていいのよ、リッキー。何でもこれからじゃない。選択肢が沢山あるのは、素敵な事よ」

さららの励ましに、力也はこくりと頷いた。

「あ、そうだ、リッキー……この人、見たことない?」

はたと気付いたさららが、自分の端末を取り出して見せると、力也はちょっと驚いた顔をして首を傾げた。画面に映っているのは、リリーの捜し人だ。わけを聞いて尚、力也は目を瞬かせるばかりだった。

「カメイさん……んー……すいません、わかんないッス。けっこう古そうな写真スね」

「そうなのよね……写真だけ見ると、かなり昔に感じる。しかもコレ……多分、現像した写真が元なのよ」

リリーが持っていたのはスマートフォンのデータのみなので不確かだが、背景のぼやけた感じや、色褪せた印象は、一昔前のインスタントカメラで撮った感が強い。

「リリーの捜し人なんだから、そんなに昔の人じゃないと思うんだけど」

「敢えてレトロな雰囲気にするカメラ機能とかありますけど……なんか不思議ッスね。最先端のリリーが、一昔前っぽい人を捜してるって」

「確かに……アンバランスな気はするわね」

昭和レトロ・ブームは有るものの、最近までアメリカ在住だったリリーがそこに乗ったというのは妙な話だ。それこそ、さららが小中学生の頃はインスタントカメラは一般的な撮影ツールであり、高校時代に爆発的に広まった携帯電話のカメラ機能は使用して尚、旅行などではカメラは別に持ち歩いていた。そこからわずか数年――瞬く間に、スマートフォンのカメラ機能はレベルアップし、今やショートムービーを撮るようなクオリティだ。

「不思議がっていてもしょうがないわね。そろそろ開店しなくちゃ。リッキー、ハルちゃんを助けてあげて」



 翌日から乗り出した人捜しは、わかっていたが難儀な滑り出しだった。

……専門外というのも含めて。

倉子には「リリーがTAKEテイクで呼び掛けた方が早い」とアドバイスされたものの、一般人に両者の関係を詮索されるのは面倒だし、敵側の偽情報も含め、リリー目当ての嘘八百が山ほど溢れる可能性を考慮して、ハルトは昔ながらの手法に着手した。

警察である山岸に連絡し、捜索を依頼した。無論、手段は問わない。警察内部に潜んでいるBGMの清掃員もフルに使い、犯罪者や前科持ちのデータも漁る。リリーには言っていないが、ヤクザや指名手配犯も調査対象にした。

そして、自分たちはアナログな足を使った捜索に出た。まずは、さららが話を通してくれた町会長宅だ。リリーは過去、この辺りに滞在し、捜し人はその頃の知り合い――且つ、この界隈で会っていたというから、市内在住の可能性は高い。

残念ながら、その当時とは通りの雰囲気が違う為、会っていた場所は思い出せなかった。国道16号線はF市内では米軍横田基地に沿って続く道で、その傍らを走るベースサイドストリートにはDOUBLE・CROSSを含めた店舗が連なるが、ここ数年の入れ替りは激しいという。

「うちは十年程度だけど、今はそれでも長い方だよ」

十年前、DOUBLE・CROSSの前身だったケーキ屋の時代から知る未春によれば、この界隈を代表していた古着や輸入雑貨を扱う老舗は減少傾向らしい。シャッターが閉まった店舗跡地や、ごく普通の家屋や駐車場が隙間を埋める似たり寄ったりな景色に、リリーは小首を捻るばかりだった。比較的、古い店舗を眺めても、有ったような、無かったようなと要領を得ない。手掛かりといえば、捜し人は市内在住だったという点。リリーの年齢からしても、それほど昔ではない為、本人が独立していても親族が住み続けている可能性は高いと踏んだのだが。

「他の町会にも聞いてみたけど、居ないようだなあ……」

力になれなくて申し訳ない、と、町会長の下野は、玄関先で吸っていた煙草を揉み消してから頭を掻いた。下野はDOUBLE・CROSSが所属する地域の町会長だ。

リリーを安易に会わせるわけにはいかないので、未春を車に残したハルトは丁寧に頭を下げた。

「突然、大変なお願いをして申し訳ありませんでした」

「いやあ、いいんだよ。こっちが申し訳ないって。十条さんとこには、世話になってんのに力になれなくて」

十条が引き受けてくる細々した作業や、行事の設営にちょこちょこ駆り出される未春とハルトは、下野ともよく顔を合わせ、毎回拝むようにお礼を言われている。何せ、町会というものは若者が少ない。当然といえば当然だ。所謂、働き盛りの世代は文字通り、働くことで忙しい。合間を縫ってきてくれる人も居るが、それでも多くは六十代以上、力仕事が体力的に厳しいこともしばしばある。現に六十代の下野も少々足が悪く、一見、チンピラのような外見だが、悪行といえば煙草を吸うぐらいと言われる真面目で律儀な男だ。

「他の町会長にも聞いたんだが、うち以外もさ、最近は年寄りばっかだろ……病気だの体調不良だのを理由にして、役員が回ってきても出来ないからって町会辞めちまう人が多いんだよ。名簿から消えちまうから、よっぽど付き合い無いとさ、隣近所でも把握できなくなるんだよなぁ」

粗野な感じのする下野だが、残念そうに首を振る顔つきは真摯だった。

「俺も病気やったから、面倒とかしんどいとかね、わからんでもないよ。でもなあ、災害が有ったときなんか困るだろ。なんもできなくても、なるべくさあ、地域と関わってた方が良いと思うんだがねぇ……」

当初、ハルトは町会というシステムにそれなりの利便性を感じたが、この基本的な地域コミュニティはなかなか厳しい現実と戦っている。かたや見知らぬ人間と交流が盛んなSNSが広まっているのに、隣近所との繋がりは稀薄と言うのだから日本は奇妙な国である。無論、日本の何処でもその状態というわけではなく、「皆顔見知りで安心する」という土地もあれば、むしろ「余計な気遣いが無くて良い」という所もあるらしい。

「ご年配が多いということは、どなたか当時に詳しそうな方は居ませんか?」

ハルトの問いに、下野は二本目に火を点け、咥えたまま天を仰ぎ、難しそうに唸った。

「うーん、俺が知ってる限りじゃ、すぐに連絡取れそうな人は居ないなあ……転居も多いんだよ、最近」

「ご年配の方が、ですか?」

「そ、そ。入院だの、施設入るだの……ああ、そういうのばっかじゃないよ、今より条件の良い都営住宅に当たるとかさ、息子や娘夫婦が同居しようって言ってくるのもあるね」

なるほど。悪い話ばかりではないのだろうが、地域社会は風前之灯のようだ。下野とて、押し付けられるように会長になったと煙草片手に苦笑いだ。

「お宅はみんな若いのに偉いよなあ。十くんは若い頃から何でも率先して手伝ってくれたし、未春くんは小さい頃から頼りになるし……さららちゃんは居るだけで皆が若返るし。ハルトくんも穏やかで良い男だしなあ。おじさん感心するよ、ほんと」

ハルトはそれとなく、背後の車に残した未春を見るが、愛想の欠片もない顔付きでこちらを見た。付き合いの長い下野は慣れているらしい。無表情の青年に、にこにこと手を振る。

「でもよ、常識的に考えて、若者は仕事優先、家族優先が基本だからさ。忙しく働いて、休みの日まで地域の手伝いばっかじゃあ、かわいそうだ。二人とも良い男なんだから、年寄りの相手ばっかしないで、いい人見つけんだぞ」

ハルトが何とも言えぬ苦笑いを返すと、下野はその肩をばしばし叩いて笑った。

「誰か思い出して連絡してくるようなら、教えるよ」

気さくな下野に礼を述べ、次に訪れたのは交番だ。

出迎えてくれたのはくれたのは、小柄ではあるが背筋のしゃんとした恰幅のいい警官だ。笑っていると「地域の優しいお巡りさん」といった風だが、その眼差しは銀縁眼鏡を通して尚鋭い。いつかのハルトを狙った狙撃事件でも世話になった警官――つまるところ、BGMに関わり有る本業の警察である。

「例の件ではお世話になりました」

神妙に頭を下げるハルトに、山岸は眼鏡を拭いてから、気にしないでよと首を振った。

「十条さんには昔からお世話になっとりますし、野々くんは地域で随分、活躍してくれてるからねえ。持ちつ持たれつ、だよ」

この評価が懐柔によるものか定かではないが、とにかく山岸は昔から十条贔屓で、大抵のことは上手く収めてくれる。どういう命令系統かは不明だが、彼は警察内部のBGM関係者に複数のパイプを持ち、何かあれば上層部に話を通す役割を担う一人だ。

以前、ハルトを父親の仇として銃撃した立花ソフィアに対し、当のハルトが温情を望んだ際も、率先して掛け合ってくれたらしい。発砲の場には倉子も居た上、音は隠しようがないので、関東の少年院――もとい女子学園に入れられたようだが、短期間の収容で、既に出所したと聞いている。

「今日は人捜しの件かな?」

ハルトが頷くと、彼は小さな交番の大半を占める机の前に椅子を引いてきてリリーに勧めてくれた。

「いやあ、しみったれた職場には高価すぎる花だね。おじさん緊張しちゃうなあ」

そう言いながら出してくれた湯気を立てる湯呑を見て、取調室のように向かい合ったリリーは、にこりと微笑んだ。事情を話してあるとはいえ、全米が誇る歌姫を前に、山岸は落ち着いている。やはり若者以外には、リリーは愛らしい少女というだけのようだ。

「外国の人には熱いかもしれんなあ。気を付けてね」

「OK.」

頷いたリリーは、小さな唇でふうふう吹きながら上手に飲んだ。その様子をじっと見つめる未春が居たが、幸い、姑のチクチクは出なかった。

山岸は自身も茶を喫しながら、世間話の調子で切り出した。

「お捜しの人に関してだけどね、少しだけ分かったことがあるよ」

「Really?」

リリーが明るい声になる。

「その子の名前は、亀井かめい秋菜あきなさん。ご家族は市内在住だったけど、引っ越されたそうだ」

訳すよりも早く察したようで、リリーが細い肩を落とす。

「引っ越し先って、わかります?」

「……教えても構わないが、無意味だと思うよ」

「どういうことですか?」

「秋菜さんは、十七歳の時に失踪届が出されていたんだ」

「……失踪届?」

真っ先に眉をひそめたのは未春だ。ハルトとリリーは、今一つピンとこない顔つきで山岸を見つめた。

「行方不明……ってことですか?」

山岸が首を振る前に、ハルト専用辞書の未春がやや低い声音で答えた。

「ハルちゃん、それなら出すのは行方不明者届け。失踪届は、行方不明者を死亡扱いにするもの」

リリーがはっと息を呑む。

「死亡扱いだと?……十七歳で?」

「未春くんが言う通り、先に出すのは行方不明者届け。昔は捜索願いって呼んでたやつだよ」

答える山岸の声も浮かない。

「普通は、居なくなってから年経ってから出すものなんだけどね……ご家族によると、自殺を仄めかす手紙があったとかで、帰らないと諦めたそうだ」

「……」

リリーはルージュを引いた唇をきゅっと噛んだ。山岸は物憂げな溜息を吐く。

「こういうのは居たたまれないよ。置き手紙が有ったとしても、事件に巻き込まれた可能性を考慮して、行方を捜す方が現実的なんだがね……」

「普段から、その兆候が有ったということでしょうか?」

「わからない。これほどあっさり諦めてしまうのは珍しいんだ。自殺するって家出する子が居るのも悲しいが……家族がそれを受け入れるのは、もっと悲しいことだよなあ……」

物静かに聴いている未春が、微かに目を伏せる。同様に、考え込むように湯呑みの中を見つめるリリーに代わり、ハルトはそっと尋ねた。

「……死亡した記録は、ないんですよね?」

「君らだから言うが、そこは何とも言えないねえ。強いて言えば、ストックに名前は無かった」

ストックとは、十条が用いる「人知れず死亡した人間の情報」だ。大抵は一般人ではなく、後ろ暗いことをして殺害された、或いは蒸発したまま死亡した人間で、亡くなったことを世間に知られぬよう手を回し、別人が死亡した際、あたかもストックの人間が死んだかのように工作する、死者の名簿だ。

「失踪届が出た時点で捜索は打ち切られるから……その後に事件に巻き込まれた可能性はあるよ。極端な言い方で申し訳ないが、埋められたり、深い山中での滑落事故は発見が難しい」

特に昨今、自ら行方不明となる事例や、SNSなどのネット上で、共に自殺を呼び掛ける書き込みに乗ったり、素人が自殺志願者を募って何人も手に掛けたケースもある。女子高生が山奥に一人で向かう可能性は低いが、誰かが意図的に連れ去るなら有り得る世の中だ。殺し屋気取りの一般人が居るかと思うとハルトは胃がむかむかしたが、未春とリリーは揃って思案顔のままだ。仕方なく、ハルトは山岸に向き直った。

「彼女の最後の目撃情報はわかりますか?」

「ああ、それなら近くの駅周辺のカメラに映っていたのが最後らしいよ。だが、電車に乗ってはいないらしい。失踪届が出たことで確認されていないんだが、珍しい足跡は漫画喫茶のパソコンからの動画投稿だね」

「動画投稿……今風の手掛かりですね」

「うんうん、……あー、若い子がやってるトーク……じゃない、TAKEってSNSに上げたようだ。一般からの情報提供らしいが、その動画はすぐに削除されて、当時の捜査員も見ていないんだと」

倉子が言っていたTAKEか。一体何を投稿したのだろう。事件に巻き込まれたとしたら、犯人に消された可能性も有り得るが。

「それ、いつ頃のことです?」

「あーっと……七年前だね」

「七年前?」

おうむ返しにしたハルトが思わずリリーを見てしまったのは仕方がない。

七年前では、リリーはわずか十歳程度だ。写真で見た亀井秋菜は高校生かと思っていたが、中学生なのだろうか? 唖然とするハルトに、リリーはぱっと開いた花みたいな睫毛の目をぱちぱちさせてから、山岸に向いた。促されるように彼は答えた。

「動画は歌だったそうだよ。なんていうのかな、歌声だけの動画はよくあるんだよね?」

「……Yes.」

何故か神妙な面持ちでリリーは頷いた。失踪時の年代はTAKEの運営が始まって間もないそうだ。日本でようやく若年層にスマートフォンが普及したかという時代に、十代でSNSに歌を投稿をしていたとなると、秋菜はかなり最先端の少女だったのかもしれない。

山岸に礼を述べて交番を後にし、車に戻ると、リリーは何か考え込んだまま後部シートにもたれた。行きがけに助手席に乗ると騒いだ娘は、妙に大人しい。

「TAKEに問い合わせるってのは可能なのか?」

運転席からのハルトの問いに、隣のリリーを胡乱げに見ていた未春は、少々考える顔をしてから首を捻った。

「リリーの名前でも、難しいと思う。TAKEは日本支社があるけど、個人情報は警察にも簡単には教えない」

「じゃあ、当時の記録について知ってる人間を探すのか……? それこそ雲を掴む感じだぞ。明香あすか辺りは詳しくないのか?」

「あっくん? TAKEには詳しいだろうけど、俺たちより年下だよ」

「あ、そうか……さららさん辺りが先駆けなのか。でもなあ、さららさんはSNSやってないし……」

ふと、彼女と同世代の同業者が浮かんだが、彼も仕事柄、発信こそすれ、かじりつくような若者だったとは思えない。

「トオルさんに、TAKEに清掃員が居るか聞いてみる?」

「うーん……仮に居ても、表の社内情報を持ち出させるのはハイリスクだ。そこが悪徳企業ならともかく、清掃員の生活に関わる」

「じゃあ、室月むろつきさんに聞いてみようか」

なるほど、名案だとハルトは頷いた。室月修司しゅうじはBGMの清掃員だが、並のそれではない、何をやらせてもそつなくこなすスーパーマンだ。情報の分野では、政府の機密事項を盗むより厳しいアマデウスのデータにアクセスするレベルを誇り、漏洩の不安も無い。年代もさららの弟――血は繋がらないが、都合がいい。電話を掛けると、殆んどワンコールで応答してくれた。

事情を話すと、室月は思考がスパコンかと思うような速度で回答した。

〈その動画なら拝見したことがあります〉

「Oh、さすが……」

〈当時、同じようなことをしていた同級生が居たので、話題になったんです。違反や炎上も無い中、ひと月も経たぬ内に消されてしまったのも印象的でした〉

「どんな内容なんですか?」

〈女子高生と思しき人物が歌を歌う動画です〉

秋菜本人だろうか? ハルトの疑問が聴こえるように室月は続けた。

〈ただ、顔は一切見せていません。現在も、このタイプの投稿者は顔を見せずアニメーションを流したり、静止画の状態で音声を流すものが多いですが、こちらは人物が画面に背を向けた状態で歌っていました〉

「背を? 顔を隠したかったのではなく?」

「私は別の意図が有るものと感じましたが、映っていたのが投稿者本人なのか、セーラー服を着ていた人物が本当に女子高生なのか、正確なことはわかりません。歌そのものにはパワーがありましたから、スカウトされたのではと噂になりました」

「パワーですか……」

リリーをちらと振り返り、ハルトは首を捻った。

「室月さんが、意図が有ると思うのはどの辺りなんです?」

「先に申し上げた通り、顔を隠す方法は他に有る中、背を向けることを選んだ点ですね」

確かに妙だ。隠したいのなら、音声のみにすれば良いし、その方が特定されにくい。そもそも、発信する行為に対し、隠すというアクションが示すのは何なのだろう?

率直な問い掛けにも、室月は丁寧に応じてくれた。

「個人を特定されないようにするのは保身の為でもありますが、単純に気恥ずかしさも有ると思います。容姿に自信が持てない場合もあるかもしれませんが、家族や友人、知り合いに知られたくないこともあるかと」

「室月さんは、隠し事なんてなさそうですよね」

「気を付けていますから」

スマートな笑い声を立てる男の声に、ハルトは眉間に皺を寄せて顎を撫でた。

「……室月さん、お忙しいところ恐縮なんですけど……その動画の人物を捜しているんです。わかっているのは名前と七年前の顔写真、F市内に住んでいたことぐらいなんですが」

「ハルトさんの頼みは、何でもお引き受け致しますよ」

頼もしい返事に、ハルトは詳細を伝えて電話を切った。

「最初から、俺たちがやること無かった気もするな……」

ハルトのぼやきに、未春が「そうかも」と同意する。

いや、彼に頼むのは正直、気が引けるのだ。普段どんなスケジュールをこなしているのか知らないが、つい最近まで表の彼の職業は、名家にして日本の裏を牛耳っていたひじり家の側近だ。聖家は先の事件で当主も死に、存命と思われていたやり手の孫娘は別人だった為、現在は遺産相続問題などに揺れているものの、実質的に聖グループは解散――というより、解体の一途を辿っている。

いくら真実を知って従事していたとはいえ、公的な側近が急に居なくなるわけにはいくまい。それに加え、彼がBGMとして抱える事案は多岐に渡る。清掃員としての任務は勿論、身内の指導、十条を始めとした殺し屋のサポートも彼が中心だ。可能な限り、頼み事は控えておきたい。

「リリー、わかっている件は知り合いに頼んだ。他に心当たりはある?」

声を掛けたハルトに対し、リリーは答えない。

「リリー? What's wrong?」

英語にぴくりと反応し、草むらに潜む小動物みたいな顔をした。

「What's that?」

「ん……? Is there anywhere you want to go?(どっか行きたいとこあるか?)」

問い掛けに、リリーは困ったような顔で小首を捻り、首を振った。そのまま窓の方を見つめて動かなくなってしまう。

「思いつかないなら仕方ないな……帰るか」

「……」

未春が何か言いたげにリリーを見たが、何も言わずにハルトに頷いた。



 ビルの谷間から、シャボン玉が上がっていた。

異様なのは、それが陽も沈みかけた夕刻ということ。

大人一人、ようやく通れる暗い路地から、ブルーやピンク、イエローが揺らめく球が、濃紺の風に運ばれて浮遊する。

Framフラム,What are you doing?」

英語で声を掛けられた黒髪の男が、シャボン玉を吹く手を止めて振り向いた。俳優めいた彫り深い容貌の中、眉がやや厳しく寄せられた。

「遅いぞ、ドルフ」

同じ英語で咎める声に、声を掛けた男は野太い両手を軽く掲げた。

「たかが10分だぜ。カリカリするなよ」

「していない。……が、お前はルーズ過ぎる」

「日本人かよ」

へらへら笑いながら、男は顎髭を撫でた。

「で、リリーはどこ行きやがったんだ?」

「ハッピータウン支部に居る」

「ハッピー? 随分ゴキゲンなネーミングだな」

「名で判断するな。かのクレイジー・ボーイが作った支部だ」

男は厚い下唇を尖らせて肩をすくめた。

「奴さんは留守なんだろ?」

「基本的には。……しかし、それは口約束ですらない。例の事件のことは聞いているか?」

悪びれた様子もなく首を振った男に、フラムと呼ばれた男は舌打ちしそうな顔で説明した。

日本には、BGMの支部が大きく二つある――いや、“有った”。

郊外に配置されたハッピー・タウン支部と、都心部に構えていたセンター・コア支部。他にも細かい支部が存在する中、殺し屋を抱えているのはこの二つだけだったが、ほんのひと月半ほど前、センター・コア支部をTOP13の一人でもある十条十が突如、取り潰した。一見、単なる組織編成かと思われるが、実際は日本のBGMを立ち上げて以降、君臨していた聖家と小牧こまき家の双方をBGMから廃し、彼らが独自に進めていたドラッグ事業を叩きのめしている――いわば、内部抗争だ。

聖家に至っては十条殺害を目論んでいたことや、組織きってのドラッグ嫌いであるアマデウスへの造反と見られた為か、当主だった聖景三けいぞうは殺害後、表で起きた別件の主犯格に祀り上げられた。小牧家はかろうじて生かされたものの、釘を刺されたのか、ドラッグからは手を引き、表の船会社としての事業に精を出している。

「本件は私的な理由としているが、十条はこの件以降、支部には殆ど顔を出していない。ボスは日本の裏社会を掌握し、ひと段落ついたと判断しているが……」

「なんかよお……十条は回りくどいよな。邪魔な勢力が弱るのでも待ってたのか?」

「その点はお前に同意するが、想像の域を出ないことを議論する意味は無い。ともかく、十条にとってこれまでのBGMは奪い取った組織に過ぎなかったが、今は奴に従うもので統一された。何処に居ようと構わない状態に到達したのだろう」

「ハッ……子ネズミはご機嫌取りに必死だろうな。ロスカのボスも此処で死んだんだろ? この島国に踏み込んじゃあ、ごついドブネズミも罠に掛かるわけだ」

小馬鹿にしたような同僚の言葉に、フラムはむっつりと頷いた。南米支部の管轄内には、有力な麻薬カルテルが幾つもある。ドラッグ嫌いのアマデウスが度々、自身のシマでの活動を理由に厳つい鉄槌を下すのだが、実は南米支部でもこれらのギャングは悩みの種だ。

礼節をわきまえていた古い悪党とて、代替わりした際に危険な走行を始めることはまま有る。クリスはドラッグそのものをターゲットにはしなかったが、例えばこの行先が、不正もすることなく真面目に働いている一般人や、国や民衆の為に学ぼうとする学生などに向かえば、派手な制裁を与えてきた。一線を越えた組織の関係先は、事務所やBARなど軒並み爆破し、主犯者は自爆させられたケースさえ有る。

「十条は、アマデウスと繋がってるんだろ。ウチのボスが気に入らねえから交渉に乗らねえのか?」

「あの二人は懇意だが、十条はアマデウスに傾倒しているわけではない。先日の騒ぎでは、本件に紛れてアマデウスにタダ働きさせられたことをぼやいていたそうだ」

「フーン……北米の肩入れじゃねえなら、なんで奴が邪魔をする?」

「口を慎め。正確には、現段階では奴は何の邪魔もしていない。アマデウスが表向きの音楽会社CEOの顔で、リリーの日本滞在に元部下の住まいを選んだだけだ」

「ケッ、これだからお偉方の駆け引きは嫌になる。こっちの思惑を知った上じゃあ、単なる嫌がらせだぜ……」

「気持ちはわかるが、十条は引退したわけではない。ああいう手合いは、姿が見えない方が危険だ」

「どうかねェ。高見の見物じゃねえの? 奴が出てくる前に、こっちも知らん顔でやっちまえばいいじゃねえか」

「そう容易くもない。あの支部にはアマデウスの直属だった男と、十条と同格とも評される弟子が居る」

差し出されるファイルを、ドルフと呼ばれた男は面倒臭そうに受け取った。

「ああ……フライクーゲルね――こんなツラだったのか。お前より若いんじゃねえのか?」

「いや、同世代だ。よく見ろ」

生真面目に答える男に肩をすくめつつ、さっさともう一枚に目を通す。

「ほー……こっちはかなりの色男。こいつが弟子か。こんな“なよっちい”奴、データを見る意味もねえ――……」

「よく見ろと言っている。そいつはフライクーゲル同様、十代の段階で相当数の仕事をこなしている男だ。いくらお前でも、クレイジー・ボーイが規格外なのは知っているだろう。こいつは奴を超える可能性がある身体能力の持ち主だ。直接対峙するなら、フライクーゲルよりも危険かもしれない」

「ンなもん、日本が銃を禁じてるからだろ……ところで、この『トゥインク・ナイフ』ってどういう意味だ?」

「……ゲイ・スラングだ」

そんなことを聞くなという顔で答える同僚に、男は笑いを吹き出すように破顔した。

「ゲイのナイフ使いってことかよ?」

喉の奥で引きつった笑いを立てる男を、うるさそうに仰いだフラムは首を振った。

「初期の活動が海外クラブを中心に行われた為、十条が付けたあだ名らしい。他にも、『キラー・マシーン』、『ブロッセル・リッパ―』、『ブラック・マドネス』云々……その手の名が多くついている。最近、アマデウスが『ブレイド・ウォーカー』と呼んでいるのはこいつの事だ」

「刃物男だってことはよくわかったぜ。面白え殺し屋だ……ツラはお前と良い勝負だな」

「聞き捨てならないな、ドルフ。そいつを拝む前に舌の根吹き飛ばされたいのか?」

男は苦笑いと共に首を振った。

「怒るなって。久々のでかい仕事が楽しみなだけさ」

「舐めて掛かるな。アマデウスもどう出るかわからない。己の利益の為なら、ルールを破るのも辞さない男だ」

「そりゃあ俺らのボスもそうだろうよ。いや、TOP13はどいつもそうだと思うぜ。死のウェイターの弟子に、魔法の弾丸……やっぱ笑うしかねえな」

「……決行は、折を見る。重ねて言うが、此処では我々の“ジョーク”は通用しない。関与の無い民間人や警察とは揉めるな」

「OK、OK.サムライの国のお手並み拝見といこうや」

不穏なセリフが剥き出しの歯からこぼれる。

その前を、場違いなシャボン玉が、ふわふわと音もなく舞った。

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